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まーりたん

Author:まーりたん
大分県で暮らす四十路主婦
“ まーりたん ” の
ブログへようこそ(*^^*)♪

日々を彩る ちょっと素敵な
出来事を我が家の笑導犬?
マンジ君と楽しくお届けして
ます。目下、郷土史に夢中♪
心躍る探訪をご一緒に。

臼杵の富士甚醤油マスコット
キャラ・とっくりこだぬき君が
仲間入りしてからは、嬉しさ
余ってマンジ君の“ 悪がね ”
ぶりもますますエスカレート。

そんなふたり(2匹)の様子も
併せてお楽しみ下さい(*^^*)

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長引く寒の戻り、大分県特に昨日は最強でした

まーりたんが生息する大分市内域での積雪は無かったものの、遠く別府方面の

山々は白銀に輝いて、別府湾に面した標高628mの高崎山までが雪化粧。 

先日の雲海と見紛うばかりの濃霧に続き、これまた生まれて初めて物語です

別大国道走行中2月11日

九州北部の高速道路も積雪のため午前中いっぱい通行出来ず、遠出は断念 

こんな休日は家で大人しくしてれば良いものを、おとなり別府市の積雪状況が

気になり、偵察に( 子どもか・・・ )国道10号線・別大国道を北上 


明礬温泉・湯の里Pにて2月11日午後2時ごろ

植え込みの雪に人差し指をブスリ 水分が多くシャーベット状でした





ここは天然入浴剤 “ 湯の花 ” を製造販売している明礬( みょうばん )温泉郷の

湯の里。 駐車場からは、夏は抹茶色に染まる二等辺三角形の扇山(太平山)

が良く見えます 今日は冬枯れの野に雪化粧で、ミルクたっぷりカフェオレ色

別府・明礬温泉郷2月11日の昼下がり

カフェオレ色の扇山( おうぎやま )麓は、慶長5年の石垣原合戦で、黒田方の将・

井上九郎右衛門さんと、大友方の将・吉弘嘉兵衛統幸( かへえむねゆき )さんが

馬上一騎打ちをしたその場所でもあります。 カフェオレ・・・嘉兵衛、俺・・・ 




前回つい書いてしまったマテラッティといい、寒いギャクを得意としていた実父の

没月が近づくと、なぜか閃くんです 日頃にも増して凍りつきそうなダジャレが

昨日、大分を凍てつかせたのは私のダジャレのせいではない、違う絶対にィィ~






・・・以上、極寒の建国記念日@別府でした

続けて、麻底良城址探訪記事の続編を書きます

楽しみにして下さっている方、ありがとうございます

今日中にアップできるよう頑張ります






本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます

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2014/02/12(水) 12:54 | コメント:6 | トラックバック:0 |


早いもので今年も残すところ5日程ですね。

楽しいクリスマスが終われば、今度はお正月に向けてこれまた準備 

毎年の事ながら我が家もこの時期は何かと気忙しく、朝のご訪問がやっとで、

なかなか思うようにブログの更新ができません。 にも関わらず足を運んで下さる

皆様、応援&温かいコメントを下さる皆様、大変嬉しく励みにさせて頂いてます 

心より感謝申し上げます 厳しい寒さが続いています、どうぞご自愛下さい


石垣西3丁目8(宝泉寺所在地)

さて、延び延びになっておりました石垣原合戦ゆかりの地めぐり最終回。

まずは別府市 石垣西地区の散策へ、どうぞご一緒に





石垣西地区では、斜陽の豊後大友氏を命を懸けて支えた家臣 吉弘嘉兵衛統幸

( よしひろ かへえむねゆき )さんを祀る吉弘神社( 石垣西6丁目6 )を、以前に

ご紹介しました。 吉弘神社拝殿には、鶴見岳と扇山を背に、石垣原合戦における

大友義統( よしむね )軍の将・吉弘統幸さんと、黒田如水軍の将で黒田家古参の

重臣・井上九郎右衛門さんとの馬上一騎打ち画が飾られていて、自由見学可。 

必見です 





その吉弘神社の東南・別府市鶴見丘高校の東側( 別府湾側 )が石垣西3丁目

ここには閑静な住宅街の中、長く美しい白壁が目を引く宝泉寺が在ります。

宝泉寺(別府市石垣西3丁目8)


吉弘神社由緒には 慶長5( 1600 )年の石垣原合戦で、38歳という若さで

亡くなった吉弘統幸さんを葬ったのは、当時の宝泉寺僧侶と里人であると記されて

いたため、その宝泉寺を訪ねてみたところ、吉弘統幸公の菩提寺でした  

吉弘嘉兵衛統幸公菩提寺(別府市・宝泉寺)

たびたびお話してはいますが、吉弘統幸さんは、九州一の名将と誉れの高い

筑前・岩屋城主で大友家の武将 高橋紹運( じょううん )さんの甥御さんです。 





高橋紹運さんも甥の統幸さん然り、斜陽の豊後大友氏を命がけで支え抜いた

誉れ高き忠臣。 天正14( 1586 )年、秀吉さんの惣無事令を無視して九州を

北上進軍する5万の島津勢に、僅か763名の城兵と共に大打撃を与えます。




紹運さんは長男・立花宗茂が戸次道雪さんから譲り受けた筑前・立花城を守り、

結果として島津軍の九州制覇を食い止めます。 また、その際に、立花宗茂も

岩屋城の戦いで士気の堕ちた島津軍を追撃し、父・紹運のふたつの城を奪還。 

その功により、秀吉さんから九州平定後に筑後4郡13万2千石の大名として

取り立てられ、宗茂さんは19歳という若さで筑後・柳川城主となるのです

臨済宗妙心寺派・寶泉寺の山門(別府市石垣西)


一方、主家の豊後大友氏22代目で大友宗麟の嫡男・義統( よしむね )さんは、

九州平定後に秀吉さんから本領( 豊後 )と豊前宇佐の一部を安堵されるものの、

秀吉さんの朝鮮出兵( 文禄・慶長の役 )の際、平壌手前に築いた日本軍の砦

鳳山( ボンサン )城で、ピンチに陥っていた小西行長さんを置き去りにして

退陣したとの罪で、ついに本領・豊後も没収( 改易 )されてしまいます





腑に落ちないのが、このとき小西さんは、黒田・小早川軍にも救援要請しますが

断られ、しかも大友義統さんは黒田長政さんの軍議に参加中で大友軍には

居らず、小西さんを置いてけぼりにしろと直令を下した訳でもない様なんです

なのにお咎めを受けたのは何故か、御曹司大名・大友義統さんだけ・・・。

ま、世の中、いつの時代も腑に落ちない事だらけです 頑張れ!義統くん

じゃなかった 本当に大変な時代を良くぞ頑張られましたね、義統さん 


  


そんなこんなで文禄2( 1593 )年に大友義統さんが豊後を改易された後、

大友家臣・31歳の吉弘統幸さんは、豊前中津城主・黒田如水( 官兵衛 )公の

配慮で、黒田家家臣・井上九郎右衛門さんに一時期お世話になり、その後は

5歳年下の従弟・筑後 柳川城主 立花宗茂に召し抱えられ、仕えていた様子。

慶長5( 1600 )年・石垣原合戦の時は、大友義統を支えるべく暇を願い出た

吉弘統幸さんを、立花宗茂公は快く送り出したと云います。 立花宗茂さんも

関ヶ原では西軍として戦いますが、黒田如水と加藤清正の説得を受けて降伏。

後、家康さんの下で頑張って見事、柳川にミラクル復帰を果たすんですね

今も昔も、ほんとうに人生いろいろ。

 
時は命、時は命と同等に尊い

宝泉寺山門横に、素敵なことばを発見しました

尊い いのち大切に。  時は生命なり 』 






来月5日に初回放送を控え、早朝から怒涛の勢いで流されている大河ドラマ

軍師官兵衛の予告編では、黒字に白抜きで、バーンとこんな文字も登場

今だって乱世だ!

