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まーりたん

Author:まーりたん
大分県で暮らす四十路主婦
“ まーりたん ” の
ブログへようこそ(*^^*)♪

日々を彩る ちょっと素敵な
出来事を我が家の笑導犬?
マンジ君と楽しくお届けして
ます。目下、郷土史に夢中♪
心躍る探訪をご一緒に。

臼杵の富士甚醤油マスコット
キャラ・とっくりこだぬき君が
仲間入りしてからは、嬉しさ
余ってマンジ君の“ 悪がね ”
ぶりもますますエスカレート。

そんなふたり(2匹)の様子も
併せてお楽しみ下さい(*^^*)

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『 武家に生まれ、天が与えた武将への道、変節することなく貫き通したい

これは、豊後大友家重臣 戸次鑑連( べっき あきつら )さんの口癖だったとか。



永禄5( 1562 )年、主君・大友義鎮( よししげ )公が剃髪して 宗麟 と号すると、

戸次鑑連さんも宗麟に付き合って出家します。 戸次鑑連さんは、改名について

帰依している住職に相談したところ、次のようなアドバイスを貰ったと云います



『 鑑連殿、道に積もった雪は、その場を動くことなく生涯を終えます。

道に積もった雪に因んで、道雪( どうせつ )と名乗られては如何かな


陣屋川に沿ったコスモス街道

筑後川の支流・陣屋川に沿った、福岡県は久留米市北野のコスモス街道

高良山の北麓、筑後川を渡った北野町はその昔、北野村と呼ばれていました。

雷神&風神こと、立花道雪さんと高橋紹運さんが加わった大友旧領奪還戦隊

天正13( 1585 )年、柳川城再攻略のため 高良山から北野村へ陣を移しますが

同年6月、病に倒れる道雪さん。 回復の兆しが見えないまま時は流れ9月11日。











「 ドーセツよ、しっかりしてくれニャのだ 死んではニャらぬ構えて死ぬニャ

道雪よ、しっかりするのだニャ!

「 もう無理を言うて下さるな、ソーリン公様。 このドーセツ、楽しゅうございました。

お屋形様との国造り、美しき南蛮の町が生まれいずる様をこの目で見れた事も...













...されど思えば弟・晴英君の事といい、お屋形様には耐え難きご無理ばかりを

強いて参りました・・・。 さぞ、お恨みになっておられることでしょうな・・・ 」

親方様には堪えがたきご無理ばかりを・・・

「 恨んでニャどいニャいのだ 我がままニャワシをこれまで良くぞ支えてくれて、

礼を言うのだニャ 頼む、死ニャニャいでくれ、ドーセツあってのワシニャのだ












源三! 

我がムクロに甲冑を着せ、薩摩に首を向けて埋めよ!


そうニャ!まーりたんの高良大社土産にアレがあったのだニャ!

「 そうニャ まーりたんの高良大社ミヤゲに確か、アレがあったのだニャ












「 ニャニャーン! 見つけたのだニャ~

武内スクネノミコトにあやかった高良山延命飴があれば万事解決ニャのだ!

タケノウチスクネノミコトにあやかった延命飴があれば、万事解決ニャのだ













「 高良大社の延命飴は、初代ジンム天皇のパパさんの離乳食にはじまり、

ジングウ皇后の携帯フードとしても用いられた超由緒正しきスイーツニャのだ

ウガヤフキアエズノミコトの離乳食や神功皇后の携帯食として用いられた歴史があるのだニャー

「 ちニャみに延命飴の製造元は、ててぽっぽを買った赤坂飴本舗ですニャ












「 あのぅ、マンジ君・・・おやつが食べたくなったのかい? 

道雪さんが名言を遺すクライマックスシーンなんだけど

一刻も早く死にかけの道雪に食べさせるのだ・・・

「 こうしては居られニャい。 死にかけのドーセツに一刻も早く与えニャければ












ドーセツよ、直ちに高良さん延命飴を食すのだニャ

ニャ!ややっ、ニャぜに起き上がっていたのだ?

はうっ












名将・立花道雪、筑後出陣中に北野村にて没。 享年73であった・・・

延命飴は効きすぎ注意ニャのか?


マンジ君、やっぱり歴史は変えられなかったみたいねぇ・・・

以上、ドラマ・大友宗麟物語~心の王国を求めてのワンシーンより、恐れ多くも

立花道雪さんをこだぬき君、大友宗麟公をマンジ君に熱演して貰いました





道雪さんが亡くなる時、宗麟は豊後の津久見で病気療養中だったため、

実際に道雪さんを看取ったのは、高橋紹運さんと主だった家来の方々。

それでも道雪さんと宗麟公の関係は、喩えて言うならば、年の離れた弟を

全力で守る兄と、この世で只一人 信頼できる兄を慕う弟の様な感じかなあ




道雪さんは遠のいていく意識の中で、宗麟と歩んできた道のりが ありありと

浮かんだでしょうし、宗麟も道雪さんの訃報を聞いた時は然りだった事でしょう。

道雪さんが遺したセリフ 「 我が躯に甲冑を着せ、薩摩の方角に首を向け埋めよ 」

正確には 「 柳川の方角に向け埋めよ 」ですが、その先にあるのは薩摩の島津。

死してもなお、主家のために尽くし抜こうとする道雪さんなのでした





義父の訃報を受けた立花統虎( 立花宗茂 )さんは、戦場に葬る事は堪えられず、

立花家の重臣・小野和泉( おの いずみ )と、由布雪下( ゆふ せっか )に命じ、

道雪さんの遺体を立花へ帰城させ、立花山の梅岳寺( ばいがくじ )に埋葬します。





道雪さんの亡骸を乗せた輿は、北野村の陣跡から立花城へ向け、筑後川を渡り

筑後平野を横切り、朝倉街道を通って反大友派である秋月陣営の中を進みます。

しかし、どの敵陣からも一発の銃声も聴こえず、ましてや追撃を仕掛けたり、

矢を射かけようとする敵兵の姿は一人として無く、名将・立花道雪の死を悼む

法螺貝の音だけが低く、もの悲しげに響き渡っていたといいます・・・。 



この続きはまた次回





紹運と宋雲尼【】【10】【11





●参考:岩屋城[1586年]玉砕覚悟の籠城戦







平成25年9月24日にジオパーク認定された姫島へ

さて昨日は今年9月24日にジオパーク認定された姫島へ出掛けてきました

ビ・ボーンさんのレンタサイクルで姫島七不思議巡りへ出発

レンタル自転車で、お盆の渡島で叶わなかった七不思議探訪を4時間半かけて

達成 渡りをする蝶・アサギマダラにも会えました 乱舞状態でもう夢の様

渡りをする蝶・アサギマダラにも出会えました♪

アサギマダラが好むフジバカマ畑は、ローズヒップに似た酸味を感じる甘い香りで

充満してました 秋の姫島探訪記、追って綴らせて頂きますオタノシミニ









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2013/10/14(月) 22:46 | コメント:7 | トラックバック:0 |


大分自動車道の濃霧が晴れると、そこは戦国後期の筑後だった~とゆーノリで

今月6日に訪れた福岡は久留米そして八女 金木犀の甘い香りでいっぱいの

高良大社境内とコンクリートの渡り廊下で連結したナンチャッテ沢田マンション

展望所へ


ナンチャッテ沢田マンション最上階は、標高312mの高良山北側に広がる久留米

市内を一望できる展望所。 稲穂で黄金色に染まった平野を横切る筑後川の対岸

久留米市北野町は 天正13年9月11日、主君の命で大友氏の旧領を奪還すべく

筑後へ出陣中だった立花道雪さんが、病のため73年の生涯を終えた場所です。 

九州自動車道、久留米市街地と筑後川を望む

道雪さんは柳川城の攻略中、年を越すために一旦この高良山まで引き上げます。

そして翌年の天正13( 1585 )年、柳川城攻略リベンジのため、高良山北麓の

北野村( 久留米市北野町 )に陣を移しますが、同年6月病に倒れ、高橋紹運さん

そして家来の方々に見守られて9月に逝去 この日の昼食は道雪さんを偲び?

