熊本城天守閣東側の本丸広場で、ひごまるくんと感動の再会を果たした後は、
ふたたび闇( くらが )り通路を通り、城内唯一の現存多層櫓 宇土櫓が建つ
天守閣西側の広場へ


「 よう、おいでなされた。 洒落た日傘でござるな


闇り通路の入り口 闇り御門で、坂本龍馬風スタイルのアテンダント武士さんから
甘ーい言葉を掛けて貰った( ←普通にお仕事をされてるだけです )まーりたん

人知れずほくそ笑み、ちょっと気を良くして、足取りも軽やかにスロープを下る



アテンダント武士さんは画像中央部




暑い中、来園者の皆さんに笑顔でひと声かけては、ご案内をなさってました

天守閣入り口へ到達するために 必ず通り抜けなくてはならない地下道
“ 闇( くらが )り通路 ” は、本丸御殿大広間の下に広がっています。
本丸御殿へ通じる秘密階段も設けられた、ひんやりした空気漂う地下道を
抜ければ、これでもかと武者返しを見せつけ迎えてくれる熊本城の大天守


画像手前の大天守は、地上6階に地下1階、石垣を省いた高さは30m。
奥の小天守は、地上4階に地下1階、石垣から上の高さは19m、との事

( 天守閣内部については、2011年の熊本城登城レポでご紹介しています


仲良しナイスミディさんの後方より、2013年の熊本城大小天守をパチリ


熊本城の天守閣は、明治10( 1877 )年の西南戦争直前に原因不明の
火災で全焼したらしく

されて現在に至ってます。 焼失前の天守はコチラ


現地解説板には、明治8( 1875 )年に撮影と紹介されてました


大天守石垣前の井戸は、加藤清正公が秀吉さんの家臣だった頃に設計した
名護屋城を軍事拠点に朝鮮へ出兵の際、蔚山で強いられた苦戦を教訓に
熊本城内に120基余り掘った井戸のひとつで、現存しています



この現存井戸の深さは36m。 そして、井戸の向こうには西南戦争時の
火災を免れた熊本城内唯一の現存多層櫓 宇土櫓が見えてます

宇土櫓は3層5階に地下1階


しかも慶長年間( 1596~1614 )の建物で築410余年



逆光でちょっと分かり辛いかもしれませんが、向かって右の宇土櫓

長い廊下部分は、中央をあえてしならせた構造になっていて( 廊下の中ほどが
沈んでいるのは、建物が古いからじゃないんですヨ

階段は、踏み込んだ瞬間に踵が下がり、バランスを崩す勾配に造られてます



つまり


中央部にかけて更に勢いづき、先駆けが突き当たりの階段を昇ろうと踏み込んだ
途端、ひっくり返り



守りに対しては細心の注意が払われていて、確かに単なる倉庫兼砦としての
櫓では無かった事が窺える宇土櫓は、第3の天守とも呼ばれている様です



加藤家の桔梗紋が彫られた瓦も、四百年の時を超えて現存中

梯子並みに狭い宇土櫓の階段を、探険家気分で最上階まで登ると


南の方角には長塀伝いの入場口と、この宇土櫓に続く廊下の屋根

東の方角には、小天守と大天守


宇土櫓内の解説板によれば、熊本城の大小天守と宇土櫓との間には
加藤氏時代、家臣( 加藤平左衛門 )の屋敷が建っていた事が解っていて、
部材の一本一本が確認できるほどの詳しい文献も残ってるんだそうです

文献から更に調べを進めたところ、当初よりこの場所に建っていたかは不明
ながらも、宇土櫓は広間、書院、居間、台所など6つの棟を備えていた事が
明らかになり、平成元( 1989 )年の発掘調査ではそれらの礎石も出土

青いビニールで覆われた場所


従いまして、以上の事から只今、まーりたんが厚かましくも お邪魔中の
この宇土櫓は、清正公の旧御殿だった



宇土櫓内には、清正公の瞑想ルームとおぼしき部屋もあるらしい

階下へ急げ



ご覧のとおり、宇土櫓の最上階へ続く階段はとりわけ幅が狭いため、
登って来る方を待ってから、降りなくちゃいけません

お城や歴史をこよなく愛してそうな方に見えます


さて階下へ

あっ、清正公の兜! じゃなかったコーンだ


もう一階下かな


床の上にランプがひとつ、ぽつんと灯された薄暗い部屋を発見


ランプの下には “ 武将たちの夢 ” と題された、加藤清正公に心を寄せる
随想や小論文ともとれる内容の木製の解説板が、無造作に置かれていました。
どうやら、この部屋みたいですネ


織田信長さんが好んで舞ったというエピソードで余りに有名な、
源平合戦由来の哀歌 “ 敦盛 ” のワンフレーズから始まる素敵な文章です

コンデジで撮るのは限界みたいなので、次の通り転載させて頂きます

『 人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢まぼろしの如くなり。
中世社会からの離脱を試みる中で、武将たちは裏切り、愛し、憎しみ合い、
常に死と向き合っていました。 それだけに生きる意味を知っていた事でしょう。
このような時代だからこそ茶の湯が興り、文化創造の時代でもあったわけです。
清正が肥後隈本城主となったのは天正16年( 1588 )年、27歳の時でした。
それからおよそ20年の歳月をかけ、熊本城と城下町をつくりあげました。
信長の安土城や秀吉の大阪城にみるように、この時代の城づくりは
社会の変革を背負った自己の思想や宇宙観の表現そのものだったのです。
城づくりは壮大な叙事詩といえるでしょう。 武将たちの夢だったのです。
清正はこの部屋で独り静かに天下の事を夢想した事があったかもしれません。
また、家臣たちとのひとときの談笑を愉しんだかもしれません。
この部屋でそっと耳を澄ますと、武将達のざわめきが聴こえてくる様です 』

宇土櫓二階の窓から、北の方角に加藤神社が見えました。
眼下の境内には、清正公の嫡男、加藤忠広公が配流先の出羽国から
持ち帰り、植樹したと伝わる松の木があります


加藤忠広公は出羽の国へ流された後も、お世話になった肥後の方々に度々
農作物などの贈り物をした、大変心の優しい方だったと言われています

表面的には不条理だらけに思える乱世は、実は自己との戦の時代でもあった
のかもしれません。 加藤神社境内の松にはきっと忠広公の心が、宇土櫓には
清正公の心が残っていて、互いに見つめ合っている気がした まーりたんです


肥後一揆の哀しさを物語る石など、熊本城内にはまだまだご紹介したい史跡や
場所が沢山あるのですが、今回はこの辺でお開きにさせて頂きたいと思います

つたない登城レポにお付き合い下さった皆様、ありがとうございました


そろそろ桜の馬場 城彩苑行きのシャトルバスも来るようなんで、
ほんなら熊本城、ひごまる君、また暫くの おさらばえ~



※本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。
記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます

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