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まーりたん

Author:まーりたん
大分県で暮らす四十路主婦
“ まーりたん ” の
ブログへようこそ(*^^*)♪

日々を彩る ちょっと素敵な
出来事を我が家の笑導犬?
マンジ君と楽しくお届けして
ます。目下、郷土史に夢中♪
心躍る探訪をご一緒に。

臼杵の富士甚醤油マスコット
キャラ・とっくりこだぬき君が
仲間入りしてからは、嬉しさ
余ってマンジ君の“ 悪がね ”
ぶりもますますエスカレート。

そんなふたり(2匹)の様子も
併せてお楽しみ下さい(*^^*)

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大河ブームに沸く豊前中津へ先日、日帰り出張だったウチのダンナさん。 

今年初の中津。 案の定、士気が高まり過ぎて仕事が手に付かなかった様子 

で、隙をみて福岡ナンバーほか大型観光バス数台が駐車中の中津城公園内に

新設された黒田官兵衛みやげ館を単身攻略。 混雑するレジに辛抱強く並び、

以下の品を手に入れその夜は得意満面意気揚々と豊後府内へ凱旋帰国

官兵衛カレンダー2014


俺が右手で代金を渡すと、レジの人は感謝しながら

軍師官兵衛と黒田二十四騎カレンダー
を袋に入れ、

こういう具合に手渡してくれたんぞ
」 と、さも自慢げ。













そのとき、汝の左手は何をしておった?

これも官兵衛、あれも官兵衛、たぶん官兵衛、きっと官兵衛♪

コ・レ・も・官兵衛 アレも官兵衛 たぶん官兵衛 きっと官兵衛








愛のくゎんひょうえ、じゃなかった 愛の水中花のモジリですが特に意味はありません。

ならびに今回の記事は、黒田官兵衛さんの名言、エピソードをご存知の方に

ちょっとばかりお楽しみ頂けるかしらん?的な内容になっております







そういった経緯で、我が家のささやかなリビングウォールは今、

濱田岳さんを筆頭とする黒田官兵衛さんの重臣軍団

黒田二十四騎の詰所と化してます




我、まーりたんに媚びず富貴を望まずニャのだ♪

「 われ、まーりたんに媚びず、富貴を望まずニャのだ














「 でも、お菓子はちゃっかり望むんだよね、マンジ君 」

くろかんくんどら焼き大納言

「 まーりたんさんの金ピカシール攻撃に耐え忍ぶマンジ君へのご褒美に、

だんなさんは、あ!官兵衛くんに続いて誕生した新・黒田官兵衛キャラクター

くろかんくん焼き印入り銅鑼焼き大納言を、買ってくれたみたいだよ













「 それは、かたじけニャいのだ・・・。 無駄ニャ我慢も時たまお得だニャ~

でもお菓子は望むんだよね。気が済んだかいマンジ君?

「 夏の火鉢、旱( ひでり )の傘。 今回は偉かったね、マンジ君 

ところで、気が済んだらそろそろ降りてくれないかな、重いから










本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます

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2014/01/22(水) 18:48 | コメント:11 | トラックバック:0 |


大河ドラマ 『 軍師 官兵衛 』、満を持してついに昨日スタートしましたね

御覧になられた皆さま、如何でしたでしょうか

秀吉さんの天下統一を参謀役というポジションから支えた 岡田准一さん扮する

主人公の官兵衛さん( 黒田官兵衛孝高=黒田如水公 )は姫路のご出身ですが、

拙ブログでも度々記事にさせて頂いている通り、大分県にも大変ゆかりの深い

先人さんです。 なので、一昨年の10月に今回の大河放送が決定してからは、

ハリー・ポッターの誕生を待つかのごとく、この日を心待ちにしてきました





画面左側の柱 検索フォーム枠内に、「 黒田官兵衛 」または「 黒田如水 」の

キーワードを入力して検索ボタンを押して頂ければ、これまで訪ねた官兵衛さん

ゆかりの史跡紹介記事一覧が表示されます。 ご興味ある方はどうぞ





黒田官兵衛さんは、天正14( 1586 )年7月25日、秀吉さんから九州平定

露払い( 先鋒 )を命じられ、翌年その功によって福岡県東部~大分県北部に

当たる豊前( ぶぜん )6郡12万石を拝領。 大分県中津市の山国川河口域に

豊前 中津城を造営し、初代城主となります 夕べ、ご当地である中津市では

商店街に大型モニターを設置しての鑑賞イベントも催された様で、放送終了後に

メディアのインタビューをお受けになる中津市長さんの嬉しそうに涙ぐまれた

優しげな笑顔を今朝のニュースで拝見し、胸がじーんとしてしまった次第です





歴史にお詳しい方ならご存知とは思いますが、稀代の天才軍師としても名高い

黒田官兵衛さん だけど、傍目に映るスマートさや運の良さは、状況を的確に

素早く判断&合理的に処理する能力よりも前に、物事を成し遂げる為には先ず

相手を思いやる心や、全身全霊で臨む覚悟が必須だと知っていたからこそ  

大河・軍師官兵衛の第一話は、九州を平定した秀吉さんの天下統一総仕上げ

天正18( 1590 )年6月24日、小田原征伐の交渉シーンから始まります。 


赤壁の合元寺(大分県中津市寺町)

