『 武家に生まれ、天が与えた武将への道、変節することなく貫き通したい

これは、豊後大友家重臣 戸次鑑連( べっき あきつら )さんの口癖だったとか。
永禄5( 1562 )年、主君・大友義鎮( よししげ )公が剃髪して 宗麟 と号すると、
戸次鑑連さんも宗麟に付き合って出家します。 戸次鑑連さんは、改名について
帰依している住職に相談したところ、次のようなアドバイスを貰ったと云います

『 鑑連殿、道に積もった雪は、その場を動くことなく生涯を終えます。
道に積もった雪に因んで、道雪( どうせつ )と名乗られては如何かな


筑後川の支流・陣屋川に沿った、福岡県は久留米市北野のコスモス街道

高良山の北麓、筑後川を渡った北野町はその昔、北野村と呼ばれていました。
雷神&風神こと、立花道雪さんと高橋紹運さんが加わった大友旧領奪還戦隊は
天正13( 1585 )年、柳川城再攻略のため 高良山から北野村へ陣を移しますが
同年6月、病に倒れる道雪さん。 回復の兆しが見えないまま時は流れ9月11日。
「 ドーセツよ、しっかりしてくれニャのだ




「 もう無理を言うて下さるな、ソーリン公様。 このドーセツ、楽しゅうございました。
お屋形様との国造り、美しき南蛮の町が生まれいずる様をこの目で見れた事も...
...されど思えば弟・晴英君の事といい、お屋形様には耐え難きご無理ばかりを
強いて参りました・・・。 さぞ、お恨みになっておられることでしょうな・・・ 」

「 恨んでニャどいニャいのだ

礼を言うのだニャ


「 源三!
我がムクロに甲冑を着せ、薩摩に首を向けて埋めよ! 」

「 そうニャ


「 ニャニャーン! 見つけたのだニャ~


「 タケノウチスクネノミコトにあやかった延命飴があれば、万事解決ニャのだ

「 高良大社の延命飴は、初代ジンム天皇のパパさんの離乳食にはじまり、
ジングウ皇后の携帯フードとしても用いられた超由緒正しきスイーツニャのだ


「 ちニャみに延命飴の製造元は、ててぽっぽを買った赤坂飴本舗ですニャ

「 あのぅ、マンジ君・・・おやつが食べたくなったのかい?
道雪さんが名言を遺すクライマックスシーンなんだけど


「 こうしては居られニャい。 死にかけのドーセツに一刻も早く与えニャければ

「 ドーセツよ、直ちに高良さん延命飴を食すのだニャ


「 はうっ

名将・立花道雪、筑後出陣中に北野村にて没。 享年73であった・・・


マンジ君、やっぱり歴史は変えられなかったみたいねぇ・・・

以上、ドラマ・大友宗麟物語~心の王国を求めてのワンシーンより、恐れ多くも
立花道雪さんをこだぬき君、大友宗麟公をマンジ君に熱演して貰いました

道雪さんが亡くなる時、宗麟は豊後の津久見で病気療養中だったため、
実際に道雪さんを看取ったのは、高橋紹運さんと主だった家来の方々。
それでも道雪さんと宗麟公の関係は、喩えて言うならば、年の離れた弟を
全力で守る兄と、この世で只一人 信頼できる兄を慕う弟の様な感じかなあ

道雪さんは遠のいていく意識の中で、宗麟と歩んできた道のりが ありありと
浮かんだでしょうし、宗麟も道雪さんの訃報を聞いた時は然りだった事でしょう。
道雪さんが遺したセリフ 「 我が躯に甲冑を着せ、薩摩の方角に首を向け埋めよ 」
正確には 「 柳川の方角に向け埋めよ 」ですが、その先にあるのは薩摩の島津。
死してもなお、主家のために尽くし抜こうとする道雪さんなのでした

義父の訃報を受けた立花統虎( 立花宗茂 )さんは、戦場に葬る事は堪えられず、
立花家の重臣・小野和泉( おの いずみ )と、由布雪下( ゆふ せっか )に命じ、
道雪さんの遺体を立花へ帰城させ、立花山の梅岳寺( ばいがくじ )に埋葬します。
道雪さんの亡骸を乗せた輿は、北野村の陣跡から立花城へ向け、筑後川を渡り
筑後平野を横切り、朝倉街道を通って反大友派である秋月陣営の中を進みます。
しかし、どの敵陣からも一発の銃声も聴こえず、ましてや追撃を仕掛けたり、
矢を射かけようとする敵兵の姿は一人として無く、名将・立花道雪の死を悼む
法螺貝の音だけが低く、もの悲しげに響き渡っていたといいます・・・。
この続きはまた次回


紹運と宋雲尼【9】【10】【11】
●参考:岩屋城[1586年]玉砕覚悟の籠城戦

さて昨日は今年9月24日にジオパーク認定された姫島へ出掛けてきました



レンタル自転車で、お盆の渡島で叶わなかった七不思議探訪を4時間半かけて
達成




アサギマダラが好むフジバカマ畑は、ローズヒップに似た酸味を感じる甘い香りで
充満してました



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