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まーりたん

Author:まーりたん
大分県で暮らす四十路主婦
“ まーりたん ” の
ブログへようこそ(*^^*)♪

日々を彩る ちょっと素敵な
出来事を我が家の笑導犬?
マンジ君と楽しくお届けして
ます。目下、郷土史に夢中♪
心躍る探訪をご一緒に。

臼杵の富士甚醤油マスコット
キャラ・とっくりこだぬき君が
仲間入りしてからは、嬉しさ
余ってマンジ君の“ 悪がね ”
ぶりもますますエスカレート。

そんなふたり(2匹)の様子も
併せてお楽しみ下さい(*^^*)

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熊本城天守閣東側の本丸広場で、ひごまるくんと感動の再会を果たした後は、

ふたたび闇( くらが )り通路を通り、城内唯一の現存多層櫓 宇土櫓が建つ

天守閣西側の広場へ熊本城公式HPで城郭鳥瞰図がご覧になれます )





よう、おいでなされた。 洒落た日傘でござるな

闇り通路の入り口 闇り御門で、坂本龍馬風スタイルのアテンダント武士さんから

甘ーい言葉を掛けて貰った( ←普通にお仕事をされてるだけです )まーりたん

人知れずほくそ笑み、ちょっと気を良くして、足取りも軽やかにスロープを下る

本丸御殿地下の闇がり御門

アテンダント武士さんは画像中央部に写ってます 振り返ってパチリ 

暑い中、来園者の皆さんに笑顔でひと声かけては、ご案内をなさってました






天守閣入り口へ到達するために 必ず通り抜けなくてはならない地下道

“ 闇( くらが )り通路 ” は、本丸御殿大広間の下に広がっています。 

本丸御殿へ通じる秘密階段も設けられた、ひんやりした空気漂う地下道を

抜ければ、これでもかと武者返しを見せつけ迎えてくれる熊本城の大天守

熊本城の大小天守です

画像手前の大天守は、地上6階に地下1階、石垣を省いた高さは30m。

奥の小天守は、地上4階に地下1階、石垣から上の高さは19m、との事

( 天守閣内部については、2011年の熊本城登城レポでご紹介しています


外観復元された現在の熊本城大小天守。ナイスミディさんたちの後方よりパチリ

仲良しナイスミディさんの後方より、2013年の熊本城大小天守をパチリ





熊本城の天守閣は、明治10( 1877 )年の西南戦争直前に原因不明の

火災で全焼したらしく、昭和35( 1960 )年に鉄筋コンクリートで外観復元

されて現在に至ってます。 焼失前の天守はコチラ( 現地解説板の古写真 )

明治8(1875)年に撮影された熊本城大小天守・古写真

現地解説板には、明治8( 1875 )年に撮影と紹介されてました

大天守石垣前の井戸は、加藤清正公が秀吉さんの家臣だった頃に設計した

名護屋城を軍事拠点に朝鮮へ出兵の際、蔚山で強いられた苦戦を教訓に

熊本城内に120基余り掘った井戸のひとつで、現存しています

大天守の下には城内に17ある現存井戸の一つ。深さは36m

この現存井戸の深さは36m。 そして、井戸の向こうには西南戦争時の

火災を免れた熊本城内唯一の現存多層櫓 宇土櫓が見えてます

宇土櫓は3層5階に地下1階 普通のお城だったら充分天守クラスです

しかも慶長年間( 1596~1614 )の建物で築410余年 勿論木造です

熊本城・宇土櫓全景
 
逆光でちょっと分かり辛いかもしれませんが、向かって右の宇土櫓へ続く

長い廊下部分は、中央をあえてしならせた構造になっていて( 廊下の中ほどが

沈んでいるのは、建物が古いからじゃないんですヨ )、突き当たりにある低い

階段は、踏み込んだ瞬間に踵が下がり、バランスを崩す勾配に造られてます

宇土櫓・入口へ

つまり 画像左側の櫓入り口からダダダと押し寄せてきた敵が、廊下の

中央部にかけて更に勢いづき、先駆けが突き当たりの階段を昇ろうと踏み込んだ

途端、ひっくり返り十把一絡げで将棋倒しにしてしまう仕掛けなんです、怖

宇土櫓・解説

守りに対しては細心の注意が払われていて、確かに単なる倉庫兼砦としての

櫓では無かった事が窺える宇土櫓は、第3の天守とも呼ばれている様です 


加藤家御紋入り瓦(宇土櫓内展示物)

写真は宇土櫓の廊下に展示されていたものですが、宇土櫓には何と、

加藤家の桔梗紋が彫られた瓦も、四百年の時を超えて現存中








梯子並みに狭い宇土櫓の階段を、探険家気分で最上階まで登ると・・・

宇土櫓の最上階から見る入口方面・南側

南の方角には長塀伝いの入場口と、この宇土櫓に続く廊下の屋根が見え、


東の方角には、小天守と大天守

宇土櫓最上階から眺める東方向・大天守小天守。この間には家臣の屋敷がありました

宇土櫓内の解説板によれば、熊本城の大小天守と宇土櫓との間には

加藤氏時代、家臣( 加藤平左衛門 )の屋敷が建っていた
事が解っていて、

部材の一本一本が確認できるほどの詳しい文献も残ってるんだそうです




文献から更に調べを進めたところ、当初よりこの場所に建っていたかは不明

ながらも、宇土櫓は広間、書院、居間、台所など6つの棟を備えていた事が

明らかになり、平成元( 1989 )年の発掘調査ではそれらの礎石も出土 

青いビニールで覆われた場所は、もしや現在調査中の箇所かしら




従いまして、以上の事から只今、まーりたんが厚かましくも お邪魔中の

この宇土櫓は、清正公の旧御殿だったと、考えられてるんですって






宇土櫓内には、清正公の瞑想ルームとおぼしき部屋もあるらしい 

階下へ急げ ・・・と、その時、最上階へ登って来られる男性が一名

宇土櫓・人ひとりがやっと通れる階段、しかも梯子並みに急です

ご覧のとおり、宇土櫓の最上階へ続く階段はとりわけ幅が狭いため、

登って来る方を待ってから、降りなくちゃいけません

お城や歴史をこよなく愛してそうな方に見えます どうぞごゆっくり









さて階下へ

あっ、清正公の兜! じゃなかったコーンだ 

清正公の兜じゃありません・・・

もう一階下かな









床の上にランプがひとつ、ぽつんと灯された薄暗い部屋を発見

ランプの下には “ 武将たちの夢 ” と題された、加藤清正公に心を寄せる

随想や小論文ともとれる内容の木製の解説板が、無造作に置かれていました。

どうやら、この部屋みたいですネ

常に死と隣り合わせだった戦国武将・清正公の瞑想部屋だった?武将たちの夢

織田信長さんが好んで舞ったというエピソードで余りに有名な、

源平合戦由来の哀歌 “ 敦盛 ” のワンフレーズから始まる素敵な文章です

コンデジで撮るのは限界みたいなので、次の通り転載させて頂きます




人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢まぼろしの如くなり。

中世社会からの離脱を試みる中で、武将たちは裏切り、愛し、憎しみ合い、

常に死と向き合っていました。 それだけに生きる意味を知っていた事でしょう。

このような時代だからこそ茶の湯が興り、文化創造の時代でもあったわけです。

清正が肥後隈本城主となったのは天正16年( 1588 )年、27歳の時でした。
 
それからおよそ20年の歳月をかけ、熊本城と城下町をつくりあげました。

信長の安土城や秀吉の大阪城にみるように、この時代の城づくりは

社会の変革を背負った自己の思想や宇宙観の表現そのものだったのです。

城づくりは壮大な叙事詩といえるでしょう。 武将たちの夢だったのです。

清正はこの部屋で独り静かに天下の事を夢想した事があったかもしれません。

また、家臣たちとのひとときの談笑を愉しんだかもしれません。

この部屋でそっと耳を澄ますと、武将達のざわめきが聴こえてくる様です 』


宇土櫓のニ階の窓・北に加藤神社が見えました

宇土櫓二階の窓から、北の方角に加藤神社が見えました。

眼下の境内には、清正公の嫡男、加藤忠広公が配流先の出羽国から

持ち帰り、植樹したと伝わる松の木があります

加藤神社境内・忠広公ゆかりの松

加藤忠広公は出羽の国へ流された後も、お世話になった肥後の方々に度々

農作物などの贈り物をした、大変心の優しい方だったと言われています



表面的には不条理だらけに思える乱世は、実は自己との戦の時代でもあった

のかもしれません。 加藤神社境内の松にはきっと忠広公の心が、宇土櫓には

清正公の心が残っていて、互いに見つめ合っている気がした まーりたんです

バス停から見あげた城内唯一の現存多層宇土櫓


肥後一揆の哀しさを物語る石など、熊本城内にはまだまだご紹介したい史跡や

場所が沢山あるのですが、今回はこの辺でお開きにさせて頂きたいと思います

つたない登城レポにお付き合い下さった皆様、ありがとうございました

シャトルバスの乗降場

そろそろ桜の馬場 城彩苑行きのシャトルバスも来るようなんで、

ほんなら熊本城、ひごまる君、また暫くの おさらばえ~

ほな熊本城、おさらばえ~♪


本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます

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2013/06/14(金) 20:06 | コメント:9 | トラックバック:0 |

