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まーりたん

Author:まーりたん
大分県で暮らす四十路主婦
“ まーりたん ” の
ブログへようこそ(*^^*)♪

日々を彩る ちょっと素敵な
出来事を我が家の笑導犬?
マンジ君と楽しくお届けして
ます。目下、郷土史に夢中♪
心躍る探訪をご一緒に。

臼杵の富士甚醤油マスコット
キャラ・とっくりこだぬき君が
仲間入りしてからは、嬉しさ
余ってマンジ君の“ 悪がね ”
ぶりもますますエスカレート。

そんなふたり(2匹)の様子も
併せてお楽しみ下さい(*^^*)

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お待たせしました~ JR鹿児島本線スペースワールド駅より北へ2つ目の

JR戸畑駅に 日没前ぎりセーフで到着 お陽さまは もうすっかり西の空低く

傾いてはいるものの幻の黒田六端城の見学だけなら時間は充分 

JR戸畑駅周辺観光案内板

今回の八幡探訪最終目的地である “ 幻の黒田六端城 ” の名は若松城

近代は筑豊石炭積出港としても栄えた洞海湾の東端、旧・遠賀( おんが )郡

若松に在り、JR戸畑駅からだと目と鼻の先。 勝手ながら、アタマに “ ” を

くっつけているとはいえ、若松城も他の黒田六端城同様、関ヶ原の功で筑前国へ

入封した黒田長政公が豊前国との国境に巡らせた出城の一つで、城代を務めて

いたのは 黒田二十四騎の三宅若狭家義( みやけ わかさ いえよし )さん。






三宅家義さんは、黒田官兵衛さんより6歳年下の天文21( 1552 )年生まれ

姫路近郊の三宅出身で、官兵衛さんに乞われて黒田家の家臣となった方です。

幼少期の黒田長政公( 松寿丸 )の命の恩人が竹中半兵衛重治さんならば、

三宅家義さんは、血気盛んな御年頃19歳の黒田長政公の命をこれまた救った

恩人で、竹中半兵衛重治さんと三宅若狭家義さん、この二本柱がいなければ、

もしかすると黒田家は、官兵衛さんの代で途絶えてたかもしれないのです~





続きはまた後程お話させて頂くとして、

太陽が沈んでしまわぬ内に、三宅家義さんのお城へいざ参らん 

皆さま、若松城址はこちらです、どうぞー

爽快!昭和37年9月開通全長2,068mの若戸大橋と、戸畑側袂のボードウォーク(右端)

えっ 紅い大きな吊り橋と湾しか見えないじゃん デスカ


ほんとだ、おかしいな~ 調べたらこの場所に若松城が在るハズなんだけど

見えるのは戸畑地区と対岸の若松地区とを結ぶ 全長2,068mの若戸大橋

それに洞海湾のみ。 だけど圧巻ですよね~ 関門橋や本四架橋など、日本の

長大吊橋の先駆けとして昭和37年に開通した当時は東洋一だったそうです



今は洞海湾のシンボルとして、筑豊の近代産業史を物語る威風堂々な佇まい。

若戸大橋、ぽかんと口を開けて見惚れてしまう程の重厚オーラを放ってます







おっと、イカンイカン こんな呆けぶりでは本当に日が暮れてしまいますって 

若戸大橋と北九州市渡船事業所戸畑発着所

で、ぐぐーっとカメラを引いてはみたものの、若戸大橋袂の建物はお城ではなく

北九州市渡船事業所戸畑発着所、若戸渡船の乗り場だし・・・






じゃあ続いてカメラを左へ大きく振ってみたら・・・おやま レトロなビル発見

かつての日本水産本社ニッスイパイオニア館

こちらも若松城ではないものの、昭和11( 1936 )年に建てられた戸畑地区の

シンボル的な建物で、かつての日本水産本社です。 現在のニッスイ本社は

東京ですが、遠洋漁業からスタートした日本水産は、ここ戸畑港を拠点に発展

していった様 今、この旧・日本水産本社ビルは ニッスイパイオニア館

呼ばれていて、北九州営業所並びに入場無料で見学可の史料館になってます。 

ところが閉館時間の17時( 入館は16時半迄 )を軽く過ぎていて、今回は残念







というわけで青い鳥みたいに、ぐるり巡って若戸大橋へ舞い戻ってきました

若戸大橋(戸畑側)袂

戸畑側の袂を見上げてみる。 コンデジとまーりたんの腕前では伝わるかどうか

分かりませんが、なかなかの迫力ですヨ で、下はボードウォークのデッキ。

若松城があった中島は、夕陽の帯が落ちている辺り

若松城は、ここ戸畑と対岸・若松地区の間に浮かぶ中島に築かれていたんです。

場所は若戸大橋付近、夕陽がちょうど光の帯を落としているあの辺りかな~ 

別名・中島城とも呼ばれる若松城が存在した中島は、残念ながら明治14年の

洞海湾修築工事で削り取られ、完全に消滅。 文字通り “ 幻の黒田六端城 ” に。







三宅家義さんは元和5( 1619 )年、67歳で他界。 元和元年に一国一城令

下るまで若松( 中島 )城代を務め、軍船の一括管理も任っていたと云います。 

あらっ、絶妙なタイミングで若戸渡船がフレームに入ってきましたよ~

タイミング良く第十八わかと丸現る

長政公にとっては2人目の命の恩人で、黒田家存続を助けた重要人物の一人

でもあった三宅家義さん。 長政公を救ったのは、黒田官兵衛さんの豊前入封後。




天正16( 1588 )年、秀吉さんのむちゃ振りが引き起こした豊前国人領主一揆

鎮静に手を焼く黒田家。 少し前に同じく肥後でも起きた国人一揆の後処理で

多忙な御年43歳の黒田官兵衛さんは、19歳になった嫡男・黒田長政に経験を

積ませるため、豊前の処理を任せてみます。 が、血気盛んなお年頃の長政くん。 

父・官兵衛の許可を待たずに2千の兵を率い、リーダー格・宇都宮鎮房の城

武力で一気に鎮圧してまえとゆー強攻手段に出るものの、逆に迎撃されて

黒田勢が総崩れとなった第一回目の城井ノ上(きいのこ)城攻めの時です





これ以上 黒田勢が損害を被るのを避ける為にも、速やかな退却が求められる中、
 

お父さんに顔向けできない、オレもうここで死ぬ~


と、聞き分けのない若き黒田長政公を 三宅家義さんは臆せずに ピシャリと諌め、

首根っこを掴んで抱え込み、無理矢理押さえつけて連れ帰ったそうな・・・

三宅若狭家義さん、かなりガタイの良い、プロレスラーみたいな人物像が

浮かび上がってきます。 で、まーりたんが勝手に描いたイメージは・・・







若、こんなところで死んでどうしますかーッ

若!こんなところで死んでどうしますかーッ!(レッドカーペット保存版アントキの猪木さん♪)
(我が家のハードディスクに保存している家宝アントキの猪木さん♪)





三宅家義さんの咄嗟の判断と行動がなければ、黒田長政公はこの時

竹中半兵衛さんから貰った命を、一時の感情に任せて捨ててしまってたかも

しれないんですね  仮にそうなっていたら、堀川運河は開削されなかったかも

しれないし、福岡福崎のまま、博多を中心とする今日の様な発展は無かった

かも・・・。 そして何よりは、黒田長政公の働きなしの関ヶ原の戦いでは、

西軍が圧勝していた可能性も。 パラレル平成日本の首都は西日本の何処か

今とは違う仕組みの世になっていた事は確かです





ただ、黒田長政公が生き延びた事によって、豊前領民に慕われ人格器量共に

優れた地頭・城井( きい )宇都宮氏一族は翌年、貝原益軒さんが黒田家譜に

その詳細を記せないほど、不当で酷い滅ぼされ方をするのです 





黒田官兵衛さんがモットーとしてきた信義。 

黒田家が保身の為に滅ぼした地頭・宇都宮鎮房公は、正に信義そのものの

人物でした。 豊前領民を守りたい気持ち、責任感も他の領主達以上だった事

でしょう。 敵地・中津城へ自ら出向き、討たれてしまったのも油断からではなく、

敵をも尊重し決して卑劣な手段は使わない 礼節をわきまえた黒田の武士魂を、

宇都宮さんもまた武将らしく、あえて尊重したからだと、まーりたんは思ってます。 





自分の映し鏡を自らの手で割るが如く、まるで信義の神様に試されたかの様な

官兵衛さん。 後の行動から宇都宮鎮房さんの亡霊、つまり良心の呵責に苛まれ

続けた事が窺えますが、これもまた更なる老成の重要段階。 そういう意味で、

宇都宮鎮房さんは黒田官兵衛さんにとって最大の宿敵だったと言えます。





官兵衛さんは生涯、その十字架を背負って行く覚悟を決めたのかもしれません。

宇都宮氏を滅ぼしてひと月も経たない内に息子・長政に家督を譲り、隠居。  

しかし、秀吉さんからはなかなか隠居の許しが貰えず、その後も小田原征伐

朝鮮出兵と、黒田官兵衛さんは豊前から度々出陣。 コキ使われるんですね~





一方、黒田氏に滅ぼされたものの、かろうじて生き残った宇都宮氏一族の家臣

末えい蔵内氏は、筑豊炭坑の経営者となり、時代を生き抜かれています

あっ、若戸渡船が幻の若松城にさしかかろうとしてますヨ

幻の黒田六端城にさしかかる渡し船

それでは陽も落ちたことですし、まーりたんも小さいながら温かく落ち着ける

豊後 府内のお城へ、豊前国 中津経由で退却するとしましょうかネ



八幡餃子巡礼に始まった今回の福岡は北九州市をめぐる旅、

拙記事にお付き合い下さった皆さま、ありがとうございました






お帰りはこちらから、ドウゾー

豊前中津経由、豊後府内へのお帰りはこちらからどうぞー!