おっしゃる通り、乱世なのかもしれない今を生きるための術、というより

心の在り方を熱く伝えるドラマとしても、楽しませてくれそうな予感がします。

人心掌握術。 官兵衛さんはこれに秀でた、恵まれた才覚の持ち主だったと

言われてはいますが、仮に人の心を見通せても小手先だけでは動かせません。 

やはり心、そして人目に留まらぬ部分での計り知れない努力、忍耐あってこそ

 


荘園町の住宅街に残る石垣原古戦場跡碑

所変わって、ここは七ツ石から少し山手に行った荘園町に建つ石垣原古戦場碑

幟と民家の間は小さな庭園になっていて、石垣原合戦で亡くなった方々の

慰霊塔と、吉弘統幸さんの辞世の句が彫られた大きな岩がありました。


石垣原古戦場石碑(文)

道路に面した石碑裏の刻字は、以下の通り。

『 此地一帯ハ慶長五年九月 三七〇年前 

大分 大友軍 中津 黒田軍ノ古戦場でアル

両軍の英魂ヲ弔フタメニ之ヲ建ツ  昭和四十五年 九月 矢野嶺雄 』 




境川に架かる出会い橋・高崎山、別府湾も見えます

石垣原古戦場碑が建つ民家の裏手には境川が流れ、

境川に架かるであい橋からは、遠くに高崎山が望めます。


境川(出会い橋から上流・南荘園町方面)
 
橋の下は別府鶴見岳一気登山道になっていて、景色もなかなか素敵

境川に架かるであい橋
 
七ツ石から山手に少し行った場所、おそらくこの近辺で、遠く別府湾を昇ってくる

月を眺め、辞世の句を詠み最期を遂げたであろう大友家の忠臣・吉弘統幸さん 


別大国道を走っていたら別府湾の上にお月様が

帰り道、別大国道から何気に別府湾を眺めてみたら、水平線を昇ってくる

お月様を見つけました( 上の画像真ん中あたり )


別府湾に浮かぶ月影、捕えました!

二日後に満月を控えた十三夜の月でした。

413年前、吉弘統幸さんが最後に見た月はどんなだったのかな・・・。






 






「 それにしても、ニャんか物騒でまとまりのニャい奇跡的チラミスだニャ~

幟ニャど立てて遊んでいるから、ブログを書く時間が足りニャくニャるのだ

いったい何ニャのだ、これは・・・

「 まーりたんさんが頑張って イブにクリスマスケーキを手作りすること自体、

既に本来の筋道を外れた奇跡的行動パターンだよね、マンジ君  ところで・・・











・・・残り半分は、今夜みんな揃ってから食べるんだよ、油断も隙もないマンジ君 」

半分は、今夜皆で食べるんだよ



本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

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2013/12/25(水) 19:34 | コメント:12 | トラックバック:0 |


ちょっぴり遠いけど、頂に白い仏舎利塔が建つ実相寺山と、その左側

黒田軍が布陣した加来殿山まで、すっきり見渡せる素晴らしい眺望です

宗像掃部陣所跡から眺める実相寺山

前回と同パターンで恐縮ながら  カメラをぐぐーっと引いてみると・・・







ココは、別府八湯・堀田( ほりた )温泉郷と、スギノイホテルが建つ南立石の

観海寺( かんかいじ )温泉郷とを行き来できる 高架橋の上で・・・

01-15観海寺温泉郷(スギノイホテル)へ続く橋です
 

高架橋・堀田温泉郷側の袂には、石垣原合戦で鶴翼の陣を構えた大友義統軍

左翼・宗像掃部助鎮続( むなかた かもんのすけ しげつぐ )陣所跡が在ります。

画像中央には加来殿山と仏舎利塔の建つ実相寺山

眼下の道路は大分自動車道。 すぐ先には別府インターが待ち構えてます






石垣原合戦では、右翼を任された吉弘嘉兵衛統幸( かへえ むねゆき )さんは、

黒田二十四騎( 黒田家重臣 )の井上九郎右衛門さんと一騎打ち後に亡くなり、 

左翼を任された宗像掃部助鎮続さんは、曽我部五右衛門さんと刺し違え、

両者とも敗死したと伝えられています 黒田方の曽我部五右衛門さんは、その

縁を調べてみると、四国の長宗我部元親公に辿り着く、これまた凄い方・・・





黒田如水軍は、如水が腰を上げるよりも早く、息子の長政公が中津城の城兵の

殆どを率いて上杉攻めに出陣していた為に、如水公は留守居の家臣と、あとは

一般から経験を問わず雇用&結成した寄せ集め即席隊というのが通説です。 





が、その割には黒田二十四騎の中でも選りすぐりの黒田八虎( くろだはっこ )より

井上九郎右衛門さん他、母里多兵衛友信さんや栗山四郎右衛門利安さん、弟の

黒田図書助直之さんに、剣豪・宮本武蔵まで加わっていたというし、姑息な部隊

とはいえ、実力的には相当なハイレベル軍団だったんじゃないかと思われます

如水公は人生最後の大博打なんかじゃなく、確実に獲りに行く構えだった?


宗像掃部助鎮続陣跡全景


なので、ご当地・別府の石垣原合戦説話にも名前が残る黒田兵の素性を含め、

如水軍は他にも、どんな面子を揃えていたのか知りたくなって調べていたら

コチラ黒田武士の館~石垣原合戦( 豊後陣 )で87名が紹介されてました。





それによれば、黒田二十四騎では他に、備中高松城の水攻めの際、石を積んだ

船を並べ、一斉に沈める奇策を呈したアイデアマン吉田六郎太夫長利さんや 

黒田長政が宇都宮鎮房さんの城井ノ上城攻めを早まって敗れた時に、敵前で悠々

と唄い、煙に巻いて退陣したという逸話を残す連歌名人原弥左衛門種良さん、


宗像掃部助鎮続陣所跡


また、大友方の将・吉弘嘉兵衛統幸さんが自刃した後に首を獲り、黒田本陣へ

持ち帰ったと七ツ石解説板に記される小栗治左衛門さんは後藤家の家臣です。 

黒田八虎の豪傑・後藤又兵衛さんの息子 後藤太郎助の名もありました




更には宇佐 時枝城主の時枝平太夫さん。 そして、養子が多い黒田如水公の

実の甥っ子・黒田吉兵衛さん( 宇佐 高森城代・黒田兵庫助利高の息子 )。

黒田家譜を著した貝原益軒の祖父・貝原市兵衛の名も そして、やっぱり

載ってました 国東・富来城のチャンバラ祭りと共に語り継がれる宮本武蔵

石垣原合戦当時は宮本弁助という名前だった様で、昔の名前で出ています





大友軍は負けてしまいましたが豊後守護4百年・九州探題職の誇りを賭けて

戦うに不足無しの相手だったんじゃないかなと思います。 ですよネ義統さん


宗像掃部陣跡から県道52号線を見下ろす

宗像鎮続さんの陣所跡を見学される時は、龍沼クリーンを過ぎて、

大きく右カーブした県道52号 堀田温泉入り口の坂を登ると直ぐです

堀田温泉入口(拡大)

高橋紹運さんの甥である吉弘統幸さんと比べると、宗像鎮続さんの出自などの

情報はとても少なく、姓の宗像からして、和睦を目的に大友家重臣・戸次( 立花 )

道雪さんへ嫁がされた お色姫( 松尾殿 )の兄・宗像氏80代 氏貞の血縁か、

一族かと思いきや、それを記したページを見つける事は出来ませんでした 




氏貞さんが跡継ぎなく42歳で亡くなった後、宗像氏は秀吉さんに取り潰されて

いるんですね 宗像姓は、小早川隆景さんの重臣により受け継がれてはいる

様ですが・・・。 はっきり記されているのは、宗像鎮続さんは、大友義統さんが

改易された後は、中川秀成公( 豊後 岡城主 )に仕えていた、という事だけです。 

の字は、義統パパ大友宗麟(大友義鎮)から貰い受けたものでしょうけどネ



境川に架かるであい橋

次回は、別府市を流れる境川周辺の石垣原合戦史跡を、夕暮れ散策かたがた

ご紹介して、今回の石垣原の戦い縁の地探訪レポを終了させて頂く予定です










●参考 : 八幡和郎著 『 黒田官兵衛 その戦略と生涯 』

豊後の城と合戦~石垣原の合戦 戦記 

黒田武士の館石垣原合戦( 豊後陣 )








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2013/12/18(水) 19:53 | コメント:5 | トラックバック:0 |