貴重なお時間を割いて拙ブログへ足を運んで下さる皆さま、温かい応援、

励みになるコメントを残して下さる皆さま、いつも心より感謝しています

遅筆な上、諸用で更新が延びてしまい、申し訳ありません






さて、大変長らくお待たせ致しました

こちらが熊本城内屈指のビューポイント 二様( によう )の石垣です

大変長らくお待たせいたしました、加藤、細川新旧石垣が並ぶ二様の石垣でーす♪

日本三名城の一つに数えられる熊本城 ご存知の方も多いかと思いますが、

二様の石垣は、加藤清正公の命により、近江国( 滋賀県 )のトップ石工集団

穴太( あのう )衆が、その最高技術でもって積み上げた新旧清正公石垣と、

細川氏時代に増築された石垣を一目で比較、鑑賞できる絶好の場所なんです






画像奥加藤清正公が亡くなる6年前、慶長10( 1605 )年頃に完成した

新工法 算木積( さんぎづみ )により積まれた石垣で、長方形に加工した石の

向きを、角部分では長短交互に、リズミカルに積み重ねているのが特徴です

手前がノミ痕もくっきりの穴太衆による清正流石垣、奥が算木積と言われる細川時代の新工法

画像手前加藤清正公が築城に着手した当時、慶長6( 1601 )年頃の

旧石垣。 清正公が築城に取り掛かったのは天正末期~文禄年間という説も

あり、420年余りの時を諸ともせずに残るノミ痕も、しっかりと確認できます


初期の工法は、大きさをほぼ揃えた石を角部分に積み重ねて行き、石垣下部は

緩やかに、優雅なカーブを描きながら手招きし、上へ登るに従って こんなハズじゃ

なかった~ 的に勾配が急になるエレガントで堅固な、これぞ元祖清正公石垣 






で、加藤家が改易された寛永9( 1632 )年、小倉より入封した細川氏時代の

石垣
はどれかと言うと ベテランガイドさんが拡声器手に仰るには・・・

清正公石垣の上に、細川氏時代の石垣が乗っかってるんです 」 とのこと。

冒頭の画像奥、算木積み石垣の中程から上部を今一度、ご覧下さい 





同じ大きさの方形の石を隙間なく、レンガみたいに横並べしながら整然と積み

重ねている石垣部分が細川氏時代に増築された物で、布積みと呼ぶそうです。 

もはやアートとも云うべき初期の清正公石垣に比べると、細川さんの真っすぐ

きっちりの石垣は、色気が今一つ無いというか、これって性格が出るんでしょうか

細川氏は几帳面なリアリストだったのかしら( 勝手に先入観持ってスミマセン









二様の石垣を通り過ぎても、まだまだ続く高石垣の群れ。

石垣上の建物( 右 )は、平成20( 2008 )年に復元公開された絢爛豪華

本丸御殿大広間です( 内部は 2011年の熊本城レポでご紹介しています )

熊本城公式HPで城郭鳥瞰図がご覧になれます 宜しければご参考に

天守方向へ。二様の石垣上は本丸御殿。御殿地下には天守入口への地下道・闇がり御門があります。

本丸御殿と結ばれた建物越しに、熊本城の大天守がチラリと見えてますが、

大天守の入り口へは、本丸御殿下に広がる地下道 “ 闇( くらが )り通路 ” を

抜けなくては辿り着けないのです 地下道まで備えてるなんて、正しく要塞

天守東側の入口へ通じる地下道・闇がり御門

闇り通路内の写真はフラッシュなしでナントカ撮れたものの

実際は画像よりもかなり暗いため、人が透き通ってます 

 

 

ところで、二様の石垣で遭遇したベテランガイドさんは、石垣の説明の他に

加藤家改易の原因についても、拡声器手に興味深いお話をして下さいました





肥後の加藤家二代目・加藤忠広公が改易された時の将軍は、徳川家光さん。

ベテランガイドさん説によれば、忠広さんは徳川家へ送る書状の中に、

家光さんに挑発と受け止められる様な行を加えてしまった、というのです

そりゃ、偉大な父を理不尽で厳しい乱世の掟により亡くした悔しさ、疑惑を抱え、

遠回しな嫌味のひとつやふたつ言ってやりたくもなるでしょう、若さゆえに

ところが家光さんには、 「 熊本城を築いた俺の父ちゃんは凄かったんだぞ、

俺だってその気になれば徳川など、ひとひねりだ
」 に聴こえたらしく・・・

家光さんも将軍になりたての頃で、タイミングが悪かったとも...( ガイドさん談 )。







春日局の実子説が残る為か、ドラマ等では決まって父母( 徳川秀忠とお江 )は

次男を可愛がり、長男の家光さんは春日局に守られる内気な おじいちゃん子

実際、おじいちゃん( 徳川家康公 )は亡くなった後も孫・家光さんの夢枕に度々

立っては教えを授けた、というエピソードも残ってますよね・・・。 ひょっとすると

家康公は、夜な夜な家光くんの夢に現れては、こんなコトを言ってたのかも








良いか家光、じじの言うことをよーく聞くのだ。

清正と組んで関ヶ原を切り抜けた黒田如水は、

ワシの息子 結城秀康までもメロメロにしたのだ。

加藤家も油断ならん。 メーテル 外様大名には・・・


良いか、いえみつ。外様大名には・・・(C)松本零士・講談社アニメコミックス銀河鉄道999より
討たれる前に討て?徳川いえやす翁の胸の内はさておき、

黒田如水も加藤清正も外様大名ではありません、念のため



外様大名には気を許すな~!偉大なるいえやすじじ?(C)松本零士・講談社コミックス銀河鉄道999より

メーテル 外様大名には気を許すな!

おじいちゃん子だった家光くんは夜な夜な夢枕に家康サンが現れて教えを?(C)松本零士・講談社コミックス銀河鉄道999より
松本零士・講談社コミックス銀河鉄道999より )












「 ・・・・・。 」

マンジ君、やっぱりあの錆びたネジは、まーりたんさんのアタマから外れ落ちたものかもしれない!

「 ・・・マンジ君、やっぱりあの錆びたネジは、まーりたんさんのアタマから

外れ落ちたものかも知れないね












「 まーりたんさんの思考回路が心配だ 今すぐネジを届けよう、マンジ君

まーりたんさんの思考回路が心配だ。今すぐ届けよう、マンジ君!

「 もう手遅れニャのだ、こだぬき君 」












「 えっ? 」

もう遅いのだニャ~

「 すでに不燃ごみの回収に出しましたニャ~













「 マンジ君、なんてことを・・・。  なんてことを・・・ 」

それより早くひごまるくんが観たいのだニャ

「 そんニャ事より、天守広場の ひごまる君が早く見たいのだニャ、こだぬき君 」


 








・・・と、いうことで、ここは闇り通路を無事抜けて到達した本丸広場です

二年ぶりですね!ひごまる君♪

二年ぶりですね、ひごまる君 またお会いできて嬉しいな









二年ぶりに再会した ひごまる君と記念のツーショット 

背景が傾いてますけど・・・ ( ウチのダンナさん撮影 ) 

ひごまる君と記念撮影。傾いてるケド。次回は大小天守と清正公の旧御殿説が残る現存多層櫓・宇土櫓をご紹介します

次回、熊本城探訪レポの最終回は、昭和35年に外観復元された大小天守と、

加藤清正公の旧御殿説も残る 宇土櫓をご紹介させて頂く予定です











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2013/06/12(水) 16:20 | コメント:13 | トラックバック:0 |