ナンチャッテ 

いつかファミレス・イノキーズに行って、呼び出しボタンをダーしてみたい







迷わず帰れよ

迷わず帰れよ♪レッドカーペットよりアントキの猪木さん♪



懐かしい爆笑レッドカーペット、スペシャル放送ないかな~









●参考資料・文献 : 北九州市観光協会・北九州市観光ガイドブック「 もりたび 」

不老山 正光寺「 宇都宮氏の歴史 」 / 築上町役場発行「 築上町ガイドブック 」

八幡和郎監修 「 軍師・黒田官兵衛~その戦略と生涯 」 / 城郭放浪記・若松城

小和田哲男著 「 黒田如水 」 / 吉永正春著 「 九州戦国の女たち 」






本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

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2014/04/09(水) 13:39 | コメント:12 | トラックバック:0 |

宇宙人ダ  泣子ハイネ ( イミフ 

幻の黒田六端城目指し、宇宙空間スペースワールドを通過中・八幡東区東田4-1

ご存知ここは宇宙基地、ではなく宇宙をテーマにした遊園地スペースワールド

八幡東区 東田のJRスペースワールド駅より程ない場所に在ります

最後に来たのは20年以上前かな 久しぶりだし遊びたい気持ちは山々ながら

夕暮れ迫る中 本日最後の目的地、戸畑・若松方面の幻の黒田六端城

目指さなくてはなりませぬ~ というわけで、車窓から周辺を簡単にご紹介


東田第一高炉史跡広場(官営八幡製鉄所の第一高炉をモニュメントとして保存)

JRスペースワールド駅から程ない場所には、近代製鉄発祥の地・鉄の街八幡の

ランドマークも シルエットのみですが、ここ東田第一高炉史跡広場には 

明治34年に操業を開始した官営八幡製鉄所の第一高炉が モニュメントとして

保存されているんです。 官営八幡製鉄で働く製鉄マンを支えた八幡餃子

堪能した後で見上げる第一高炉は感無量。  お腹も胸もいっぱいです












「 筑豊炭田の史跡を紹介したパンフレット筑豊の旅に、世界記憶遺産登録の

炭坑記録画を所蔵する石炭・歴史博物館が在る田川の観光マップに・・・おや?

筑豊の旅に田川観光マップ、まーりたんさん今度は炭坑巡りか・・・

田川エリアのご当地グルメを紹介した田川ホルモンマップまであるぞ。

まーりたんさん、鉄の街八幡に続いて今度は筑豊炭田に興味深々みたいだ 」





山本作兵衛氏の炭坑画は、今のまーりたんさんにとってルーベンスの絵に匹敵するのだろう

「 世界記憶遺産に登録された山本作兵衛氏の炭坑記録画は、

今のまーりたんさんにとっては、ルーベンスの絵に匹敵するのかもしれないな。

目の当たりにした時、フランダースの犬の最終回みたいな事になりません様に... 」










「 筑豊炭田史跡は素晴らしいのだニャ、

ニャんばんイスパニア語ではVIVA筑豊ニャ、こだぬき君 」

フランダースの犬の最終回みたいなことにならなきゃいいけど・・・理解があるんだねマンジ君は




「 パトラッシュ役は遠慮するが、まーりたんは筑豊炭田へ行くべきニャのだ

パトラッシュ役は遠慮するが、筑豊炭田史跡めぐりは素晴らしいのだニャ




「 筑豊地区観光協会発行のパンフレット筑豊の旅の18ページには、

筑豊炭田の歴史と共に在り続ける筑豊銘菓が紹介されているのですニャ

筑豊の銘菓は4百年以上に亘る炭坑の歴史と共に在るのですニャ!チロルチョコの本家・松尾製菓は大正8(1919)年創業ですニャ



「 400年以上の歴史を持つ千鳥饅頭も、田川市の松尾製菓(株)を本家とする

チロルチョコも、筑豊炭田で働く坑夫達を支えるために生まれた甘味ニャのだ

田川市川宮1191-1にはチロルチョコを開発した松尾製菓㈱工場直売所があるのですニャ



「 偉大ニャるチロルチョコの直売店は、田川市 川宮1191-1に在るのだニャ。

筑豊炭田史をまニャぶ為にも、大正8年創業の松尾製菓へ行くべきニャのだ

チロルチョコも炭坑労働者を支えるために生まれ、筑豊炭田の歴史と共に育まれ、全国区迄にニャった偉大ニャる菓子
コレは八幡土産・ねんりん小僧です)











「 マンジ君...まーりたんさんに随分理解があると思えば、お土産のチロルチョコが

目当てなんだな。 そういえば僕がこの家に来た4年前、マンジ君は とっておきの

白熊チロルで歓迎してくれたっけ。 本当にチロルチョコが大好きなんだなぁ・・・ 

そうかお土産チロルが目当てなんだな。好きなお菓子に関するマンジ君の情報収集力は恐るべしだ

ただ、その後はハロウィンクリスマスひなまつりと、チロルチョコを巡る

まーりたんさんとの苛烈なバトルに僕は巻き込まれてばかりだったけど・・・。 

しかし、マンジ君の好きなお菓子に関する情報収集力だけは恐るべしだ











「 ところでマンジ君、隣のウサギさんは確かスペースワールドのマスコットの・・・ 」

ラッキーラビット君ニャのだ。25年前からウチに居るのだがブログ登場は初めてですニャ

「 ラッキーラビット君ニャのだ。 25年前からウチにいるビンテージ君ですニャ 」











「 それにしても、まーりたんさん、今日中に八幡探訪最終回をアップできるかな

今日中に八幡探訪の記事を仕上げられるだろうか・・・



「 今日は官兵衛殿の日ニャので無理であろうニャ~

ラッキーラビット君もそう思うニャ? 」

軍師官兵衛があるので無理であろうニャ、ラッキーラビット君



・・・ということで、これより大河ドラマ・軍師官兵衛を観るので続きは次回

幻の黒田六派城めざし、若松・戸畑地区へ!日没近し、急げ~!

日没も迫る! 幻の黒田六端城めざし、若松・戸畑地区へいそげ~









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2014/04/06(日) 20:14 | コメント:7 | トラックバック:0 |


JR黒崎駅の北東、洞海湾を臨む八幡西区 屋敷1丁目の城山に遺る黒崎城址

洞海湾が見える♪黒崎城址


慶長5( 1600 )年12月の黒田家筑前入封後、十数年間に亘り城代を務めた

黒田二十四騎の一人で黒田家古参の重臣、井上九郎右衛門さんの法号から

城山は道伯( どうはく )山、黒崎城は道伯山城とも呼ばれている様です

黒崎城跡(解説板)

大坂夏の陣から3か月後の元和元( 1615 )年7月、徳川幕府が発布した一国

一城令により本城・福岡城を残し、黒崎城を含む出城・黒田六端城は全て廃城



解説板によれば元文3( 1738 )年、破却された黒崎城の石垣は、黒崎駅付近

の護岸整備に使われた模様。 あっ、そういえばJR黒崎駅から舟町へ至る

途中、県道273号線沿いに黒崎城石という地区があった様な、もしやあの辺 


道伯山・城山緑地公園、黒崎城址・あづまや

ぱっと見、石垣が目につかないせいか、現在は緑地公園化されている道伯山頂

黒崎城址には、かつての城の面影はありません。 ですが、桜の木がいっぱい

八幡の街をパノラマで楽しめる絶好のロケーションポイントに加え、春は

お花見の名所でもあるのかしら 訪れたのは惜しいかな開花宣言1週間前 


黒崎城址・案内板

春は桜 そして秋には何と、地元の学生さん方による秀吉さん縁のアノお祭り

一夜城まつりも開催されてるみたいですヨ

黒崎城でも地元の学生さん方により一夜城まつりが開催される模様!

一夜城まつりは天正15( 1587 )年、黒田官兵衛さんを先鋒とする秀吉さんの

島津征伐( 九州平定 )時、益富山頂に一夜にしてきらびやかな仮城を築き

島津方・秋月氏のド胆を抜いて 降参させた一夜城伝説に由来するもの。

嘉麻市の黒田六端城・益富城址で毎年秋に催されてますが、黒田六端城繋がり

でしょうか?黒崎城址でも同時期に開催されるんですね なんて素敵な企画







また案内板には、これまでは殆ど残っていないと考えられていた黒崎城址の

遺構が、3度に亘る発掘調査で見つかってきているとの紹介も

城山緑地内(黒崎城)の史跡について
城山緑地内(黒崎城)の史跡写真(案内板)


そういえば、曲輪を囲む石垣の一段目かな?これは

黒崎城址(石垣残がい?)

城山緑地公園内を散策してみると、こうした列石や、破却された石垣っぽい

角の尖った大きな石や、穴の開いた石が、草むらの中にごろごろしています

破却された石垣の残がいかな?