小田原城を武力で攻め落とそうとする秀吉さんに待ったを掛けるのは、軍師・

黒田官兵衛さん。 官兵衛さんは小田原征伐の前年に、豊前の宇都宮氏一族を

保身のため滅ぼしたばかり。 黒田家の存亡に関わる のっぴきならない状況下

だったとはいえ、豊前領民に慕われる武将の鑑みたいな地頭・宇都宮鎮房公を

謀殺した事で、これまでスマート&人命尊重がウリだった自らの戦歴に大きな

汚点をこさえてしまいます。 良心の呵責に苛まれてか、息子の長政へ家督を

譲り、秀吉さんには隠居を願い出ていた官兵衛さん。 心もプライドもズタズタ。  

引き籠って自分を見つめ直したい心境の時なのに、これまた秀吉さんに頼られて

九州は豊前・中津から遥々、関東の小田原征伐へ引っ張り出されるんですね





人は生かしてこそ使い道があるのでございます 」 小田原の本陣で

そう進言する44歳の官兵衛さんの言葉に、ニヤリと笑う秀吉さんは御年53歳。

このセリフは官兵衛さんが遺した数ある名言のひとつですが、言葉だけを聞くと

何だか腹黒そうで頂けない感じです。 でも、勝手ながら まーりたんが思うには、

今の秀吉さんの心に素早く届き、武力行使を円滑にストップさせられる言葉を

官兵衛さんは真剣に考えて、選んだに他ならない気がするんです。 






少し前までは、足りない部分を補い合う兄弟同然に天下を目指した秀吉さんと

官兵衛さん。 でも、この時すでに秀吉さんは雲の上の人 おまけにちょっと

勘違いも起こしかけているし( 小田原征伐の翌年、秀吉さんは朝鮮出兵の為の

軍事拠点・肥前名護屋城の縄張りを行うよう官兵衛さんに命令します )、

そんな秀吉さんへ真正面から、或いは啓蒙的に諌めても恐らくダメでしょうし

このセリフ一つとってみても、どんなに振り回されても疎まれても、かつての同志

秀吉さんの胸中や立場を思いやる官兵衛さんの心遣い、品格が伝わってくる様。  






北条氏政、氏尚親子に講和を説得するため小田原城へ乗り込むのは、勿論

官兵衛さん。 しかも丸腰 今回、軍師官兵衛の歴史考証を担当なさっている

小和田哲男先生の著書にも、そう記されてます。 ドラマでは、小田原勢から

威嚇の矢玉が交渉人・官兵衛さんへ向けて派手に放たれ、そのうちの一つ

彼の頬をかすめ、一筋の血が流れます。 ここはなかなかの掴みシーンですネ

治らない足を引きずってでも、矢玉を浴びせかけられても、信念を持って進む。

人間・黒田官兵衛を演じようとして下さってる岡田さんの気迫を感じたのと同時に 

ぎりぎりの演出で、大切な事を幾つも投げかけてくれた場面だったと思います







ドラマのさわり部分を少しお話するつもりが、いつもの如く長くなっちゃいました

御覧になられてない方も多いと思うので、以後の内容は割愛させて頂きます

今回、大河のナレーションは原点回帰を象徴してか、藤村志保さんですね。 

凛とした中にも昔話を語る様なふんわりとした癒し感のあるお声で、良いですね

オープニングでは、岡田さんが颯爽と跨る馬が次第に霞を纏った白馬へ変化して

いきますが、官兵衛さんが生まれた時に姫路城を覆ったという伝説の雲を表現

している風でもあり・・・物語に組み入れてしまうと神話になっちゃいますもんね










最後になりますが、時宗の開祖・一遍上人が、弘安元( 1278 )年に備前地方

( 現在の岡山県瀬戸内市 長船町 福岡 )を遊業したときの様子を描いた絵巻物

一遍聖絵 』 より 「 福岡の市 」 ( 京都国立博物館所蔵 )を

福岡の市・一遍上人聖絵

岡山県の福岡は、官兵衛さんの曾祖父・黒田高政( 黒田重隆の父 )が、

近江から移り住んだ商業集落で、この絵は当時の様子を窺い知る事の出来る

貴重な資料として、小和田哲男先生の著書にも紹介されています

黒田官兵衛さんの息子で、後に関ヶ原の戦功で筑前52万石の大大名となる

黒田長政は、福岡城を築城した筑前( 福岡県北部 )福崎の地を、黒田家繁栄の

出発点である岡山県の福岡の地名をとって、福岡と名付けるんですね。  

別府の鉄輪温泉を開いた一遍さんとも繋がっていた事で、何だか嬉しくなって

ご紹介させて頂いたんですが、ソレ知ってるよ~と言う方、どうぞご勘弁を







大河ドラマ・軍師官兵衛、第二話の放送が待ち遠しいです







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2014/01/06(月) 18:15 | コメント:23 | トラックバック:0 |


「 見てごらん、マンジ君 まーりたんさんが中津探訪のお土産をくれたよ

中津城本丸の水御門跡近くで拾ったドングリだって

中津探訪のお土産だって、マンジくん

「 今回のミヤゲは随分と安上がりだニャ~ というより、ずばりタダニャのだ 」













「 まーりたんさんは僕らに中津の秋を持ち帰ってくれたんだよ マンジ君

何故か西の関の升に入ったドングリニャのだ!

「 ニャかつへ行ったら 唐揚げチップスを買って帰るぐらいの気は利かせて欲しい

ものですニャ~。  早い話が、まーりたんは ケチケチオババニャのだ














「 全く、マンジ君は相変わらず減らず口だなぁ・・・

あっ、まーりたんさんだ

マンジ君は本当に減らず口なんだから・・・あっ!


マンジ君、こだぬき君とお話し中に悪いんだけど・・・


ちょっとコレ被ってみてくれない?




あら、似合うわよマンジ君♪

あらっ、よく似合うわよ、マンジ君




今日は あ!官兵衛くんのお誕生日だから、

お祝いのしるしに そのお椀、被ってなさいね~












「 あ!官兵衛くんの赤漆塗合子形兜みたいだよ 良かったね、マンジ君 」

官兵衛君と同じ赤漆塗合子形兜だね!マンジ君♪

臣下 まーりたんの地獄耳おそるべしニャのだ 」














今から467年前の天文15( 1546 )年11月29日の辰の刻( 午前8時前後 )、

雲が降りてきて 姫路城を覆い、その中で黒田官兵衛孝高( 幼名・万吉 )は

誕生したのだそうです。 写真は中津城ですが何となくそれっぽかったので

逆光!中津城

雲に乗って降臨した天使か、はたまた龍神様の申し子か

小和田哲男さんの著書 『 日本評伝選・黒田如水 』 に、黒田家譜に記された

如水公誕生記録の行が抜粋されているんですが、何処かで読んだ神話みたい。

それでも抜群の才覚と人心掌握のセンス、また それを引き立てられる運まで兼ね

備えて戦国乱世に生まれながら、結果的にはストイックを貫いた如水公の生涯を

思えば、やはり俗世離れした、どこか未来人的な人物像が浮き上がってきます






如水の父・黒田職隆(もとたか)さんは、姫路城内に旅人や貧しい人達が自由に

寝泊まりできる百軒長屋を設けていたのだそうです。 その頃の姫路城は、当時

黒田家が仕えていた播磨豪族・小寺氏の御着城の支城でしたから、今の立派な

姫路城からは想像もできない程、質素な造りだったんじゃないかなと思います  

様々な境遇の人達が出入りする環境で育ったこと、また幼少期に母親を亡くした

淋しさから和歌に没頭したことなどが、人の心を推し量る作業とスマートな配慮を

苦手としない、如水公最大の魅力の基礎を創って行った様な気がします。










美しい扇形に造られた中津城本丸入口 椎ノ木御門跡( 石垣の一部が現存 )。

中津城・椎の木門跡


椎ノ木御門( 絵図16番 )から中津川( 高瀬川 )に向かい扇形に拡がる廓。 

デザインした時の如水公は、どんな気持ちだったのだろうと何度も想像しました。 

豊前・中津城は別名、扇城( せんじょう )とも呼ばれているんです。

中津城旧地図(部分)