秀吉の軍師で初代中津城主・黒田官兵衛孝高( 黒田如水 )を 岡田准一さんが

演じる待望の大河ドラマ 『 軍師 官兵衛 』 放送開始( 2014年1月5日 )を前に、

今月23日 『 戦国疾風伝・二人の軍師~秀吉に天下を獲らせた男たち 』 が

BSジャパンで再々々放送されますね こちらは2011年1月にテレビ東京系で

新春時代劇として初放送されたもので高橋克典さんが黒田官兵衛を熱演し、

絶賛されたドラマです。 今年の1月にもBS171でアンコール放送( 再々放送 )

されましたが、うっかりノーチェックだった~という方、今度こそはお見逃しなく

初回放送は 2013年12月23日( 月 )AM9:08~AM10:00です 






上記の情報を入手したのは今朝、黒田如水で番組検索をした時の事なんですが、

奇しくも昨日は、別府市の石垣原史跡 黒田如水本陣跡へ出掛けてました

黒田如水本陣跡(昭和47年5月10日市指定史跡)加来殿山。現在は団地公園

前回、石垣原の戦いで黒田如水軍に敗れた大友義統( よしむね )の本陣跡

ご紹介させて頂きましたが、大友本陣の歌に目を通し、戦没者慰霊塔に手を

合わせていたところ 不覚にも胸がいっぱいになり、気がつけばマイフェイスは

えっ、人造人間キカイダー? 急きょ メイク 陣営の立て直しが必要となったため

( 夕刻でお腹がグーグー鳴ってたせいもありますけどネ )、大分市へ撤収 

日を改め、メイク 陣営をたて直し、再度挑む 石垣原合戦史跡探訪やいかに




旧・加来殿山の黒田如水本陣跡(解説)

黒田如水本陣跡の碑文は次の通り。 『 昭和四十七年五月十日市史跡指定

この丘は加来殿山 [ 通称・角山 ] と呼ばれ、石垣原合戦のとき 黒田如水( 軍 )

が本陣を布いたところです。 石垣原合戦は慶長五( 1600 )年の秋 9月、

豊臣方の大友義統と、徳川方の黒田如水が、立石山と この山( 加来殿山 )の

間に広がる石垣原で7回にわたって戦い、黒田方の勝利に終わった戦いです 』

 







・・・そんな黒田如水本陣跡碑は、どういった場所に建ってるかといいますと、

別府市の新別府病院と、実相寺( じっそうじ )山に挟まれた丘陵地帯に在る

住宅街の公園隅なんです( 下の画像中央奥 )。 マップはコチラ

旧・加来殿山(角山)の黒田如水本陣跡(現在は団地公園です)

大分で人生のハイライトを迎えたのち、博多湾を臨む福岡の隠宅 御鷹屋敷

移ってからの如水は、博多の子ども達を相手に毎日、まるで良寛さんみたいに

遊ぶのが大好きだったと云います。 もし、今もこの場所に、如水公の心が少し

でも残っているとすれば、毎日元気に遊ぶ子ども達を眺めては、満足げに目を

細めているかもしれない・・・そんな気がします 跡地が公園になって良かったですね 







もし関ヶ原の本戦が一日で終わらず、如水公が九州を平定し、第三勢力として

中央への乗り込みに成功していたら、その先にどんな理想を描いてただろう

つい考えてしまいます。 若い頃から思慮深く、人の心を推し量る作業を苦手と

しなかった如水公だけに、勝つ事の辛さや哀しみ、孤独は痛感していただろうし、

利己的で中途半端な欲に溺れることの愚かさや情けなさも同じく、これまで

嫌と言うほど見せられてきて、いい加減うんざりしていたに違いありません。


  


関ヶ原の戦功で息子・長政が福岡の大大名になってからも、オレはオレと

云わんばかりに太宰府天満宮の境内で、霞を食べて生きる仙人みたいな

質素な暮らしを好んだり、心の目が曇ったら人間やってる意味がない!的な

ストイックさは、仮に天下を獲っていても恐らく変わらなかったんじゃないかなぁ、

なんて思います  それだけに、黒田如水公が天下人になってた場合の

パラレルニッポンを、加藤清正公とふたりで統治する九州を、

如水公ゆかりの史跡を訪ねるたびに、やっぱりつい妄想してしまう・・・。 

だけど、仮に棚から牡丹餅が落ちてきても、私は器ではありませぬゆえ

とか言って、結局はお得意な裏方に収まってしまう気もするな  
 







黒田如水公本陣跡の在る場所は石垣原合戦当時、加来殿山( かくとのやま )

または角山と呼ばれる丘陵だったそうです。 が、現在は立派なお宅が整然と

建ち並ぶ住宅街になっていて、かつての加来殿山の雰囲気を残している部分は、

もう無いのかな~なんて思いながら、公園の周辺を見渡してみたら、あった~

現存の丘部分(加来殿山)に登ってみます

この石段の斜面は、かつての小丘・加来殿山の匂いがします! 直感ですけど

とりあえず登って、景色を確かめてみることに







石段中ほどから黒田如水本陣跡を見下ろす

遠く別府湾と高崎山から右手( 南西 )へ目を移していくと、グローバルタワー、

タワーの手前一帯が、かつては火山噴出岩ごろごろの石垣原合戦の激戦地、

更に右(西)へ移すと大友の陣所に挟まれた杉乃井ホテルの建物が見えます。

黒田如水本陣跡・加来殿山から、スギノイ(南立石)も見えます

そして眼下は、今は団地公園として保存されている黒田如水公の本陣跡

公園を囲むひょろ長く伸びたフェニックスたちを、ちょっと憶えてて下さいね










えいやっ とジャンプして 

もう少し高い所から見下ろした黒田如水公の本陣跡です( 画像中央 )。

旧・加来殿山(黒田如水陣跡)拡大

で、このままカメラをぐぐーっと引いてみると・・・







画像左の山は鶴見岳、右の茶色い二等辺三角形の山は扇山( 太平山 )。

その裾野に広がる住宅地が、慶長5年に大友軍と黒田軍が戦った荒野・石垣原。

黒田方・井上九郎右衛門さんと大友方・吉弘統幸さんの一騎打ち画の景色です。

実相寺山から望む石垣原(扇山山麓)

画像右端の古墳みたいな小丘が、黒田如水軍が布陣した加来殿山で、

加来殿山と隣接し、鶴見岳と扇山( 太平山 )、石垣原一帯を見渡すこの場所は、

標高169mの実相寺山
です。 9月13日、如水公より少し早く別府入りした

黒田軍の援軍で細川忠興の家臣・松井康之の軍勢は、この実相寺山に布陣。

その日の夜、黒田如水も実相寺山の陣に入ります。 如水公が到着した時は既に

七ツ石での激戦の末に大友方の武将・吉弘統幸さんが亡くなった後で、如水公は

吉弘統幸さんの首を故郷の武蔵町・筧の館へ返す様、家臣に命じたと云います


細川軍が布陣した実相寺山(仏舎利塔)

実相寺山の頂には、日本山・妙法寺の平和祈願の仏舎利塔が建ってます

山名は、この東麓にあった古刹・実相寺(751年に僧・明賢開基)の名に起源。 



山頂までは車で楽々、Pも有るものの 昨日の実相寺山頂は、カメラを持つ手が

十数秒でかじかんで、感覚がなくなる程の寒さ 石垣原のパノラマを撮ると

速攻で下山し、如水公本陣跡碑が建つ公園へ再び戻ってきました 暖かい

この道の先は扇山(太平山)

続いては、別府八湯のひとつ堀田温泉郷方面へ向かいます 

石垣原合戦ゆかりの史跡巡り、もう少しだけお付き合い頂ければ幸いです








●参考 : 石垣原合戦マップ~黒田方陣跡・実相寺山






本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

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2013/12/16(月) 19:19 | コメント:8 | トラックバック:0 |


別府八湯のひとつ 観海寺( かんかいじ )温泉郷に在る大型リゾートホテル

スギノイホテルの前を、うらめしそうに素通りし・・・( 棚湯入りたい

スギノイホテルを後にして♪


これまた別府八湯のひとつ 堀田( ほりた )温泉郷方面へ、道幅も広く快適な

坂道をブンブン登って行くと 太平山( 扇山 )を背にした閑静な住宅街に

差し掛かります。 南立石( みなみたていし )本町地区です

自家温泉の噴気が揚がる南立石本町に到着♪

家々からモクモク上がってる煙は火事ではありませんヨ 自家用温泉の湯煙

日本一の大温泉郷・別府市に暮らす方の特権ですね 羨ましい限りです  

なのに、別府から車で僅か10分程の大分市内まーりたん宅は、温水器で沸かす

フツーのお風呂 掘削すれば温泉が出るんじゃあないかイヒヒ...とは思えど

集合住宅の為、そんな悪がねぶりを発揮したら最後、寒空の下に追放です 


大友軍本陣跡への標柱発見!