顔を上げると、黒崎城址の東南に日本屈指の夜景の名所皿倉山

黒崎城址からの眺望・皿倉山

黒崎城の姿は時代と共に移り変わっても、こうした山々は時を超えて往時のまま。

黒崎城主・井上九郎右衛門さんも朝夕、事あるごとに眺めたであろう景色です




黒田家が豊前国中津を離れ筑前国へ移った年、井上九郎右衛門さんは46歳。

程なく主君・黒田長政公より二万石を与えられて黒崎城代を任されます

黒田家に欠かすことのできない知恵者で、黒田二十四騎の中でも選りすぐりの

重臣 黒田八虎( くろだはっこ )を務め、80歳まで長生きした九郎右衛門さん。

その人となりも素晴らしく、徳川家康さんからも信頼され、惚れ込まれるほど。 

九郎右衛門さんの息子・井上庸名は徳川家5千石の旗本に抜擢されています。 




ですが、線が細く力も弱かった井上九郎右衛門さんは、戦場での経験が無く、

秀吉さんの朝鮮出兵では指揮官を務めるものの、非力さゆえに かげ口を

叩かれる事もあったとか...。 そんな井上九郎右衛門さんが一世一代の大手柄を

挙げるのが、朝鮮の役から8年後の慶長5( 1600 )年9月、九州は大分県

別府市の石垣原( いしがきばる )で、官兵衛さん率いる東軍・黒田如水軍

大友宗麟の嫡男率いる西軍・大友義統( よしむね )軍が激突した石垣原合戦。 




井上九郎右衛門さんは、黒田如水( 官兵衛さん )が本陣に到着するよりも前に、

秀吉さんから無双の槍遣いと賞されていた大友義統軍の将で名将・高橋紹運の甥

吉弘嘉兵衛統幸( かへえむねゆき )さんを、馬上一騎打ちで討ち破ります 

これにより大友義統は降参する事になるんですが、この勝負には井上九郎右衛門

さんと吉弘嘉兵衛統幸さんとの胸締めつけられる恩義、友情秘話があるんです




石垣原合戦の大手柄で、非力さをなじられる事もなくなった井上九郎右衛門さん。

黒崎城から遥か山々を見つめ、主君の為に力の限り戦った後で他の誰でもなく

井上九郎右衛門さんにその首を獲らせた友・吉弘嘉兵衛統幸さんを想い出す事も

あったのではないかなぁ・・・と思います。


黒崎城からの眺望・枝光方面

あっ、コチラの方角はスペースワールドが在る枝光駅方面です。

ズームアップしたら、打ち上げ準備中の?シャトルが見えました

スペースワールドのシャトルが見えた♪

次回はついに?宇宙空間を超えて今回の八幡探訪最終目的地である

戸畑・若松方面の幻の黒田六端城へご案内しま~す

まーりたん星の停車時間一日は、地球時間では何日に相当するんだ・・・








●参考文献、資料 : 八幡和郎監修 『 軍師・黒田官兵衛~その戦略と生涯 』

軍師官兵衛福岡プロジェクト発行 『 福岡を創った男・黒田官兵衛 』





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2014/04/04(金) 19:05 | コメント:7 | トラックバック:0 |


江戸時代、度重なる遠賀川の洪水対策と灌漑、水運の利便のために

福岡黒田藩によって開削工事が始められ、以降141年もの長い歳月をかけて

拓かれたハンドメイドの堀川運河は、この丘から見下ろす洞海湾に注いでます

黒崎城址駐車場から洞海湾を臨む

1700年以降、藩の後押しで石炭採掘も盛んになり、堀川運河は開通後、石炭を

載せて洞海湾を経、積出港の若松を目指す いかだ舟 川ひらたで大賑わい... 




禅海和尚さんじゃないけれど、車返りと呼ばれる堀川工事最大の難所400mを

9年がかりで切り貫き、最後に打ちつけたノミの刃先から 洞海湾の海水がじわり

滲み出した瞬間は、言葉にできないほど感慨深かったに違いありません 

灌漑だけに・・・( ヒョォオオ~懺悔! ) 


井上九郎右衛門さん、お邪魔します♪

そんな洞海湾を眼下に、美しい緑地公園として整備されたここは黒崎城址

黒崎城址と解説板

黒崎駅から近い八幡西区 屋敷一丁目9番地登城口の看板が出てますが、

守りの堅さはなかなかのもので、登城口まで辿り着くのに意外と骨が折れます 


城山緑地(黒崎城址)

黒崎城址( 城山緑地 )が在る小山は 黒崎駅から程ない場所に見えては

いるものの、麓の町割り?は、まるで昔懐かしいアナログゲーム・ポケットメイトの

ぐるぐる迷路 ダイレクトに近づけない上に、目印にできそうな建物もないのダ


城山は見えているのになかなか近づけない黒崎城。守り堅!

西側の舟町まで来たら、城山を左に半円を描く様に東の屋敷地区まで廻り込み、

JR鹿児島本線の高架橋が右手頭上に来たところで、ひとつ内側の道に入って、

西の方角へ折り返した住宅地の一角に、登城口の看板をやっとこさ発見 

ナビに訊いても、「 目的地周辺です、案内を終了します 」の一点張りで





こんなわけで黒崎城址を初めて訪ねられる方は、どうぞ時間にゆとりを持って、

弧を描く様に行ったり来たりしながらのアナログゲーム、楽しんでみて下さい

秋月藩士の大蔵種周製作・黒崎城絵図



黒崎城は 大隈城( 益富城 )、左右良城( 麻底良城 )と同じく、黒田長政公が

関ヶ原の功で筑前へ入封後、豊前国に対する備えの為に巡らせた黒田六端城

ひとつで、黒田二十四騎の井上周防之房さんが城代を務めていました。 

そうです、大河では高橋一生さんが演じていらっしゃる井上九郎右衛門さん

黒崎城について(案内板)


井上九郎右衛門さんは、天文23( 1554 )年生まれで、黒田官兵衛さんよりも

8歳年下ながら、官兵衛さんのパパ 黒田職隆( もとたか )に小姓として早くから

出仕しており、黒田職隆、官兵衛さん、長政公、忠之公と、黒田家4代に仕えた

古参の重臣
です。 母里太兵衛さんや後藤又兵衛さんに比べると背も低く、ひ弱。

その分、理知的で面倒見が良く、賢者的ポジションで存在感を放ちます

黒崎城址(碑)

黒田官兵衛さんが有岡城に幽閉された時には、商人の身なりをして探りを入れる

作戦を提案し 栗山善助さん、母里太兵衛さんと共に様子を窺い、牢獄の

場所を確認 有岡城が落城する際、衰弱しきった官兵衛さんは栗山善助さんが

担いで救出しますが、これが成功したのも賢者・井上九郎右衛門さんあってこそ




そういえば昨年、黒田官兵衛さんが有岡城幽閉中に城主・荒木村重さんへ

宛てた手紙の写し( 京都・光源院所蔵 )が見つかって、話題になりましたよネ 

織田信長さんへ反旗を翻した荒木村重さんの説得に、黒田官兵衛さんが単身

有岡城へ赴き、そのまま幽閉されてしまったのが 天正6( 1578 )年10月。 

栗山善助さんによって救出されたのは、翌年の10月16日です




手紙の写しは、天正11( 1583 )年11月12日に書かれたものの様。

それによれば当時、荒木村重さんは京都の相国寺光源院から伯耆( ほうき=

現在の鳥取県 )の領地回復を頼まれており、黒田官兵衛さんに協力を依頼。 

手紙の内容は、村重さんの依頼に対する官兵衛さんの返事で

秀吉様のお考え通りに進めるよう申し付けます。 姫路へいらした際は

お会いしましょう
」と、荒木村重さんとの円満な関係を匂わせるもの





幽閉中、余りに劣悪な環境下で黒田官兵衛さんは片足が不自由になり、頭髪は

皮膚病で抜けてしまいます。 が、官兵衛さんはその中で老成を遂げるんですね。

発見された手紙に花押は無かったそうですが、真実ならば、極限状態の中でも

私心を捨て信義を貫こうとする官兵衛さんの真骨頂を窺わせるものか、それとも

有岡城での幽閉生活はそれほど過酷なものではなかったのか、どちらでしょうネ


ロ~マ~ンの~欠片が欲しいのさ~?(黒崎城址展望スペース)

あらっ、黒崎城址の展望スペースから城下を眺め、思いを馳せる方が

黒崎城址展望所より黒崎の街を一望

北には洞海湾、南には八幡の街を一望できる黒崎城址







続いては、黒崎城の貴重な遺構や井上九郎右衛門さんの素敵なお話を・・・

と行きたいところですが、長くなりましたので、次回にしたいと思います

黒崎城登城レポ、もう少し続きまーす







本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

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2014/04/02(水) 20:24 | コメント:11 | トラックバック:0 |