北野町の一味ラーメン本店 凄く混んでて写真撮り損ねました、ご勘弁


久留米市北野総合支所前通過中

久留米市北野総合支所前通過中の写真をとりあえずペタ 道雪さんの没地、

北野町には、陣屋川という如何にも縁ありげな筑後川の支流が流れています






立花道雪さんの死をもって、豊後大友氏の旧領地奪還戦はジ・エンドとなり、

後は秀吉さんの援軍到着まで、北上する島津軍に対しての守りを固める他

なくなるんですね・・・ 今回は、今月6日に巡った先の写真と併せて、

旧領地奪還戦終了に至るまでの経緯をお話させて頂こうと思います







天正12( 1584 )年3月、反大友派を味方に付け九州第3勢力となりつつあった

肥前の龍造寺隆信を、島津・有馬連合軍が討伐 反大友派は一斉に島津氏に

なびきますが、この隙に今度は大友宗麟の嫡男・大友氏22代義統( よしむね )が

旧領奪還戦に乗り出します 同年7月、義統は7千名の兵を集めると、実弟の

田原親家( 田原家を継いでいた宗麟の次男 )を大将に、筑後へ出陣させます


猫尾城マップ

最初のターゲットは八女郡黒木町猫尾城。 当時は龍造寺氏方の黒木家永

さんが守る山城でした。 国道442号線沿いの黒木中学校裏山を登っていくと、

城山公園の案内パネルと、お手洗いのある広場( 二の丸曲輪跡 )に到着。 

標高240mの本丸曲輪跡へは 正面の鬱蒼と茂る森の中を突破ルートか...  

猫尾城・駐車場から本丸登り口を臨む

国道から二の丸曲輪跡まで登ってくる道は狭い上、急角度で折れ曲がっていて、

ハンドルを切り直してスイッチバックしなきゃ進めないコーナーもありました。

本丸曲輪跡へは更に、トレッキング並みに険しい山道が待ち構えてます

黒木猫尾城・本丸跡へ
 
義統さんが何とか集めた大友軍も、まーりたん一味同様山城での実戦経験が

未熟な若い兵ばかりだったためか、ひと月経っても猫尾城を落とせず、筑前守の

立花道雪さんと高橋紹運さんに応援を要請 命を受けた道雪さんは八月中旬、

同行を申し出る娘婿・統虎を説得し、立花城の留守を任せて二千の軍勢で出陣


猫尾城本丸曲輪

道雪さんの軍は大宰府で高橋紹運さんの軍と合流し、約四千の兵となり筑後へ。

黒木に到着したのは8月20日。 ここから雷神&風神の巻き返しが始まります

猫尾城・本丸からの眺望

黒木氏の家老を内応させて猫尾城を落としたのが9月5日。 続いて星野川北の

尾根に建つ 犬の尾城の川崎氏、矢部川の支流・白木川に面した峯 山下城

蒲池氏を降参させ、道雪さんと紹運さんが加わった大友軍は、龍造寺氏によって

奪われていた筑後の旧領を、正に飛ぶ鳥を落とす勢いで奪還していくんです 






そして次なるターゲットは、運命の柳川城

一見すぐに落とせそうな平城ながら、問題は柳川城を囲む水路

これが予測を上回る要害となって、大友軍の前に立ちはだかります

籠城戦で対抗する当時の柳川城主・龍造寺家晴さんも、充分な兵糧と本拠地

肥前へのルートを確保して万全の態勢 持久戦へと持ち込まれてしまいます。

よって、道雪さんたちは一旦 久留米の高良山へ陣を移し、年を越すことに




長くなりましたので、この続きは次回にしたいと思います






余談ですが、道雪さんがついに落とせなかった筑後の柳川城は、

ま~不思議なことに秀吉さんの九州平定後、援軍到着まで島津軍から

筑前の立花城を守り抜いたご褒美として、道雪さんの娘婿、いいえ

愛息子同然の立花宗茂さんの手の中に、計らずも落ちてくるわけなんですね。

もしかするとこれは道雪さんの深い愛のなせるミラクルだったのかも、なんて




八女観光物産館ときめきの八女茶ソフト♪

八女観光物産館で食べた八女茶ソフトリアルなお茶味で美味でした





紹運と宋雲尼【】【9】【10





●参考:吉永正春著・九州戦国の女たち岩屋城[1586年]玉砕覚悟の籠城戦







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2013/10/11(金) 20:05 | コメント:4 | トラックバック:0 |


昨日は立花道雪さん&高橋紹運さんの陣中見舞いで久留米と奥八女へ

快晴の中、久留米方面へ

昨朝の大分自動車道は濃霧のため通行規制 別府で一旦降り、湯布院から

再び乗ったはいいけど、暫くは前方の車がやっとこさ見えるぐらいの視界不良で

どーなることかしらんと思っていたら、福岡はこの通り、抜ける様な青空でした





久留米IC で降りて南へ数キロ。 山道をぐるぐる登って到着したのは延命長寿、

開運厄除け等のご利益が頂ける耳納山麓、高良山の高良( こうら )大社

前日の雨に洗われた木洩れ日が何とも神々しい雰囲気です

前日の雨で洗われた杜の木々 梢から射し込む陽の光もホントにピッカピカ

ぽかんと大口開けて見とれるぐらいの神々しさだけど、今日は紫外線も強そ~ 




あわてて探険隊ハットを目深にかぶり直して 鳥居の左にカメラを振ると・・・

高良大社石段登り口

沢田マンション( 知らない方はごめんなさいご興味あれば検索してみて下さい )