羨ましいほど 毎日が地獄です! な 南立石本町住宅街へ入る

手前、道路左の古い石垣傍に 大友本陣之跡と書かれた標柱を発見


大友軍本陣跡へ

道路脇から西に延びたこの参道を歩いていけば、慶長5年の石垣原の戦いで、

豊後大友氏22代・義統( よしむね )さんが本陣を構えた所に着くみたいです









参道左手の眺め。 遠くには空との境目がやっとこさ分かる別府湾の水平線 

別府湾の水平線が見える

スギノイホテルの建物が竹藪越しにチラリと見えているから、

方角は東南でしょうか。 413年前は、スギノイホテルから少し下った場所に在る

吉弘統幸さんの陣所まで見渡せていたかも・・・  



用水路にクレソンがいっぱい

はたと足元に目をやればクレソンの大群 

用水路を覆い隠してしまう勢いで自生してます。






風光明媚な景色を楽しみながら、のんびりと心してお邪魔させて頂きますね、

義統さん ・・・と思った途端、「 義統である 」と云わんばかりに

姿を現した 大友義統本陣跡 コンニチハ、ヨシムネサン♪

大友義統本陣跡

まーり譚と申すか! おぬしじゃな、ブログなる絵巻物で

ワシを大分ンばかごが如きキャラに仕立てよったのは










・・・あ、やっぱりバレてた? 

だけど、敬愛の念をこめて書かせて頂いてるんですよ、いつも・・・






石垣原古戦場跡

石垣原合戦で、大友軍が布陣した当時、この辺りは立石村 古屋( こや )園

呼ばれてたんですね...えっ石垣原合戦って何? 」と仰いました 






はい、何度でもお答えしますよ~ 拙ブログ まーり譚 じゃなかった

まーりたんの暮らし探訪記は、貴重なお時間を割いてご訪問下さる皆様が、

どの記事から読んでも、そこそこ楽しんで頂ける様 それなりにシンケン考え書いて

ますんで 石垣原合戦はいつ、どんな経緯で起き、誰と誰が戦ったかなどは

御当地・別府の伝承 『 激戦地七ツ石の解説板 』 を貼っておきますネ

石垣原古戦場・七ツ石解説1

石垣原古戦場・七ツ石解説2


主家を支え、守り、必要とあらば進言もした大友家臣・吉弘統幸さんの記録は、

吉弘がごとき眞の義士は、古今たぐひすくなき事なり 」と、福岡藩士

貝原益軒の 『 黒田家譜 』 にも残され、黒田の敵方であるにも関わらず

その義烈さ、人となりを 類まれな真の義士として、高く評価しています




一方で実父・大友宗麟公の領地、大友氏四百年の誇りを取り戻したい一心で、

吉弘統幸さんの進言を聞き容れる事が出来なかった大友義統さんの気持ちも

解る気がするんですよね 義統さんは幼少期から不仲の両親に心を煩わされ、

母を悲しませる父・宗麟を憎んでもいたらしいのに、宗麟没後には大友家再興に

奮い立つなんてご立派です。 只、当時、義統さんは42歳で統幸さんは38歳

因みに、黒田如水公はこの時55歳。 秀吉さんを天下人にしたキャリアに加え

やはり年齢の分、考え方ひとつとっても如水公がうわ手だったでしょうね・・・。


大友軍本陣跡(南立石)

御影石の裏には、本村古屋地区の変遷を記した付近の歴史が刻まれてました。 

その奥には石垣原合戦の戦没者慰霊塔

石垣原合戦慰霊塔

塔婆には、大友、黒田両軍の戦没者の人数が記されていました。

それによれば、大友軍はおよそ三千の兵の内、220人余りが亡くなり、

黒田軍はおよそ八千の兵の内、380人余りが亡くなったとあります。

石垣原の戦いの後に九州を席巻した黒田如水軍だけに、圧勝というイメージが

あったものの、かなりの損害が出ていた事をここで初めて知り、驚きました

もう一度、石垣原合戦戦没者の方々の冥福をお祈りして、心して合掌



石垣原合戦の歌(碑)

石垣原合戦 大友本陣の歌にも登場する吉弘統幸さん。 主君・義統公に従い

出陣した朝鮮の役での武功から、秀吉さんに “ 無双の槍使い ” と賞讃され、

石垣原合戦では、来年の大河で速水もこみちさんが演じる母里( もり )友信

隊を得意の槍で撃破 しかし、次第に大友軍が劣勢となっていく中、統幸さんは

主君の大友義統に別れを告げ、残りの手勢30騎余りで黒田軍に突撃戦を挑み、

最期は恩があった黒田家臣・井上九郎右衛門さんに手柄を獲らせる為討たれた、

と言われています それを知った大友義統さんは、母里友信を通して、黒田

如水に降伏。 母里友信さんの正妻は、義統の実父・大友宗麟の娘だった様...。 


海雲寺(大友軍本陣近く)

大友義統本陣跡の標柱がある場所から、少し坂を下った場所に建つ海雲寺

義統さんは、黒田如水に降伏する際、このお寺で剃髪したと云われています。


海雲寺の石段から高崎山を臨む

海雲寺山門の石段より遠く望む高崎山。 お猿の山として有名ですが

山頂には大友氏の山城遺跡があり、1196年に大友氏初代・能直( よしなお )

の豊後( 大分県 )入封に反対した在地勢力・阿南氏が立て籠もった事に始まり、

1355年の南北朝時代、大友氏8代・氏時が中世の山城に築き上げ、1586年

島津氏の府内( 大分市 )侵攻時は、吉弘統幸が 大友氏22代・義統を高崎城へ

逃れさせた記録迄、四百年に亘る豊後大友氏の歴史が滲みこんでいる山です


高崎山も赤かった(2013年12月8日)

帰りの別大国道から、ふたたび撮影した高崎山 

遠目に見た時は、水彩絵の具で塗ったような淡く均一なブルーだったのに、

近づいてみると赤くまだらで、人情ありげにごわごわしていて、話し掛けたら

「 頭の上で長い事しゃーしかった大友氏ン事なら何でん教えちゃるで 」なんて、

もしか気前よく答えてくれるんじゃないかしら・・・そんな感すらしてしまった

 







●参考 : 九州6国の守護 宗麟の栄華( 大友氏遺跡体験学習館資料 )

ウィキペディア吉弘統幸 / ウィキペディア母里友信 

石垣原合戦マップ~吉弘統幸の菩提寺・宝泉寺  








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2013/12/13(金) 20:38 | コメント:8 | トラックバック:0 |


画像中央には別府湾を見つめる草食恐竜ブラキオサウルスの長~い首。


じゃなくて 磯崎新氏が設計した地上100メートルのグローバルタワー

緩やかに首を垂れた感じのユニークなタワーの造形は、別府公園のド真ん中

海抜0m地点を中心に描かれた直径1kmの仮想球体の断片だからなんです

吉弘統幸陣所跡からの眺め(中央はビーコンタワー)

ついでに、最近年齢のせいか何だか郷土に関心が湧いてきて、別府の歴史や

路地裏探訪等、ぼちぼち始めてみようかしらなんて思ってる そこのアナタ

別府公園のウエストゲート近くには、コレさえ見れば別府観光の父・クマハチ翁の

全てが( たぶん )分かる “ 油屋熊八の碑 ” が建ってます。 

えっ、熊八さんをご存知ない ほら、別府駅前で怪しいオーラをこれでもかと

撒き散らしてるマント姿のオジサンですヨ キッチュ別府を代表する偉人です






「 ま~た、まーりたんは すもつくれん話んじょぉしち、はよ本題に行かんね 」 と、

豊後の歴史、とりわけ大友氏に大変精通されたM様やS様から、愛の罵声が

飛んで来そうなので・・・  大慌てで本題へ移らせて頂きたいと思います

吉弘統幸陣所から眺める解説板


只今、まーりたんが出没しているのは、別府市 荘園町の七ツ石に続いて訪れた

石垣原の戦い縁の地・吉弘嘉兵衛統幸( かへえむねゆき )陣所跡です。

吉弘嘉兵衛統幸陣所跡

慶長5( 1600 )年9月、東軍・黒田如水軍と 西軍・大友義統( よしむね )軍が

豊後の別府を舞台に繰り広げた 九州の関ヶ原とも呼ばれる石垣原合戦では、

黒田軍は実相寺( じっそうじ )山に、大友軍は南立石( みなみたていし )