八幡餃子の王道 鉄なべ系餃子を発祥店 本店 鉄なべさんで堪能した後は

JR黒崎駅前から放射状に延びるアーケードのひとつ、新天街をぶらり散策

すると目につくのが “ 立ち呑みの店 ” と書かれた看板に赤ちょうちん

北九州には、店先で立ってお酒を飲む角打ちスタイルの酒屋さんが多いです。

新天街に入りこちらのお店で早くも2軒目。 黒崎には何軒位あるんだろ  

黒崎駅前・新天街の角打ちスタイルの飲み屋さん

こうした “ 角打ちスタイル ” の飲み屋さんも八幡餃子然り、近代産業の発展を

支えた北九州工業地帯で、汗を流し働く方々に愛され、育まれてきた文化の様



ところでこの “ 角打ち ” という言葉、折角なので日本酒センター企画・発行の

日本酒小百科で調べてみたら、 “ 中山安兵衛角打ちの枡 ” に由来して

いました 中山安兵衛さんは、堀部安兵衛と言った方が耳馴染みがあり、

まーりたんはピンと来るんですが、忠臣蔵・赤穂浪士の一人としても知られる方。




その堀部安兵衛( 堀部武庸・ほりべたけつね )さんが剣豪として名を挙げ、

赤穂四十七士にスカウトされるきっかけとなったのが、同じ堀内道場の門徒で

義叔父の菅野六郎左衛門を助太刀した事件 高田馬場の決闘だったんですね 



時は元禄。 堀部安兵衛さんは義叔父の助っ人として この決闘に臨む際、

枡酒を ぐいっと引っかけてから馳せ参じたというエピソードがあり、

枡酒を角から飲む = 角( かく )打ち という言葉が生まれたのだそうです




角打ちで一杯やれば、景気づいて出世もする、万事オッケーよ 気にすんな

八幡餃子が労働者の方々のお腹を支えて来たならば、角打ちは心を癒し、励まし

リフレッシュ。 堀川運河同様、立ち呑み店の看板に灯りが点いてるだけで、今も

多くの方がホッとしたり、元気を貰ったり、懐かしさに癒されたりしてるんだろうな






さて、そんな八幡西区 黒崎は江戸時代、小倉( こくら )の常盤橋を起点に

長崎へと続く、長崎街道の宿場として栄えてきた町でもあり、 

しかも小倉の次。 オマチなわけです 

長崎街道(黒崎城址案内板より)

案内板によれば、長崎街道は57里( 約224km )、街道沿いの宿場は

25か所。 鎖国体制が布かれていた当時の日本で、海外との窓口として

開かれた長崎より、西洋文明はこの長崎街道を通って伝わったんですね





文明の道、長崎街道はJR黒崎駅の南を横切っています

黒崎駅南を横切る長崎街道

おや ココに、どこかで見た事あるよーな出で立ちの方がおわしまするゾ

この独特な管制塔アンテナ形兜 一の谷形兜( いちのたになりかぶと )は、

黒田官兵衛さんの御嫡男、初代福岡藩主・黒田長政公に違いない

管制塔カブトの長政くん発見!

黒田長政公が関ヶ原合戦で被り、その後も愛用したというレーダーアンテナ風兜

正式名称は 銀箔押一の谷形兜(ぎんぱくおし いちのたに なりかぶと)と言って、

珍しい形は、源義経が平家を攻める際に馬で駆け下りた崖 『 ひよどりごえ 』 を

イメージしていると言われてます。 長政公にとっては幼少期の命の恩人でもある

竹中半兵衛重治さんの形見の複製で、福島正則公から頂いたものだそう






それはともかく、黒崎をテクテク何処へ向かってるの? 長政くん、待って~

新天街を抜けると正面に岡田神社

黒田長政公を追いかけて新天街を抜けたら、通りを隔てた正面に神社の鳥居

左手の電柱には、熊手2丁目。 

左手の電柱。ここは熊手2丁目黒崎駅前の歩道橋は熊手2号。熊は黒崎を知る歴史的キーワード?

JR黒崎駅前の歩道橋も熊手2号歩道橋だったし、この辺りはその昔

熊サンが出没していたのか・・・ それとも黒崎を知る歴史的キーワード


ビルの谷間の三の鳥居は元禄13(1700)年建立

謎は、こちらの神社に参拝したら解けました 

その名も、岡田神社 長政くん、もしやお父さんの神社に参詣?

岡田神社扁額

福岡→黒田長政とくれば今だけに、大河で黒田官兵衛を演じていらっしゃる

岡田准一さんを思い浮かべてしまう方は、まーりたんだけではないと思います

が、岡田准一さん縁の神社ではありません 当たり前だ、ご当地の方に 叱られる


神武天皇東征に縁の深い岡田神社

由緒によれば岡田神社の名は古代、崗( おか )地方 = 旧遠賀郡を治めていた

熊族の方々が祖先神をお祀りしたことに由来。 黒崎駅から新天街を通り抜けて

真正面 八幡西区岡田町一番一号に鎮座する岡田宮は、地主神様との事


神武天皇は東征の際、日向を出発し宇佐の次に黒崎に1年間滞在

また、この岡田宮は、壬申の乱に勝利して即位した第40代・天武天皇が編纂を

始めた日本最古の歴史書・古事記に描かれる神武東征で、初代・神武天皇が

宇沙の次に立ち寄り、一年間滞在した地でもあるんですって も~びっくり 




初代・神武天皇( カムヤマトイワレビコ )は、兄の五瀬命(イツセノミコト)と共に

日向の美々津( 宮崎県 )を舟出し、佐賀関の早吸瀬戸を海の女神の助けで

無事通過 宇沙( 大分県の宇佐 )に至り、更に筑紫を訪れたとされてますが、

それがここ、福岡県北九州市の黒崎だったとは・・・ まーりたん、興味本位で

イラストマップの黒田長政くんを追って岡田宮を訪れ、初めて知った次第です

元を辿れば、八幡餃子を追いかけてたら古事記の世界へ迷い込み・・・ですな




神武天皇は黒崎滞在後、九州を離れ阿岐吉備、そして明石海峡を通り白肩津

(大阪湾の岸 )に上陸。 その際、土豪に阻止され初めての戦となり、お兄さんを

亡くすも八咫烏の導き等で嶮しい冒険の旅を潜り抜け、初代天皇に即位します

神武天皇は日向~宇佐~筑紫(黒崎)~阿岐~吉備、明石海峡を通り白肩津(大阪)へ

本殿横の木は、平成五年の式年遷宮の際に植樹されたものの様



岡田宮には初代・神武天皇が、熊手宮には大黒様こと大国主命と、大国主命に

国造りの知恵を授けたスクナビコノミコト、そして神功皇后の三韓征討の際に

案内役を務めたという崗県主祖・クマワニノミコトがお祀りされていました





そっか~、宇佐の次は黒崎だったのか~

で、びっくりついでにもうひとつ

青い扁額は貝原益軒が宝永4(1707)年に奉納

岡田神社拝殿には、綺麗な青い扁額が掛けられていますが

これを寄進された方は、黒田家譜を始め養生訓、筑前国続風土記などを著した

学者であり福岡藩士の貝原益軒さんなんだそうです!感激

貝原益軒が宝永4(1707)年に奉納した扁額(岡田神社)

宝永4( 1707 )年奉納。 なんてきれいな扁額なんでしょう

青い小袖に、愛馬の飾りに、今ブルーが一番似合うと云えば・・・

・・・だから、岡田准一さん縁の神社ではありませんって 

イザナギ&イザナミに 始まり人類みな兄妹、全く縁が無いとも言い切れないけど

 


画像中央の丘・黒田六端城址へ

次回はJR黒崎駅のペデストリアンデッキから見える画像中央の城山、

黒田六端城のひとつ 黒崎城址へお邪魔します

八幡西区屋敷1丁目9に黒崎城への登り口

どうぞお楽しみに









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2014/03/30(日) 19:29 | コメント:11 | トラックバック:0 |


北九州市は八幡( やはた )西区、JR折尾駅東駐車場傍に展示されている

大正13(1924)年建設のトンネル折尾隧道( おりおずいどう )の名板。 

御影石製で長さは2メートル、重さは約3トンもあるのだそうです

折尾電停があった建物の跡地右手は現在トイレ・折尾隧道の名板

折尾の歴史は古く、遡ること1444年の室町時代には既に折尾郷という地名が

存在しており、その名は 山の尾根が折り重なるように連なっていた事に由来

解説板によれば、折尾駅の西に平成23( 2011 )年まで在った折尾隧道の

長さは66メートル。 山続きだったと云う昔むかしの折尾郷を偲ばせます 





そんな折尾郷を含む福岡県中部~北部にかけての一帯で、後に黒ダイヤ

呼ばれる “ 燃える石( 石炭 ) ” が発見されたのは、1469年~1478年の

文明年間。 戦前の日本で最大規模を誇った炭鉱・筑豊炭田の始まりでした。

採掘地が 筑前( ちくぜん )国と 豊前( ぶぜん )国とに またがっていた事から

その名が付けられた筑豊( ちくほう )炭田。 まーりたんは筑豊炭田と聞くと

別府のグローバルタワーから見下ろせる雑木林の中に在った赤い銅瓦葺きの

お屋敷、炭鉱王・伊藤伝右衛門さんの御夫人 柳原白蓮の赤銅( あかがね )

