何だかんだバタついていて、ご紹介が一週間遅れになってしまいましたが

先週の日曜は、愛媛ナンバーの宇和島バスと並走しつつ別府へ馳せ参じ


慶長5( 1600 )年9月、秀吉さんの軍師として名高い
黒田如水( 官兵衛孝高 )
率いる黒田軍と、豊後守護
21代目・大友宗麟の嫡男である大友義統( よしむね )
率いる大友軍が、それぞれ東軍・西軍として別府で対峙

激闘を繰り広げた
九州関ヶ原
石垣原( いしがきばる )の戦い縁の地を訪ねて来ました


先月半ばに、
高橋紹運さんの甥で大友義統軍の勇将・
吉弘統幸( むねゆき ) さんが祀られた石垣西の
吉弘神社をご紹介しましたが( 地図は
コチラ )、今回は
そこから少し山手に行った
南立石( みなみたていし )地区の
荘園町を探訪
この辺りは、
石垣原合戦の激戦地だったとの言い伝えが残っています
赤い鳥居を潜ると、大きな石がごろごろ・・・というより、岩が鎮座していると
言ったほうが適当な気がするココは、通称 “
七ツ石 ” と呼ばれる所

巨石越しに屋根だけ見えている平屋の建物は、共同浴場 “
七ツ石温泉
”

大分に長年暮らしていながら、七ツ石は初めて来た場所であり
温泉なので、遠巻きに入り口の様子を窺っていたところ・・・

「
お風呂じゃないん? どうぞ入って行って
」と、
さっぱりした雰囲気の60代ぐらいの女性が笑顔で声を掛けて下さり、
受付の方かと思いきや、脇に小荷物を抱えるとスタスタと境内の外へ・・・。
常連さんだったみたいです

で、稲荷神社にお参りを済ませた後、カメラ手に
境内をぶらぶらしていたら 「
ここは謂れのあるところやけんね、
この前は耶馬渓から観光バスが来たわ
」 瞬時に状況を把握、
笑顔を見せて適切な言葉のみ残すと、これまたスタスタ去っていくおばあちゃん。

上の画像にそのお二人が写っております

七ツ石温泉に通うと、彼女たちみたいに颯爽とクールに年を重ねられるのかも


しかし、狭い境内に所構わず陣取る巨石たち。
やはりこれらは、大昔の鶴見岳の噴火で飛んで来た岩なのかしら・・・
赤い幟の
正位七ツ石稲荷大明神は、石垣原合戦の後、巨石付近に白狐が
現れるとの噂が広まった事で、お稲荷さんとして祀られたようです

神社であり、地域の方々に愛される共同浴場であり、屋外にテーブルと椅子も
完備の憩いの場であり、石垣原合戦縁の史跡でもある何ともマルチな
七ツ石。

七ツ石から西へ少し行くと、美しく緑化整備された
南立石公園も。

かつてこの一帯で、激戦が繰り広げられたとは思えない閑静な住宅街ながら、
公園向かいの薬局の名は何と、
古戦場薬局


南立石公園の時計は、もうじき午後四時。 整然とした素晴らしい公園なので、
これより晩秋の夕暮れ散歩など愉しんでみたいと思います

そうですね、
七ツ石の解説板に綴られていた石垣原合戦の話でも語らせて頂きながら...。
宜しければ、お付き合いください



『
石垣原古戦場 激戦地 「 七ツ石 」 ( 以下、現地解説板より転載 )
この付近は古くから「七ツ石」と呼ばれ、石垣原合戦の時、戦場となった所である。
文禄元( 1592 )年4月、大友義統は朝鮮の役に出陣したが、成果なく
その為、秀吉は大友氏の領国37万石を没収し、義統を毛利氏に預かり幽閉した。
慶長3( 1598 )年、秀吉が死去すると、豊臣方と徳川方の争いは表面化して
慶長5( 1600 )年の関ヶ原合戦が近づいた。 この時、大友義統は豊後の
領国を回復するため、豊臣方に味方した。 吉弘統幸は、主君・義統に対し、
豊臣方につくことの不利を説いたが、聞き入れられなかった。