豊前での円満な領地経営を願って、末広がりの扇子をイメージしたのか。 

それとも、7月初めの梅雨の最盛期に豊前へ配されて、降ったり止んだりの

雨の中、悩みながら縄張りを決める際、ふと見上げた河原の上空に虹が架かって

いて和歌の好きな如水公だけに ファンタジックな光景に心を惹かれ、その

虹をイメージしたのか、どちらでしょう 心の中で問いかけながら今年7月初め

椎ノ木御門の記事を書き終えた数日後、七夕の府内上空に現れた環天頂アーク

如水公に心の声が届いたような気がして、飛び上がるほど嬉しかったです







感性の豊かさと器量を武器に、秀吉さんの天下取りを華麗に補佐する如水公。

しかし、九州・豊前へ配された後は、モットーとする人命尊重とスマートな戦術を

一旦返上し、心を鬼にして、上司の泥を被る苦難に晒されることとなります

豊前の地頭・宇都宮鎮房さんの事は、これまでにも度々書いてきましたが、

如水公が豊前へ入封したのは天正15( 1587 )年7月3日。 その二日後に

豊臣政権樹立に反発し、黒田氏入部を阻止する国人一揆が豊前で起こります。







事の発端は、秀吉さんが九州平定の成果を急ぐために、豊前・筑前の国人達へ

やたらに朱印状を与えて彼らの本領を安堵したは良いけど、蓋を開けてみれば

秀吉さんのもとで活躍した小早川氏、佐々氏、黒田氏、毛利氏、立花氏が大名に

取り立てられ、旧領主の国人たちは邪魔者扱い( 解体統合 )される事となった

ため。 代々守ってきた土地を管理下に置かれた事で不満を募らせた国人らは

如水公が肥後一揆の説得に赴いている隙をつき、如水公の配下に入っていた

大友氏家臣・広津氏の居城を攻撃するという、強硬手段に出るのです


大手門(解説)

蜂起したのは、1185年に源頼朝さんの命で下野国(栃木県)から豊前へ下向

地頭職となって四百年間、武将としても政治家としても優れ、神仏への信仰心も

厚く、領民にも慕われてきた宇都宮氏の庶流・城井氏をはじめ、山田氏、野仲氏、

如法寺氏、犬丸氏ら。 それに呼応する諸氏も加わり、収拾のつかない状態と

なってしまいます 秀吉さんは弟の秀長さんを通じて、毛利輝元さん、吉川広家

さん、小早川隆景さんを一揆鎮圧に向かわせます。 肥後へ赴いていた如水公も

秀吉さんに呼び戻されて、嫡男の長政とともに豊前一揆を鎮圧する運びとなり、

その時に滅ぼされた犬丸城の古木材が中津城の大手門に使われた、と

伝わっています( 解説板参照 )


南部小学校に残る大手門の石垣


そういうわけで、手違いが泥沼化して惨劇を招いてしまった、双方とも互いに

本意ではない戦いだったのです。  しかし、これは紛れもない史実で、最後に

強敵の宇都宮鎮房さんを滅ぼした後、如水公は秀吉さんに隠居を願い出ます。 






これまで放送されたテレビドラマや小説では、如水公の早過ぎる隠居の理由は、

秀吉さんから天下を狙っているとの疑惑を持たれてしまった為、として描かれる

事が多いです が、まーりたんは、この不本意で悲惨な結末を招いてしまった

豊前一揆鎮圧により受けた、如水公の心のダメージが余りに大きかった為では

ないか?と思えてなりません。 如水公が息子の黒田長政へ遺した言葉の一節

臣下百姓の罰おそるべし 』。 これも、如水公の心に深い爪痕を残した中津

での出来事が影響している様な・・・。 有岡城で幽閉中に負った身体の傷よりも、

彼にとっては心に負わされる痛手の方が耐え難かった、そんなふうに感じます







大河ドラマ・軍師官兵衛の史実指導は、小和田哲男さんと聞いています。

小和田さんは、黒田如水について記した著書の中で、豊前一揆そして地頭の

宇都宮氏について大変丁寧に、心を寄せて考証して下さっていて、本当に

ありがたく思います 大河ドラマではどの程度まで描かれるかはさておき、

西日本では本日、11月としては大変珍しい雪の予報が出ていました

如水公が生まれた時、姫路城に雪が降ったと記す本も読んだ憶えがあります。 

そんな今日、天国で467歳を迎えられた黒田如水公

大河ドラマの放送開始を心待ちにしてますよ、というサインかもしれません








●参考 : 武家家伝 城井宇都宮氏

小和田哲男著 『 ミネルヴァ日本評伝選・黒田如水






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2013/11/29(金) 18:55 | コメント:5 | トラックバック:0 |


あらっ なんて愛らしいワンちゃんにキジにお猿さん 

南部幼稚園の壁画

犬・雉・猿とくれば桃太郎かしら 肝心の桃太郎さんは見当たらないけど...

それとも中津城内だけに、岡山ゆかりの黒田如水公に因んでの壁画だったり

さすがにこれは深読みしすぎか~ アハッ


南部幼稚園内をを覗き見る怪しい中年主婦撮影

・・・など呟きつつ、金網越しに南部幼稚園を覗き見る怪しい中年主婦が約1名。

背中には秋の陽射しに代わって、半ば諦め混じりの冷ややかな視線が絶え間なく

降り注ぐ中、城下探訪 毎度の事ながら相方を巻き添えに マイペースで続いております


何故ならここは大手門跡なのです!

そういうわけで只今、まーりたんが金網越しに偵察中の 南部幼稚園は、

黒田官兵衛孝高( 如水 )公が豊前入封後、天正16( 1588 )年より造営を

始めた中津城の大手門があった場所なんです。 具体的には、南部幼稚園の

砂場の下あたり
に遺構があると考えられている様子( 地図は上が南です )。

中津城・大手門付近の絵図

明治期に新設された道とクロスする三ノ丁道路を隔てた

南部幼稚園の南向かいには、南部小学校

南部小学校に遺る中津城大手門の石垣

南部小学校には大手門の石垣の一部が現存 お城の玄関としての

威容を示すため、直径1.5mの鏡石が使われてます。 意外にも鏡石の厚さは

僅か20cm
と知り、更にびっくり 平成16年の石垣解体調査で解った様です。

大手門跡の石垣(解説)
縦石積みと鏡積み

解説板大手門跡の石垣にも記されている通り、現在は中津城公園( 本丸

曲輪跡 )へ 車でダイレクトに乗り入れ可の道路( 明治期に新設された道 )が、

本丸南面の石垣を一部壊して造られていて、立派な鳥居まであるけど・・・

明治4年に本丸南側の石垣を壊して通された道路

当時42歳の黒田官兵衛孝高さんが縄張りをした中津城では、登城は本来

大手門( 現・南部幼稚園 ) 黒御門 椎の木門 本丸の順

黒御門を出て、大手門跡(南部小学校)へ

南部小学校( 画像奥 )の大手門石垣は、黒御門( 画像右手前 )へ折れ曲がり

続いていたとか。 黒御門まで来たら今度は左クランク、その先を右へ曲がれば

官兵衛さんが美しい扇形にデザインした本丸入口 椎の木門に到着です 



中津城公園に駐車した後で、再度正規の順序で登城してみるのも楽しいかも

黒御門跡と裁判所(長福寺跡)