今月24日は、熊本城築城主 加藤清正公の命日だそうですね

大分県の杵築城で “ 庚申塔( こうしんとう ) ” に興味を持ってからは、

2か月に一度巡ってくる庚申の日を、高島易断所本部編纂の福壽暦

( 年末になると新聞屋さんがくれるお馴染みの小冊子、そうアレです )で

調べる習慣がついてしまったんですが、先日ぱらぱらとめくっていたところ

今年3度目の庚申は6月23日( 日曜日 )、ちょうど望月の日でした そして

翌24日の欄に、東京芝愛宕千日詣り、続いて 清正公忌と記されてるのに

気づき、ちょっとびっくり 福壽暦に命日が載ってるなんて さすが神様清正公。







さて、坪井川に沿って東西に延びた 長塀( 国指定重要文化財 )内側に広がる

竹の丸を、西端の 櫨方門・馬具櫓から登城し、散々道草しながら歩くこと

200m余り ようやく東端の 平御櫓( ひらおんやぐら )に到着です

平御櫓(須戸口門そば)
平御櫓100 

平御櫓は、長塀ラインでの守りを一段高い場所から援護する役割を担っていて、

平御櫓石垣右の付属石段は、櫓の向こう側にある 須戸口( すどぐち )門

敵が突破した場合に崩して、城内への侵入を塞ぐためのものだった様です。

簡単に崩せる石段なんだホォ。 どうりで立ち入り禁止の竹の柵が、成程







平御櫓のクランクを左へ折れると、

更に一段高い曲輪( 東竹の丸 )へ続く石段が現れます。

東竹の丸へ続く石垣を上がる

今度は右クランクで石段を登って・・・ 


石垣の上まで来ると、眼下には 須戸口( すどぐち )門

須戸口門を見下ろす

須戸口門は、櫨方門・馬具櫓より242mに亘り続く長塀の東端です。 

フラットな城郭南側から攻め込んできた敵勢が、この須戸口門を突破し、

クランクを走り抜けたところで、先程の平御櫓付属の石段を崩し行く手を阻み、

まーりたんが今居る東竹の丸と、竹の丸とで敵を挟み討ち にする想定らしい。

築城の際、諸城門でもシュミレーションしたんだろうなぁ 凄いエネルギーを感じます 

熊本城公式HPに城郭マップが載ってます 宜しければご参考に








ここで冒頭のお話にちょっと戻りますが、慶長16年( 1611 )年の3月、京都

二条城で行われた 徳川家康さんと、秀吉さんの遺児・秀頼さんとの和睦会見。

ご存知、取り持ったのは秀頼さんの将来を案じていた清正公と云われてますね。

そして会見終了後、肥後へ帰る途中で病気になり亡くなった事もまた、有名な話。

49歳の若さだったそうです 他界はこの年ですから今年で没後402年か・・・。 

西の高石垣上には田子櫓

背後の石垣上には、西南戦争の大火を免れた現存櫓群( 国指定重要文化財 )

の一つ 田子櫓が見えてます でもって、行く手にはこれまた同じく

国指定重要文化財の現存櫓 東十八間櫓

城内屈指の高石垣(20m)上の東十八間櫓
 

加藤清正公の死因については いくつか説がありますが、そのひとつが

蔚山( ウルサン )でもチームを組んで戦った秀吉さん配下の有力大名で、

これまた若くして亡くなった( 多分30代だったと思います )浅野幸長さんと

同じ病気だった為、ふたり( 清正公と幸長公 )を警戒していた家康さんによる

毒殺説がまことしやかに囁かれた様で清正公文楽も その設定になってます。

東十八間櫓の石段を登り、クランクを左折

豊臣家が徳川家に滅ぼされた大阪夏の陣は、清正公が亡くなって4年後の

元和元( 1615 )年。 更にそれから2年後、加藤清正公の娘 八十姫

家康さんの十男 徳川頼宣( よりのぶ )さんの元へ お嫁入りしています




八十姫さんは徳川家養女の娘とはいえ、肥後生まれの肥後育ち。 それに

お父さんである清正公の死因がはっきりしない中、徳川家へ嫁ぐ事は大変な

勇気と覚悟が要った事でしょう。 気丈で賢いお姫様だった事が窺えます




またウィキペディアによれば、八十姫は実子には恵まれなかったそうですが、

頼宣さんとの50年に及ぶ円満な結婚生活の中で、徳川家の発展に尽くされた

とか。 これを聞くと毒殺説は俗説に過ぎなかったのかなと、少しホッとしたり...



東十八間櫓、北十八間櫓、五間櫓に到着。左下は不開門

現存櫓の東十八間櫓北十八間櫓五間櫓は、ここから一望

櫓の名は、建物の長さ管理した人の名前に由来しているそうです。

曲輪から左へ一段降りた所には、現存櫓門 不開門( あかずのもん )

櫓と門が一体になった完全な櫓門は不開門だけ(国指定重要文化財)

復元ではなく、櫓と門が完全な形で現存しているのは、城内鬼門に位置する

この不開門だけ、だそう 不開門もまた、国指定重要文化財です 

古形式の格子扉も創建当時のまま(熊本城不開門)

古形式の格子扉も創建当時のまま 貴重です



源之進櫓他これまた国指定重要文化財の櫓群

国指定重要文化財の現存櫓は、まだまだ続きまーす

源之進櫓・管理した人の名や、櫓の長さが名の由来

コチラの櫓は、源之進さんと言う方が管理されていたのでしょうか

石垣を登ってくる敵を石落とし( 建物の張り出した部分 )からエイヤッと

こっちにも石落し。守りを固めよ!

それにしても高っ および腰上等、遠い地面を冷や汗タラリで覘き込む

聴くところによると、石垣の高さは20メートルほどだそうです


源之進櫓に続き、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓全て江戸期現存重要文化財

源之進櫓に続き、四間櫓十四間櫓七間櫓田子櫓と、貴重な現存櫓が

ずらりの東竹の丸エリアは、ここで終わり 続いては石垣コースへGO

櫓群を堪能した後は、石垣コースへ


ところで、東竹の丸の解説板には、西南戦争時の火災を免れて

現存する建造物が、城内に 13 あると記されてますが・・・

02-02熊本城の平櫓(東十八間櫓、北十八間櫓、五間櫓)解説

今回ご紹介させて頂いた現存櫓群で 平櫓門が 、それに

宇土櫓長塀12 です。 あとひとつ、どこだろ~ ワカラン







田子櫓を過ぎ、遠くに飯田丸五階櫓を見ながら、次の角を右折すると・・・

田子櫓の先を右折すると、五階櫓跡の先に飯田丸五階櫓が見える


ついに到達 熊本城内 屈指のビューポイント 二様の石垣です

行く手には大先輩探訪チーム、丁度良いのでまざります♪

おや? 行く手には人生の大先輩探訪グループ

ガイドさんもベテランの風格を醸しつつ、拡声器手に 二様の石垣の解説を

グッドタイミングでスタートされた模様 これは交じっとかなきゃ損です 

ベテランガイドさんがちょうど石垣と加藤家についての解説をスタート♪

あれから四十~年! 」 ・・・とは仰ってません


ガイドさんからの耳寄り情報と共に?続きは次回で


 






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2013/06/08(土) 19:54 | コメント:9 | トラックバック:0 |


ただいま復元整備工事中櫨方( はぜかた )門・馬具櫓 続塀から

東の方角へ、熊本城南側を流れる坪井川に沿って長~い塀が続いてます

熊本城公式HPに城郭鳥瞰図が載ってますので、宜しければご参考に

熊本城の南に流れる坪井川に沿う長塀(国指定重要文化材)

この長塀は、熊本城跡 東南隅の 須戸口( すどぐち )門・平御櫓まで

続いていて、長さは242.4m。 日本一長い塀建築の遺構なんだそうです。 

現存ですヨ 国の重要文化財に指定されてます

で、カメラを構えるまーりたんの後方には 行幸橋。 坪井川を渡った袂には、

勇壮な長烏帽子形兜の清正公が、背を向けて鎮座しています







それでは再び 櫨方門まで戻り、いざ登城 ・・・とその時、

まーりたん一味を軽やかに追い抜き、熊本城内へ颯爽と滑り込んでいく

おかもちバイク えっ、誰が出前頼んだの? 殿さま

熊本城櫨方門・おかもちバイクが侵入中!

おかもちバイクの後を追え~ よんじゅうだいのやることか








しかし、まーりたんが櫨方門入り口で熊本城の古写真や絵図をパチパチモタモタ

撮ってる間に、おかもちバイクは忽然と姿を消していたのでした・・・

整備復元工事中の馬具櫓

復元工事中の馬具櫓からは、時折り笑いの混じる作業員さんたちの話し声が

姿は見えねど恐らくランチタイムの模様 そうだわ、出前を頼んだのはきっと

石垣整備中の穴太衆に違いないアタマのネジやっぱり1個落としたかな







でも、工事現場で馬具櫓続塀の石積解体施工状況写真を見てたら、作業に

携わる方々は、正しくトップ石工集団 穴太衆の様だなと 会った事ないけど 

石積解体施工状況写真

写真では分かり難いですが、石垣の石には全て番号がふられてます。

解体して再び、ひとつも間違わず元通りに積み上げるんですね

復元という言葉自体は良く耳にするし、珍しくは無いものの、実際は本当に

緻密で、スキルと根気の要る 骨の折れる作業ですよね お疲れ様です

鉛板設置写真(馬具櫓)

元通りに並べ直された石に渡した白い帯は、鉛板と書かれていました

復元整備工事 は来年、平成26( 2014 )年10月31日に終了予定らしく、

鉛板で補強した石垣の上には本瓦葺き、上部漆喰塗り、木造平屋建ての

馬具櫓
が建つそうです 来年の秋頃といえば、大河ドラマ軍師官兵衛が

そろそろ佳境に入る頃でしょうか? 黒田如水が豊前の領国経営を任され、

舞台は九州に移って、もしかすると熊本城も出る なんて大胆にも予想 








・・・とまぁ、こんな調子だから おかもちバイクを見失うんですね

熊本城記念スタンプ

北の方角に飯田丸五階櫓を臨む受付で、一人500円を払って入園




パンフレットの裏には、記念スタンプも忘れずにペッタンコ

肥後六花と記念スタンプ

スタンプの上下には、肥後六花が紹介されています




興味深い事に、これは家臣の精神教育のために園芸を奨励した肥後6代目

藩主・細川重賢( しげかた )さんに起源する、武士の方々による門外不出の

ガーデニングにより作出された肥後の6名花
( 肥後椿、肥後芍薬、

肥後花菖蒲、肥後朝顔、肥後菊、肥後山茶花 )なんだそうですよ
 






入園料を払って城門をくぐると 竹の丸です。

ここには肥後6代目藩主が始めた栽培法を受け継ぎ、今も一部門外不出で

大切に育てられている肥後椿園、肥後六花の花園があるんです

肥後菊

武士のガーデニングは、鑑賞にも作法があるみたいで、とりわけ肥後菊の

解説板に記されている事柄が興味深く、またしても熟読してしまいました



個々の花を単独に観るのではなく、花壇全体の調和した美しさ、

花の大きさ、花の色、花の数などを鑑賞
』  するのがキマリなんだとか。



いかがでしょう? 