御殿
を真っ先に思い出すのですが、大分県の皆さまは如何でしょう






今回、ご当地グルメ八幡餃子巡りをするにあたって、選りすぐりの名店を教えて

下さった北九州グルメの達人 シュークリームさん曰く、学校で必ず習うのが

筑豊炭田堀川運河の歴史なんだそうです。 折尾駅東口の餃子兄弟さんに

お邪魔できなかったのは残念でしたが怪我の功名と言うか、お陰でまーりたんも

折尾地区の随所から漂う炭坑と運河の歴史を、少しだけ学ぶ事ができました


八幡西区・南鷹見町14と折尾駅東の短絡線

折尾駅東駐車場とオリオンプラザ間の道を、堀川運河とは反対の東の方角

( 南鷹見町 )へ歩いて行くと、目に飛び込んできたのは旧い赤レンガの3連

アーチ高架橋
 明治41( 1908 )年創設 九州電気軌道( 西鉄の前身 )が

建設した折尾( おりお )高架橋で、唯一の現存なのだとか

九州電気軌道によって建設された、赤レンガアーチの折尾高架橋

手前の踏切は、大分県人まーりたんにはとっても珍しい短絡線なるもの。

路線同士を遠回りせずに結ぶための線路です。 昔はレンガアーチ高架橋が

この短絡線を跨ぎ、立体交差になっていた様。  折尾駅は明治時代、1階には

筑豊石炭の輸送を目的とする筑豊興業鉄道が、2階には九州鉄道( 本社の

建物は門司区に残り、現在は九州鉄道記念館 )が構える共同駅舎となります。 

折尾駅は日本初の立体交差駅でもあったんですね






更に興味を引かれるのが、“ ねじりまんぼ ” と呼ばれる特殊技法が施された

レンガ高架のアーチ部分 上の線路と下の道路が直角に交差していないため、

傾斜の分だけ斜めにレンガを積み “ ねじり ” を加える事で迫り持つ力を維持 

ねじりまんぼ技法の折尾高架橋・通路はかつての折尾メインストリート本町通り

また、トンネル状の通路を指す “ まんぼ ” の語源は、坑道の間歩( まぶ )から

だそうで、運河と炭鉱の歴史は、地名のみならず建造物にも滲み込んでいます

因みにこの道路三連アーチ橋の左端は、かつてのメインストリート・本町です。

トンネル手前は、平成31年完了予定で現在総合整備が進む折尾駅東エリア。 

明治の香り漂うレンガ高架の間歩は、折尾今昔を結ぶ空想的短絡線、かな 






先日ふらりと訪れた日田駅の観光案内所で偶然、筑豊地区観光協議会発行の

パンフレット 『 筑豊の旅 』 を見つけました。 世界記憶遺産に登録された事で

記憶に新しい山本作兵衛氏の炭坑記録画を所蔵する 田川市石炭・歴史博物館

他、手ぐすねをひいた様に紹介されていた田川~直方~飯塚の筑豊炭田史跡

何だかマイブームの予感が 石炭だけに、火が点いたら長いこと燻りそうダ







さて、付録のてんこ盛りで こんなに楽しくて良いものかしら八幡餃子巡礼旅

八幡西区楠木のぎょうざ工房・風人さんでは、手造りの皮にこだわった実力派

八幡餃子を堪能。 同、八幡西区萩原の友ちゃん餃子では、ご主人の温かさに

号泣注意報 八幡餃子のルーツ・もちもちの本場中国系餃子を頂きました

八幡西区黒崎宮本ビル(本店鉄なべ)

続いてのご紹介は、ついにやってきました これぞ八幡餃子のスタンダード

鉄なべ系餃子の発祥店 本店 鉄なべさんです

昭和33年創業・八幡鉄なべ餃子発祥店(黒崎)鉄なべ

あっ、おまわりさんも一緒に撮っちゃった・・・ヤハタギョウザヲオサガシデスカ?






本店 鉄なべさんも同じく八幡西区、洞海湾を臨む黒崎に在り、

国道3号線に架かる熊手2号歩道橋

JR黒崎駅前からだと、国道3号をまたぐ熊手2号歩道橋を降りて目と鼻の先の

ココ、宮本ビル一階に入っていて、場所はとっても分かりやすいです

宮本ビルと熊手2号歩道橋


本店鉄なべさんは、割烹着姿のお母さん方がホールをきりもりされており、

喩えるなら、豊後は戸次( へつぎ )地区のほうちょう保存会の雰囲気

時を駆ける少女が有線で流れる本店鉄なべさん

婦人会の方が発祥の味を守っていらっしゃる、みたいなムードで、好きだな~




あっ、ほうちょうは大分市南部 へつぎ地区の郷土料理で、鮑腸と書きます 

鮑の腸が好物だった豊後守護大友氏21代 大友宗麟公へ、鮑が手に入らない

時期に小麦粉を練って伸ばし、鮑の腸に似せた料理をキュイジーヌが差し出した

ところ、宗麟公は「 これも、なかなかイケるんじゃね? 」と、快く召し上がった

という話が残る、起源は戦国時代にまで遡る伝統的郷土食です






カウンター席に腰掛け、焼き餃子と焼きそばを注文して待っている間、

椅子を静かにクルリ半回転

ラードを使わない八幡餃子。壁にはイングリッドバーグマンのモノクロパネルも!

背後の柱に貼られていたポップには、“ 八幡餃子はラードを使わない和風味の

餃子です
”と書かれてました 店内の壁には他に、イングリッド・バーグマンの

ポスターも 映画カサブランカのワンシーンです そして有線かしら?店内で

まさに今、流されてるBGMは 『 時をかける少女 』、もちろん原田知世さんの。 

泣かせます その後は海援隊の 『 贈る言葉 』 、という路線・・・

こちらで働かれているお母さん方の青春時代~新米ママさん時代の思い出と共に

蘇り、心を潤してくれるアイテムの数々なのかなぁ、なんて勝手に想ってみたり






そういえば海援隊の贈る言葉、まーりたんも中学校の卒業式で合唱したっけ 

心の中で思わず熱唱しかけたら、来ました これぞ本家 八幡流鉄なべ餃子

発祥店の味!ラード不使用の本店鉄なべ焼き餃子(525円)

鉄の街・八幡を象徴するアツアツの鉄皿に2列に並べて供される正統派。

風人さんのようにパリパリの羽根はついていませんが、薄めの皮の表面は

カリっと芳ばしく中はしっとり。 キャベツとお肉のシンプルな具材で、

あっさりと素朴な、ぱくぱく何個でも行けそうな和風餃子です 

本店鉄なべさんの元祖鉄なべ餃子・あっさり素朴な和風味です

きれいな黄緑色の具が透けてます 焼き餃子のお値段は525円。






そして予想通り泣かせる一品だったのが、本店鉄なべさんの焼きそば( 575円 )。

本店鉄なべさんの焼きそば(575円)懐古的な具材に細い麺

ラーメンみたいな細めの棒麺に、ウスターかな?極めてシンプルなソース味

やきそばの具はご覧の通り、キャベツと豚バラ、人参に玉ねぎにモヤシ、

卵と刻み海苔まで乗っかって、お母さん、いえ、おばあちゃんの味に近いかも

ありあわせだけど、出来るだけ沢山の食材を駆使して作ってくれた様な、素朴で

懐古感あふれる一皿でした 小倉の焼うどんも食べたくなってきちゃった








今回お邪魔した八幡餃子の専門店は、本店・鉄なべさんを最後に全部で3軒。 

シュークリームさん、セイント・ショップと言っても過言ではない選りすぐりの

優良店ばかりを教えて下さり、本当にありがとうございました 

私も八幡餃子なるものを食べてみようかしらんとお思いの方、ご紹介の3店舗は

外せませんよ とはいえ、八幡餃子は奥が深く、この限りではありません 

既出の鉄なべ系餃子、スープ餃子、中国本土系餃子の他にも、ラーメン餃子、

手羽餃子、クロ餃子、ひとくち餃子等々種類も豊富な上、店舗は八幡餃子協議会

公式マップに掲載されてるだけでも63軒 貴方の名店、探してみて下さい


黒崎駅ペデストリアンデッキ

次回は、黒崎駅周辺の史跡を巡る予定です 

衝撃!くろさき官兵衛タンに遭遇

衝撃黒崎駅構内で官兵衛タンに遭遇









●参考文献、サイト : 折尾駅 http://kitaqare.d.dooo.jp/mati08.htm

筑豊炭田について http://www.yumenity.jp/sekitan/chokuhoutanden.html

甲斐素純・渋谷忠章・段上達雄著 大分県謎解き散歩( 中経出版 )







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2014/03/27(木) 15:34 | コメント:13 | トラックバック:0 |


明治34( 1901 )年、官営八幡製鉄所で働く方々を支えるスタミナ食として

考案され、戦後の食糧難の時代には人々の希望の糧となり育まれて行った

福岡は北九州、八幡生まれの和製餃子 “ 八幡( やはた )餃子 

餃子工房・風人さんでは、その王道とも云うべき 鉄なべ系餃子を堪能 

続いては八幡餃子のルーツを求め、向かった先はJR折尾( おりお )駅


折尾駅東駐車場・20分まで無料でした

オリオンプラザ南側の折尾駅東駐車場にクルマを停め( 20分間は無料なので

ちょこっと散策に便利です )、北九州グルメの達人 シュークリームさん

教えて頂いた本場中国系餃子店探訪へ、いざ参らん






早足で目的地へ向かう途中、思わず橋の欄干を握って暫く見とれてしまった

なんとも懐古的で趣溢れる運河の景観 堀川運河と呼ばれているんですね。

そういえば ここJR折尾駅東口付近の地名は、八幡西区堀川町だったっけ

袂の看板には近代化産業遺産認定の文字も  

近代化産業遺産・川ひらた舟が行き交う堀川運河(折尾駅東口)