9月9日、大友義統は兵3千を率いて安芸の大畑を船出し、別府 浜脇に上陸。
直ちに本陣を南立石本村古屋( こや )に置く。 この時、大友方の布陣は
鶴翼の陣で、本陣に主将・義統と田原紹忍( 大友宗麟正妻・
奈多夫人の実兄 )
左翼に堀田( ほりた )上方、御堂ヶ原に宗像鎮続( むなかたしげつぐ )、
右翼を坂本( 観海寺 )に吉弘統幸を配した。 一方
中津城に居た徳川方の
黒田如水孝高は、松井佐渡、竹中重利ら八千の兵を率い杵築、亀川を経て、
加来殿山( 角山 )実相寺( じっそうじ )山に陣を布した。

慶長5年9月13日、両軍は山を降り、七度にわたり戦い、
七ツ石付近の原野は血に染まった、と語り継がれている。
宗像鎮続は斃( たお )れ、傷ついた統幸は 「 今はこれまで 」と、
血刀を杖に家来共々を引き連れて、七ツ石をあとに石垣原付近まで登り、
遥か彼方、別府湾上を昇り来る月を眺め乍ら
明日は誰(た)が草むす屍や照らすらん 石垣原の今日の月影 と、辞世の句を詠んで自刃した。 その時後を追って来た黒田方の将
小栗冶左衛門( こぐりじざえもん )は吉弘統幸の首を獲り、黒田の陣に引き揚げた
という。 この日の戦いで大友方は吉弘統幸、宗像鎮続、都甲( とこう )兵部など、
黒田方は久野冶左衛門、曽我部五右衛門など、多くの家来を亡くした。

この戦いで黒田方は勝ち、大友義統は降伏した。
鎌倉時代以後22代 約4百年の長い間、豊後を支配した大友氏の時代は
ここに終わり、徳川幕府の支配するところとなった。
平成元年6月24日 別府市荘園自治会
史料提供者 手嶋利勝 安部巌 ( 解説板の転載はここまで ) 』
吉弘神社の由緒では、吉弘統幸さんは黒田二十四騎の井上九郎右衛門さんと
相討ちで両雄敗死。 しかし、
七ツ石の解説板では、吉弘統幸さんの首を
挙げたのは小栗冶左衛門(こぐりじざえもん)さん。 同じ別府でも違うんですね。
また、ウィキペディアでは、主君・大友義統さんの改易後、吉弘統幸さんは
黒田家家臣・井上九郎右衛門さんのお世話になっていたらしく、その恩義から
自らの首を井上九郎右衛門さんに獲らせ、手柄を挙げさせたと記されてます

吉弘統幸さん、もしかして中津城下の
豊後町で暮らしていたのかな・・・。
来年の大河では、井上九郎右衛門は若手の高橋一生さんが演じられますが、
高橋克典さんが黒田官兵衛を演じたドラマ・戦国疾風伝では、井上九郎右衛門は
長政と関ヶ原本戦には行かず、中津城に残っていた黒田家老臣として描かれ、
左とん平さんが演じられていました。 いずれにしろ体力的に恵まれていなかった
武将ながら、石垣原合戦では大友義統を降伏へ追い込む一世一代の大手柄を
挙げる井上九郎右衛門さん。 どんな活躍を見せて下さるのが楽しみです


棒切れを手に

、「
出でよ、ヤマタノオロチ 」とか言いながら
空池をつつく 愛すべき
大分ンばかご いえいえ、僕たちに遭遇
天下の名軍師・黒田官兵衛さんと、九州一の名将・高橋紹運さんの甥御さんが
誇り高く戦った素晴らしい歴史が息づく街で、大きく育ってね
次回は、観海寺方面の石垣原の戦い縁の史跡をご紹介させて頂きます

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