まーりたんは、木を見て森を見ず、とか、調和を重んじる、とか

注意深く観察もせよ、とか・・・そういう言葉とリンクしました。



啓蒙的に教えるよりも、自身で感じ気付く事へ促すほうが尊く、本人のためにも

なる事を、きっと肥後6代目藩主さんは、よくご存知だったのかもしれません

それでなくても自然は、多くの気付きをくれる偉大な先生ですから







同じく、竹の丸に残る井戸 後ろには冒頭でご紹介した長塀が見えてます。  

竹の丸の井戸。朝鮮の蔚山籠城戦の経験から飲料水確保、地盤調査の為にも清正は120の井戸を掘る。内17が現存

ミネルヴァ人物評伝選・黒田如水 』 によれば、秀吉さんの朝鮮出兵

( 慶長の役 )で渡海した清正公は、慶尚道( キョンサンド )の蔚山( ウルサン )に

浅野幸長( 肥前名護屋城に弾正丸の名を遺す浅野長政の嫡男 )らと拠点用の

城を築きますが、築城開始より1ヶ月余りの時、四万を超える明の大軍に囲まれ、

籠城戦を余儀なくされたと云います その際、水を断たれ、落城寸前にまで

追い込まれた経験から、清正公は熊本城内に120余りもの井戸を掘ったそう。 

うち17基が現存していて、竹の丸井戸はその現存井戸の一つで、深さは7m。

覆屋は、明治4年頃の古写真に基づき復元されたものの様です









竹の丸の現存井戸より北の方角を見ると、遥か遠くに熊本城の大天守

竹の丸から見る熊本城大天守

感激もつかの間、彼方の天守に到達するまでには、堅固な石垣がまだ沢山

往時は石垣の上にそれぞれ見張りの櫓が建ち、睨みを利かせてたんだろうな 








竹の丸を更に東へ進むと、西南戦争での焼失を免れ、慶長時代の佇まいを

今に残す現存櫓群( 国指定重要文化財 )に出会えるエリアです

櫓群コースへ進みます

長くなりましたので、続きは次回でネ









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2013/06/06(木) 18:38 | コメント:7 | トラックバック:0 |

今年の3月、熊本城の築城主 加藤清正公を主人公にした文楽が

熊本城の 本丸御殿で上演されましたね まーりたん、是非とも観に

行きたかったのですが、上演日の27日は平日だったため、泣く泣く断念

文楽こそ鑑賞できなかったものの、それから2か月後の5月下旬、

熊本城へ2年ぶりの再登城が叶い、とっても嬉しかったです

加藤清正文楽上演のニュース(2013年3月23日NHKおはよう日本より)

清正公文楽のニュースを見るなり、すかさず録画( NHKおはよう日本より )





関ヶ原では恐らく苦渋の決断で東軍・家康方に付き、同志・豊前の黒田如水

( 黒田官兵衛 )と連携
。 九州における西軍の諸城を心ある軍略で降伏させ、

一門領地領民を守り抜き、激動の時代を乗り越える加藤清正公 尚且つ

戦後は、かつての主君・秀吉さんの遺児 豊臣秀頼さんの行く末を気にかけ、

徳川との仲介、そして豊臣家の存続を願いながらも、無念の内に亡くなります 




土木工事に長けていたり、秀吉さんの朝鮮出兵では、虎と戦った伝説

残すほどのファイティングぶり いかにもガテン系の荒々しい猛将という

イメージを持つ一方、実は大変真面目で誠実な人柄だったとも言われてます

豊後大分 鶴崎地区における清正公人気から想えば、言うまでもありません






少し時を遡りますが、秀吉さんの九州平定後は、豊臣政権樹立に反発する

土豪らが肥後や豊前で一揆を起こし 豊前では地頭・宇都宮氏の反乱

黒田如水( 官兵衛 )の息子 黒田長政が鎮圧。 ちょうどその頃、肥後の人々を

説得するため、宇都宮氏の幼い人質を連れて肥後へ赴いていた黒田如水に、

人質の命を奪うよう諭した、或いは手を下したのは清正公だとも・・・ 





が、清正公はその後、やむなく命を奪った幼い人質・宇都宮朝房を、玉名郡

木ノ葉( 熊本県玉名郡玉東町 )の宇都宮神社に手厚く祀ります。 この点は

中津城にも、福岡城にも宇都宮氏を祀る神社を建てた黒田家と共通するところ。


●参考 : 吉永正春著 『 九州戦国の女たち 』

探訪先の解説板・パンフレット各種







秀吉さんの九州平定、天下統一の陰で滅びて行った豊前の宇都宮氏は、

豊後守護の大友氏然り、鎌倉時代より四百年間にわたり豊前の土地と領民を

護ってきた名門で、出自は栃木県。 豊前領民からも敬愛される立派な地頭一族

だったそうです そして致し方無く、そうした由緒ある土地豪族を滅ぼさなくては

ならなかった新興勢力下の戦国武将らもまた、守るべき一門領地領民を背負った

企業の社長みたいなもので、時に心を鬼にしなくてはならず、やるせないですネ

けれど、こうした時の勝者達には、あまり都合のよろしくない出来事、歴史にも

目を向け、知っておく事こそ、未来を拓く大切な力になる様な気がします









さて、二年ぶりの熊本城

前回は城郭の北西、三の丸駐車場に車を停めて 二の丸御門跡を潜り抜け、

戌亥櫓と西出丸を左手に、途方もなく広い二の丸広場をエンヤコラで歩き

加藤家改易後に入城した細川さんが額づいたという西大手櫓門で蹴躓き

頬当御門でハンサムな門番さんに目眩を感じ、闇がり御門を動悸息切れしつつ

下って上ってやっとこさ、ひごまる君が鎮座する本丸広場に到達したんですが、

今回は、ちょびっと要領を掴み?総合観光案内所桜の馬場 城彩苑に駐車

桜の馬場・城彩苑

熊本の最新情報を入手でき、お食事処も、お土産屋さんも、歴史文化体験施設

まで揃っていて、熊本城内へのシャトルバスも7分おきに出ているとゆー、

横着な中年探訪家主婦?まーりたんには、まっこと有難い曲輪です

熊本城公式サイトに 城郭鳥瞰図が載ってます。 宜しければご参考に

なお駐車料は13時13分入庫、16時41分出庫( 3時間半 )で400円でした





桜の馬場・城彩苑の駐車場には、貴重な近代遺跡も在るんです

熊本城・桜の馬場の近代遺跡

最初は城内への便利な地下道かしら?と思いきや、平成20( 2008 )年以降の

発掘調査で見つかった 旧日本陸軍時代の建物( 兵器格納庫 )跡の様。

桜の馬場・近代のレンガ造り建物跡

徳川さんの江戸時代が幕を下ろした後も、熊本城は近代の軍用基地として

80年
もの歴史を持つんですね。 解説板を読んで、これまたびっくりです




そういえば熊本城は、明治10( 1877 )年には吉川晃司さん、じゃなかった

西郷隆盛さんを大将とした薩軍が明治政府に戦いを挑んだ 西南戦争の舞台にも

なったんですよね・・・。 加藤清正公が慶長6( 1601 )年より7年の歳月をかけ

完成させた熊本城には、49の櫓と18の櫓門、29の城門があったと云われて

いますが、その殆どが西南戦争の際に焼失したそうです それでも、政府軍

熊本鎮台の籠城する熊本城は落城せず、西郷隆盛さんは、有名なあのセリフ

私は官軍に負けたんじゃない、清正公に負けたのだ 」 を遺してます、確か。







桜の馬場・城彩苑を出て、袂にトンガリ兜の清正公像が鎮座する行幸橋へ続く

行幸坂を横切ると備前掘 今回は城郭南西角からお邪魔しますね、清正公 

熊本城・備前掘

備前掘は水を湛えた水掘ですが、前回ご紹介させて頂いた加藤神社と

宇土櫓
との間は、大きくて深い空堀でした。 熊本城は西~南側から見ると

なだらかな平城の様相。 大天守・小天守がそびえる北側から見上げれば

切り立った斜面上に建つ険しい山城 二つの顔を持つ豪壮雄大な熊本城には

掘も、自然の地形や川の流れを巧みに利用した空堀と水掘の両方が巡らされて

いて、その計算され尽くしたレイアウト、規模、美しさは、やはり神様の宮殿か







備前堀の先は、城郭南西側の入り口・櫨方( はぜかた )門です

熊本城・櫨方(はぜかた)門よりいざ参らん!