布陣。 両陣の位置関係は、過去記事コチラのマップをどうぞ






大友の陣営は鶴が翼を広げた形をとり、主将・大友義統の本陣は、鶴の頭部に

当たる南立石 本村の古屋( こや )に。 重臣の吉弘統幸が執り仕切る陣は、

鶴の右翼部分に当たる見晴らしの良いこの崖上、南立石坂本に置かれました。

吉弘統幸陣所跡(石垣原合戦史跡)


そう 冒頭の画像は、413年前に吉弘統幸さんが様々な思いを胸に抱え、

戦の間、眺めたに違いない景色です。 いかがでしたでしょうか

さすがにグローバルタワーは無かったでしょうけどね 

石垣原合戦・大友方右翼・吉弘統幸陣所跡

吉弘統幸さんは永禄5( 1562 )年、大友家臣・吉弘鎮信( しげのぶ )さんの

嫡男として誕生します 吉弘鎮信さんは、戸次道雪( べっきどうせつ )さんや

臼杵鑑速( うすきあきはや )さんと肩を並べる大友家重臣中の重臣 豊州三老

一人・吉弘鑑理( あきただ )さんの長男。 因みに次男は高橋紹運( 吉弘鎮種 )。

つまり、吉弘統幸さんは 豊州三老・吉弘鑑理の孫で、高橋紹運さんの甥です。 





父の吉弘鎮信さんが天正6( 1578 )年の日向 耳川の戦いで敗死したために、

吉弘統幸さんは16歳で家督を継ぎ、まるで叔父の高橋紹運さんと同じ運命を

辿るかの様に、二つのお城( 武蔵町の筧城、豊後高田の屋山城 )を任された後、

1600年の石垣原の戦いでは前回の記事でお話させて頂いた通り

また遡って天正14( 1586 )年、統幸さん24歳の時の戸次川の戦いでは、

島津軍の猛攻から、大友宗麟の子で4つ年上の主君・大友義統さんを高崎城

さらには豊前の竜王城まで逃がすなど、大友家に生涯忠誠を尽くすんですね。 

落日の大友家を見限ることなく必死に支え、38歳という享年まで、四面楚歌の中

筑前 岩屋城で戦い抜いた叔父の高橋紹運さんと、ことごとく似ています 


吉弘統幸陣所跡地

吉弘統幸陣所跡は、2台分ほど車を停められるスペースがありますが・・・



この坂を上って右折したらスギノイです

観海寺温泉郷のスギノイホテルへ続く登り坂の途中、右カーブの一番きつい所で

狭く、見通しも悪い為、見学の際はどうぞお気を付け下さいネ

観海寺温泉へ登る道ですよ~♪




礼節さにおいても、叔父の高橋紹運さんに負けず劣らずだった吉弘統幸さん

それを物語る逸話が、南立石一区5組-1の 手足荒神にも遺されています。

南立石地区にある吉弘統幸ゆかりの手足荒神(別府発見伝より)
( 手足荒神の画像は、別府発見伝よりお借りしました )



話は石垣原合戦の前夜、統幸さんの陣所に黒田軍のスパイが現れます。

しかし嶮しい崖を登る際に足を滑らせたのか、骨折をしていたらしく、動けない

状態だったとか・・・。 吉弘統幸さんが名を訊いても答えず、斬首を切望。

吉弘統幸さんは無念の涙と共に亡くなった敵兵を憐れみ、亡骸を手厚く弔うと

この地に埋葬したと云います その埋葬地( 川端原 )は、石垣原合戦で

負傷した兵士らの治療の場となり、以後手足を痛めた人が参拝すると不思議と

治るという評判が広まって祠も建てられ、手足荒神様としてお祀りされてます








それでは吉弘統幸さんの陣所を後に、お次は大友軍の本陣へいざ参らん

スギノイホテルを通過して大友軍の本陣跡へ

大友軍の本陣跡は、カーブを登り切ったらドカーンと姿を現す大型リゾートホテル

スギノイホテルの少し先に在ります  続きは次回にて







●参考サイト : 別府街角ウオッチング~別府発見伝

ウィキペディア手足荒神








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2013/12/11(水) 20:04 | コメント:7 | トラックバック:0 |


何だかんだバタついていて、ご紹介が一週間遅れになってしまいましたが

先週の日曜は、愛媛ナンバーの宇和島バスと並走しつつ別府へ馳せ参じ 

愛媛ナンバーの宇和島バス


慶長5( 1600 )年9月、秀吉さんの軍師として名高い黒田如水( 官兵衛孝高 )

率いる黒田軍と、豊後守護21代目・大友宗麟の嫡男である大友義統( よしむね )

率いる大友軍が、それぞれ東軍・西軍として別府で対峙 激闘を繰り広げた

九州関ヶ原 石垣原( いしがきばる )の戦い縁の地を訪ねて来ました

石垣原合戦激戦地・七つ石

先月半ばに、高橋紹運さんの甥で大友義統軍の勇将・吉弘統幸( むねゆき ) 

さんが祀られた石垣西の吉弘神社をご紹介しましたが( 地図はコチラ )、今回は

そこから少し山手に行った南立石( みなみたていし )地区の荘園町を探訪 

この辺りは、石垣原合戦の激戦地だったとの言い伝えが残っています 







赤い鳥居を潜ると、大きな石がごろごろ・・・というより、岩が鎮座していると

言ったほうが適当な気がするココは、通称 “ 七ツ石 ” と呼ばれる所
 
正位七ツ石稲荷大明神

巨石越しに屋根だけ見えている平屋の建物は、共同浴場 “ 七ツ石温泉


七ツ石温泉入口

大分に長年暮らしていながら、七ツ石は初めて来た場所であり

温泉なので、遠巻きに入り口の様子を窺っていたところ・・・

お風呂じゃないん? どうぞ入って行って 」と、

さっぱりした雰囲気の60代ぐらいの女性が笑顔で声を掛けて下さり、

受付の方かと思いきや、脇に小荷物を抱えるとスタスタと境内の外へ・・・。

 

常連さんだったみたいです で、稲荷神社にお参りを済ませた後、カメラ手に

境内をぶらぶらしていたら 「 ここは謂れのあるところやけんね、

この前は耶馬渓から観光バスが来たわ
」 瞬時に状況を把握、

笑顔を見せて適切な言葉のみ残すと、これまたスタスタ去っていくおばあちゃん。

七ツ石温泉に入浴に来ていた方が皆、話しかけてくれるんです

上の画像にそのお二人が写っております 

七ツ石温泉に通うと、彼女たちみたいに颯爽とクールに年を重ねられるのかも


七つ石稲荷神社境内には大きな岩がごろごろ

しかし、狭い境内に所構わず陣取る巨石たち。 

やはりこれらは、大昔の鶴見岳の噴火で飛んで来た岩なのかしら・・・  



赤い幟の正位七ツ石稲荷大明神は、石垣原合戦の後、巨石付近に白狐が

現れるとの噂が広まった事で、お稲荷さんとして祀られたようです 

七つ石稲荷神社の由来


神社であり、地域の方々に愛される共同浴場であり、屋外にテーブルと椅子も

完備の憩いの場であり、石垣原合戦縁の史跡でもある何ともマルチな 七ツ石。 

七つ石温泉はこの先です


七ツ石から西へ少し行くと、美しく緑化整備された南立石公園も。 

南立石公園入口


かつてこの一帯で、激戦が繰り広げられたとは思えない閑静な住宅街ながら、

公園向かいの薬局の名は何と、古戦場薬局 

古戦場薬局南立石公園・時間は午後四時

南立石公園の時計は、もうじき午後四時。 整然とした素晴らしい公園なので、

これより晩秋の夕暮れ散歩など愉しんでみたいと思います そうですね、

七ツ石の解説板に綴られていた石垣原合戦の話でも語らせて頂きながら...。 

宜しければ、お付き合いください

南立石公園東側入口


石垣原古戦場 激戦地 「 七ツ石 」 ( 以下、現地解説板より転載 )