黒御門跡を左折せずに真っすぐ進むと、細川忠興公が建立し、息子の忠利公が

ガラシャを弔うためのミサを行った長福寺跡。 現在は裁判所が建ってます。

細川ガラシャさんの追悼ミサが行われた教会跡地(現・裁判所)


細川忠興公の妻・ガラシャさんは関ヶ原の戦いの直前、西軍に拘束されるのを

拒み、家臣に自分の胸を突かせて屋敷に火を放ち、亡くなってしまいます

秀吉さんは生前、大坂城や聚楽第、伏見城の周辺に大名屋敷を建て、いざという

時に大名の妻子を人質に取れる様、屋敷に住まわす制度を作っていました




黒田如水公の妻と、息子・長政の夫人( 栄姫 )も大名屋敷で暮らしていたものの

如水公が手配した家臣の助けで無事大阪を脱出し、海路 中津に戻ります。

この大阪脱出が成功したのは、細川ガラシャさんの騒動で警備がやや手薄に

なっていたためらしく、ガラシャさんの命と引き換えに助かったとも言えそう。


南部小学校の敷地内から。石垣越しに中津教会。

南部小学校の大手門石垣越しに見える中津カトリック教会

ここには細川ガラシャの信仰と題したステンドグラス装飾があります

大河では細川ガラシャさん、何方が演じられるんでしょう。 こちらも楽しみです 







長くなりましたので、今回はこの辺で 

次回は、中津城大手門に纏わるお話をさせて頂きながら、引き続き城内を散策

したいと思います。 中津探訪、もう少しだけお付き合い頂ければ幸いです







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2013/11/27(水) 19:09 | コメント:11 | トラックバック:0 |


折りからの強風に煽られて、エラい状態になっている黒田官兵衛大河幟の下に、

ワイルドかつ贅沢に積まれた野面( のづら )積みの石垣・・・

強風でエライことになっている官兵衛幟の前に野面積みの唐揚げ

では無く、からあげ大吉さんの骨なしモモ唐揚げ300g フェイントかけてすみません







宇佐の時枝城址を見学し終えた頃に、まーりたんの腹時計がランチタイムを

告げた為、中津市のからあげ大吉さんへ直行&お昼を調達する事に 

いつもは中津市に入ってすぐの国道213号線沿い、上如水地区の東中津店

立ち寄るのですが、この日は沖代町に在る大吉さんの本店へ、今年夏に完成

したばかりの新店舗見たさにお邪魔しました イメージパース図よりも落ち着いた外観

からあげ大吉本店

大吉さんの唐揚げは、ニンニク醤油ベースのやや濃いめの下味に一味を効かせ、

こんがり香ばしく揚げたお惣菜風で、中津からあげのスタンダードと言えます

まーりたん、こう見えて一応 日本唐揚協会認定のカラアゲニストの端くれです 

唐揚げのレポ記事もこれまで沢山書かせて貰ってますので、ご興味ある方は

画面左のカテゴリ柱から、目ぼしいタイトルをクリックしてみて下さい

ただし、突然お腹が空いて困っても責任は負いかねます







さて、先程お話の中に登場した からあげ大吉・東中津店さんは、宇佐方面から

国道213号線を通り中津市東部へ入ると、間もなく頭上に現れる中津市 如水

書かれた歩道橋を潜った先を左に入ったスーパー、薬局の並びに在るんですが...
 
中津市如水

見るからに黒田如水( 官兵衛 )に縁ありげな 如水( じょすい )という地名

この地区が如水公とどんな関わりがあるのか、以前から気にはなっていたものの、

歩道橋の下を通るたびに指をくわえて見上げるだけ。 地名の由来を知ったのは

恥ずかしながら今年の6月、官兵衛漬を求めて中津駅を訪れた日の事でした 

 




昨年秋の大河決定後、今春頃から観光客の方向けに黒田官兵衛ゆかりの地を

紹介した数種類の探訪マップを、県北エリアの道の駅や観光案内所などで

見かける様になりました。 その中のひとつ、JR中津駅の案内所に置いていた

黒田官兵衛見どころマップ ” 。 中津城の新パンフレットに登場する可愛い

忍者くんのイラスト付きマップです これには如水公が 『 慶長5( 1600 )年、

大友義統( よしむね )討伐の為に 石垣原( いしがきばる・別府市 )へ向かう際、

この場所で兵を集め軍議を行った 』 という “ 如水原 ” が紹介されていて、その

如水原というのが、213号線が奔る如水合馬に至るエリアなんだそう

中津市合馬

合馬という地名も、確かにそれっぽい






如水と書かれた歩道橋に差し掛かる辺りから、中津城方面へ向かって左手には

ややま園 如水に、手打ちうどん如水庵など、屋号が如水のお店や施設が目立ち、

ややま園 如水
手打ちうどん如水庵中津市如水公民館(表札)
如水小学校臨時駐車場(如水原)

国道を反れて、如水地区に入ってみると、如水公民館や如水小学校も発見

如水小学校は臨時駐車場として大きな空き地を備えている模様。 

何だか気になって調べてみたら 昨年、福岡から観光バスが来たらしいです、

如水小学校に “ 学校は昔から好立地を選んで建てられる事が多く、学校の

下には有力者の屋敷や公的機関、繁栄を極めた町や村、様々な時代の主要な

遺構・遺跡が積み重なる様にして眠っている ” と以前、大分市歴史資料館の

テーマ展示・学校の下に眠る遺跡で学びました ならば、如水公が兵を集めて

作戦会議を行った場所は、如水原の中でもやはり学校の近辺かもしれない

中津城の天守に貯めていたありったけの金銀を積み上げて配ったのも・・・


如水原

福岡藩士の貝原益軒編集 『 黒田家譜 』 には、『 如水は( 中略 )中津川より

一里半東なる広き原の少高き所に床机を立て、腰をかけ、総勢の備押を見給ふ 』

と綴られ、下毛郡教育会編( 昭和2年 ) 『 下毛郡誌 』 にも、『 是より如水原と

云ふ 』 と記すのは中津川( 中津城の在る地 )から直線で約6キロ( 一里半 )で、

標高16メートルの( 少高き )地。 文章の表現に、ぴったり合うと云います

また、領民らが黒田軍に握り飯を提供して助けたので、かつてこの辺りは

助部( すけぶ )という地名で呼ばれていたという話も、伝わっている様です

●参考 : 朝日新聞DIGITAL (2013年2月18日) 


01-36三斎池越しに模擬天守を撮影していたら・・・

まーりたんも如水原で士気を上げ、ご当地フードの唐揚げも美味しく頂いて

やってきました中津城 急激な冷え込みのせいか、紅葉が進んでます


ニャンコ現る

で、どこからともなく、ニャンコ現る・・・






次回は中津城下を散策しながら、如水公ゆかりの寺院や、大友氏の遺臣が

移り住んだと伝わる豊後町などを、ご紹介させて頂きたいと思います








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2013/11/22(金) 16:51 | コメント:15 | トラックバック:0 |

