二度ある事は三度ある

発表された大分市。 ですが、またしても寒の戻りで昨日の午後から時雨れ、
真冬の冷え込みへ逆戻り



そんな昨日、3月6日は実父の命日で、豊後国分寺跡から近い大分市郊外の
霊園へ行ってきました。 前方は霊山( りょうぜん )、障子岳に宇曽( うぞう )山。
眼下には七瀬川。 実父のお墓は、カメラを構えるまーりたんの背後にあり。
お参りの度に缶ビールやカップ酒を墓石にポンで、ぐるり縁石状態になってます


聖峰・霊山は、父との確執に悩んでいたティーンエイジの大友宗麟が、気晴らしに
立派な黒馬で駆け登り、狩り


墓地が在る臨済宗の寺は、豊後大友氏家臣が鎌倉時代中期(13世紀)に創建。
実父のお墓向こう三軒両隣も、大友氏と同じ藤原氏流を示す下り藤の紋や、
大友氏の杏葉( ぎょうよう )紋の変化形と云われる茗荷(みょうが)紋等々


少し目を凝らせば、大友氏四百年の歴史がそこらじゅうから息を吹き返す感じ


お墓参りを済ませた帰り道、買物ついでに覗いたショッピングモールの本屋で
コチラの本が目に留まり



鹿毛敏夫著『 大航海時代のアジアと大友宗麟 』( 海鳥社 )。
また、奇しくも この本を手に帰宅したところへ、津久見の宗麟公記念碑を
建立された方のお孫様より、大変嬉しいコメントが届いていて びっくり

K様、こちらこそありがとうございます


源頼朝さんの命により、守護として相模( 神奈川 )から豊後( 大分 )へ下向後、
21代目宗麟の頃には、九州の武家を執りまとめる九州探題職にまで上り詰めた
大友氏を、戦国の寵児・秀吉さんを頼った挙句に改易された一族としてではなく、
大陸との交易術でその地位を築き、激動の中世に四百年間も続いた一族として、
遺跡からの出土品や古文書、海外に残された軌跡等を基に読み解く内容です

一昨年まで地元紙に連載されていたシリーズをまとめた本でもあり、まーりたんも
いくつかは読んだ憶えがありましたが、なかでも興味深かったのは大航海時代
16世紀の豊後の豪商・仲屋宗悦( なかや そうえつ )の直筆文書( 為替状 )が
京都の寺から発見されたという記事

大友宗麟物語~心の王国を求めてでは大鶴義丹さんが演じ、宗麟の御用商人
として活躍。 しかし直筆の文書が無い事から謎に包まれた人物だったんですが

他には、表紙絵にもなっている若き大友家当主21代・義鎮( 後の大友宗麟 )公に
フランシスコ=ザビエルが謁見するシーンを描いたヴァン・ダイク作の宗教画。
過去記事コチラでもご紹介していますが、ドイツのヴァイセン・シュタイン城

壁画的に所蔵されている物。 それにしても若き宗麟公は、まるでガブリエル

いつも引き合いに出して申し訳ありませんが、黒田官兵衛さんがまだ3歳の時

天文18( 1549 )年にザビエルさんは鹿児島へ来て

翌々年の1月に京都で天皇への拝謁を希望するも叶わず

そんなザビエルさんを同年、天文20( 1551 )年9月、家督を継いだばかりの
大友宗麟公が山口から府内( 大分市 )へ招き、最高の礼儀でもてなします


帰り際には、インド総督やポルトガル国王への親書も託し( 宗麟は筆まめです

二年後、府内はキリスト教の中心地に

持つ青年貿易商・ポルトガル人のアルメイダが、府内に日本初の乳児院を設立。
翌々年には、大友館のそばに日本初の西洋医療の病院も建ち

受けた患者からは、ミゼリコルジャ( 日本初のボランティア看護士 )が誕生

これで大友宗麟と Bungoの名は、西洋で広く知られる事になるんですネ


「 これより絵画に描かれた人物を、御本その他資料を基に読み解きますニャ


「 ソーリンの背後にいる3人は、この御本には重臣&警備兵と書かれてますニャ。
フード姿の白髭オジジは豊州三老の一人 ベッキドーセツかもしれませんニャ


「 ザビエ~ルの背後3名は、この御本には同伴者とだけ記されるが、大友氏遺跡
体験学習館の資料によれば、同伴者はイエズス会士の コスメ・デ・トーレスと、
ファン・フェルナンデスの線濃厚ですニャ

乗せてきたバスコ・ダ・ガマの息子 ドアルテ・ダ・ガマかもしれニャい


「 しかし宗教画のソーリンは、日本のハゲチャビン宗麟とは偉い違いですニャ


「 ・・・まったくもう、マンジ君は相変わらず言いたい放題なんだから

「 キブンが乗ってきたので宗麟ドラマ再生ニャ



「 マンジ君は本当に自由ニャヌイグルミ犬です・・・あっ、伝染っちゃった

※本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。
記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます

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