六郷満山いにしえの惣寺・長安寺が建つ屋山から、豊後守護 大友氏一族
吉弘氏の筧の館が在ったとされる 都甲( とこう )川沿いを西麓へ下りると、
都甲川は周防灘へ注ぐ桂川に合流。 桂川の河口西岸は、ボンネットバスが走る
昭和の町。 対する東岸、玉津地区の高台には鎌倉時代 建久7( 1196 )年に
大友氏初代 能直( よしなお )より、この地を拝領した家臣・高田掃部助重定
( たかだ かもんのすけ しげさだ )が築いた高田城址が遺ります


高田氏は17代、およそ四百年間に亘って この豊後高田の地を治めますが、
文禄2( 1593 )年、主家である豊後大友氏22代義統( よしむね )が
朝鮮出兵での失態を理由に、秀吉さんによって本領・豊後( 大分県 )までも
取り上げられてしまい、従って高田氏の治世も幕を下ろす事になるんですね。

因みに大友義統のパパは、大友宗麟。 全盛期には九州6か国( 豊後・豊前・
筑前・筑後・肥前・肥後 )の守護を許された九州探題職でしたが、戦国末期の
薩摩・島津軍との戦で大敗。 大友氏は自立不能なほど著しく衰退してしまい、
大友宗麟公は病の体をおして大阪へ赴き、関白秀吉さんに援軍を求めます。
これにより黒田官兵衛さんや長宗我部元親さんを先発隊とする秀吉軍の島津征伐
( 九州平定 )がスタート。 戦況が逆転していく中 宗麟公は津久見で息を引き取り、
戦後は嫡男・大友義統( よしむね )に豊後一国が何とか安堵されていたものの、
大友氏は22代目でついに改易

秀吉さんの軍師・竹中半兵衛重治の従弟 竹中重利( しげとし )さんが入ります。

城址西側の石段は およそ八百年前、大友家臣・高田掃部助重定さんが高田城を
築く時に拓かれたと伝わります。 後、竹中重利さんが本格的な築城に掛かる際、
本丸・内堀や大手門真下に、この石段を設( しつら )えたのだとか



ところが、竹中重利さんが高田城主になって7年目の慶長5( 1600 )年7月、
天守建設も未だの内に中央で関ヶ原の戦いが起き、九州でも中津城の御隠居様
黒田如水( 黒田官兵衛 )公が東軍旗を掲げ、豊後奪還を目指す大友義統を
始め九州の西軍勢を制圧する石垣原合戦が、間もなく始まろうとしていました。
黒田如水公の嫡男・長政は、中津城の殆どの兵を率いて、家康さんの元へ
出払った後で、井上九郎右衛門さんなど黒田家の老臣は籠城を勧めますが、
大殿・如水公は中津城から打って出る事を決断

手元に残しておいた側近と、如水原にて雇用した一般兵を従え中津を出発した
如水公が、最初の攻略ターゲットとしたのが、ここ高田城だったんですね


過去記事・官兵衛くんの関ヶ原でも好き放題に


如水公は、亡き師友・竹中半兵衛重治の従弟( 竹中重元の弟・重光の子 )で
この時はまだ中立の立場だった高田城主・竹中重利の反応に賭けていた様な
気がするんですよね

息子の竹中重義に兵を付け、如水に従軍させます。 即ち、これは亡き師友
竹中半兵衛重治からの「 己を信じて行って来い、官兵衛 」の言葉だと・・・。
亡き師友・半兵衛の幻影に背中を押された如水軍は、このあと大友義統を
降伏させ、九州を席巻


ココの石垣にご注目


家臣・高田氏によって築かれた城壁の一部が現存しています。

800年前の石垣上から、桂川が流れる西の方角を眺めてみる



黒田如水軍は9月9日に中津城を発って、宇佐市の高森城に一泊し、翌10日、
この高田城へ到着します。 黒田如水軍は西の方角からやってきたんですね。
竹中重利さんは恐らく、この方向に如水軍を見たのでしょう

びっくりしただろうな・・・

戦国妄想に耽る不審な中年主婦・まーりたんの背後には中央公民館



公民館の駐車場奥に見えるのは、豊後高田市立・桂陽小学校の校庭です


桂陽小学校と中央公民館を繋ぐ白壁には、狭間( さま )が



その先は、818年の時を超えて現存する城壁の一部( 中ほどから下


同じく818年前の高田城築城の際に拓かれ、421年前に竹中重利さんが
設えたという石段

慶長5年9月10日、如水率いる黒田勢はこの石段を登って来たに違いない

そういう訳で、往時の妄想に浸らずにはいられない当台地が高田城址です

さて、東軍・黒田如水公の流れに任せて息子・重義を従軍させた竹中重利さんは、
関ヶ原での勝ち組となって慶長6(1601)年、父子で大分市の府内城へ栄転。
一方、如水公は皆さま御承知の通り、本戦で東軍を勝利に導く大手柄を挙げた
息子・黒田長政が筑前52万石を貰い、こちらも父子で中津から福岡へお引越し。
激動の時世で、高田城の天守建設は未着工に終わったものの、翌年1602年
竹中重利さんは栄転先の府内城に天守を建設し、城主の交代が目まぐるしく、
未完成のままだった府内城を完成させるんですね。 更には、約400年に亘り
豊後を守護してきた大友氏の菩提寺 万寿寺を息子・竹中重義が再建

竹中重利・重義親子は、二代33年間に亘って府内藩主を務めました

そうだ


今年3月12日は、豊後高田市・昭和の町を舞台にした作品だそうです

遡ること13年前でしたっけ

尽力されてきた町おこしが、大きな実を結んだ例でも知られる昭和の町

まーりたんも存じてますヨ


しかも主演は、奇しくも二人の軍師で竹中半兵衛役を演じられた山本耕史さん。
これも何かの繋がりかしら? ぜったい観ようっと


ここ2週間ほど続いた厳しい寒さも


週末は久しぶりに歴代府内藩主の菩提寺へお参りしようかな


※本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。
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