この付近は古くから「七ツ石」と呼ばれ、石垣原合戦の時、戦場となった所である。

文禄元( 1592 )年4月、大友義統は朝鮮の役に出陣したが、成果なく

その為、秀吉は大友氏の領国37万石を没収し、義統を毛利氏に預かり幽閉した。



慶長3( 1598 )年、秀吉が死去すると、豊臣方と徳川方の争いは表面化して

慶長5( 1600 )年の関ヶ原合戦が近づいた。 この時、大友義統は豊後の

領国を回復するため、豊臣方に味方した。 吉弘統幸は、主君・義統に対し、

豊臣方につくことの不利を説いたが、聞き入れられなかった。


グラデーションが美しい楓


9月9日、大友義統は兵3千を率いて安芸の大畑を船出し、別府 浜脇に上陸。 

直ちに本陣を南立石本村古屋( こや )に置く。 この時、大友方の布陣は

鶴翼の陣で、本陣に主将・義統と田原紹忍( 大友宗麟正妻・奈多夫人の実兄 )

左翼に堀田( ほりた )上方、御堂ヶ原に宗像鎮続( むなかたしげつぐ )、

右翼を坂本( 観海寺 )に吉弘統幸を配した。 一方中津城に居た徳川方の

黒田如水孝高は、松井佐渡、竹中重利ら八千の兵を率い杵築、亀川を経て、

加来殿山( 角山 )実相寺( じっそうじ )山に陣を布した。


楓のグラデーション


慶長5年9月13日、両軍は山を降り、七度にわたり戦い、

七ツ石付近の原野は血に染まった、と語り継がれている。 

宗像鎮続は斃( たお )れ、傷ついた統幸は 「 今はこれまで 」と、

血刀を杖に家来共々を引き連れて、七ツ石をあとに石垣原付近まで登り、

遥か彼方、別府湾上を昇り来る月を眺め乍ら


明日は誰(た)が草むす屍や照らすらん 石垣原の今日の月影 


と、辞世の句を詠んで自刃した。 その時後を追って来た黒田方の将

小栗冶左衛門( こぐりじざえもん )は吉弘統幸の首を獲り、黒田の陣に引き揚げた

という。 この日の戦いで大友方は吉弘統幸、宗像鎮続、都甲( とこう )兵部など、

黒田方は久野冶左衛門、曽我部五右衛門など、多くの家来を亡くした。


かつての荒野・石垣原の名残を留める公園の一角


この戦いで黒田方は勝ち、大友義統は降伏した。

鎌倉時代以後22代 約4百年の長い間、豊後を支配した大友氏の時代は

ここに終わり、徳川幕府の支配するところとなった。




平成元年6月24日 別府市荘園自治会

史料提供者 手嶋利勝 安部巌 ( 解説板の転載はここまで ) 』


南立石公園(園内)


吉弘神社の由緒では、吉弘統幸さんは黒田二十四騎の井上九郎右衛門さんと

相討ちで両雄敗死。 しかし、七ツ石の解説板では、吉弘統幸さんの首を

挙げたのは小栗冶左衛門(こぐりじざえもん)さん。 同じ別府でも違うんですね。




また、ウィキペディアでは、主君・大友義統さんの改易後、吉弘統幸さんは

黒田家家臣・井上九郎右衛門さんのお世話になっていたらしく、その恩義から

自らの首を井上九郎右衛門さんに獲らせ、手柄を挙げさせたと記されてます 

吉弘統幸さん、もしかして中津城下の豊後町で暮らしていたのかな・・・。




来年の大河では、井上九郎右衛門は若手の高橋一生さんが演じられますが、

高橋克典さんが黒田官兵衛を演じたドラマ・戦国疾風伝では、井上九郎右衛門は

長政と関ヶ原本戦には行かず、中津城に残っていた黒田家老臣として描かれ、

左とん平さんが演じられていました。 いずれにしろ体力的に恵まれていなかった

武将ながら、石垣原合戦では大友義統を降伏へ追い込む一世一代の大手柄を

挙げる井上九郎右衛門さん。 どんな活躍を見せて下さるのが楽しみです


出でよ、ヤマタノオロチとか言ってるボクたちに遭遇

棒切れを手に、「 出でよ、ヤマタノオロチ 」とか言いながら

空池をつつく 愛すべき大分ンばかご いえいえ、僕たちに遭遇 

天下の名軍師・黒田官兵衛さんと、九州一の名将・高橋紹運さんの甥御さんが

誇り高く戦った素晴らしい歴史が息づく街で、大きく育ってね




次回は、観海寺方面の石垣原の戦い縁の史跡をご紹介させて頂きます





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2013/12/09(月) 20:10 | コメント:4 | トラックバック:0 |


左手前方は、別府のランドマークとも言えそうな麦焼酎・吉四六( きっちょむ )の

看板を掲げた交通センター。 その先には、別府湾へ滑り込みかけの高崎山 

眼下の国道10号線は別府湾伝いに高崎山を通過、大分市へと延びています

吉四六の看板が目印の別府交通センター

ここは大阪行きのさんふらわあや、四国行きの宇和島運輸フェリーが寄港する

大分県別府市 汐見町 別府国際観光港最寄りの歩道橋上。

12月1日、日没後まもない風景です

大分のかたには余りに馴染み深い、説明は要りませんよ的な景色ですけどネ

オレンジ色の吉四六看板といい、別大国道を縁取るテールランプといい、適度な

喧騒に海の匂い等、ずっと変わらないこの風景、まーりたんは大好きなんです 



先週9450円で新調したコンデジも、黄昏時にオート撮影で、この写りなら上等

先代機と同じ ニコンクールピクスにして良かった お値段以上、ニコン


宇和島運輸

いくら眺めても飽きないとはいえ、歩道橋の上でいつ迄もうっとり黄昏ていたら

親切な地球警察の方にオツムの中身を心配されて職務質問されかねないので

食後のお散歩がてら、別府国際観光港の方へ降りてみる事にしました  






日没前は南立石公園に居て紅葉を愉しんだ後、早めの夕食を済ませたばかり

南立石公園(園内)

美しく緑化整備された南立石公園は、慶長5( 1600 )年9月に、黒田如水軍と

大友義統軍が激突した石垣原合戦の古戦場跡地で、大友義統( よしむね )軍は

南立石公園付近に布陣したと云われてます。 鶴見岳と扇山を背に、かつては

火山噴出岩の散らばる荒野だった石垣原。 後日、改めて記事にする予定です








そういうわけで再び、別府国際観光港に戻りまして・・・

埠頭には18時45分発・大阪南港行きのさんふらわあ “ あいぼり ” が停泊中

既に錨が揚がっているので、待機中かな

さんふらわあ・あいぼり

写真を撮っている人を発見 凝ったアングルを狙っていると思われます


さんふらわあ・あいぼり(ターミナル前)

ここ数年はご無沙汰ながら、大晦日発の弾丸初詣ツアーでの利用回数は片手に

余り、関西への旅では、ほぼ例外なくお世話になっているフェリーさんふらわあ 

眺めれば眺める程このまま済まし顔で乗り込み 大阪まで行ってしまいたくなる

船体を、まーりたんも愛機に収めます 白いボディに太陽のマーク、やっぱり良いなあ 








そんなフェリーさんふらわあの別府⇔阪神航路は、1912年に大阪商船が開設

してから昨年で百周年を迎えられたそうなんですね おめでとうございます。

で、今年4月には、ターミナルの一角に 『 さんふらわあ歴史館 』 がオープン。

のりばの一角に、さんふらわあ歴史館がオープン

展示は、館内奥に航路の歴史を記した年表、造船所が船の完成に伴い制作した

200分の1の精巧な模型( るり丸、くれない丸、ゆふ丸、こはく丸、黒潮丸など )、

更に、船内で時間を知らせるために鳴らした点鐘( てんしょう )も初めて見た!