を彷彿とさせる趣たっぷりの建物 何だか廃屋的な雰囲気も醸してますが・・・

高良大社の社務所兼展望所
 
向かって右の階段を昇った最上階は高良大社境内に繋がる展望台なんです

そこからの景色がまた素晴らしいこと 久留米市内と筑後川を一望できます。

九州自動車道、久留米市街地と筑後川を望む

左カーブした道路は九州自動車道。 黄金色の平野を横切る筑後川






由緒によれば、高良大社の創建は西暦400年頃。 筑後川流域に暮らす人々が

生活守護大神として八幡神高良玉垂命住吉大神を祀った筑後一ノ宮です。 

社殿の奥の森林は古代山城あとです

八幡大神は、身重の体で朝鮮へ出兵した お馴染み神功( じんぐう )皇后や、

その息子で第15代・応神天皇など、武士が崇拝する神様ですよネ。 住吉大神

イザナキが日向の池で禊をした時に生まれた航海の神様で、 底筒之男命ほか

5柱。 里中先生の古事記巻末資料にも載ってます、お持ちの方は是非チェックを




高良玉垂命は ちょっと聞き慣れないので誰じゃいなと調べてみたところ

長生きの神様、武内宿祢( たけのうちすくね )のことでした 古事記では

360歳まで生き 12代景行天皇から16代仁徳天皇までの5代に仕えた、天皇の

頭脳であり腹心として登場します。 ははん、だから延命のご利益があるのかぁ






スッキリしたところで、高良大社境内奥の森林をお散歩しよう

境内の奥は森林遊歩道

遊歩道右わきの石柱と、石柱背後の苔生した方形の石垣にご注目



史跡・神籠石 』 と刻まれてます。 そっか、高良山古代山城だったんですね

苔生した四角い列石は当時、砦として積まれた神籠石( こうごいし )の様

来年の大河でブレイク必至の黒田官兵衛( 如水 )さんは、中津城の石垣を築く際、

西日本に多く分布する神籠石( 古代山城の列石 )をリサイクルしたんですヨ。

使ったのは高良山の神籠石ではありませんけど、エコの先駆けですよネ

石碑背後の苔生した石垣は古代山城跡の神籠石

黒田官兵衛さんより一時代前の戦国時代、元亀元( 1570 )年の九州では、

九州探題職の大友氏21代・宗麟が隆盛を極めていましたが、肥前で反発する

龍造寺氏討伐のため、高良山に布陣します。 この戦( 今山の戦い )では

豊州三老戸次鑑連( 立花道雪 )さんと臼杵鑑速さん、吉弘鑑理( 高橋

紹運さんの実父 )さんが、主君・大友宗麟の指揮下で大活躍しました 





それから14年後の天正12( 1584 )年、今度は衰退の一途を辿りはじめた

大友氏の旧領奪還戦では、筑前守の立花道雪さんと高橋紹運さんがタッグを

組んで筑後へ出陣  しかし、立花道雪さんは柳川城を攻略中に病に倒れ、

年を越すために陣を移した高良山で翌年、病没します 高良( こうら )山は

豊後の大友氏にたいへん縁の深い山であり、陣跡でもあるんですね



奥八女の黒木町へ

福岡県久留米市の高良山で、宗麟公や道雪さん&紹運さんに陣中見舞いを

済ませた後、同県八女( やめ )の黒木( くろぎ )町まで足を延ばしました 



黒木中学校裏山の頂には猫尾城( 黒木城 )跡があります 

猫尾城(黒木城)南北朝時代に黒木氏が築き、地名の発祥になりました

天正12(1584)年7月、宗麟の嫡男で大友氏22代義統( よしむね )の命による

立花道雪さん&高橋紹運さんの筑後旧領奪還戦は、この猫尾城から始まります。

大友氏の旧領巻き返しはこの猫尾城攻略から始まりますが・・・

それにしても本丸までの道の険しさにはびっくり いつも感じる事ながら、先人の

身体能力&根性は凄いですね 429年前、紹運さんもこの道を登ったのかな 






次回は、紹運と宋雲尼の続編・筑後出陣編を綴らせて頂く予定です







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2013/10/07(月) 18:06 | コメント:7 | トラックバック:0 |


JR田主丸駅 カッパ駅舎2階の資料室で、筑後川の河童に纏わる伝説を幾つか

読みました そのひとつ 『 ふるさと伝説探訪・河童と水縄の話 』 には、

田主丸駅裏、久大本線沿いの地区の名 “ 水縄 ” の由来が書かれていました。




水縄と言う地名は、その昔、筑後川の支流・巨瀬( こせ )川が梅雨の大雨で

氾濫した際、「 初なりの胡瓜や果物をいつも川に流してくれる御礼です 」 と

河童たちは川藻で長い長い水縄を編み、それを命綱にして、田主丸の村人を

耳納( みのう )山麓の安全な場所まで避難させた伝説に起源している様です

新馬場橋から中央橋まで続く河童の壁画

しかし、長くて丈夫な水縄を編む為に、河童たちは川底の藻を全て使ってしまい

それから十数年の間、巨瀬川は “ もへ( 藻が生えない ) ” 状態だったそう。

河童と村人とが互いを認め、助け合って暮らしていた時代を物語る “ もへ ” は、

巨瀬川で元気に泳ぐ子どもを指す言葉となり、今も田主丸地域に残っています







それでは、河童目線で対岸の新馬場橋・南側の袂に上陸

新馬場橋・南側袂の河童壁画

凧揚げをしたり愉快に遊ぶ河童たちの壁画は、この先に見える中央橋まで続き、

手前の石段を登った場所は九千坊本山・河童たちの集会所です

九千坊本山田主丸河童族・河童大明神祠と集会所はこの上です

九千坊本山には河童の神様を祀った 九十瀬入道鎮魂の為の祠があります。

九十瀬入道とは、巨瀬川の蛇淵で暮らしていた平清盛の化身と伝わる河伯

( かっぱ )の事で、川の殿様であり水神様です 河童とは別らしいんですね。

河童大明神由来記1

かっぱ駅舎2階・河童資料室の 『 菊池家系譜考~田主丸町郷土会資料

によれば、久留米市 瀬ノ下の水天宮祭神は、寿永4( 1185 )年2月に長門

壇ノ浦の戦いで滅亡した平家一門の安徳天皇、生母の健礼門院、平清盛の妻

平二位尼時子と、別天神の天御中主神。 平清盛は九十瀬入道となって巨瀬川の

蛇淵に棲み、妻に会う許しを 九千坊に請い、年に一度の面会を許されます 


河童大明神由来記2

九十瀬入道河伯が妻に会うため、田主丸を流れる巨瀬川の蛇淵から、

瀬ノ下の水天宮へ向かう時に、筑後川は逆巻き、洪水になるという事です









それじゃ川岸の石段を登って、河童大明神様に御挨拶に行きましょうか 

祠は廃墟のレンガ壁奥に鎮座しています。 あら、祠の扉が開いてるワ

廃墟の隣に赤い扉の祠・河童大明神

河童大明神さんは、九十瀬入道の鎮魂のほか、善男善女がお願いすれば

商売や病気、いじめのいずれにも勝つご利益を下さるそうですよ 

今日は祠の扉が開いているので、オープンマインドモードなのかしら

ここはひとつ大きな声ではっきりと、時には神様におねだりしてみようかな

河童大明神の祠・扉が開いてます♪

祠の正面は大木が根を張り、踏みつけて近づくのは心苦しいので

ズームで一枚だけ、撮らせて頂きますね、河童大明神さん








河童大明神の大祭日、毎年8月8日には、町内の河童たちがここへ集まって

それは賑やかなお祭りが催されるんですって この場所から眺めていると、

木の枝に腰かけてカジカみたいな声で歌ったり、廃墟のレンガ壁にもたれて

気持ちよさそうに酔いつぶれる河童さん達が、なんとなく想像できてしまう 

毎年8月8日に町内の河童がここに集まるそうです

田主丸かっぱ駅舎2階の資料室で読んだ 平成8( 1996 )年8月28日号の 

読売新聞 『 行く夏の妖怪譚 』 では、河童は清流の象徴であり、民俗学の

研究者の間では、河童を龍や水妖の蛇と同じく、水神の裔として論じていて、

実際、福井県の九頭竜川では、上流の鉱山からカドミウムが流出していたのを

河童が現れて報せてくれたという話が、現代民話考に収められているそう


昭和28年から水害を防いでいる河童(ひばり川)