九州攻めの論功行賞により、黒田官兵衛が豊前六郡の領主となったのは

天正15( 1587 )年7月3日。 九州ではちょうど梅雨の最盛期です




42歳の官兵衛孝高( 如水 )は、法然寺( 福岡県築上町 )を仮の館として、

先ずは馬ヶ岳城に入りますが、領地の北に位置する不便な山城だった事で、

最終的には水陸交通の要所でもある山国川河口 中津の地を選び、翌年より

城の造営を開始 官兵衛が縄張りをした中津城は、周防灘へ注ぐ高瀬川

( 山国川の支流・中津川 )に向けて広がる美しい扇の形を成しています






中津城本丸への出入り口 椎ノ木御門中津城旧地図・本丸部分 )。

椎ノ木御門・江戸時代の絵図

入って西側正面を塀で塞ぎ、北側に折れて門を潜る枡形虎口の構造で、 

この虎口は、名護屋城など、官兵衛が縄張りしたお城の特徴でもあるんです 


本丸の出入り口・椎ノ木門跡

木標には、かろうじて読み取れる 中津城 椎木門跡の文字

現存しているのは、椎ノ木御門の先に築かれた扇形石垣の一部のみです。

扉が設けられていた場所の様で、礎石と垂直な石垣に扉痕ラインがくっきり。

礎石に垂直な石垣には扉の跡(縦線)が残ります


椎ノ木御門跡に遺る扇型石垣の一部( 上の画像二枚 )は、現地解説板の

旧絵図 赤い四角部分です

椎ノ木門・扇型石垣が描かれた幕末の絵図

官兵衛が原形を造った中津城は、椎ノ木御門の石垣、本丸曲輪、城郭と、

アーチ型の層が幾重にも重なって、扇と言うよりも虹を連想させます




中津城のデザインを決めるために、おそらく雨の日も晴れの日も、

高瀬川のほとりを行ったり来たりしたであろう43歳の黒田官兵衛孝高公 

ふと見上げた空に、虹が架かっていた日だってあったかもしれません

桔梗の花を、夜空の星が地上に降りて咲いたものだと喩える瑞々しい感性を

持っていた官兵衛。 それとも単に末広がりの縁起から扇形にしたのかな?

ちょっと気になります


椎の木門の石垣には文字が彫られているんです、探してみてください

こちらも椎ノ木門周辺の石垣ですが、 “ ” の文字が刻まれているのが

お判りになりますでしょうか? これは黒田時代の石垣に使用された神籠石

( 古代砦の石 )です。 中には、などの文字や記号が刻まれた石も

あり、それらは石垣の改修工事が行われた部分に共通して見られるのだとか



現地解説板によれば、マークを刻んだのは改修工事に携わった石工さん達

だろうと考えられてはいるものの、その目的は未だ解明できてないそうです。

石垣にはちょっとばかりウルサイぞという貴方、中津城を訪れた際には、

この暗号入り神籠石を探して、謎解きに挑戦されてみてはいかが



黒田の石垣へ

続きまして、黒田氏時代の石垣と細川氏時代の石垣がУ字状に重なる

模擬天守北( 本丸東側 )の見所・黒田時代の石垣、なんですが 

古代山城の石を使った黒田の石垣と細川時代の石垣

元気いっぱいの蔓草くんのお陰で、境目が判らなくなってきてる~


従って、ぼかしラインを引いてみました。 これでお判り頂けるかしらん

ぼかし線の右側が黒田の石垣です

直方体にカットされた古代山城の列石( 神籠石 )を再利用した官兵衛考案

エコ石垣( ぼかし線より右側 )は、現在の本丸東面石垣の1/3程の割合。 

官兵衛の人となりの如くロジカルで質実な、小ぶりのお城だった事が窺えます




豊前領主となり第一線を退いた後も、官兵衛は秀吉さんに従って小田原征伐に

朝鮮の役、後は関ヶ原。 大きな戦続きで、フォローにも追われ、中津時代の

12年間は正直、お城の造営どころではなかったのかもしれません。お疲れ様です

水城中津城・御濠の水は

・・・ということで、まーりたん一味も、そろそろ退却の時間です。

水城・中津城 今回は天守へ登る代わりに、水門に登ってみました




中津川河川敷公園と、山国川の支流・高瀬川が見渡せます。 

峡谷の岩を削り、岩に削られ、もうじき海へ出る河口の流れは清々しく緩やか。

官兵衛が、如水円清と号したのは文禄2( 1593 )年7月、48歳の時でした。

法号の発想源は、もしかするとこの高瀬川の流れだったかもしれません

山国川の河口から水を引いています

更に見晴らし良さげなを見つけるも、残念ながら立ち入りはNG

それでは如水公、半年後にテレビでお目にかかれる日を楽しみにしてまーす








帰り道、相方と とある賭けをして入ったスタンドで当たったスロット 

中津探訪、おまけのプチサプライズで上々の締めくくりとなりました感謝!

帰りに寄ったガソリンスタンドでスロットが当たりました♪


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2013/07/01(月) 21:15 | コメント:9 | トラックバック:0 |

天正10( 1582 )年6月、織田信長さんの訃報を聞き、動揺する秀吉さんへ

今こそ天下を獲る時に ございます 」 と冷徹に言ってのけ、

天のやちまたで道に迷う瓊瓊杵尊( ニニギノミコト )を先導する猿田彦よろしく

天下への道を真っすぐに照らし秀吉さんを導いた如水の逸話は有名です。

来年の大河でも大きな見所のひとつになるでしょう 時に、黒田官兵衛孝高

( 如水 )37歳。 秀吉さんは官兵衛より9つ年上だから、え~っと46歳ですネ 





如水にとってみれば秀吉さんは、信長さんから託された忘れ形見的存在です。 

信長さんに誤解され、人質として預けていた息子松寿丸( 後の黒田長政 )の

命を奪われそうになっても、幽閉中に片足が不自由になっても 決して揺らぐ事の

無い如水の信義は、信長さん亡き後は秀吉さんへと注がれ、如水は秀吉さんの

ために全力で奔走します 秀吉さんにとっても如水は、竹中半兵衛に代わる

頭脳であり、下積み時代を共に過ごした兄弟も同然の必要不可欠な腹心でした。 





けれど、まるで未来人の様な先見の明と合理性。 俗世間の人間が欲しがる

物を本望とせず、自由な発想力を持ち、行動力も人望もある黒田官兵衛という

人物を、秀吉さんは頼りにし手放したくない一方で、泥を被せて困らせてみたい、

どこか愛憎にも似た感情を持っていたのかも知れないなあ、なんて思います

如水が最も苦手とする分野は、軍師を生業にしながらも、欲まみれ血まみれの

泥試合。 宇都宮鎮房さんの一件は、如実にそれを現している様な気がします。


中津川水辺の楽校とびはぜ隊なのだ♪

さて、これから向かう先は、山国川の支流・中津川( 高瀬川 )河川敷公園

自然豊かな中津川には、水辺の生き物がたくさん暮らしているそうですよ

・・・と、水辺の楽校に通う とびはぜ隊 御三方よりお聞きしました

特等席ですね、ニャンコ達♪

あら、解説パネルの下には、ニャンコが二匹 特等席ですね~ 

中津城を訪れたこの日は、梅雨の中休みの清々しい晴天に恵まれました






扇型( 直角三角形 )を描く中津城郭の、いちばん長い辺はこの中津川河川

敷公園( 高瀬川 )に接しています。 長い辺の中央部に、これまた扇形をした

本丸
を置き、川に面した本丸の後方を二の丸、三の丸が取り囲んでいます。

中津川河川敷公園(小祝橋方面)