古写真パネルには、ちょっと見、柳川下りのどんこ舟ふうの小舟が一隻。 

この小舟は、“ 川ひらた ” という名前で、江戸時代から昭和初期にかけて

堀川運河を利用しての水運、米や石炭輸送に使われていた様子。 

バラ積み貨物舟といったところ


平成19年に近代化産業遺産に認定

解説板には、堀川運河の開通は江戸時代 宝暦12( 1762 )年との記述。 

全盛期には年間13万隻もの川ひらたが、この堀川を往来していたそうです 

輸送手段が鉄道へと移行する中、昭和13( 1938 )年に姿を消すものの、

176年間の長きに亘って筑豊の産業を支えた、正しく近代化産業遺産ですネ






近代化産業遺産・・・正直あんまり興味ないな~、それより八幡餃子まだ

はい、まーりたんも玖珠の豊後森機関庫は別にして、それ程に近代化産業遺産が

大好きな人ではありませんよ ただ、遠賀川より分かれ八幡西区楠橋~中間市

~水巻町~八幡西区折尾を経て洞海湾へ注ぐこの堀川運河、開通は1762年

ですが、開削工事の開始は何と、それより141年も前の元和7( 1621 )年

大あくびしていたアナタ、下の年表を御覧になってみて下さい

元和6(1620)年に黒田長政公と栗山大膳が視察に

度重なる遠賀川の洪水を 「 これはどうにかせんといかんばい 」と視察に訪れ、

堀川運河開削を計画なさった方は、黒田官兵衛さんの御嫡男で初代福岡藩主

黒田長政公ですヨ 工事が始まる一年前の出来事です。




大河ドラマでは、これから信長さんへ人質に出される黒田長政公( 松寿丸 )も、

この時は円熟の52歳。 本日命日のお父さんが亡くなって16年経っています。 

視察時のお供は官兵衛さんが最も信頼を寄せていた側近・栗山利安(善助)の子

当時28歳の栗山大膳利彰さん。 八幡餃子を求めて訪れた折尾駅の堀川運河

歴史年表にジュニアお二人の名を見つけた時は、全くの部外者ながら感無量


車返りを通るひらた舟・米や石炭の輸送に江戸~昭和初期まで使われた

車返りと呼ばれる堀川運河開削時の最大の難所は、9年かかって開通。 

折尾高校~河守神社にかけての岸壁には、今もノミの痕が残っているそうです。


堀川筋・江戸期より多くの商店が並んでいた

開削工事はスムーズにはいかなかったものの、地域の発展と平和を願う人々が

自分達の手で、幾多の困難にも屈せず 141年間かけて遂に切り拓いたという

背景を持つ堀川運河は、希望の具現化でもありますね。 時代が流れても

この堀川を眺めるだけで勇気づけられる方が、きっと沢山いるんだろうナ 

堀川運河が近代化産業遺産に認定されて本当に良かったな、と思います

かつてはひらた舟が上り下りしていた堀川

目的以外に、素敵な道草も楽しめてしまった感じの八幡餃子巡礼の旅

だけど、胸はいっぱいでもお腹は減ります。 

さて、本場中国系餃子のお店 “ 餃子兄弟 ” さんはどこかな~

確か、この堀川運河沿いのはずなんだけど・・・





あっ

中華家庭料理・餃子兄弟さんはお休みでした!

えっ

もしかして、閉まってるぅ~

ま、こんな場合もあるでしょう・・・

餃子兄弟さん、今回はご縁がなかったみたいです ザンネン








ならばコチラ 餃子兄弟さんと同じく本場中国系餃子の名店をご紹介

中国家庭料理・友ちゃん餃子(八幡西区萩原)

八幡西区萩原の “ 中国家庭料理 友ちゃん餃子

八幡餃子のルーツとされる本場中国系餃子は、鉄なべ系餃子に対して

中国本土系餃子と呼ぶみたいです。 お腹ぺこぺこなので、とりあえず入店


友ちゃん餃子・入店&着席すると・・・

友ちゃん餃子も外観然り、テーブル席が2つにカウンターと、簡素でこじんまりと

した店内です。 ちょっぴり真島茂樹さん似の店長さんは本場中国の方の様

「 いらっしゃいませ 」 流暢で落ち着いた、柔らかな声で迎えて下さいました 

席に着くと、おや?ボックスティッシュの側面に何やら注意書きらしきものが

この注意書きは如何なる事態を意味するのだ!?

熱いので気を付けて下さい。 餃子の肉汁飛び出し注意報!!



そうか、友ちゃん餃子は優良店ですとレポされていたシュークリームさんの

ブログ記事にも、飛び出す肉汁のことが書かれてあったっけ。 そりゃあ~た、

用心もせず出来立て熱々の点心にかじりつけば どういう事態になるかぐらい・・・

揚げたて唐揚げに勇ましくかじり付いては口の中を火傷して、何度も泣きを見た

ばかご時代を経、ばかご中年へと成長したまーりたんですよ、流石にそれは 

それとも飛び出し注意報は、もしやアミューズメント化しているとか・・・



友ちゃん餃子・中華丼600円

友ちゃん餃子では、本場中国系の焼き餃子と、ウチの相方の大好物でもある

中華丼をオーダーしました 先に運ばれてきたのは中華丼( 600円 )。

友ちゃん餃子の中華丼・美味!

中華丼の具は、白菜と青菜、人参に豚肉、それにタマゴと、至って素朴。 



日本人の口に合わせて下さっているのか、味付けもあっさりめで、家庭で作る

中華丼風です。 それでも、あんのとろみといい塩加減といい絶妙で、家で普通に

中華丼を作ってもこうは巧くできないな~ と思わせる熟練の技も感じる一品

気配り上手で穏やかだけど、心の中には強い信念や理想を掲げている人に

出会った感じでしょうか かなりオーバーな言い回しですけど、友ちゃん餃子で

食事をして、店長さんから受けた印象は、思えばこの中華丼そのものでした 


友ちゃんの本場中国系焼餃子480円・鉄なべには載ってません
 
続いてきました~! 八幡餃子のルーツでもある中国本土系餃子( 480円 )

和製の八幡餃子ではないので、もちろん鉄なべには載っていません。

ティッシュの注意書きを横目に、端っこから慎重に少しだけかじると

もちもちの皮が破れたあとに、旨みたっぷりの肉汁が口の中にじゅわっと

それは熱いけど、端っこから慎重に食べればぜ~んぜん大丈夫やん



慎重に一個、また一個と味わったところで、餃子もだいぶん冷めてきて

素材のうまみが活かされた八幡の餃子らしい淡白なお味に、最後は

ラー油でアクセントなぞつけ、ガブリと一個、行きましょうかね~

友ちゃんの焼き餃子は厚めの皮でもちもちジューシー♪

で、餃子の真ん中あたりをガブリとやった瞬間、なにかが勢いよく飛び出し

えっ?噴水? それは弧を描いてまーりたんの膝の上にビシャリと命中



「 裏切らんな~ほんと・・・ 」 相方の引きつり気味の微笑みに見守られつつ

大急ぎでバッグからウエットティッシュを出し、右足付け根辺りにじわり滲みていく

それを、叩くべきかゴシゴシ拭くべきか下を向いてアタフタしていたところ、

すっと目の前に美しく巻かれたおしぼりが差し出され、はっと見上げれば

そこには真島茂樹さんに少し似た店長さんの穏やかな笑顔が輝いておりました

「 大丈夫ですか? よろしければどうぞ

まーりたん、思わずビニールのテーブルクロスを掴んで泣きそうに

そして同時に、この飛び出し注意報は、友ちゃん餃子さんではアミューズメントに

近いものなのだろうと理解 八幡餃子巡礼の忘れ得ぬ思ひ出となりました

友ちゃん餃子(八幡西区萩原)

帰宅後に色々と調べてみたら、友ちゃん餃子で供される中国家庭料理の味は

もちろんのこと、店長さんの誠実で温かなお人柄にハートを射抜かれた方々は

ブロガーさんを中心に数知れず。 トネリ?はたまた親衛隊? 八幡の宝石

友ちゃん餃子を守る会まで? 友ちゃん餃子もまた、知る人ぞ知る名店でした



新折尾駅舎(案)

そう、折尾駅は新駅舎に生まれ変わるんだそうです。

次回は折尾駅周辺の史跡を巡り、八幡餃子発祥の街、黒崎へと向かいます








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2014/03/20(木) 20:13 | コメント:11 | トラックバック:0 |


年度末、日々忙しく過ごされている方も多いのではないかと思います

我が家も然りで、ウチの相方は昨日が3月になって初めての休日でした 

前日までの寒さも絶妙なタイミングで緩み、朝から春本番を思わせる陽射しに

恵まれた日曜日、かねてより計画していた福岡県は北九州市、八幡( やはた )

発祥のご当地グルメ “ 八幡餃子 ” 巡礼の旅を、存分に楽しんできました




それはいいけど、何故に巡礼の旅? ちょっと大袈裟すぎるんじゃない

それはですね 昨日巡った八幡餃子専門店が、その店構えを含め味わい深く、

温かく、お腹はもちろん心まで満たされる素晴らしい聖店揃いだったからです




情報を下さったのはブログ 『 とっとこハムすたぁグルメブログin北九州 』 の

オーナー・シュークリームさん  食いしん坊のハムスターことシュークリーム

さんが、お友達のミルフィーユちゃんとご一緒に、八幡西区から美味しいものを

探す旅に出るファンタジックで楽しい心地にさせてくれるグルメブログです

シュークリームさん、今回は大変お世話になりました 大満足での帰還です


やってきました北九州市は八幡西区!

さて、ブンゴの国から遥々やってきた食いしん坊中年ふたり組は、ただいま

八幡西区の折尾( おりお )地区目指し、県道11号を西へ向かってます


次の角を右折すれば、黒田六端城のひとつで 井上九郎右衛門さんが城主を

務めていた黒崎城址が遺る黒崎地区。 黒崎地区には八幡餃子の発祥店

あるものの、帰路を考え、折尾~黒崎~八幡と、西から東へ戻ってくるルートで

先ずは八幡西区楠木の 『 ぎょうざ工房 風人。 』 さんにお邪魔しました。

通りを隔てた所に、ぎょうざ工房・風人さん発見!