なにやら物々しい工事の幕が張られてますが、櫨方門より侵入中のまーりたん

一味を見張る馬具櫓は、ご覧のとおり、只今復元整備工事中でした

熊本城・馬具櫓(工事中)


解説板によると、馬具櫓は江戸時代初期に造られた櫓で、西南戦争の時に

焼失
とあります 城内の要所に防備のため配置された石垣の上には、

侵入者を鉄砲や弓矢で攻撃するための狭間( さま )や、石落としが設けられた

平屋の櫓が築かれていたそうです( って、郷土史カテゴリのブログをご覧に

なられている方なら、言われなくても知ってるよ、ですよね すみません )。 

熊本城・馬具櫓・続塀復元整備工事案内板

櫨方門の馬具櫓は生憎ながら、これから探訪する熊本城内の東竹の丸には、

創建当時の佇まいを今に残す、国指定重要文化財の櫓群があるのです

二年前に熊本城を訪れた時には時間が足りず見学&レポ記事にできなかった

場所に絞って今回は、とくと探訪 & 穴が開くほど見て参りました



次回より休み休みの長期連載になりそうですが、熊本城にご興味ある皆様、

宜しければどうぞ、お時間の許す限りお付き合い&お楽しみ頂ければ幸いです  





只今復元整備中につき白い幕で覆われた馬具櫓続塀に、工事施工写真と併せて

熊本城の古図や古写真が貼られてましたので( サービスですね )パチリ

明治5年の古写真(櫨方門)
( 明治5年頃の櫨方門 )


熊本城御絵図(櫨方門)
( 熊本城御絵図 櫨方門 )


馬具櫓周辺・展開図
( 馬具櫓周辺 展開図 )


江戸時代後期の熊本城図


熊本城之図(江戸時代後期)


次回は、国指定の重要文化財櫓群、そして清正公石垣と 細川氏時代の

石垣が一目で比較できる 二様の石垣まで、ご紹介できると良いな~

どうぞお楽しみに








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2013/06/04(火) 15:51 | コメント:11 | トラックバック:0 |


加藤清正公が肥後街道( 豊後街道 )沿いに設けた

5つの御茶屋のひとつ、大津宿を通るよ、マンジ君


国道57号線を熊本大津方面へ


豊後 今市宿場町の肥後街道解説板によれば・・・

豊後今市宿場町の肥後街道解説板より

藩主が宿泊する御茶屋・大津宿は、豊後 鶴崎宿から

数えて5つめの宿場町だから、多分もうすぐ到着だ




ほら、やっぱり マンジ君、熊本城が見えたよ


熊本城が正面に見えました♪


まーりたんさん達が今回、車を停めた熊本城総合観光案内所

桜の馬場・城彩苑には、清正公仕様の自販機があるのか、


総合観光案内所・桜の馬場城彩苑の自販機も清正公仕様


凝ったデザインだなあ 見てごらん、マンジ君

熊本特産・玉緑茶使用の森のくまさん緑茶ですニャ~

熊本特産・玉緑茶使用の 森のくまさん緑茶ですニャ

ニャかみは既に飲んで、カラですけどニャ~




まーりたんは他にも、熊本城下のダイエー下通り店にて

2種類のご当地ドリンクを買ったのですニャ


ダイエーで買ったご当地飲料、いったい何時までとっておくのだニャ

今回の土産は飲料ばかりニャのだ












マンジ君、ブツブツ独りごと言ってないで、熊本の画像を

一緒に見ないかい まーりたんさんは、なかなか記事に

まとめる時間がないので、先に僕達が観ても良いって


熊本の画像、先に見ても良いって♪




熊本城周辺には 放送発祥の地もあるんだよ、マンジ君

ダイエーに駐車、ラジオ通りへ♪放送発祥の碑

この場所はね、昭和3( 1928 )年に 九州で初めて

ラジオ放送局が開局されたメモリアルスポットらしいよ 




放送発祥の地碑の正面には熊本市役所が在り、そこから

まーりたんさんがご当地飲料を買ったダイエー下通り店迄は、

ラジオ通り ” と呼ばれていているんだって


放送発祥の地解説板

解説板に載っている地名 “ 千葉城町 ” は、加藤清正公

熊本城を築く前の15世紀から茶臼山に在ったという 中世の

古城、千葉城( 隈本城 )に由来してるんだろうね、マンジ君。




肥後守護・菊池一族の出田氏が築いた城と云われてるけど、

千葉城は、まさにこの場所に建っていたのだろうか・・・


ややっ、落し物ニャのだ

ややっ、落し物を発見ニャのだ












家の中では見たことのない錆びたネジだね、マンジ君

錆びたネジだね、マンジ君

こだぬき君、恐らくこれはだニャ・・・ 」












思い当たる節があるんだね、マンジ君

まーりたんのアタマのネジニャのだ

まーりたんのアタマのネジに違いニャい












言うだけ言って、まーりたんさんに届ける事はしないんだね。

確かにそれが賢明だと僕も思うよ、学習したね マンジ君


学習したね、マンジ君

ネジとおニャじ運命を辿るのはゴメンニャのだ










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2013/06/01(土) 19:02 | コメント:7 | トラックバック:0 |


昭和35( 1960 )年に外観復元された大天守・小天守を背景に、精巧かつ

見事な高石垣上で、およそ四百年の時空を超えて現存する 熊本城の宇土櫓

慶長年間(1596~1614)の現存・熊本城の宇土櫓

いわずもがな熊本城は日本三名城のひとつで、築城主は肥後太守 加藤清正




天正16( 1588 )年、秀吉さんの九州征伐後の国分けにより、肥後一国を

与えられるものの、肥後での一揆を鎮圧する事が出来なかった佐々成政公

代わって、加藤清正公が肥後半国19万5千石の領主へ就任( もう半分の

肥後国24万石は、宇土城主でキリシタン大名の小西行長公が領します )。 





慶長5( 1600 )年、秀吉さんが亡くなった後の関ヶ原では、加藤清正公は

東軍旗を掲げ、豊前の黒田如水公と連携。 西軍として柳川城に籠城していた

立花宗茂公を説得し、味方に加えるなど、九州における西軍の諸城を、心ある

軍略で開城、降伏させて行き、激動の時代を見事乗り切るのです 





一方、清正公と肥後国を折半していた小西行長公は、西軍として関ヶ原へ出陣。

後に捕えられ極刑に・・・ 主君を失った小西家臣らは加藤清正公が召し抱え、

熊本城内の櫓の管理を任せたらしく、これが宇土櫓の名の由来なんだとか。


この情報は、まーりたんが2年前に初めて熊本城レポを書く際、背中を押して

下さった日本史の師匠 piglet01さんのブログ 『 日本百名城の旅 』 熊本編より





明治10( 1877 )年の西南戦争後にも焼失しなかった唯一の多層櫓 宇土櫓

慶長年間の姿のまま、四百年の時を超えて現存する国指定重要文化財です 





というワケ( 説明されなくても良~く知ってますヨという方、ごめんなさい )で、

先週の土曜日( 5月25日 )、約二年ぶりに訪れた熊本城。 感無量でした   








冒頭の宇土櫓の写真を撮った場所は、加藤神社の境内です

熊本城・加藤神社

ここは熊本城郭内の加藤神社ですが、大分市野津原地区の肥後街道沿いに

鎮座する野津原神社( 熊本藩の御茶屋跡 )も別名、加藤神社ですよね





関ヶ原後、加藤清正公は徳川家康より豊後3郡( 海部、大分、直入 )の内

二万石を飛び地として与えられます。 清正公は、大分県大分市の鶴崎地区に

瀬戸内海へ航路をとる港を造り、豊後の東部( 大分市鶴崎・佐賀関 )と、肥後

( 熊本市の熊本城 )とを結ぶ肥後街道( 熊本県側では豊後街道と呼ばれます )