そしてここ、中津川河川敷公園は、黒田官兵衛が築城した中津城に最も

接近できる場所
でもあるんですヨ 中津城は、黒田氏の後に入封した

細川氏時代に大規模改修されて、ほぼ今の中津城の大きさになりますが、

黒田氏時代の中津城は、高瀬川沿いに建つ、こじんまりとしたお城だった様。 

鉄御門跡と神籠石で築いた石垣解説板

少々ユニークなのは、官兵衛は中津城の石垣を築く際に、古代の山城跡

とも言われる遺跡の石・神籠石( こうごいし )を運んできて使ってるんです。

つまり、リサイクルです





中世のお殿様達と言えば、権力の証として 山から岩クラスの石を運んできては

成形せずに贅沢に積み上げていく野面積がステイタスとされた時代ですが、

42歳で中津城の造営に取り掛かった黒田官兵衛は、権力誇示なんてまるで

興味が無いかの如く、さっさとリサイクルを選びます 古代砦の石垣だけに、

四角くカットされていて、持ってきて積み上げるだけ 手間が省ける上に、

人夫達にも大変な思いを沢山させずに済む、なんて思ったのでしょうか 

画像中央が鉄門跡(金刀比羅宮下)

金刀比羅宮下に積まれた L字型の大きな石が、まさに黒田如水公考案

リサイクル石垣で、西日本に多く残る神籠石( 7世紀頃の古代砦遺跡 )の

一か所、福岡県上毛町の唐原( とうばる )古代山城跡より運んできた物です。

列石の向かって左側、小さな石が詰められて逆台形型に見える部分は鉄門跡

解説板の写真と見比べると、分かり易いかと思います

黄色い部分が鉄門跡・赤線部分が神籠石・唐原山城の石垣


えっ 古代山城の石垣をリサイクルする黒田官兵衛さんって、

単純に ケチなだけなんじゃないの?って、何方か仰いました?


確かに官兵衛は、お百姓さんから大量に頂いた瓜を、家臣に命じて保存食

( 御漬物 )にしたり
、倹約家としても有名だった様。 でも、そうして無駄を省く

ことで貯まった金銀は、どこぞのお殿様方みたいに私的流用するのではなく、

使うべき時を見計らい最大限に有効活用できるのが、黒田如水公の凄いところ

なんですね~ たとえば、九州関ヶ原で中津城から打って出る時とか 

幕末の中津城下絵図に描かれた鉄門

幕末の中津城下絵図には、鉄門横( 右側 )に、もしかすると

天守かもしれない三層の櫓が描かれています。 三層櫓の場所は現在、

金刀比羅宮が建っている所で、唐原古代山城リサイクル石垣の真上です


一辺を断面L字に切り落とした唐原山城の石

これが唐原古代山城のリサイクル石垣。 官兵衛はこの場所に実際に立って、

工事の監督をした事は間違いないでしょう 官兵衛ファンの皆さま、中津城へ

いらした際は、河川敷公園に降りて是非、この石垣にタッチしてみて下さい

神籠石・唐原古代山城の石垣は一辺が削られている


九州関ヶ原( 石垣原の戦 )では、大友宗麟の息子・大友義統( よしむね )が

豊後奪還を賭け、別府へ乗り込んできたため、55歳の如水は留守居を返上、

大友氏との対決に挑みます。 既に家督を譲った息子・長政は大勢の兵を率い

中津城から関ヶ原本戦へ出陣中 如水公は天守に貯めていた金銀で兵を

雇い、即席黒田軍を結成しますが、その内訳は戦経験の無いお百姓さんが殆ど。 

それでも、サラブレッド揃いの大友遺臣団を率いる義統に勝ってしまうんです





この話を最初に知った時は、にわかに信じ難い物語的な印象を受けたんですが、

これは、官兵衛が検地に於いても、見栄を張って石高を高く見積もったりせず、

お百姓さん達の申告制にしていた事や、農家の方と茶飲み話に耽るひと時を

心の底からの楽しみにしていた官兵衛の庶民的な姿勢
が、お百姓さん達から

感謝され、次第に慕われ、心の繋がりが出来ていた事の賜物かもしれません 

宇都宮鎮房さんの一件では、豊前を震撼させてしまった黒田氏ですが、後の

官兵衛の努力により、領民をとても大切にするお殿様として愛された様です

黒田の石垣へ

次回は、中津城模擬天守北側・黒田氏時代の石垣と細川氏時代の石垣が

一目で比較できる場所を、ご紹介させて頂く予定です 








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2013/06/28(金) 16:56 | コメント:13 | トラックバック:0 |


地方にいると歴史の断面が見えてきます。

中央にいる人が書く、権力によって作られた歴史が “ 勝者の歴史 ”

だとすれば、地方には “ 敗者の歴史 ” が埋もれています。 

そこに中央の歴史とは違った選択肢や、

ありえたかもしれない歴史が見えてきます。





上記は、福岡県久留米市在住の時代小説家 葉室 麟( はむろ りん )さんが

昨年2月、某紙のインタビュー記事で仰っていた言葉です このあとにも

東日本大震災が発生した時にぶつかった、人が亡くなる話を描く事への迷いや、

自分に残された時間を想い自問自答したことなどなど、お話は続くのですが、

大きな渦に巻き込まれ、搾り取られ、疎外された歴史のかけらを拾い上げては、

ただ無心に、持てる限りの光を当てる 貝殻の砂を丁寧に払う様な愛おしみと

素朴な温もりが葉室さんの文言から伝わってきて、心に深く響きました







さて、懐かしの中津城探訪 今回は本丸北東隅に鎮座する 豊前の地頭

宇都宮鎮房さんが祀られた 城井神社と、合元寺での事件で命を落とした

宇都宮氏家臣の方々を合わせ祀った 扇城神社をご紹介させて頂きます

( 神社の場所は、前回の記事 中津城旧地図・本丸拡大図を御覧下さい

城井神社・扇城神社へ

神社参道の標上ではためく幟には、『 軍師 黒田官兵衛 最大の宿敵

城井 宇都宮鎮房
』 の文字

宇都宮鎮房さんは黒田官兵衛最大の宿敵として紹介されてます

大分県の中津市と同じく、かつて豊前国だった福岡県築上町の観光協会および

商工会、そして宇都宮家累代の菩提所・月光山 天徳寺による制作の様です。

旧豊前では、大河の主役に決定した黒田如水( 官兵衛 )公と、豊臣政権樹立の

陰で散って行った宇都宮鎮房さんの両方を、同等に大切にされてるんですネ




 

