お待たせしました~


JR戸畑駅に 日没前ぎりセーフで到着


傾いてはいるものの




今回の八幡探訪最終目的地である “ 幻の黒田六端城 ” の名は若松城

近代は筑豊石炭積出港としても栄えた洞海湾の東端、旧・遠賀( おんが )郡
若松に在り、JR戸畑駅からだと目と鼻の先。 勝手ながら、アタマに “ 幻 ” を
くっつけているとはいえ、若松城も他の黒田六端城同様、関ヶ原の功で筑前国へ
入封した黒田長政公が豊前国との国境に巡らせた出城の一つで、城代を務めて
いたのは 黒田二十四騎の三宅若狭家義( みやけ わかさ いえよし )さん。
三宅家義さんは、黒田官兵衛さんより6歳年下の天文21( 1552 )年生まれ

姫路近郊の三宅出身で、官兵衛さんに乞われて黒田家の家臣となった方です。
幼少期の黒田長政公( 松寿丸 )の命の恩人が竹中半兵衛重治さんならば、
三宅家義さんは、血気盛んな御年頃19歳の黒田長政公の命をこれまた救った
恩人で、竹中半兵衛重治さんと三宅若狭家義さん、この二本柱がいなければ、
もしかすると黒田家は、官兵衛さんの代で途絶えてたかもしれないのです~

続きはまた後程お話させて頂くとして、
太陽が沈んでしまわぬ内に、三宅家義さんのお城へいざ参らん


皆さま、若松城址はこちらです、どうぞー



えっ



ほんとだ、おかしいな~


見えるのは戸畑地区と対岸の若松地区とを結ぶ 全長2,068mの若戸大橋
それに洞海湾のみ。 だけど圧巻ですよね~

長大吊橋の先駆けとして昭和37年に開通した当時は東洋一


今は洞海湾のシンボルとして、筑豊の近代産業史を物語る威風堂々な佇まい。
若戸大橋、ぽかんと口を開けて見惚れてしまう程の重厚オーラを放ってます


おっと、イカンイカン



で、ぐぐーっとカメラを引いてはみたものの

北九州市渡船事業所戸畑発着所、若戸渡船の乗り場だし・・・

じゃあ続いてカメラを左へ大きく振ってみたら・・・おやま



こちらも若松城ではないものの、昭和11( 1936 )年に建てられた戸畑地区の
シンボル的な建物で、かつての日本水産本社です。 現在のニッスイ本社は
東京ですが、遠洋漁業からスタートした日本水産は

していった様


呼ばれていて、北九州営業所並びに入場無料で見学可の史料館になってます。
ところが閉館時間の17時( 入館は16時半迄 )を軽く過ぎていて、今回は残念

というわけで青い鳥みたいに、ぐるり巡って若戸大橋へ舞い戻ってきました



戸畑側の袂を見上げてみる。 コンデジとまーりたんの腕前では伝わるかどうか
分かりませんが、なかなかの迫力ですヨ


若松城は、ここ戸畑と対岸・若松地区の間に浮かぶ中島に築かれていたんです。
場所は若戸大橋付近、夕陽がちょうど光の帯を落としているあの辺りかな~


別名・中島城とも呼ばれる若松城が存在した中島は、残念ながら明治14年の
洞海湾修築工事で削り取られ、完全に消滅。 文字通り “ 幻の黒田六端城 ” に。
三宅家義さんは元和5( 1619 )年、67歳で他界。 元和元年に一国一城令が
下るまで若松( 中島 )城代を務め、軍船の一括管理も任っていたと云います。
あらっ、絶妙なタイミングで若戸渡船がフレームに入ってきましたよ~



長政公にとっては2人目の命の恩人で、黒田家存続を助けた重要人物の一人

でもあった三宅家義さん。 長政公を救ったのは、黒田官兵衛さんの豊前入封後。
天正16( 1588 )年、秀吉さんのむちゃ振りが引き起こした豊前国人領主一揆の
鎮静に手を焼く黒田家。 少し前に同じく肥後でも起きた国人一揆の後処理で
多忙な御年43歳の黒田官兵衛さんは、19歳になった嫡男・黒田長政に経験を
積ませるため、豊前の処理を任せてみます。 が、血気盛んなお年頃の長政くん。
父・官兵衛の許可を待たずに2千の兵を率い、リーダー格・宇都宮鎮房の城へ