を整備 街道には参勤交代時に藩主が泊まる御茶屋を置き、宿場町を造り

参勤交代の無事を祈願して、今市宿場町には菅原道真公を祀る天満社を創建。

これが、大分市今市地区の鎮守様となる丸山八幡社の起源とされています






築城の名手で、土木技術に精通していた清正公は豊後の治水、治山事業にも

取り組み、領民らの暮らしが安定し豊かになるよう、経済の発展にも尽力 

豊後大友氏が22代で改易された後、小藩分立化された豊後国の人々の不安も

清正公の行動力と人柄により解消されたそうです これにより、大分市野津原

恵良の法護寺には清正公を讃える清正公殿が建立され、特に鶴崎地区では 

清正公は神様同然の大恩人として、今も変わらず信奉されているんです






加藤清正公が慶長6( 1601 )年に、大分市鶴崎地区に建立した法心寺では、

清正公が病没した慶長16( 1611 )年より、この寺で続けられていた法要が、

二十三夜祭 』 となり伝承されています。 大阪城から夜の瀬戸内海を渡り、

鶴崎の船着き場へ戻る清正公を迎える為、豊後鶴崎の人々は皆、提灯を手に

我先に駆け付けたという古事に因んで、祭りの夜には千灯明が灯されます






昨年、鶴崎地区の 毛利空桑( くうそう )記念館を訪ねた時に、学芸員さんから、

大分市の鶴崎地区の方々は、加藤清正公のことを

せいしょこ様 ” と呼び、崇め奉っているので、当地区では

間違っても呼び捨てにしちゃ、ダメですよ
」 と忠告されました



それって、もし口が滑って「 加藤清正 」なんて言っちゃった暁には、奥歯ガタガタ

取り返しのつかない事態が待っているって意味ですか~ 皆様もどうぞご注意を






加藤清正公は豊後にとっても神様同然の戦国大名なのだ、恐るべし

まーりたんがソレを知ったのは昨年の事ですが ま、無事に四十余年、大分で

生きて来れたので、別に知らなくたって身に危険が及ぶおそれは無さそうです








コチラは、熊本城郭内に鎮座する加藤神社のご由緒。

加藤神社のご由緒


由緒書きの周りは、おびただしい数の “ 仰清正公 ” 幟で固められ・・・

熊本城・加藤神社では大河ドラマ推進運動もパワフルに実施中

大河ドラマ推進運動もパワフルに実施中。 あれ?大河の主役、まだでしたっけ

でも、その前に来年のNHK大河ドラマ 『 軍師官兵衛 』 では、何方が

加藤清正公を演じられるのか、これまた気になるところです








加藤神社に参拝を済ませた後、お濠側の境内をウロウロしていたら

秀吉さんの朝鮮出兵( 1592年・文禄の役 )の時に、加藤清正公が

肥前名護屋城で使っていたという旗立石を発見

加藤清正公が朝鮮出兵の時に肥前名護屋城で使用した旗立石

解説板には、明治42年に名護屋城からここへ移されたと書かれてます



2011年の5月に熊本城を訪れて以降、この2年間で、清正公の飛び地だった

大分の地区を歩き、文禄・慶長の役縁の肥前 名護屋城址へも登城が叶ったし、

ほんの少しずつですが、失礼の無い様にステップアップしてますよ~清正公











馴れ馴れしくワシの名を呼ぶのは何奴ぢゃ

後姿のこの方はもしや?




ハイ 

小倉城の火消しから何と、肥後の戦国大名へ昇格したまーりたんです

小倉城の火消しから昇格?まーりたんです♪

熊本城に再登城できた嬉しさに我を忘れ、今回もやってしまいました

やっぱり二年前と、まったく変わっちょらんなー フォーエバーばかごですナ






2013熊本城登城記は、後先考えず300枚近く撮ってしまった写真の整理が

出来次第、お届けさせて頂きます  整理する時間あるのか・・・











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2013/05/28(火) 13:22 | コメント:13 | トラックバック:0 |

熊本城登城記、最後にご紹介させて頂くのは、熊本城で唯一、創建当時

四百年前の姿を今に残す多層櫓  “ 宇土櫓( うどやぐら ) ” 

宇土櫓へ

熊本城天守閣と本丸御殿が全焼した明治10年( 1877 )の

城内火災時、宇土櫓は風上( 天守閣の西側 )に位置していたため

難を逃れました。 外観は3層からなり、内部は5階建てに地下1階。

重要文化財に指定されてますが、外観だけでなく内部も自由見学できます

宇土櫓内部

昭和60年に修理が施されているとはいえ、櫓の内部は独特の空気が漂い、

ひんやりとしています。 裸足で歩く床の感じ、心なしか傾いている気が 





今回の熊本城登城記を書くにあたり大変お世話になりました お城王子こと

piglet01さんのブログ 『 日本百名城の旅 』 熊本編によれば、
 
宇土櫓の名前は、関ヶ原の戦いに敗れた宇土の大名・小西行長の家臣を

加藤清正が召し抱え、櫓を管理させたことに由来しているとの事




また宇土櫓は、普通のお城であれば天守閣ほどの大きさを誇る事から

宇土城天守閣を移築したとも考えられていたようですが、その後の

調査により、熊本城内で造られた櫓である事が明らかになったとか。







櫓内には “ 狭間 ” や “ 石落とし ” と呼ばれる小窓が

設けられています。  ここから鉄砲や矢を放ったり、石を落として

身を隠しつつ敵を攻撃 これらは櫓だけでなく塀や天守にも見られます

宇土櫓の挾間

現地解説板によれば、宇土櫓内の柱には黒光りする手斧痕も

残っているとか。 この柱の黒いライン、もしかしてそうなのかな?


因みに使用されている木材は主にマツで、ほかには( つが )や

( くす )、の木なども使われているとの事。





ハシゴに手すりを付けただけみたいな狭くて急勾配の階段を登り

宇土櫓展望スペースから東の方角、熊本城大小天守閣を眺めてみました

宇土櫓から天守を臨む

天守閣の向こう側には大銀杏のある広場と櫓群、その先は断崖絶壁。 

熊本城天守閣は、ここ茶臼山一帯の最も高い位置にそびえています。









そしてこちらは今回、熊本城へ登城する際に歩いてきた西側の眺め。

宇土櫓から西大手門を臨む

上の画像左手前、木々の間からノボリがチラチラ見えている辺りが

麗しき門番さんが声をかけてくれた頬当御門、 同じく画像上、

中央よりやや右上の長塀に隣接している建物が、西大手櫓門

加藤家改易後、熊本城主となった細川忠利が入城の際、この門で

清正に敬意を表し深々と頭を下げたとされる最も格式高い櫓門です






宇土櫓もまた絶好のビューポイント その数4万6千枚とも云われる

屋根瓦の中には四百年の歳月に耐えた加藤家の桔梗紋入り瓦

残っているそうですヨ。 探してみるのも楽しいかもしれません

加藤家の御紋は、蛇の目紋と桔梗紋の2種類があるようです。
 









「 黒田官兵衛( 如水 )の赤漆塗合子形兜もインパクトアリアリだが、

蛇の目紋がデザインされたワシの長烏帽子兜も、なかなかであろう 

更には武勇伝を物語る 片鎌槍で、皆の視線をロックオンぢゃ~ 」

あっ、加藤清正?

「 この槍は朝鮮の役で虎と戦った際に片方噛み折られてしまったが、

あえて “ 片鎌槍 ” と名付け、アピールアイテムにしたのじゃ。

関ヶ原の戦いでは黒田官兵衛とタッグを組み、九州の西軍を制圧、

52万石の大名となったワシの名は 加藤清正であるぞ~ 」





ウンチクを垂れ、エバり散らかしているニセ清正公の右手後方では、

ニセ清正公の悪ノリぶりを心配そうに見つめ、寄り添う夫婦の姿が・・・








私は明智光秀の娘、 細川ガラシャ ですのよ

麗しの?ガラシャ

加藤家のあと熊本城主となった細川忠利は、大分県の中津城、

細川時代の初代城主・細川忠興様と私、ガラシャの息子なの、ウフ

ご縁を感じるわ~



細川ガラシャになりきっている人は、ウチのダンナさんです。

天守閣前の広場では、少しの勇気さえあればこのように楽しく遊べます






ニセガラシャの背後には、朱色の羽織り姿に勇ましく剣を構えたお侍さん

その名は剣豪、宮本武蔵。  武蔵は57歳の時、細川忠利から客人として

熊本へ迎えられ、旧隈本城 “ 千葉城 ” で余生を送ったそうです。 







( 熊本城天守閣前広場から、古城のあった茶臼山東側一帯を臨む )

東側の眺め
東側は絶壁です

( 緩やかな城郭西側とは異なり、東側は断崖絶壁です )







4回に渡ってお届けして参りました まーりたんの熊本城登城記

お楽しみ頂けたでしょうか 改めてパンフレットで確認したところ、

今回探訪&ご紹介したルートは偶然にも “ 大手門コース ” でした。

熊本城正面玄関から登城する、所要時間90分のスタンダードコース 




東京ドーム21個分の広さを有する熊本城の見所はこの他にも

まだまだ沢山あり、有名な二様の石垣飯田丸五階櫓も見学する

所要時間120分の石垣コースや、城内に49あるという重要文化財

櫓群を巡る所要時間130分の櫓、石垣コースもあります。








( お城から出る時に撮影した頬当御門 ) 

頬当御門はんぶんだけど帰りは撮影成功

( 閉園時間直前で、甲冑姿のイケメン門衛さんはもういませんでした )






40歳を過ぎて突如、名城・熊本城に再登城 小6の修学旅行以来です。

学生時代はお城や日本史には興味薄弱だったのに、どういうわけか

今回は、まるで魔法にかけられた様に すっかり魅了されてしまいました

お城王子piglet01さんが仰るには 「 熊本城はそういうお城 」 との事

機会がありましたら皆様も是非、熊本城の魔力を体感されて下さい









( 再び、西大手櫓門をくぐり・・・ )

再び西大手門をくぐります
再び二の丸広場へ

( 右手に 西出丸を眺めつつ、西日に向かい木立の中を 二の丸広場へ )









復路、二の丸広場に立つ大木の傍に史跡らしきものを発見!