ところで、秀吉さんの名軍師として余りに高名な黒田官兵衛孝高( 黒田如水 )

最大の宿敵が何故、一地方の地主なのか、不思議に思われる方もいらっしゃる

かもしれませんね 秀吉さんが天下統一を進める中で、官兵衛は出来るだけ

無駄な血を流さずに済むよう、例えるならば古事記の 国譲りみたいな調略法を

執りました。 しかし、信義を貫く事を自らの誇りとしてきた如水が、我が身可愛さに

初めてそれを逆手に取り、姑息な手段で滅ぼす結果となったのが、鎌倉時代より

豊前の土地を守り、領民からも慕われていた国人領主・宇都宮氏だったのです







よほど無念だったのでしょう。 宇都宮鎮房さんは黒田官兵衛( 如水 )と彼の息子

黒田長政の心を、生涯消えない自責の念で苦しめます。 それでいて、三英傑を

凌ぐとも賞される程に老成を遂げた 後世の私達が知るところとする黒田如水へと

導いたのもまた、この宇都宮鎮房さんに違いないと、まーりたんは思ってます 

それではこの地に眠る宇都宮鎮房さんにお参りして来ます

それでは、この地に眠る宇都宮鎮房さんにお参りして来ます


城井神社解説板1

城井神社解説板2 

ここ中津城内の城井神社解説板に綴られている内容を読んで、これはちょっと

考えにくいなど、若干の違和感を覚えられた方もいらっしゃるかと思います。 

それでも現地・旧豊前国では、このような状況下と経緯によって、

宇都宮氏は黒田氏により滅ぼされた、と伝えられているのです


城井神社右手前の扇城神社にも参拝します

宇都宮鎮房さんを祀る城井神社 右手前には、扇城( せんじょう )神社

合元寺事件で命を落とした宇都宮氏家臣の方々を合祀しています。

扇城神社解説板1

扇城神社解説板2

宇都宮鎮房さんは家柄、人望、智力、武力全てにおいて優れた勇将でした。

初めは如水の説得に素直に応じ、「 本領を安堵してくれるなら 」 と

秀吉さんの傘下に入る事を承知します しかし突如、秀吉さんから

他の土豪はともかく、お前の居場所は豊前には無いヨ

と言われ堪忍袋の緒がプツリ 黒田氏に謀殺される運びとなるのです 





これは、九州征伐で功を挙げた豊臣配下の諸将を九州内に配置するに当たり、

後々扱いが面倒になりそうな有能な土豪をあえて怒らせることで孤立させ、

在地勢力の結束を解き、滅ぼす為の大義名分を創る作戦だったのかも・・・

如水自身も、宇都宮氏を早急に鎮めなくては、肥後国人一揆を鎮圧できずに

極刑に追い込まれた佐々成政公( 佐々氏が改易になった事で、加藤清正公が

隈本城へ入ります )と同じ運命 黒田家改易が脳裏をよぎったでしょうし、

19歳の長政を正々堂々と戦わせれば、宇都宮氏にひと捻りにされかねない。

厳しい乱世 アナタな~らどうする~







・・・と、ネジの外れたオツムをひねって色々と考えてみた結果、まーりたんは

やはり、宇都宮鎮房さんが勇気を持って黒田氏を信じ、中津城を訪れたお陰で

黒田氏の今があるといっても過言じゃない様な気がします こうした事からも

宇都宮鎮房さんを黒田家が 神様として代々崇めた理由が見えてくる・・・


城井神社左手前には鉄門跡と海上交通の神様・金刀比羅宮

城井神社と扇城神社へ続く参道には、海上交通の神様金刀比羅宮

建立されています そして、山国川支流に面した金刀比羅宮下の塞がれた

石垣には往時、鉄板を用いた強固な扉付きの門 鉄御門があったそうです。






金刀比羅宮の拝殿横から、河川敷公園と中津川( 高瀬川 )を見下ろす。

木陰で独り、オカリナを吹いていらっしゃる高齢の女性が居ました

中洲を挟んだ対岸( 福岡県吉富町 )は、これまた宇都宮氏に纏わる悲しい

歴史の残る場所でもあるため、もしかすると鎮魂かなぁ・・・と思ったり。

金刀比羅宮・鉄御門跡からは河川敷公園が見下ろせます

また、この場所はかつて天守があったとすれば、その候補地でもあるんです 

もしそうなら望楼からの眺めは、こんなだったのかな~。いや、もう少し高いか






風に乗って聴こえてくるオカリナの曲 『 上を向いて歩こう 』 に暫し耳を傾け

参道の方を振り返ると、羽音もたてず 一体いつの間にやってきたのでしょう?

大きなカラス君が一羽こっちをじーっと見つめてました

振り返ると立派なカラスくんが一羽、こっちを見てた

立派なカラス君は、カァカァ鳴くこともせず、ただ石柱に堂々と留まって時折り

こっちをチラ見。 カメラを差し向けて、写真を撮っても逃げないんですよ~

このお社の主ですか?あなたは。 ま、大体見当はつきますけどネ


一旦飛び立って今度は金刀比羅宮と書かれた石の上に

さすがに石段を降りる時には、カラス君は大きな翼を水平に広げ、スーッと滑空

して行ったものの、まーりたん一味が石段を下り終えて、参道へ降りると再び

戻ってきて、今度は金刀比羅宮と彫られた岩のてっぺんにヒラリと留まり

お見送りしてくれてるの? もうちょっと中津城を探訪させて頂きますよ~


社務所前には北斗七星が埋め込まれているんです。妙見信仰?社務所の壁にも星が

参道には、なぜか北斗七星 宇都宮氏の居城・城井ノ上城は、かつて

修験道が盛んだった求菩提( くぼて )山から近い寒田地区の城井川上流です。




『 ひとは大自然の微妙なバランスの上に辛うじて生かされている 』

求菩提資料館で頂いた資料( 求菩提資料館ジャーナル2012年3月号 )に、

修験道は、そうした大自然に感謝し、神様として崇める密教( 真言宗と天台宗 )

との関わりが深いと書かれていました。 宇都宮氏の菩提寺・天徳寺もかつては

天台宗だったそうです。 そうした事から、お星さまなのかしらと想ったり




星は、社務所の壁にも描かれてるんですよね( カラス君の背景に写ってます )。 

社務所の戸を叩き、 「 教えて下さーい 」 という勇気は今回は無かったので

これまで豊前国でせっせと集めた手持ちの資料による推測です、あしカラズ

人間中心の発想でない自然信仰、もう一度 見直す時期に来ているのかも・・・







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2013/06/25(火) 14:55 | コメント:9 | トラックバック:0 |