武力で一気に鎮圧してまえ



黒田勢が総崩れとなった第一回目の城井ノ上(きいのこ)城攻めの時です

これ以上 黒田勢が損害を被るのを避ける為にも、速やかな退却が求められる中、
「 お父さんに顔向けできない、オレもうここで死ぬ~

と、聞き分けのない若き黒田長政公を 三宅家義さんは臆せずに ピシャリと諌め、
首根っこを掴んで抱え込み、無理矢理押さえつけて連れ帰ったそうな・・・

三宅若狭家義さん、かなりガタイの良い、プロレスラーみたいな人物像が
浮かび上がってきます。 で、まーりたんが勝手に描いたイメージは・・・


「 若、こんなところで死んでどうしますかーッ 」

(我が家のハードディスクに保存している家宝アントキの猪木さん♪)
三宅家義さんの咄嗟の判断と行動がなければ、黒田長政公はこの時
竹中半兵衛さんから貰った命を、一時の感情に任せて捨ててしまってたかも
しれないんですね

しれないし、福岡も福崎のまま、博多を中心とする今日の様な発展は無かった
かも・・・。 そして何よりは、黒田長政公の働きなしの関ヶ原の戦いでは、
西軍が圧勝していた可能性も。 パラレル平成日本の首都は西日本の何処か

今とは違う仕組みの世になっていた事は確かです

ただ、黒田長政公が生き延びた事によって、豊前領民に慕われ人格器量共に
優れた地頭・城井( きい )宇都宮氏一族は翌年、貝原益軒さんが黒田家譜に
その詳細を記せないほど、不当で酷い滅ぼされ方をするのです

黒田官兵衛さんがモットーとしてきた信義。
黒田家が保身の為に滅ぼした地頭・宇都宮鎮房公は、正に信義そのものの
人物でした。 豊前領民を守りたい気持ち、責任感も他の領主達以上だった事
でしょう。 敵地・中津城へ自ら出向き、討たれてしまったのも油断からではなく、
敵をも尊重し決して卑劣な手段は使わない 礼節をわきまえた黒田の武士魂を、
宇都宮さんもまた武将らしく、あえて尊重したからだと、まーりたんは思ってます。
自分の映し鏡を自らの手で割るが如く、まるで信義の神様に試されたかの様な
官兵衛さん。 後の行動から宇都宮鎮房さんの亡霊、つまり良心の呵責に苛まれ
続けた事が窺えますが、これもまた更なる老成の重要段階。 そういう意味で、
宇都宮鎮房さんは黒田官兵衛さんにとって最大の宿敵

官兵衛さんは生涯、その十字架を背負って行く覚悟を決めたのかもしれません。
宇都宮氏を滅ぼしてひと月も経たない内に息子・長政に家督を譲り、隠居。
しかし、秀吉さんからはなかなか隠居の許しが貰えず、その後も小田原征伐に
朝鮮出兵と、黒田官兵衛さんは豊前から度々出陣。 コキ使われるんですね~

一方、黒田氏に滅ぼされたものの、かろうじて生き残った宇都宮氏一族の家臣
末えい蔵内氏は、筑豊炭坑の経営者となり、時代を生き抜かれています

あっ、若戸渡船が幻の若松城にさしかかろうとしてますヨ




それでは陽も落ちたことですし、まーりたんも小さいながら温かく落ち着ける
豊後 府内のお城


八幡餃子巡礼に始まった今回の福岡は北九州市をめぐる旅、
拙記事にお付き合い下さった皆さま、ありがとうございました


お帰りはこちらから、ドウゾー


ナンチャッテ


いつかファミレス・イノキーズ


「 迷わず帰れよ 」


懐かしい爆笑レッドカーペット、スペシャル放送ないかな~

●参考資料・文献 : 北九州市観光協会・北九州市観光ガイドブック「 もりたび 」
不老山 正光寺「 宇都宮氏の歴史 」 / 築上町役場発行「 築上町ガイドブック 」
八幡和郎監修 「 軍師・黒田官兵衛~その戦略と生涯 」 / 城郭放浪記・若松城
小和田哲男著 「 黒田如水 」 / 吉永正春著 「 九州戦国の女たち 」
※本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。
記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます

スポンサーサイト