膝を抱えたコチラの河童くんは、巨瀬川の北を流れる ひばり川にいる子で、

昭和28年の大水害の後に造られたと伝わります。 ちょっと年季が入り過ぎて

いるせいか、近づいても直ぐに河童の像だとは判り辛いのですが、彼がここに

鎮座して以降、田主丸地域では大きな水害は起きてないのだそうです


新馬場橋から壁画は中央橋まで続いてます

河童の祠がある新馬場橋の河童壁画は、この中央橋まで続いてます

田主丸には、仁徳天皇の時代にまで遡る元祖・河童伝説が残っていますが、

大体は室町時代に登場し、日本各地で語られる様になるのは江戸時代。




夜窓鬼談 』 にはこんな話が 筑後柳川藩士の妻が寺へ参詣した時に、

途中の茶店に美童がいて、盛んにあいさつをする。 無視して寺へ入ると、

またやってきて、今度は手をとろうとする。 挙句は屋敷にまで現れたため、

主人が怪しみその手を切り取ると指が三本。 ほどなく河童が手の返却を求め

謝りに来て、御礼に秘伝の接骨法や、はり薬の製法を教えたという話・・・。

人間の女性に恋しやすいのが、河童くんのウィークポイントでもある様ですネ 


田口長衛門河童遭遇の碑(中央橋南側袂・行徳酒店前)

中央橋、南側袂の 田口長衛門河童遭遇の碑。 

この場所にも柳川藩士の話に似た 河童切傷全創膏の伝説が残ってます


中央橋・胡瓜を持った河童

心を寄せずにはいられない、愛すべき河童たちの気配が感じられる不思議な

場所や御紹介したい伝説はまだ数多くありますが、この辺でそろそろおひらきに

したいと思います。 お付き合い下さった皆様、本当にありがとうございました





田主丸駅には、24か所の河童史跡が記された“ たのしかっぱめぐりマップ ” も

置いています。 とても分かり易いので、田主丸散策の折には是非ご参考に

たのしかっぱめぐりマップ(田主丸駅に置いてあります)

楽しく生まる幻影の河童たち、遊べ遊べ。

あなたの出会った河童にどうぞ宜しく・・・では










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2013/07/29(月) 17:55 | コメント:5 | トラックバック:0 |


『 田主丸を流れる巨瀬川流域には河童を祀った不思議な所が数多くあります。


町内の船越校区 小川の河童大明神、川会校区の志床の川ん殿さん、

同じく川会校区の唐島の川ん殿さん、田主丸校区 東町の馬場ノ瀬神社、


田主丸校区の馬場橋のたもとの河童大明神、馬場橋のちょっと下の

河童の休み岩、田主丸小学校の裏手の河童の登り口、それに巨瀬川の男蛇淵、

女蛇淵などなど、数えたらきりがないほどに不思議なところだらけです・・・。

田主丸駅で迎えてくれた哲学かっぱさん♪

どうぞ、ごゆるりと田主丸の河童漫遊をおたのしみください。

そして、あなたの出会った河童に宜しく。 では・・・・・・・・ 』 





なんて、河童漫遊の著者・たぬしまる河童族の方は指南して下さったけど、

沢山あり過ぎて、さてどこから・・・ 

そうだ まずは大陸から日本へやってきた九千坊一族が筑後川へ移住後、

本拠地を構えたというメモリアルな場所、巨瀬川の蛇淵を訪ねてみよう






JR田主丸駅前から久大本線に沿って東へ一つ目の角を左折。

中央公園を過ぎ、巨瀬川に架かる馬場橋を渡ると、左手に田主丸総合支所

この辺りが、かつて蛇淵と呼ばれていた場所なんだそうです

久留米市田主丸総合支所

総合支所のすぐ裏は、河童に纏わる史跡が集中する巨瀬川。 お手洗いも

駐車場もありますので、河童めぐりはココからスタートされると便利ですヨ






あら 国道210号線に面した支所入り口に早速、人影ならぬ河童影が。

楽太郎河童くん、お迎え河童さんに続き、本日出会った3体目の河童さんですが、

リアルな人間の男の子風でもあり、怪しげなオーラを目一杯振りまいてます

田主丸総合支所の河童・ひろしくん

彼は、河童のヒロシくんといいます 

田主丸駅カッパ駅舎1階のガラスケース内に、彼の小ぶりな写真パネルが

飾られていて、“ ひろしくん ” とだけ添えられていました

名の由来や纏わる情報は一切入手できず、謎に包まれた河童くんなのです







支所裏手の巨瀬川。 西の方角に見えている一つ目の橋 新馬場橋を渡った

場所に鎮座する河童大明神( 河童達の集会所 )目指し、進んで行きます

巨瀬川・蛇淵はこの辺りです

その前に支所真裏、かつての蛇淵に残る河童関連史跡をひとつ、ご紹介



巨瀬川沿いの道と、田主丸支所に挟まれた草むらに建つ石碑には、

九十瀬入道鎮魂蛇渕跡 ” と刻まれています

巨瀬入道鎮魂蛇渕の跡

九十瀬( こせ )入道とは、筑後川の支流・巨瀬川に暮らす河童の総大将で、

平清盛の化身だと云われているんです。 福岡は筑後に伝わる河童伝説は

大陸由来の九千坊物語と、田主丸を拠点に活動していた琵琶法師たちが

語り伝えたという平家の化身説の二つが存在する様で、清盛の化身とされる

かっぱの九十瀬入道は、この蛇淵に棲んでいたそうなのです

“ 巨瀬( こせ )川 ” 、 昔は “ 九十瀬川 ” と書いていたんでしょうかネ


蛇渕には相撲をねだる子河童がでるのかしら?

九十瀬入道鎮魂蛇渕跡碑の傍らに、“ 子河童に負けてやり ナンチャラ 草相撲

なんて句碑が。 もしや、蛇淵には相撲をねだる子どもの河童が出るのかしら






そんな時、何とも絶妙なタイミングで ドボン!バシャバシャ背後から水の音

あれ見ろ、河童が出たぞ 」 更に輪をかけて嬉しそうな相方の声。

撮れ、撮れ 」 と煽るので、カメラを向けてズームアップしてみると

巨瀬川に水しぶき!もしや・・・

巨瀬川に、それっぽい水しぶきが  ついにUMAと遭遇か・・・

しぶきがおさまった水面に姿を現したものは、果たして・・・



ナルホド、河童に見えなくもないけど、全身緑色じゃないし

正真正銘、人間のお子さま達ですね

巨瀬川に河童出現?