大木の前に史跡らしきもの発見

西南戦争にまつわるものかな? 

ウチのダンナさん登っちゃいました

ウチのダンナさん、樹と化した大木の根っこに登っちゃってます


他にも大木があちこちに

二の丸広場の大木たちは、きっと物知りなんだろうな~



 












「 ひごまる君、官兵衛君、まーりたんはキッチンに籠城中ニャのだ。

キッチンは主婦の本丸ニャのだ。 さぞ油断をしているに違いニャい 」

まーりたんはキッチンに籠城しているのだ

「 その隙を突いて、これより皆で奇襲攻撃をかけるのだニャ 」














「 イタズラをする度にまーりたんから小言を言われてはたまらニャい! 」

攻め込むチャンスは今ニャのだ!

「 驚いて腰を抜かせば、小言も少しは減るであろうからニャ 」














「 ではこれより突撃するニャ。 ひごまる君、官兵衛君、後に続くのだゾ 」

マンジ君、何を話してるんだろう

「 マンジ君はさっきから官兵衛君とひごまる君に何を話してるんだろう? 」














「 名軍師官兵衛くんと難攻不落のひごまる君がいれば天下無敵ニャ! 」

いざ討ち入りニャ~

「 敵はキッチンにありニャのだ! いざ討ち入りニャ~ 」















「 ニャ~!! 」

独りで攻め入るなんて

「 キッチンへ討ち入りだって? まーりたんさんは

換気扇やレンジまわりのお掃除で今、手が放せないんだよ、マンジ君 」













「 まーりたんさんが忙しい時に正面から単独でイタズラを仕掛けるなんて、

官兵衛くん、ひごまる君

無謀にもほどがあるよ ひごまる君と官兵衛君もそう思わないかい? 」










熊本城登城レポ、最終回までお付き合い下さりありがとうございました


2011/06/09(木) 13:29 | コメント:12 | トラックバック:0 |

ここは熊本城築城400年に合わせ、平成20( 2008 )年に総工費

54億円をかけ天守閣南側に復元された熊本城 “ 本丸御殿 ” の大広間 

本丸御殿・大広間

往時 本丸御殿大広間は対面所、最奥の部屋は藩主の居間として使用

されていたそうです。 職人さんたちが、江戸の文献や礎石、西南戦争前

( 明治初期 )の古写真等をもとに “ 継手 ” や “ 仕口 ” と

呼ばれる、クギや金属金具を使わない、はめ込み式のパズルみたいな

伝統技法で木と木を繋ぎあわせ建築。 鉄筋コンクリートも不使用だとか
  





ふすまで仕切られた部屋にはそれぞれ名前がついていて、手前から

“ 鶴の間 ”  “ 梅之間 ”  “ 櫻の間 ”  “ 桐の間 ” 

櫻の間

最奥は藩主の居間 “ 若松の間 ” 。 部屋の左側には各部屋を繋ぐ

縁側が配されています。 この縁側もまたゴージャスな総檜( ひのき ) 

造りで、 “ 広縁 ” “ 落ち縁 ” “ 濡れ縁 ” から成る3段構成。 

幅は5. 5m、濡れ縁の板の厚さは9cmもあるそうです

本丸御殿・縁側からの眺め1

400年前と全く同じ工法で造られた本丸御殿の縁側から、熊本市役所

( 画像上・左側の建物 )など、平成の熊本市街地を眺めていると

異次元に迷い込んだような、ちょっと不思議な気持ちになります 






画像下、庭の右側隅に見える長方形の小さな堀は

 “ 露地( ろじ ) ” と呼ばれる防火用の水槽です。

本丸御殿・縁側からの眺め2

本丸御殿の復元資料 “ 御城内御絵図 ” にも描かれています。

御城内御絵図

発掘調査でもこの絵図と一致する水槽の遺構が見つかったそうで、

壊れていた部分は砂漆喰で修復した、と解説板に記されていました
 
小段も付いていて、寸法は幅2 .6m、長さ4 .5m、深さ1 .1m。









「 こらこら、待たぬか~ 」 縁側を歩くまーりたんの隣で突然、

アヒルを追いかける徳川家定のモノマネを始めたウチのダンナさん

( 度胸がないので蚊の鳴くような小声でゼスチャーも控えめです )




そう、アナタはこのお庭から堺雅人さんのアノシーンをイメージしたのね

大河ドラマ 『 篤姫 』 の観すぎじゃ~ ならば、それがしも~





大分県に居ようと、熊本県にお邪魔していようと、

どこでも うつけ三昧の中年夫婦 に係員の女性が笑顔で一言。



「 どうぞお写真を撮られて下さいませ 

“ 昭君の間 ” です。 フラッシュはお控え下さいね 」






気が付けば本丸御殿大広間、最奥の部屋 “ 若松の間 ” まで

来てました そして “ 若松の間 ” の奥には

最も格式高く、同時に多くのナゾに包まれた “ 昭君の間  ” 

本丸御殿大広間から昭君の間を見る

“ 昭君の間 ” の襖絵には、楊貴妃に並ぶ古代中国の絶世の美女

“ 王昭君 ” が政略結婚のためモンゴルへ送り込まれたという悲劇の

時代絵巻が描かれていることから この部屋を “ 昭君の間 ” と呼ぶ

そうなんですが、どうやらそれはカムフラージュらしいんですよねニオウゾ




・・・というのも

加藤清正は尾張の生まれで、母親は秀吉の生母と従姉妹関係にあり、

そのため清正は幼い頃から小姓として秀吉に仕えていたそうです。

秀吉からも将来を期待され、たいへん可愛がられていた加藤清正の

秀吉へ対するの忠誠心は絶大だったと言います。





豊臣秀吉が茶々( 淀君 )との間にもうけた次男、豊臣秀頼

秀吉没後、万が一の事があった場合には秀頼を熊本城へ迎え入れ、

徳川家康に抗戦する覚悟もしていたとも伝えられており、本丸御殿大広間

“ 昭君の間 ” は、豊臣秀頼のために清正が用意させた場所、

“ 将軍の間 ” を指す隠語だったという説も残されています。


( 大分県中津市の耶馬渓には、大阪夏の陣の折り、豊臣秀頼を護衛して

大阪から瀬戸内海を渡り、九州へ落ち延びた武将のお墓
もあるんです )







熊本城本丸御殿は、昭君の間の後ろ側の壁が回転し、そこから床下へ

降りて城外へ出られる仕組みであったとか、廊下には鴬張りが施されて

いたなどと記された、熊本城築城に携わった大工による古文書も残されて

いるそうですよ。 興味のある方は是非調べてみて下さい





さらには熊本城の小天守閣も、表向きには加藤清正が夫人のために

増築したとされていますが、地下一階には井戸やかまどもあり、

秀頼を迎え入れ、西国大名らといざ徳川攻めに踏み切った際の

“ 籠城戦 ” のベースとしても使える設計だったとも言われてます










所変わって、ここは本丸御殿の中にある “ 大御台所 ”

本丸御殿・御台所


その名の通りゴハンを作る場所で、囲炉裏や土間には竈もあります。

本丸御殿御台所かまど


大御台所の見所は、大きな丸太を使った天井の小屋組み

ここもショットポイントで、ガイドさんが撮影を勧めてくれます

本丸御殿御台所

丸太は赤松の木で、直径は1メートルほどだとか

煙出しの窓も設けられ、吹き抜けになってます。






今回見学し、写真を撮る事が出来た本丸御殿の中身は以上です

ほかにも茶室や、立派な襖絵を展示した部屋もありました。

本丸御殿の建築に用いられた伝統技法、木製の知恵の輪みたいな板を

実際に手に取って体験できるコーナーも設けられていて面白かったです 

御殿入り口付近には、復元の様子を紹介するミニシアターもありました









再び本丸御殿への正式な通用口 “ 闇御門( くらがりごもん ) ” を潜り

地上に出ると、巨大化したモリゾーみたいな大銀杏( おおいちょう )。 

大銀杏

熊本城が別名 “ 銀杏城( ぎんなんじょう ) ” と

呼ばれる由縁の木で、清正が築城の記念に植樹したと言われています


清正が植えた銀杏の樹は西南戦争の際に燃えてしまい、現在の木は

以後130年の時をかけて、脇芽が成長したものだそうです

( 西南戦争については前回の記事 コチラ をどうぞ )