るりまる点鐘


展示模型の中でも、どことなく今話題のクルーズトレイン・ななつ星を連想させる

レトロで気品ある色形に心を惹かれて ついしげしげと見てしまったのは、

昭和23年( 1948 )年8月に 三菱重工長崎造船所で建造された大型船で、

同年9月2日、神戸港発で華々しくデビューしたという “ るり丸

るり丸模型

解説によれば、るり丸の総トン数は1878t、全長80.8m、旅客定員919名。

主機はディーゼル800馬力2基の、資材不足の当時としては大出力エンジンを

搭載。 14.8ノットの速力を誇り、船価は1億2千万円であった・・・云々と

戦後の日本に活力を与え、人々が夢を取り戻す事に一役買った旅客船だった様




誰もが深く傷つき、生きる事だけでも大変な混沌とした時代、自然に触れながらの

ゆったりした船旅は、心の豊かさと真の贅沢を思い出すきっかけになっただろうし、

ステイタスを味付けすれば意欲も生まれる、その大役を果たしたのかしらん?と。




しかし昭和33( 1958 )年から、くれない丸、こはく丸、こばると丸など、続々と

登場する豪華観光船に押されて昭和46( 1971 )年3月、大阪⇔別府航路から

遂に引退。 昭和52年( 1977 )年5月にサウジアラビアへ売却され、その時に

船名も 『 るり丸 』 から 『 St.Francis 』 に改名し、日本を後にした、とのこと。

宮澤賢治的な聖人の名を貰ったるり丸

けれども興味深いのは、 『 St.Francis 』 という名と、その名前の主 

まーりたんは無知なもので、聖フランシス?誰じゃいなと、ウィキで調べて

みたところ アッシジの聖フランチェスコと呼ばれる、クリスチャンのみならず

大変に有名な方らしく、森羅万象全てに心があるとみなし、鳥にも花にも語りかけ、

音楽や詩やユーモアを交え人々に教えを説いたという、宮澤賢治を彷彿とさせる

エコロジー聖人さんでした ま、確かに船は少ないCO2排出量で大量輸送可の

地球にも人にも優しい乗り物だけど、驚いたのは彼の元の洗礼名・ジョバンニ 

銀河鉄道の夜の主人公の名です 宮澤賢治さんは登場人物に名を付ける時、

もしかして、アッシジの聖フランチェスコ( 聖フランシス )を意識されたのかしら...。

カムパネルラは妹のトシ、ジョバンニは賢治自身の投影だと言われているけど。




 
石にも木にも風にも声がある。 森羅万象の中の小さな存在になって、

相手の境遇に心を寄せ、想いを馳せる。 想像することで心は解放されて、

がんじがらめの日常にあっても、どこまでも飛んで行ける。 翼を、真の 

幸いを見つけられる
』 これは銀河鉄道の夜を何度も翻訳し、宮澤賢治の

心を誰よりも理解されているロジャー・パルバースさんが仰っていた言葉です 





異端視されようと、キリスト教の矛盾を批判する事も、自分の理念を無理に通す

事もしなかったという、アッシジのエコ聖人フランチェスコ=St.Francisさん。

るり丸は最後に、これ以上ない素敵な名前を貰ったんですね それとも、

るり丸が施したものが戻ってきたのかな。 毎度ながら、閃き任せの心の旅を

楽しんで、今回はジョバンニに会ってしまった何だか不思議な日曜日でした。 

しばうら号と別府の風景


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2013/12/04(水) 22:36 | コメント:15 | トラックバック:0 |
 

別府湾を右手に、ただいま別大国道を 大分市から別府市方面へ走行中 

午後から大雨の予報が出ていた日曜日。 山の稜線を覆う雲 に向かって

伸びる幾つもの白い柱は 別府の湯けむり 今日は何時になく濃いです 

今日は別府の湯けむりが濃いです

別府の湯けむりは、今日みたいに真っ白くて見えやすい日もあれば、薄くて

見えにくい日もあったり 気温や湿度、風の関係だと言われているんですが、

かなりの気分屋さんと思われる温泉の神様、本日のご機嫌はいかがでしょう




鉄輪・大谷公園の温泉井戸

大木を呑みこむ勢いで、温泉井戸から もうもうと立ちのぼる噴気 




高温の温泉は、別府の至るところで見かける 配管のついた気液分離装置

温泉水と蒸気とに分けられているんです。 そして温泉水は町へ、蒸気は空へ。

大分の方ならよーくご存知の通り、これが別府の湯けむりの正体です

大谷公園の湯けむり・気液分離装置
 

貸間( かしま )の看板を掲げた旅館そばの溝からも、絶えずもくもく。 

旅館・貸間・よしとみさん前・ここからも噴気

貸間は、湯治などで長期滞在するお客さんのために客間を貸すシステムで、

それ完備の旅館ですね。 宿泊客は食材を持ち込んでの自炊になるんですが、

その際 使用するのは、温泉の蒸気で調理する鉄輪温泉名物・地獄蒸し






そうです この日やってきたのは、別府八湯( べっぷ はっとう )のひとつ

鉄輪( かんなわ )温泉 ここは、貸間つき旅館に泊まる予定は無いけれど

地獄蒸し体験はしてみたいなという方向けのワークショップ的 お食事処

地獄蒸し工房 鉄輪さん。 オープンして数年経ちますが、まーりたんは初です

地獄蒸し工房鉄輪へ

九州横断道路沿い・鉄輪温泉入口を入って程ない道路右側の 大谷公園

無料駐車場になっていて、公園隅の階段を上がった場所が お店です







ところで階段横のコチラの装置、なんだと思います

階段横には高温の温泉を冷やす装置・湯雨竹

高温注意 98度 さわっちゃダメですよ



配管には温泉成分が霜みたいに白く、びっしりと付着してます。 

竹製温泉冷却装置・湯雨竹(ゆめたけ)

これは、鉄輪温泉の源泉100℃ を45℃ まで下げる竹製の冷却装置

湯雨竹( ゆめたけ )。 確か海地獄の足湯そばでも見かけたような




地獄蒸し工房・鉄輪

立ち込める蒸気で早くも地獄蒸し状態になりながら お店に到着  

入って右手のカウンター上には、地獄蒸し体験の手順と愉しみ方が書かれた

パンフレットが置いてあります。 初チャレンジの方はご参考に

受付の方もいらっしゃいます。 その方に訊かれても、どちらでも





先ずは、地獄蒸し釜で調理する食材を食券機のメニューから選び、購入します。

まーりたんは、ホタテ・エビ・タコ・牡蠣・すりみボールが2個ずつの海鮮セットA

それに卵2個分の食券を購入。 地獄釜使用料5百円を入れて支払は1700円






中央のカウンターで、ザルに入った食材と食券を交換。

釜の番号が付いたタイマーが渡されます。 それらを持って調理場へススム

食材を選び食券を購入。カウンターで交換します



そして蒸気の向こうに、地獄の釜の番人! を見た

ウチの地獄蒸し窯は5番です。どこかな~♪

いえ、親切丁寧に地獄蒸しの手順を指導して下さるスタッフさんです スミマセン







腕カバーを装着し、さらに厚手袋をはめ、地獄釜の蓋を慎重に開けて横に置き、

長い取っ手の付いた金網に食材の入ったザルを載せて、釜の中へ沈めます

地獄蒸し体験中のカップル

投入時は写真を撮る余裕が無かったため、同作業中の他のカップルを撮影








調理場前は、食事席を設けたポケットパークになっていて、飲泉場もありました

地獄蒸し工房の飲泉・塩味でしかも美味しい!