巨瀬川は透明度が良くて綺麗 でも、川底には踏みつけた傍から滑りそうな

褐色の藻が群生してるし、背丈が届かない深い所だってありそうなのに、さすが

田主丸の子は泳ぎが上手です こんなふうに巨瀬川で自由自在に泳ぐ子は

昭和始めまでは ざらだったらしく、『 もへ 』 という愛称で呼ばれていたとか






あっ、また潜った  

巨瀬川

それにしても河童巡りをしている最中に、こんな風景に出くわすなんて・・・。

河童たちからのサービスでしょうかね 情緒を演出してくれて、ありがとう





巨瀬川で自在に泳ぐ筑後っ子を横目に、再び新馬場橋の方へ歩き始めたところ、

今から飛び込むので、観てて下さーい 」 弾ける元気な声に

呼び止められて振り返ると、川岸には筑後ちびっ子ベテランスイマー達が整列

なんでも、これから一人ずつ、飛び込むところを見せてくれるらしいのです。

しばらく眺めていたのに多分、気付いてたんでしょうね





とはいえ、水辺の事故も起きやすい季節

ここはひとつ、大人として、でも頭ごなしに 「 危険だからやめなさい! 」 も

アレなので、「 危ないよー 」 とりあえず言ってみたところ、

ここは深いんで、大丈夫でーす

またまた元気いっぱいな声( しかも、きちんと敬語で )が返ってきて、

言い終わるや否や、彼らのデモンストレーションは始まってしまいました・・・

巨瀬川に架かる新馬場橋・南には常に耳納連山

ふたりの拙いギャラリーに演技を披露し終えて、満足そうなもへたちへ

ありがとー 」 手を振って別れた後 ようやく辿り着いた新馬場橋。 


田主丸は、真南の方角に屏風状の耳納連山がそびえているため、散策中は

良い目印になるんですね 次回は、新馬場橋を渡った南側の袂

こんもりと茂った木の下の ちょっぴり不思議な祠をご紹介させて頂きます 


田主丸かっぱ漫遊、次回も続きます









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2013/07/26(金) 18:04 | コメント:10 | トラックバック:0 |


びっくりさせてごめんなさい

でた!河童(笑)

ここは JR田主丸駅 カッパ駅舎2階に設けられている河童資料室です

まーりたんが持っているのは、魔除け・除災招福の河童面

後ろの本棚には、妖怪博士・水木しげる大先生の著書をはじめ、河童に纏わる

書籍がぎっしりと並んでいます。 さらに資料室の壁には古代、大陸から九州の

田主丸へ移り住んだと伝わる九千坊河童( 河伯 )について、郷土史家や九大

農学部助教授の考察レポ等も貼られており、毎度の事ながらつい熟読








踊り場の窓から眺める久大本線と夏の空。

田主丸河童駅舎の二階より
 

資料室へ続く階段の壁や踊り場にも、日本最古の河童の画や文献の写しなど、

所狭しと河童関連資料が展示されているんですが、その中に水木しげる先生

お姿を発見 上の画像中央の柱がある辺りで撮影された写真の様です

平成4(1992)年9月4日に水木しげる先生がいらしてました

先生は平成4( 1992 )年9月4日に、田主丸へいらっしゃったんですネ

鬼太郎に代表される水木先生のマンガやアニメも大好きですが、小学校の頃

繰り返し読んでいたのは、『 のんのんばあとオレ 』 でした。 夕暮れ時は

背後からべとべとさんがついて来る気がしたし、トラウマになる位に面白かった









さて、前置きが長くなりましたが、こちらは資料室の壁に10枚編成で、紙芝居風に

紹介されていた、福岡は田主丸に伝わる 『 かっぱの総大将 九千坊物語 』。

国指定・田主丸の河童伝説を学習♪河童の九千坊物語1

一体どんな伝説なのか、拙ブログにも資料として残しておきたいので、ノーカットで

お届け&掲載させて頂きます。 宜しければ、どうぞご一緒にお楽しみ下さい


九千坊物語2

天地をも狂わす九千坊が神の怒りにふれ、九千メートルの威容を誇っていた

事から九千山と呼ばれた 今のエベレスト山に閉じ込められたのは、ずーっと昔。 


九千坊物語3

神の怒りがとける時がようやく訪れます。 九千山のてっぺんに強い光りが

突きささり、頂上付近は大音響とともに崩壊。 幽閉されていた九千坊は

飛び散る巨石と一緒に、インドのデカン高原まで吹き飛ばされてしまいました。 


九千坊物語4
 
かっぱの総大将・九千坊が解放されたことで、世界中の河童たちは大変喜び、

九千坊は、崩壊で低くなった九千山を元通りにする事を生涯の目標にします。


九千坊物語5

世界中の河童を総括していた九千坊の幽閉中に、頭角を現したのが孫悟空の

兄弟で、中国の川に棲む河童・沙悟浄です。 沙悟浄は既に世界中の山や川を

支配下に置き、残すはヒマラヤだけとなっていました。


九千坊物語6

山の河童と、沙悟浄率いる川の河童との攻防戦は、来る日も来る日も続きます。


九千坊物語7

頭目カッパ同士が対峙したのは、パミール山地のタクラマカン砂漠でした。

新興勢力の沙悟浄も、九千坊に負けない実力の持ち主。 長老の提案により、

沙悟浄と九千坊は、九千山の崩壊時に吹き飛んだ巨石で力比べをする事に。


九千坊物語8

力比べもなかなか勝負がつきません。 しかし、九千坊が重さ九千トンもの巨石を

軽々と持ち上げ、遠くまで投げ飛ばしてしまったことで、沙悟浄はついに降参。


九千坊伝説9

川河童の大将・沙悟浄を参謀役に、九千坊は河童の総大将に君臨します

九千坊たちは、砂漠に散らばった巨石を九千山へと運び、修復につとめますが、

巨石の間を埋める上質な栗石が必要です。 沙悟浄の助言により、九千坊達は

シルクロードを進み、中国、朝鮮を経て海を渡り、日本を目指します


九千坊伝説10

九州は熊本、八代に上陸した九千坊たちは、そこから筑後川をさかのぼり、

田主丸を流れる支流・巨瀬( こせ )川の蛇渕に、本拠地を置くことに決めました。

ヒマラヤの雪解け水もさることながら、筑後の川水も神通力が冴えわたる美しさ。


九千坊伝説11

九千坊は、九千匹の家来達を日本中の河川へと分散させ、

九千山が元の高さ九千メートルに戻る日を夢見て、毎日せっせと川底の小石を

集めては今も、ヒマラヤへ運ばせているんだそうです

お~しまい








田主丸の馬場瀬神社に安置されている九千坊と名軍師沙悟浄の木像です。

河童の九千坊と沙悟浄

古代、大陸から九州へ移住し、日本各地へ分散したという九千坊一族の話


梅木利巳氏( 九州大学農学部助教授 )説では、九千坊は中国雲南省から

インド東北部一帯、温暖で豊かな水にも恵まれた肥沃なアッサム地方の出自。

火野平氏説は、九千坊はパミール山地( 中央アジア )タクラマカン砂漠を流れる

ヤルカンド河の源流に棲んでいたが、寒冷と食糧不足の為、二隊に分かれて

大移動をし、うち一隊はハンガリーの首都ブダペストに定住したと唱えています 




 