大銀杏と大小天守閣

大銀杏の向こうに見えるのが銀杏城大小天守閣でございま~す

大天守閣

西日を背に どーん と構える熊本城大天守閣も迫力ものです






次回、熊本城レポ最終回( 予定 )では、四百年前の姿を今に残す

宇土櫓をご紹介させて頂きます。 サービスショットもあるかもしれません

宇土櫓へ

次回もどうぞご一緒に、熊本城登城気分をお楽しみ下さいませ








●参考 : piglet01さんのブログ 『 日本百名城の旅 』 熊本編

熊本城公式サイト 城内ガイド 『 本丸御殿ゾーン 』

熊本城内 解説ボード / ウィキペディア 『 加藤清正 』 『 豊臣秀頼 』












「 官兵衛くんも ひごまるくんもこの通り無事ニャのだ! 元気だゾ 」

官兵衛くんとひごまる君無事だゾ

「 一時はどうなることかとハラハラしたよ、マンジ君 」











「 マンジ君、明日は雨だって。 今日は僕も日向ぼっこしておこうかな 」

ありがとうですニャ

「 今回もまーりたんにお付き合い下さり、ありがとうですニャ♪ 」








記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます

2011/06/06(月) 18:58 | コメント:14 | トラックバック:0 |

明治10( 1877 )年、西南戦争の際に焼失する前の熊本城天守閣。

この古写真は西南戦争の2年前、明治8年頃に撮影されたものだそうです

焼失前に撮られた大小天守閣

( 現地解説ボードの古写真を撮影 )



大天守閣 ( 右 ) は、石垣の上からの高さ約29. 5m、外観3層、

内部6階、地下1階、鯱 ( しゃちほこ ) の大きさは約1. 2m。


小天守閣 ( 左 ) は、石垣の上からの高さ19m、外観2層、

内部4階、地下1階、鯱 ( しゃちほこ ) の大きさは約0. 9m。




火災が起きたのは西南戦争開戦の3日前と云われていて、

火事の原因は未だはっきりしません。 それにしてもこの立派な天守閣と

本丸御殿一帯が全て焼失したかと思うと、惜しいばかり






そこで、「 清正公が築城した熊本のシンボル

熊本城天守を往時の姿に復元しよう! 」




匠たちは立ち上がりました。






天守閣復元にあたっては、最高で5千万円を寄付したという方も

いらっしゃったとか そんな市民からの熱いバックアップを得て、

匠たちは昭和35年 ( 1960 ) に総工費1億八千万、

鉄筋コンクリートで再建、現在の姿に蘇えらせました ( 外観復元 ) 









なんということでしょう~

再建後の熊本城

外観は、チャコールを基調としたシックで落ち着いたカラー。

扇を想わせる優美な曲線を描く清正流高石垣の上に

威風堂々と構える天守の姿は、剛健さとエレガントが見事に調和し、

まるで神殿のような荘厳ささえ醸しています







どっしりと剛健な天守閣が優雅さを醸している理由は、

“ 千鳥破風( ちどりはふ ) ” と呼ばれる末広がりに反った

三角屋根の造りにあります。 清正流の高石垣とも絶妙にマッチ

これを四面に配し、見事な調和を生み出しています。

千鳥破風 姫路城


また、最上階望楼の南側と北側には

金魚鉢を逆さにした様な “ 唐破風( からはふ ) ” を施し、

日本と大陸文化の融合的アレンジを加えています。

唐破風 姫路城

破風の部分写真は姫路城のものを使わせて頂きました










そして、これでもかの武者返し! 大天守閣の下からショット

大天守閣・武者返し

熊本城の石垣は、清正が近江から呼び寄せたプロフェッショナルチーム

“ 穴太衆( あのうしゅう ) ” により築かれたことは

前回の記事でもお話しましたが、石垣の隙間に 割石を詰め、手がかりを

無くすだけでなく、勾配についても計算され尽くしているのです

裾野は富士山の様に長く緩やかで、一見ラクラク登れそうな気さえする

石垣ながら、上部はゾッとするほど垂直


アナタに忍び寄る下心さえはね返すでしょう ( なんのこっちゃ? )








でもって、夜はコレで天守閣をビカッと!

夜はコレでビカッと


アナタの気になる小じわも一本残らず見事にとばしてみせます







熊本県民の皆様、ふざけてばかりでごめんなさい

お城について少しばかり勉強したせいか、ちょっと調子に

乗りすぎたみたいなので、まーりたんこれから熊本城の地下へ

潜って、アタマを冷やしてこようと思います










ここは熊本城のヒミツの地下道 “ 闇御門( くらがりごもん ) ” 

地下通路・闇り御門

天守閣への通用門、そして後ほどご紹介させて頂く本丸御殿への

正式な入口として、大天守閣の南側に配されています。

地下通路のある御殿建築は、全国でも大変珍しいそうです










それではいよいよ、加藤家のご紋 “ 蛇の目紋( じゃのめもん ) ” 

そして肉球みたいな細川家のご紋 “ 九曜紋 ( くようもん ) ” を

潜り、熊本城天守閣の中へと進んでみたいと思います

肉球みたいなのは細川家の御紋



まずお出迎えてして下さるのがこの方 “ 谷村計介 ” 氏の銅像。

夜は動く?谷村計介さん

谷村氏は西南戦争時、熊本城に置かれていた鎮台( 最も大きな

陸軍部隊 )から官軍と連絡をとるために抜け出し、二度に渡り

薩軍に囚われながらも、そのミッションをやり遂げたのだとか。

ところで谷村さん、夜間は天守閣内部を散策されたりします?

ナイトミュージアムみたいに






谷村計介氏の背後の壁には、熊本城城主芳名がぎっしり。

熊本城を往時の姿に完全復元するプロジェクトに賛同し、

寄付をした方は全員、城主としてここに名前が掲げられる様です

自分の名前を指さして記念撮影している方もいました

まーりたんも やってみたーい。 あーやってみたい。





西南戦争といえば、お上の圧力にキレた部下を思うあまり、

西郷隆盛がまさかの挙兵。 官軍とのバトルを繰り広げる事となり、

熊本城( 西鎮台が置かれていた )を攻めた際、城を炎で包む籠城作戦に

敗北。 西郷どんが最期に残した余りに有名な名ゼリフは、

「 私は官軍に負けたのではない。 清正公に負けたのだ 」


まーりたんのオツムでは、どちらが悪いのかよく解らない哀しい戦だな~と

思います。 戦争って、いつの時代もそういうものなのかも。








天守閣再建時から平成20年2月まで設置されていたという鯱。

再建時のしゃちほこ

落雷や台風などによる風化で取り換えられ、比較的保存状態の良い

2本がここに展示されています。 と、ここで天守閣内の展示物が

撮影禁止だという事に気づき、展示物の写真はこの一枚きりです




他には加藤家や細川家のお宝、古城時代からの歴代城主の紹介、

西南戦争の資料、ジオラマなどが展示されていて博物館みたいです。

1階には熊本城の歴史を学習できるミニシアターもありました








天守閣最上階の展望スペースです。

最上階の望楼は建物の中

昭和39年に建てられた中津城天守閣では、バルコニーに出て

眺めを楽しむ事ができましたが、再建されたここ熊本城は

建物の内側に望楼があり、展望はガラス越しになります。  

慶長時代の様式だそうで、そのまま忠実に復元されています







古写真を繋いでパノラマにしたものを発見

天守閣最上階からの眺め(古写真)

中央の屋根は、小天守閣( 焼失前 )と表記されてました。 

撮影が明治初期だったら、130年ぐらい前の天守閣北側の眺めかな?

計算あってる







現在の、天守閣西側の眺めです

天守閣から眺める山々と宇土櫓

画像右側に見えているのはこのあと見学する宇土櫓( うどやぐら )。

宇土櫓の向こうには前回の記事でご紹介した美しい芝生の空堀 西出丸

さらにその先には木立に囲まれた二の丸広場も見えます








次回は、天守閣と同じく明治10年( 1877 )西南戦争の際に焼失、

平成20年( 2008 )に復元された 本丸御殿大広間と、西南戦争の

火の手を免れ、四百年前の佇まいを今に残す 宇土櫓からお届け致します





●参考 : piglet01 さんのブログ 『 日本百名城の旅 』 熊本城編

熊本城見学用パンフレット ( 熊本城総合事務所 ℡:096-352-5900 )

熊本城公式ホームページ 城内ガイド 『 天守閣・宇土櫓ゾーン 』

破風部分の画像は 『 世界遺産姫路城 』 よりお借りしました













「 ひごまるくん官兵衛君が、マンジ君の下敷きになってしまった 」

マンジ君の下敷きになってしまった!

「 大変だ、すぐに助けなきゃ 」














「 でもマンジ君ぐっすり眠ってるし、起こすのは少し可哀想だなぁ・・・ 」

でもマンジ君よく眠ってるし

「 圧力が高そうなオシリ部分に敷かれた訳じゃないから大丈夫かな 」













「 日向ぼっこしていたら、うっかり居眠りしてしまったのだニャ 」

うっかり居眠りしてしまったニャ~

「 梅雨入り前の貴重な晴れ間は、日なたで居眠りに限るニャ~ 」














「 ややっ、こだぬき君。 驚いた顔をしてどうしたのかニャ? 」

ややっ、こだぬき君。どうしたのだニャ?

「 マンジ君、もしかして 」












「 遅かった 」

遅かった





次回もどうぞお楽しみに

記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます


2011/06/04(土) 16:33 | コメント:8 | トラックバック:0 |
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