船小屋温泉郷の飲泉で目を回した記憶がリアルに甦る中、勇気を振り絞り

鉄輪温泉の飲泉にチャレンジ したところ、これが飲みやすくてびっくり

薄い塩味なんですけど、その塩味のマイルドで味わい深いこと これはおいしい






飲泉場の右後方の壁・水が流れるオブジェは 湯冷滝( ゆれいだき )

湯冷滝(ゆれいだき)ここで40度迄冷ます

お店へ続く階段横に設置されていた 湯雨竹で45℃ まで冷やされた温泉が

さらにこの 湯冷滝で40℃ に冷まされ、足湯へと送られるんですねナルホド








そうこうしてるうちに時間が来ました

時間が来ました!これより窯から出します

5番の釜、まちがいありゃーしませんヨ







投入時と同じく腕カバーと手袋を装着して、地獄蒸し釜の蓋を横にずらします。

やけどしないよう慎重にね

蓋を開け、隣の4番窯の上に乗せ・・・

蓋をあけた途端、メガネが一気に曇った様子のウチのダンナさん


ぐはっ、なんも見えん~


ザルを取り出しながら派手にのけ反り、地獄釜の番人 スタッフの方を笑かす

眼鏡が曇って何も見えん~!お店の人笑ってます♪

鉄輪地獄を鎮める苦行中?の一遍上人、じゃなかったウチのダンナさん








鉄輪名物の地獄蒸しで調理した海鮮セットとタマゴです

海鮮セットとたまごです♪

レストランに調味料も置いてますが、このままでも充分美味しかったです

手が汚れてしまったので食事中の写真はナシですけど、タマゴの黄身は

鮮やかなオレンジ色。 食材には仄かに塩気が滲みていて( 温泉成分? )、

飲泉と同じ奥深い味に蒸しあがってました 席近くには手洗い用の水道も

だけど、お手拭用のミニタオルを一枚用意しておくと何かと便利かも







食事が済んだら、使ったザルと小皿は軽く洗って返却場へ。

使ったザルと小皿は水洗いして返却

地獄蒸し体験がよほど楽しかったのか、それとも

この日はたまたま炊事したい気分だったのか、

貸間の滞在人になったつもりで かいがいしくザルを洗う人は・・・


そうです、洗っているのはウチのダンナさん。哀愁の背中!

日頃は皿洗いなど全くしないウチのダンナさんです。 哀愁の背中









地獄蒸し工房の調理場側は、石畳の いでゆ坂に面しています。

石段の先は、湯冷滝で40℃ まで冷やされた温泉が送られる足湯

地獄蒸し工房前のいでゆ坂・足湯方面


いでゆ坂の足湯( 足蒸し )利用時間は9時~21時。 無料です。

いでゆ坂の足蒸し・足湯
いでゆ坂の足湯


次回は、鎌倉期に豊後を訪れて鉄輪温泉を開いた一遍上人ゆかりの

スポットが点在する いでゆ坂を散策したいと思います











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2013/08/29(木) 18:21 | コメント:13 | トラックバック:0 |


大分んシなら、たいがい知っちょる入浴剤 “ 薬用・湯の花

別府温泉・村上商會の薬用湯の花

過去記事 コチラでも簡単にご紹介していますが、“ 薬用・湯の花 ”は、

大分県別府市に在る八つの温泉郷のひとつ、明礬( みょうばん )温泉

採取される温泉成分の結晶を、まるごとパック詰めした 天然の入浴剤です







“ 別府温泉風 ” ではなく “ 別府温泉そのもの ” の為、体は芯からポカポカ。

湯冷めしにくく、効能も期待できます ただ、お湯に溶かした途端、浴室が

これぞ明礬温泉郷( 硫黄 )な匂いで充満 まーりたんは嗅ぎ慣れてるので

むしろ好きですが、残り湯は洗濯に使えない上、浴槽に長時間溜めておくと変色の

恐れ等の注意書もあったりで、慣れない方はアタフタ必至かも? ウチの場合、 

日頃はスーパーの入浴剤、時々ちょっと贅沢気分で湯の花、といった感じです

学理的装置ってなんだ?

それはそうと、湯の花は明礬温泉郷の “ 湯の花小屋 ” で造られてるのは

なんとなく知ってたけど、説明にある “ 学理的装置 ” って一体なんだ










・・・というわけで、湯の花小屋の謎を探るべく即刻出陣 ( た、単純すぎる・・・

寒の戻りで寒いけどお天気は快晴!別府市石垣原へいざ出陣!箱乗りはしてません

別府国際観光港から西へ延びる国道500号線・九州横断道路を北上

413年前の9月、黒田如水軍が陣を構えた実相寺山を左手に臨みつつ、只今

別府市石垣西を通過中 お天気は冬晴れの快晴 箱乗りはしてません








石垣原の戦いの時、黒田軍が駈けたかもしれない道をなぞり南立石に寄り道、

更に北上。 夏場は目の覚める抹茶色に染まる扇山( 太平山 )を正面に、

国道500号を安心院方面へ・扇山と湯けむり

明礬温泉と同じく別府八湯のひとつ・堀田温泉郷の湯煙が立ち上ります

そして堀田温泉を過ぎると、湯の花小屋が目印の明礬温泉郷です。

駐車場から見下ろす明礬・湯の里

湯の花小屋を無料見学できる観光施設・湯の里 駐車場からの眺めです

眼下にいくつも見えている茅葺き三角屋根の小屋が、入浴剤・湯の花製造棟

湯の花小屋 ” です。 原始の方の住まいではありませんよ、念のため









売店横のコチラの建物が、8時~18時まで自由見学可の湯の花小屋です

重要無形民俗文化財・明礬温泉湯の花製造技術

別府八湯( 浜脇、別府、亀川、柴石、鉄輪、堀田、観海寺、明礬 )の中でも、

鶴見岳山麓に位置している明礬温泉郷は、地下わずか30cmのところに

温泉脈がある地熱帯で、湯の花製造はこの明礬地区に限られるんだとか

学理的装置の謎、解けました!別府市教育委員会の解説板“国重要無形民俗文化財”湯の花製造技術

解説板によると、この地区で湯の花製造が始まったのは寛文4( 1664 )年。

江戸時代初期です 面白いのは、創始者も、湯の花製造技術を教えてくれた

人も、別府の人じゃないところ パイオニアは、肥後国八代( 熊本県八代市 )

出身の浪人・渡辺五郎右衛門さん。 速見郡鶴見( 別府市鶴見 )へ来た折りに

湯の花( ミョウバン )製造を思い立ち、立石村( 別府市南立石 )と、鶴見村の

小倉( 別府市小倉 )で湯の花製造を試みたものの、失敗に終わります 




渡辺五郎右衛門は仕方なく長崎の薬種問屋に奉公に出ますが、そこで出会った

中国人から明礬製造の秘伝を聞き、再び別府へ戻り試したところ、見事成功 

湯の花製造工程・解説板

湯の花小屋の地面を掘り下げて、栗石( 川原の石 )を敷き、更にこの土地で

のみ採れる青粘土を約5センチ厚に敷き固めます。 そして地下の温泉脈から

栗石の隙間( 噴出孔 )を通り吹き出す硫化ガスの蒸気と、青粘土の成分とが

化学反応を起こし、結晶( みょうばん = 湯の花 )ができるという仕組みです

湯の花小屋の中・両側には青粘土が敷かれています

また、藁や茅で葺いた三角形の小屋は雨漏りせず、一定の温度を保つのにも

最適。 しかも、蒸気中の水分を水滴に変わる前に屋外へ放散してくれます。

単純な構造でありながら実に画期的な湯の花小屋は、正に学理的装置


純白の湯の花はツンツンもこもこ成長(新日本風土記・別府より)

こちらが栗石の間から噴出する地下の硫化ガスと、青粘土中のアルミニウム

や鉄などが反応変化して出来た結晶・硫酸アルミニウム( 湯の花 )です。

ツンツンもこもこ綿帽子みたいな純白の結晶。 伸びる早さは1日1ミリ程度。 

約40日で採集、精製して製品化されるそう。 別府の明礬温泉でしか採れない

天然記念物 薬用入浴剤・湯の花は、こうして造られているのでした




温泉の沈殿物から湯の花を製造する方法もあるものの、湯の花小屋を建てて

硫酸アルミニウムを採取する方法は、明礬温泉郷独自。 硫酸アルミニウムの

日本名が地名になっている事にも、湯の花製造史の古さ、重みを感じます




甘めのダシに解される♪明礬うどん

郷土の歴史を真面目にお勉強したあとは、ぺこぺこのお腹を満たさなきゃ。 

紺屋地獄バス停近くの明礬うどんで、自家製麺に山菜と海苔がてんこ盛りの

明礬うどんを頂きました 相方のごほう天うどんも、なかなかダイナミック

ほんのり甘めのうどんつゆが、寒い日には何とも優しく滲み込んでいきます 


別府明礬橋と明礬うどん

明礬うどんの駐車場からは、大分自動車道・別府明礬橋が見えます。

毎度 北九州方面から大分市へ帰る途中、湯の花の匂いが車内に漂い始めると、

ちょうど別府明礬橋のあたり。 すっかり日が暮れていても、窓から外を見れば

別府湾を縁取る街灯り。 別府まで戻ってきたな~とクンクン&ホッとしてます 








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2013/03/05(火) 16:34 | コメント:12 | トラックバック:0 |
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