JR田主丸駅の河童資料では、九千坊一族が日本へ渡海した後については次の

通り これは各時代、九州で起きたどんな出来事を物語っているのでしょう

九千坊物語考3

五世紀初めに球磨川河口、八代の “ 徳の津の淵 ” に上陸、定住するものの

戦国時代に球磨川を追われ、筑後川へと逃げ延び、一旦は久留米水天宮の

護り役となる九千坊一族。 しかし、江戸時代の文化年間( 1804~1817 )、

久留米藩主・有馬家は、水神様を日本橋の蛎殻町へ移し、水天宮を祀ったことで

九千坊一族も下屋敷に近い海を離れ、後、隅田川で暮らすようになったとか・・・。





筑後川畔で生まれ、筑後川の水を産湯に使ったという筑紫次郎の伝説紀行には、

筑後のカッパは、田んぼの水を汲み上げたり、害虫を駆除してくれたり、

それはもう良い事ずくめだった。 ただ、ちょっとだけ人間の女性に

惚れやすかったり、相撲をとろうとねだる以外は、人に悪さをする事はない


と御紹介されてます





久留米市瀬ノ下の水天宮総本社には現在、安徳天皇や生母の健礼門院など、

平清盛一族が祀られています。 だからなのか、田主丸を流れる巨瀬川に棲む

河童については、平清盛の化身で、九千坊の家来だとする伝説もあるんです

このお話は、これからスタートする 田主丸カッパ史跡めぐりの折にでもまた

田主丸を流れる巨瀬川

河童に纏わる史跡が集中する巨瀬川のほとりを散策中、こちらに気づき、

今から飛び込むので、観ててくださーい 」 と、

ポーズをきめ、不自然なほど人懐っこく叫ぶ元気なカッパ 筑後っ子たち 

ホンモノに出会ってしまった・・・


次回へ続きます








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2013/07/24(水) 18:23 | コメント:5 | トラックバック:0 |


大分自動車道を朝倉IC で降りて、県道80号線を15分ほど南下

筑後川を渡り、かつて久留米と日田とを結ぶ豊後街道の宿場町として栄えた

吉井白壁の町から西へ数分走ると、屏風状の耳納( みのう )連山を背景に

可愛いファサードが目を引く JR田主丸( たぬしまる )駅に到着します

耳納連山をバックに河童駅舎登場

えっ、アヒル いえいえ、河童をモチーフにした駅舎ですヨ 

昨日の日曜日は、河童伝説の本場( なんと国指定らしいです

福岡県久留米市の 田主丸( たぬしまる )へ出掛けてきました





今からおよそ1600年前 仁徳天皇( 在位期間・西暦394年~427年 )の時代、

中国大陸でアノ有名な沙悟浄率いる川河童一族と戦い、勝利したという

九千坊( くせんぼう )を総大将とする陸河童一族が、熊本は八代に上陸

後、ここに移り住んだという由緒正しき?河童伝説が息づく町・田主丸。

たぬしまる駅


いま、繰り返し読んでいる里中満智子先生の古事記< 弐 >にも登場する 

16代・仁徳天皇( 大雀命 )は、身重の体で朝鮮を攻めた神功皇后の孫に

あたります。  仁徳天皇の在位期間は四世紀末から五世紀初め。 

古事記で描かれる神功皇后の朝鮮出兵は、実際に日本が朝鮮を攻略し、

軍事拠点・日本府( 6世紀半ばには消滅します )を置いていた

この時代の出来事を語ったものだと云われています。





なので、沙悟浄一族に勝って勢いを増し、九州は熊本へ上陸したという陸河童

九千坊一族は、もしや大陸の水軍の事ではなかろうか、なんて想ったり

総大将の九千坊河童、 田主丸では “ 九千坊河伯 ” とも書くんです






こうした経緯で古代、中国大陸より筑後の田主丸へと流れ、そのまま住みついた

河童一族は、村人たちが採れたての胡瓜や果物を河童の棲む川に流してくれる

お礼に水害を防ぐなど、読んで字の如く “ 屁の河童 ” で、不幸や災害を遠ざけ、

笑いや希望を振りまき、人々と共存共栄の歴史を築いてきたのだそうです  

田主丸河童漫遊のすすめ(田主丸・河童族)
( 田主丸・河童族末裔の方による河童漫遊手引書 ヨリ






そんな河童たちが気になって気になって、頭のお皿に蓄えた水が沸騰しそうに

なった昨日 ついに現地・田主丸を訪ね、河童めぐりの旅を決行
 
田主丸駅・楽太郎河童像

この日、最初にお目にかかった河童くんは、田主丸駅前ロータリーの植え込みに

暮らす河童の楽太郎くん 優しい村人がプレゼントしてくれたのでしょうか、

田主丸の特産品、ぶどうや柿を両腕いっぱいに抱えています

彼の背後の解説板には、田主丸という地名の由来も書かれていました。

田主丸駅・地名の由来

ふむふむ、楽生( たのしくうまる )で、田主丸( たぬしまる )か

そして人生を思う存分楽しんで、楽しく埋まる これが出来たら言う事なし


JR田主丸駅

愛くるしいかっぱ駅舎は、平成2年に老朽化した田主丸駅を改築する際、

福岡県立浮羽工業高校建築科の生徒さんのアイデアで、実現したものだそう

河童がごろんと寝そべった姿で、ボディは向かって右側( 2枚目の画像 )。

お顔部分は、2階が河童に纏わる資料室。 1階は観光協会・特産展示室と

会議室です。 ガラスケースの中には、土鈴など河童を象った工芸品がずらり。

田主丸駅・特産展示室1F


ここから見える田主丸駅のホームには、耳納連山を背にあぐらをかき、哲学者

ふうな顔で旅人を迎えてくれる “ おむかえ河童 ” さんもいらっしゃるんです。

田主丸駅ホームのお迎え河童

田主丸河童漫遊~旅人かえらず

田主丸・河童漫遊より、これはお迎え河童さんの心の呟きだったりして







あっ、汽車が入ってきた

田主丸駅ホーム・耳納連山をバックにあぐらをかく河童さん


続いては駅舎2階の河童資料室を覘いてみたいと思います

田主丸 河童漫遊。 次回も続きまーす

田主丸河童漫遊

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2013/07/22(月) 23:16 | コメント:11 | トラックバック:0 |


筑後川のほとり、福岡県久留米市 篠山町に遺る久留米城址

現存石垣と内濠に守られた本丸の正門 冠木御門( かぶきごもん )跡手前を、

石垣に添って東側へ回り込んだ所に、駐車場がありました

久留米城址・月見櫓の石垣(福岡県久留米市篠山町)駐車場


金網越し駐車場の東には、九州自動車道久留米IC で降りた後に通ってきた

久留米観光コンベンションセンターや、久留米大学病院が見えてます

久留米城址の東側には久留米大学医学部


本丸正門・冠木御門跡の南には、藩主の御殿が置かれていた二の丸があり、

さらに二の丸の南側には、御蔵番や家老の屋敷が置かれていた三の丸。 

今はブリヂストン久留米工場敷地の一部ほか市街地化されていて、往時を

偲ばせる石垣が遺る本丸跡には、篠山神社と有馬記念館が建てられてます。

久留米城址解説板


ではでは、これより久留米城本丸跡を のんびり見学したいと思います

お時間の許す限り、どうぞご一緒に探訪気分をお楽しみ下さいませ

福岡県久留米市篠山町の久留米城址・月見櫓跡

先客探訪グループの背後にそびえる立派な高石垣

あの上には、本丸東隅の二重櫓 月見櫓が建っていたと云います

久留米城本丸には、多聞櫓で連結された七つの大きな櫓があったそうですが、

現存するものは無く、今は石碑が往時を物語るのみ 心の目で見てネ


久留米城址・蜜柑丸跡(駐車場側の登城口下)