風人( ふうと )さんは、福岡ではかなり有名な八幡餃子専門店らしく、

その屋号からして小洒落たラーメン屋さん風の店舗をイメージしていたんですが、

喩えるなら、まるで常連の方に永年愛される中津の唐揚専門店みたいに素朴で、

こじんまりとした店構えに、ちょっとびっくり 豊前中津で暮らしていた子供時代、

こういった簡素な佇まいの唐揚げ屋さんに通っては、揚げたてをパクついていた

まーりたんにとっては、たまらなく郷愁をそそられる大好きなタイプのお店です 



スーパー大栄東折尾店・西鉄バス友田二丁目。閑静な団地の中

近くにはスーパー大栄 東折尾店があり、道路を隔てた向かい側に風人さんの

専用駐車場( 5台分 )があります。 お店はここから緩やかな坂を少し登って

信号機のある横断歩道を渡れば目と鼻の先です ぎょうざ工房・風人さんは

大通りから離れた閑静な団地の中に位置していて、もしかするとこの辺りは

かつて、製鉄マンの方々の寮があったのかしらと、ふと思ってみたり・・・。





八幡餃子は、官営八幡製鉄所で働く方々のスタミナ食として、中国餃子に学び

1901年に誕生した和製餃子なんだそうですね。 戦後の食糧難の時代には、

少ない食材で手軽に美味しく作れる事でも重宝されて、この地域・八幡の象徴的

食文化として根付いていったのだとか・・・。 同じ福岡県北九州市では、天まど

なんて呼ばれ方をする小倉の焼うどんも、似た様な由来だった気がするなあ



ぎょうざ工房・風人さんの焼き餃子400円

じゃん!お待たせしました これが製鉄マンの方々を支えた八幡餃子です

スタンダードな八幡餃子( 焼き餃子 )は、アツアツの鉄なべに入って登場。

風人さんの焼き餃子は、薄めの皮にアメ細工みたいな褐色の羽根がついていて、

一口がじるとパリっと小気味よい音。 スナック感覚の軽い歯触りに何個でも

いけてしまう感じです 具はキャベツが多めなんでしょうか、黄緑色がきれいな

あっさり淡白な味 もう一品、スープ餃子も注文。 どちらも400円でした。 

焼き餃子とスープ餃子をオーダー各400円


風人さんのスープ餃子は、きくらげ・太モヤシ・ネギ入り

スープは、以前に別府駅前のうたので食べた和風ちゃんぽんを

思い出す、滲み出た野菜の甘みにほっとする優しい味でした

水餃子も美味です。スープにキャベツの甘みが


焼き餃子にスープ餃子も なんだかガッツリ食事してる感じに見えますケド

直径15センチほどの小ぶりな鉄鍋で供される八幡餃子は ペタンと薄く、単品なら

ハシゴも充分できます。 ワレワレは、このあと楽々2軒巡ったのであった






また、店主ご夫婦の連携プレーの見事なこと  

店主ご夫婦の見事な連携プレー!

ショートヘアの感じのよい若奥様が笑顔でオーダーを取りに来て下さり、

注文を受けた後、お客さんの目の届く場所で餃子の皮をのしてくれるんですね。 

すると厨房からご主人が登場。 奥様の隣に立ち、淡い黄緑色が綺麗なペースト

状の具を、奥様が薄くのばした餃子の皮に 寿司職人を思わせる手つきで包み、

左側に置いてあるバットへ丁寧且つリズミカルに、黙々と並べていくんです

焼き餃子を撮っていたら、餃子を仕込むご夫婦の方に目を奪われてしまった 
  

風人さん自家製のタレとラー油で頂きます♪

風人さんはラー油もタレも自家製だそうです。 タレはツンとこないマイルド風味。

ラー油は少し前に流行った食べるラー油みたいに具沢山。 ご飯にも合いそう




折尾駅東口ここは八幡西区堀川町です

ぎょうざ工房・風人さんで八幡餃子の伝統も風情も美味しさも堪能出来、

滑り出し好調の八幡餃子巡礼の旅 続いての訪れたのはJR折尾駅

折尾駅東口には昭和情緒あふれる運河も♪

折尾駅東口には昭和情緒を醸す旧い街並みや史跡が残っていて、こんなに

素敵な運河も 次に向かう八幡餃子のお店は、この運河沿いにあるハズ

八幡餃子巡礼の旅、続編折尾駅東口よりお届けします







ところで運河に渡された橋から、折尾駅東口のロータリーを眺めていたら

立派な建物の看板に、これまた暫し釘付けに

折尾駅東口ロータリー


オリオンプラザ・・・もしや折尾地区だから折尾ンプラザと命名 

折尾地区だからオリオンプラザと命名されたのか?謎は深まる・・・

本気のダジャレなの? それとも・・・

夢と野心とオリオンプラザの謎を載せて、八幡餃子巡礼の旅は続くのであった。

零士先生の壁画発見!

この壁画の謎は次回( まで待たずとも )解けます、たぶん。









本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

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2014/03/17(月) 18:49 | コメント:12 | トラックバック:0 |


ここは北九州市小倉北区 室町二丁目。 小倉城の西曲輪にあたります

室町二丁目の小倉県庁跡

旧長崎街道に平行して奔る勝山通りに建つ木造の洋館は、小倉県庁跡

藩政時代の豊前国( 福岡県北九州市の門司、小倉から 大分県の中津市、

宇佐市あたり )は、明治4( 1871 )年に 小倉県となります。 福岡県に

合併されるまでの5年間、小倉県庁はこの場所に置かれていた模様

小倉県庁跡

長崎街道小倉城下町の会監修・小倉城下町散策マップによれば、

水色の木造洋館は、小倉県庁跡に建てられた警察署の名残りとのこと

まるで、わたせせいぞうさんが描く街に登場しそうな洒落た外観です







徳川3代将軍・家光の時代、小倉の小笠原藩は幕府から九州諸大名の

監視役を任されていて、現在の長崎県へ至る長崎街道、福岡博多を経て

佐賀県の唐津に至る唐津街道、大分県の中津へ至る中津街道など、

九州各地へ通じる主要街道は総て、小倉から延びていたんだそうです

長崎街道の起点・常盤橋

長崎街道は、紫川に架かる この常盤( ときわ )橋が起点だったとか。

江戸時代は日本唯一の海外文化の通路で 幕府へ献上する象も常盤橋を

渡ったと云います 九州の玄関口、主要街道の起点として栄え、沿道には

諸大名の御茶屋や旅籠などが建ち並び、そんな情緒を今に伝える常盤橋は

平成7年に日本の優れた工法で再現された、新しくて懐かしい木製橋です。 

こうして夕暮れ時に眺めていると、何処からか往時の賑わいが聴こえてきそう

あっ、いま飛脚が駆け抜けて行った様な
 







・・・なんて時空妄想に耽るにはもってこいの常盤橋袂にあるコレ

伊能忠敬顕彰碑とリバーウォーク北九州

何だと思います ご存知の方も多いかとは思いますが、江戸後期

正確な日本地図を初めて製作した測量家・伊能忠敬さんの顕彰碑です。
 
伊能忠敬測量200年記念碑(顕彰碑)


下総国佐原村( 現在の千葉県香取市 )で、酒造や米の卸売業をしていた

伊能忠敬さんは隠居後、五十の手習いで始めた暦や天文学の研究が花開き、

幕府直轄の測量隊長に抜擢されます 伊能さんは17年もの歳月をかけて

日本沿岸を自らの足で歩いて測量し( その歩数は4000万歩とも )、ついに

大日本沿海輿地全図( 伊能図・最終上呈図 )を後世に残す偉業を達成

伊能忠敬顕彰碑・一級都市基準点第2001号

九州の測量はこの場所 小倉の常盤橋からスタートしたんだそうです






自分の可能性を世の為人の為に使い果たして去って行った多くの先哲の一人、

伊能忠敬さん しかも、大好きな事を通してですから、傍目に見れば膨大で

骨の折れる仕事も、背景にあったかもしれない思惑でさえも、心の充足感に

比べれば、伊能さんにとっては それほど問題じゃなかったのかもしれません。 





信念も情熱も枯れる事を知らず、伊能さんはきっと、とびきり幸せな人生を

送られた方なんじゃないかなぁ いつか伊能さんがいらっしゃる世界へ行った

折りには是非ともお会いして、その瞳の輝きを一目拝見したいな、なんて

あっ、噂をすれば伊能さんだ

中象限儀
 
伊能忠敬さんが指しているのは、恒星の高度を測るための器具・中象限儀

( ちゅうしょうげんぎ )。 回転角を読み取る目盛がついた半径約115cmの

四半円と、これに沿って回転する望遠鏡から構成。 象限儀を南北に結ぶ

子午線に沿って配置し、望遠鏡内の十字線の縦線に恒星が通過する時の

目盛を読みます あらかじめ助手が次の星の予想高度を調べて待ち構え、

更に方位と垂直を正しく確保。 忙しく手間のかかる作業だったと云います。


大方儀(伊能忠敬顕彰碑)

三脚台の上に水平に置いて使う半円型の方位測定器具・大方儀

( だいほうぎ ) 伊能忠敬さんが考案されたんだそうですヨ


測量説明図(伊能忠敬顕彰碑)

幕府の事業であることの証明の旗印・御用旗( ごようはた )に、測量の

結果をメモする野帳( やちょう )簿、傾斜地での測量に適した小方儀など

常盤橋たもとの伊能忠敬顕彰碑には、こうした解説付きのイラストタイルも

貼り付けられていて、当時の測量の様子を窺い知る事ができます





測量器具の実物と、伊能中図複製( 縮尺216,000分の1 )は、

小倉城天守閣に収蔵展示されています 伊能図の原寸大の複製は、

勝山橋( 石の橋 )西側たもと・リバーウォーク北九州 ゼンリン本社ビル

ゼンリン地図の資料館に展示されているそうなんですが、今回は閉館日

だったため見学できず... 予習をして楽しみにしてたんだけど、次回こそは!