愛くるしい天才策謀家 あ!官兵衛くんが仕掛けた美味しい罠に( 喜んで )

ハマり、先日はるばる県北は中津市まで出かけて購入した官兵衛漬 

官兵衛漬は甘辛いお煮しめみたいな懐かしい味です。

前回の記事でご紹介させて頂いたところ、 「 お味はいかがでしたか 」 と

嬉しくも訊いて下さる方が なので今回は感想など綴ってみたいと思います





来年の大河放送に向けて 観光土産用に開発されたであろうシリーズ商品の

ひとつ、蒟蒻を醤油もろみに漬け込んだ官兵衛漬は、

大正八年の創業以来、昔ながらの伝統製法を守り続けていらっしゃるという

ご当地 中津市の老舗醤油店さんが製造されてます 

シンプルな甘辛い味付けに、ぎしぎしと締まった歯応え 

中津の祖母がよく作って冷蔵庫に入れていた常備菜の煮しめを思い出す、

素朴で懐かしい豊前中津の味、といったところでしょうか





また、官兵衛漬のパッケージには 『 臣下百姓の罰おそるべし ( 家臣や

民を大切にできなければ国を失う )
』 という家訓を、息子で初代福岡城主の

黒田長政に遺した如水公( 黒田官兵衛 )らしいエピソードが掲載されてます。

如水公の手記に基づく話の様で、こうした工夫( 官兵衛情報 )は嬉しい限り






とりわけ秀吉さんの天下統一後、

第一線から退いた豊前中津における官兵衛エピソードは

これまでのテレビドラマ等では殆ど語られていないので、

食べて読んで二度おいしい、お得感倍増のオマケ的

官兵衛情報、どうか今後もチョコチョコっと付けて下さーい
 






・・・ということで、充実の中身にパッケージの 二度おいしい官兵衛漬 

いつもの直感( 軽はずみ )に任せて買って正解でした














ニンゲン五十~ニェン。 下天の内に比ぶれぶぁ~ニャ 」

敦盛だ!

「 マンジ君が突如、敦盛を舞い始めたぞ・・・

マンジ君もマンジ君なりに、永いヌイグルミ犬生で何か訓を得たのだろうか














夢まぼろしの~エイニャッ

夢まぼろしの~

「 うわっ、マンジ君が宙を舞っている














如くニャり。 まーりたんは厚かまオババの如くニャり

如くニャり

「 それが言いたかったんだね・・・しかし、マンジ君もたまに回りくどいなあ













次回は、黒田官兵衛が初代城主を務めた中津城を探訪する予定です

01-16中津城・ここから黒田の石垣と細川の石垣が比較できます

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2013/06/19(水) 19:01 | コメント:9 | トラックバック:0 |


昨日の日曜日は、大河ドラマ 『 軍師 官兵衛 』 の放送を来年に控え、早くも

歓迎ムードに湧く大分県は中津市へ出掛けてきました ご存知の方も

多いとは思いますが、竹中半兵衛重治と共に豊臣秀吉の天下統一を支えた軍師

黒田官兵衛孝高は、秀吉さんの九州平定後、42歳で現在の大分県北部と

福岡県東部に当たる豊前六郡( 宇佐、仲津、上毛、下毛、築城、京都 )を拝領し、

中津城の初代城主となった方で、48歳の時に黒田如水と号します

国道213号線・中津市如水交差点・右手にTOTOが見えたら左折すると大悟法地区

国道213号線、中津市如水の交差点を左折し数分走ると、大悟法地区に到着。



大悟法の農協直売所・JAオアシス中津さんには、黒田官兵衛をモデルにした

黒田武士顕彰会のゆるキャラあ!官兵衛くん仕様の自販機があるのです

官兵衛くん自販機に、ついに出会った~♪

この情報は、黒田如水公に造詣の深いブロガーの 猛獣遣いさんから昨年末に

教えて頂き、それから約半年ようやく官兵衛くん自販機に会えました~

官兵衛君自販機に出会えました!

あ!官兵衛くんも可愛いけど、自販機の側面が野菜の種や花の苗、バケツ等で

半ば埋もれているところも、豊前領民から瓜を貰ったりと打ち解け、慕われていた

いかにも黒田如水公
らしくって、良いですね~ 写真を撮らせて頂いた後は

ジュースを購入。 この自販機、今後台数を増やしていくそうですが、第一号が

お目見えしたのはJAオアシス中津さんですから、ココは発祥の地でしょうか 










さて、所変わってJR中津駅の北口です 

なかつ駅・北口

入って左手の案内所には、お馴染みの各種中津観光パンフレットに加え、

黒田官兵衛見どころマップなるものも登場してましたヨ 

黒田官兵衛みどころマップ

中津市教育委員会発行の中津城攻略マップと同じキャラの忍者君がご案内

豊前における黒田官兵衛縁のスポット、メジャー所も、知る人ぞ知るマイナー所も

ピックアップ。 豊臣政権に抵抗した反黒田勢力の拠点砦も紹介されてます







中津駅名店街の柱には、後藤又兵衛基次さんを始めとする黒田二十四騎に

守られた如水公の2013年版カレンダー入手可?それとも非売品かしら
 
中津駅構内・中津駅名店街の柱には

更に、この柱の前には、黒田官兵衛グッズコーナーが設けられてます。

そこで買ったのが、これまた猛獣遣いさんから先日教えて頂いた

お土産用に新しく開発されたアイテム 『 官兵衛漬

あ!官兵衛漬け

天然醸造の醤油もろみに国産蒟蒻を漬け込んだもので220g入り 480円。

中津市沖代町の二反田醤油本店さんで造られている商品です。

猛獣遣いさん、念願の官兵衛漬け、ついに買いましたよ~










数ある官兵衛くん商品の中で、まーりたんが今回

官兵衛漬を欲しがったのには、ワケがあるのだニャ


あ!官兵衛君の漬物、ついにゲットしました♪



官兵衛漬の外箱の裏には、豊前領民から山ほど

献上された瓜を、如水公は粗末にする事無く漬物にして、

備蓄用とした、という話が載っているのですニャ


黒田官兵衛と瓜の漬物のお話

司馬遼太郎先生の播磨灘物語にも、

如水公が瓜を介して、殿さまとは思えないほど

豊前領民と気さくな交流をしていた話が出てくるよね。

その瓜の話が官兵衛漬のパッケージに載っていて、

如水公の手記に基づく史実に近い逸話だと知った

まーりたんさんは、感激したんだよね?マンジ君












それで昨日まーりたんさんは、官兵衛漬を買うためだけに

中津まで出掛けた、ってことかい マンジ君


まーりたんさんは官兵衛くん自販機を見て官兵衛くん漬けを買うために中津へ?

そういう事ニャのだ、こだぬき君。 

まーりたんには、もはや手の施しようがニャいのだ











あの・・・中津城へも行きましたけど・・・








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2013/06/17(月) 19:45 | コメント:12 | トラックバック:0 |
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