高石垣下の土塁( 盛土 )部分は、蜜柑丸跡と称する腰曲輪( こしくるわ )。

築城に際し本丸と二の丸との間に高低がある時、本丸腰部に設けた通路用の

囲いを 腰曲輪と呼ぶらしく、蜜柑の木が植えられていた事が名前の由来の様。







月見櫓跡へ続く石段を上り、本丸東側から登城します

久留米城本丸・月見櫓の石垣。駐車場は蜜柑丸跡

苔生した石垣は雰囲気ありますネ。 しかし高っ、地上15mぐらいかしら






高石垣に添う石段を登りきった所に、城跡内史跡めぐり案内板を発見

久留米城址内史跡めぐり解説

久留米城址をご存知でないお城好きの皆様、本丸跡はこんな具合になってます。

薄紫色の四角い番号1~4は、道標の石碑が建っている箇所です

久留米城内案内マップ

まーりたんは只今、黄色い丸の5番月見櫓跡北の現在地に出没中






本丸中央部に拝殿と本殿が鎮座する、有馬三氏が祀られた篠山神社を

北西に臨むこの広場は、歴代久留米藩主が政務を執った 本丸御殿跡です。

久留米城本丸・本丸御殿跡
久留米城本丸・本丸御殿跡(碑)




そして、同じく本丸御殿跡にひっそりと鎮座していた、見るからに長い歴史を

醸している古い祠の様な神社が、16世紀の秀吉さん時代に 久留米城主を

務めていらした 毛利秀包( ひでかね )公を祀る 小早川神社です。 

久留米城址本丸・毛利秀包公を祀る小早川神社

拝殿も本殿も区別されて無い、ご神体そのものみたいな神社ですので、心して

手を合わせた後、少し離れた位置から一枚だけ、撮らせて貰いました

でも、

解説板はしっかりと! 

毛利秀包公を祀る小早川神社(久留米城本丸)・解説

秀包公のお噂を知って、豊後府内より馳せ参じました まーりたんと申します。

ここまで無事に来させて下さり、ありがとうございました お目にかかれて光栄です

来年の大河では、毛利秀包公は何方が演じられるんでしょうネ 







幕末まで久留米藩を治められた有馬さん一族については、まだまだ勉強不足

ですが、有馬三氏が祀られた篠山神社、そして摂津国ご出身の有馬氏初代・

有馬豊氏( とようじ )公が入封の際、それまで治めていた丹波国福知山より

遷されたという赤い鳥居の大乗院稲荷神社にも、それぞれ心して参拝

久留米城本丸跡・道しるべ

毛利秀包公が改易された後は、関ヶ原に於いて石田三成公を捕縛した功績で

柳川城主となった田中吉政公が この久留米城に二男を入城させて支城とし、

筑後柳川の利水事業に大変力を尽くされますが、跡継ぎが無かった事で改易に。



次いで元和7(1621)年、丹波国 福知山城主の有馬豊氏公が21万石で入封、

久留米城主へ。 同時に、関ヶ原では西軍に付いた事で 一時は除国処分となった

立花宗茂公大友氏重臣・立花道雪さんの娘婿 )が、11万5千石で柳川城主へ

返り咲き それぞれの人生にドラマありですね 今生でのお勉め、お疲れ様と云いたい 









久留米城本丸跡、個人的な都合により、戦国時代関連の史跡、お話に偏った

ご紹介になってしまいましたが、最後の一つは近代のものを思い切って・・・

篠山神社の拝殿西側に在る 東郷平八郎( 東郷元帥 )さんの旧書斎です。

久留米城本丸跡・東郷元帥旧書斎跡

久留米城址に書斎を持っていらしたのかと、ちょっとびっくりしたんですが

由来碑によれば、久留米市出身で実業界に名を馳せた小倉敬止翁さんが

熱烈な元帥の崇拝者で、元帥が大佐の頃に使用されていた書斎を拝受し、

教育資料として大正15( 1926 )年、久留米市に寄贈されたのだとか

しかし老朽化が進んだことで、ブリヂストンタイヤ社長 石橋正二郎氏が

有馬記念館を寄附される際に、この場所へ移築、復元なさったそうです成程!







それにしても、東郷平八郎さんって、ものすごイケメンな方だったんですね

東郷元帥(ウィキペディア東郷平八郎より)

ウィキペディアで調べて、これまたびっくり









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2013/05/17(金) 19:14 | コメント:18 | トラックバック:0 |