閉館日は土日祝日、年末年始それに夏期休業日もあるみたいです、ご注意

リバーウォーク北九州(ゼンリン本社)と常盤橋(木の橋)

常盤橋から眺めるリバーウォーク北九州ゼンリン本社ビル

ところで、旧ゼンリン本社は、大分県別府市に在ったのをご存知でしょか

ご興味ある方は、過去記事コチラをどうぞ






小倉散策、まだまだご紹介したい素敵な場所は沢山あるのですが、

今回はひとまず、これにてお開きにさせて頂きたいと思います

お付き合い下さった皆様、ありがとうございました










おや、静かだと思ったら、マンジ君たちは日向でお昼寝中の様子

マンジ君たちは日向でお昼寝中です

足元のそれは、もしかしてゼンリンの住宅地図ではないの


えっ?26年前のゼンリン住宅地図別府市版?

しかし何とゆー古さ! ええ~っ、’87年 別府市版

マンジ君たら、デロリアンで26年前にでも遊びに行ったのかナ・・・


こんな古い地図で遊んでたのかしら?あっ、

それはマァ良いとしても、こんな古い地図で何してたのかしら)) 

えっ  


まさか戦の計画?

まさか実相寺を・・・











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2013/01/24(木) 13:30 | コメント:9 | トラックバック:0 |


昭和34( 1959 )年に再建、平成19( 2007 )年に屋根瓦が改修された

現在の小倉城天守閣。 お城の東・小倉城庭園側から撮ってみました 

昭和34(1959)年に再建された小倉城天守閣・平成19(2007)年に屋根瓦改修

石垣を含む天守閣てっぺん迄の高さは47.5m、石垣の上からだと28.7m

天守内に飾られている迎え虎襖絵 縦横サイズのそれぞれ丁度10倍です。 

小倉城のパンフレットには、これについては特に何も書かれてないんですけど、

小倉城のナゾをひとつ解き明かした気分で、ちょっとウレシイ







突然ですが、ここで問題です

現在の小倉城天守閣には、細川忠興公が慶長7( 1602 )年に築城した時には

無かった装飾が施されてます。 下の画像は小倉城天守1階に展示されている

築城当時の天守閣 再現CGパネルです。 さて違いは何処でしょう

当時の小倉城天守閣再現CGパネル・さて現在の天守との違いはどこでしょう?

ナニナニ はい、その通り 千鳥破風と唐破風が無いですよね

小倉城登城記・前編でも書きましたが、シンプルでリズミカルな角張りボディに

望楼の下がキュッと括れていて、ますます大きなチェスの駒に見えてきます。

この駒で遊べるのは、円盤だった頃の地球を担いでたアトラスぐらいかな







さて、時は寛永14( 1637 )年、秋も深まった或る夜の事

時の小倉城主は、姻戚関係だった細川氏の後を継いで入国した小笠原忠真公

おや、天守二階の御座所では、重臣たちが物々しく集まって、これより重大な

会議が開かれそうなムードですヨ 当時、小倉城の天守閣は全フロアが

御座所 = お役所として機能していたんだそうです、珍しいですよネ










「 島原で大規模な一揆が勃発しただと しかも、総大将は16歳の子供と

いうではないか・・・  豊前へ飛び火する事はあるまいな 」

寛永14(1637)年の島原一揆(天草の乱)出陣前夜。小倉城の天守は役所(御座所)でした

「 幕府も手こずっているようなのだ・・・。 殿が御成りになったぞ、静かに 」

 







大友宗麟や大村純忠と共に、ローマ教皇の元へ天正遣欧少年使節を送った

事でも知られるキリシタン大名・有馬晴信が治めていた島原藩 関ヶ原では

東軍に付いたため本領は安堵されますが、幕府との仲介役であった徳川家康

側近の部下が横領を働いた責任を取らされ( 岡本大八事件 )、晴信公は極刑に。 

天正遣欧使節(久家の大蔵・壁面アズレージョ)・左(上)伊東マンショ(下)原マルチニヨ・右(上)千々岩ミゲル(下)中浦ジュリアン
( 天正遣欧少年使節が描かれた臼杵のアズレージョ




家督を継いだ息子・有馬直純も程なく延岡藩へ転封。 有馬氏後、天領期を経て

大和国より入国、島原藩主となった松倉重政公の悪政に、お百姓やキリシタン、

浪人までが一丸となり反発。  寛永14年10月、島原の乱が起きます



    

総大将は、後に熊本城 宇土櫓の由来となる 宇土城を築城したキリシタン大名

小西行長遺臣の子・天草四郎。 領民に慕われ、希望の星的存在だった様。

境遇的には、国東の ペトロ岐部カスイ神父とよく似ている気がします・・・。





徳川幕府に従って豊前小倉藩、中津藩、豊後府内藩、筑前秋月藩などから、

当時の藩主たちが何千もの兵を率い、島原へ一揆の鎮圧に赴きました 




島原の乱はキリシタンの反乱・宗教的な一揆と解釈され、伝えられたり、

島原の乱鎮圧に駆り出された藩主達は、戦国時代のキリシタン大名らが

庇護したキリスト教の尻拭いをさせられた、的な捉え方をされたりして、

島原の乱後、キリシタン弾圧は更にエスカレート。 日本は鎖国へと向かい・・・











障子の向こうでブツブツ呟いているのは何奴じゃ

小倉城の天守(御座所)で会議中。最奥は島原の乱当時の城主・小笠原忠真。嫡男の忠雄、宮本武蔵の養子で小笠原藩家老の宮本伊織も

あっ会議室の戸が開いたわ  まーりたんに怒鳴ったのは正面に座ってる

小笠原忠真公ね 小笠原家の家老で、宮本武蔵の養子・伊織もいるやん











島原の乱出陣前夜の会議を盗み聴きする曲者かと

思えば、中年女の火消しではないか


大うつけ?豊前小倉藩の天草の乱鎮圧作戦会議中に、中年女の火消小僧現る

天守では火事など起きておらぬのに。

しかも嬉しそうに大口を開けておる・・・

恐らく大ウツケであろう。 構わん、放っておけ














「 マンジ君が泣き崩れなくてもいいんだよ 

まーりたんさんは小倉城天守閣に登れて、ただ嬉しかったんだよ 」

マンジ君が泣き崩れなくてもいいんだよ。まーりたんさんは小倉城天守に登れて、ただ嬉しかったんだ

「 虎の穴でも構わニャい、あれば今すぐ入りたいのだニャ~











天守閣の2~3階では、先程ご紹介した 島原の乱出陣前夜の作戦会議風景を

からくり人形で再現するコーナーや、実際に乗れて前後に揺れる大名かご。

大名かごに乗ろう!コーナー

身長160cm程の女性なら足も伸ばせる、ゆとりの快適空間 です。

02-24大名かごの中はこんな感じ♪乗れます、揺れます!


また、細川忠興公に見いだされて小倉藩剣術師範となった佐々木小次郎と、

明石藩主だった小笠原忠真に養子の伊織を仕えさせたことで、忠真公と共に

小倉へ入り、7年間を過ごした宮本武蔵を紹介したコーナーでは、ふたりが

使用した刀や木刀の複製も展示。 片手で持つだけで、やっとの重さでした

武蔵と小次郎についての紹介コーナー天守3階

九州における宮本武蔵は、石垣原の戦いで黒田如水軍として富来城を攻撃。

( 大分県の富来城址では毎年、宮本武蔵チャンバラ大会が開催されてます

島原の乱では豊前中津藩主・小笠原長次に従軍。 人生の終盤は細川忠利公に

迎えられ、熊本城下の屋敷で暮らし、五輪書を著した二年後に他界しています






他にも天守には、飛脚と競争しながら日本列島を全力で縦断するゲーム に、

殿さまの暮らしをクイズ形式で体感できる殿の暮らし七不思議コーナー等々

殿の暮らし七不思議コーナー

時間も年齢も、体力の限界も思わず忘れてしまいそうなアミューズメントが

盛り沢山でした で、こちらは望楼より眺めた小倉城天守閣東側。 

小倉城天守閣・望楼東側の眺め(小倉城庭園・北九州市庁舎)

お濠越しの屋敷一帯は、かつての小笠原氏別館に再現された小倉城庭園

右手の黒いビルは北九州市庁舎。 その向こうには紫川が流れています。

冒頭の小倉城天守閣の写真は、小倉城庭園前の道路から撮影しました

このあとも更なる小倉探険 探訪の予定があるので、天守閣レポはこれにて







5階から1階へダダダと駆け下り 天守入り口を出ようとしたら・・・

ニャンコが天守閣入口を覗いています。あなた虎猫じゃないの?

ニャンコが一匹天守入口を覗いてました。 あなた、虎猫くんじゃないの







まーりたんと入れ替わりに小倉城天守閣へ忍び込むのかしらと思えば、

くるりと方向転換し、虎猫くんは大手門方面へ悠々と歩き去って行きます

この虎猫はまさか、迎え虎くん?

虎猫くんの後方には、迎え虎くんが載った小倉城の立て看板が・・・。

この構図、いかにも抜け出したかのように見えて仕方がないんですけど







次回は、小倉城曲輪内の史跡探訪を愉しんでみたいと思います








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2013/01/12(土) 19:00 | コメント:5 | トラックバック:0 |
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