『 わが殿、毛利秀包公は こう仰せになって、出陣なされました。

“ 天下分け目の決戦に西軍が敗れた時は、東軍の諸将が この久留米城に

押し寄せて来よう。 その時は我が妻子を殺し、全員城を枕に潔く討死すべし。 

ただ、敵の中に如水( 黒田官兵衛孝高 )の旗を見たならば、如水を頼って

降伏するが良い。 如水なら、城兵皆の命を助けてくれるであろう ” と。

よって私どもは、わが殿のお言葉に従い、城を黒田様に開け渡しまする 』

久留米城・本丸跡碑

冒頭のセリフは、今年1月に BSジャパンで再々アンコール放送されたTVドラマ

戦国疾風伝・二人の軍師~秀吉に天下を獲らせた男たち ” の原作本

竹中半兵衛と黒田官兵衛~秀吉に天下を獲らせた二人の軍師 (嶋津義忠著)より

引用させて頂いたものですが、黒田官兵衛と言えば、来年は大河ドラマの主役 



キャストも続々と発表される中、あえてご説明させて頂く必要もないと思いますが、

まーりたんは黒田官兵衛が初代城主を務めた豊前中津城の在る大分県中津市で

小学校時代を過ごし
、中津生まれの祖母からは、如水の話を度々聞かされて

育ちました。 ブログでもこれまで如水関連の記事を、稚拙ながら書いてきました。

ですから、大河が決定した時は凄く嬉しくて、今は待ち遠しくてたまりません








慶長5( 1600 )年の天下分け目の戦い・関ヶ原の頃、如水( 官兵衛 )は55歳。

石田三成と折り合いが良くなかった黒田長政( 如水の嫡男 )は、直ちに東軍旗を

揚げ、中津城より出陣 既に隠居し、僅かな家臣らと留守を守っていた如水の

もとへ、豊臣秀吉に本領・豊後大分を改易された大友義統( 大友宗麟の嫡男 )が

豊後奪還を賭けて西軍旗を揚げ、別府へ乗り込んで来たとの知らせが入ります

老臣らが籠城戦を勧めるのを断って如水は兵を募り、意を決し中津城を出発。



大友義統が手始めに攻めた東軍・細川忠興家臣の城 杵築城へ救援に向かい

大友軍を破り( 石垣原の戦い )、更に如水率いる黒田軍は九州における西軍の

諸城を次々と降伏開城させ、主を失った城兵は召し抱え、勢力を増して行きます。








ひと月程で豊後大分を平定した如水軍は北上し、福岡の香春( かわら )岳城、

小倉城を落とし、次いで10月18日に開城させたのが毛利秀包の久留米城

毛利秀包( ひでかね )は、云わずと知れた西国一の大名・毛利元就の九男です。 


秀吉さんからの信任が厚く 如水( 黒田官兵衛 )とも親交の深かった小早川隆景

( 毛利元就の三男 )の養子だった時期もある秀包は、秀吉さんの九州平定後に

久留米城主へ。 朝鮮出兵でも活躍しますが、関ヶ原では西軍に付き改易に 

久留米城址、久留米城下町・解説板

因みに毛利秀包公の正妻は、大友宗麟公の七女・桂姫です。

黒田如水( 官兵衛孝高 )の重臣・母里太兵衛の妻もまた、大友宗麟公の娘。

例え敵方になろうとも、毛利秀包公が如水へ向ける信頼は揺らぐことはなく、

信義を重んじた戦国大名・黒田如水も、それに真摯に応えるのです







毛利秀包公は、テレビドラマ 『 戦国疾風伝 』 にも堂々登場した小早川隆景や

吉川元春など、華々しい毛利元就ジュニアの中では割と地味な存在ながら

( まーりたんは石垣原の戦いを調べている時に知った次第です、スミマセン )、

秀吉さんに見込まれた兄の為に自ら跡継ぎの座を退き、それでも戦となれば

主君・秀吉さんの為に猛将ぶりを発揮したりと、義烈の人だった事が判ります。



関ヶ原で東軍の勝利が明らかになっても、秀包の言いつけを守り最後まで断固

籠城を貫こうとした留守居家臣らの気骨さからも、同じく充分に窺えます。

黒田如水の軍勢の前へ進み、冒頭のセリフを放った久留米城の留守居家臣は

桂広繁という方だそうです。 来年の大河ドラマに登場されるかなぁ。

九州における官兵衛最後の大仕事、できるだけ詳しく描かれますように




 
 


実は筑後を探訪した日、福岡入りして真っ先に訪れたのが久留米城址なんです。

久留米城本丸跡(篠山神社・有馬記念館・駐車場)へ

九州関ヶ原の時に如水が攻略した城を巡る中で、一番来たかったお城です。

実際に訪れてみると、やはり最後の久留米藩主一族・有馬さんカラーが濃い

印象を受けましたが、内濠を渡って、クランクを左折した石段上の本丸跡には

中世・豊臣秀吉時代の久留米城主・毛利秀包公が祀られた

往時を偲ばせる小さな神社があり、心して手を合わせてきました


久留米城址・冠木御門(かぶきごもん)跡 

次回は、久留米城本丸跡に残る史跡や建造物を、

のんびりと御紹介させて頂きたいと思います どうぞお楽しみに 

久留米城址は、よーく知ってるよ~ 」 という方、

何卒ご官兵衛( 勘弁 ) ←コレ使うの二回目だ









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2013/05/15(水) 16:55 | コメント:9 | トラックバック:0 |

今日は母の日ですね。 皆様、いかがお過ごしでしょうか

そういえばウチのマンジ君ときたら、昨年の母の日は

健気にカーネーションをプレゼントしてくれるのかと思えば・・・

赤いほうもくれるの?


ただ、フラメンコのキメポーズをやってみたかっただけの様で

それがやりたかったのね・・・

マンジ君は、どこまでもマンジ君なのでした








さてさて今年のGW、まーりたん一行が久しぶりに訪れた福岡県久留米市。


九州新幹線の停車駅 “ JR久留米駅 ” 、鬼才の画家・青木繁旧居と

代表作
のご紹介に続き、久留米旅行記ラストは、豚骨ラーメンの元祖と

云われる “ 久留米ラーメン ” の老舗へとご案内させて頂きます





やってきましたのは久留米市野中町にある 『 元祖 南京千両 本家 』 

南京千両・壁看板

創業は昭和12年。 九州初の屋台として登場したことでも有名で、

数ある久留米ラーメン店の中でも、知る人ぞ知る名店のひとつです






敷地内に4台分ほどクルマを停められるスペースはあるものの、

この日も当然ながら満車。 それでも入り口近くに停まっていたベンツが

丁度出て来て、それを物陰から見計らい、入れ替わりに駐車できました 

南京千両駐車場


お店を入って右手は一家族が座れるほどの小上がり。

南京千両本家・店内

厨房はお店の奥。 その前には4名ほど座れるカウンター席があり

土間にはテーブル席がふたつ。 古くて温かみのある小さなお店です






私達が訪れた時間は、ご年配の女将さんが一人で調理場に立ち、

慣れた手つきで黙々とラーメンを作っていらっしゃいましたが、現在は

三代目が継がれているとのこと。 ラーメンをふたつ注文して待ちます

南京千両本家・著名人のサイン

久留米ラーメンの老舗だけあって、壁には著名人のサインが沢山。

チラ見しながら確認できたのはまず、鮎川誠さん ( ←妙に納得 )。 


更には人気お笑いユニット “ 二丁拳銃 ” さん。  同じくお笑い芸人の

カンニング竹山さん。 カンニング竹山さんは、福岡観光の魅力を発見し

PRする調査員として、麻生知事から特命を受けているそうですヨ





お待たせしました こちらが創業以来、今も多くの常連さんから

愛され続けている “ 元祖 南京千両 本家 ” のラーメン 

南京千両・ラーメン

お値段は1杯500円也。 

具は細切りのチャーシューと長ネギ、海苔にシナチク。

麺はちぢれ麺です。 ストレートの細麺と濃厚な豚骨スープが主流と

言われている久留米ラーメンの中では珍しいかもしれません


スープも見た目よりあっさりしていて、ほのかに甘みも感じマイルド。 

二丁拳銃さんのギャグ 「 ちょうどええ~ 」 を思わず囁きたくなります




で、完食

南京千両・オリジナルラーメン鉢

小ぶりのラーメン鉢は、なんとオリジナル

おなかもいっぱいで大満足。 ごちそうさまでした






今度来たら 「 ラーミェンふたつ下さい 」 って言ってみようかな♪

南京千両・ラーミェン

そしてそして、前回の記事でも少しお話させて頂きましたが

ここ 『 元祖 南京千両 本家 』 さんは、個人的に大ファンの、

南京千両のれん

酒場ライター、吉田類さんも訪れているお店なんです

吉田類さん

吉田類さんは、毎週月曜日の夜9時からBS-TBSで放送中の

“ 吉田類の酒場放浪記 ” にご出演されていて、東京を中心に所謂

ディープな飲み屋さんを、まるで放浪するかのごとく取材されている方

なんですが、その温和で独特な雰囲気にすっかりハートを奪われて早8年

酒場放浪記

吉田類さんは現在独身との噂。 一方、まーりたんはこれでも一応人妻


今度生まれ変わったら私は吉田類さんの・・・・ような生き方がしたい 








また、久留米は豚骨ラーメン発祥の地として有名なだけでなく、

焼き鳥屋さんが多いことでも知られているんですよね

ヤキトリやさんの多いこと

当ブログでも度々レポしていますが、大分県中津市には唐揚げ屋さんが

多く、まーりたんも歩けば唐揚げ屋さんに当たるといった感じなんですけど、

福岡県久留米市では、歩けば焼き鳥屋さんに当たるんですよね 本当に。



これについては次回、久留米を訪れた際にでも取材したいと思います






GW久留米珍道中、最後までお付き合い頂きありがとうございました

それでは皆様、引き続き素敵な日曜日、母の日をお過ごしくださいませ


2011/05/08(日) 13:34 | コメント:14 | トラックバック:0 |
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