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まーりたん

Author:まーりたん
大分県で暮らす四十路主婦
“ まーりたん ” の
ブログへようこそ(*^^*)♪

日々を彩る ちょっと素敵な
出来事を我が家の笑導犬?
マンジ君と楽しくお届けして
ます。目下、郷土史に夢中♪
心躍る探訪をご一緒に。

臼杵の富士甚醤油マスコット
キャラ・とっくりこだぬき君が
仲間入りしてからは、嬉しさ
余ってマンジ君の“ 悪がね ”
ぶりもますますエスカレート。

そんなふたり(2匹)の様子も
併せてお楽しみ下さい(*^^*)

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天正13( 1585 )年9月、立花道雪さんの病没によって、豊後大友氏の筑後旧領

奪還戦
は幕を下ろします。 が、それとは逆に薩摩の島津氏は勢いを増すばかり

肥後の反島津軍を討払い、龍造寺氏配下の肥後勢さらに龍造寺家も味方につけ、

あとは豊前・豊後、筑前の一部を死守する大友氏を降ろせば、九州の王者です  




しかし、ここで待ったをかけるのが、道雪さんが亡くなる2か月前の

同年7月11日、四国平定中に関白へ就任した秀吉さん。

関白に就任した秀吉さんの大坂城

お百姓出身の秀吉さんは、人々がお腹いっぱいご飯を食べられる 戦の無い

平和な国づくりを夢見て、天下人を目指した方です それだけに、天皇の意志を

代行できる関白の地位を巧みに活かし、自分の一声で、争いを続ける大名らに

戦を止めさせ、従わなければ討伐できる 『 惣無事(そうぶじ)の論理 』 を提言。





天正13(1585)年10月2日、秀吉さんは 九州でドンパチやっている島津氏と

大友氏に停戦命令=惣無事令を出します 大友氏はこの命に従う事を表明。 

けれど島津氏は、れっきとした軍事行動で切りとった大友の領地は おいのもんで

ごわす的に、秀吉さんの命を黙殺。 打倒大友、九州制覇を目指します。






これに困り果てた大友宗麟は翌年の天正14( 1586 )年3月、病の体をおして

直接、秀吉さんの大坂城へ赴き 大友の領地保護と、援軍を懇願するのです

ドラマ・大友宗麟物語より、宗麟と仲屋宗悦

2012年のお正月に放送されたドラマ 『 大友宗麟物語~心の王国を求めて

より、大友宗麟役の松平健さんと、大鶴義丹さん演じる御用商人・仲屋宗悦。

大坂城で、千利休の取り次ぎを経て、秀吉さんに謁見中のシーンです

今回は久々に庫出しした このドラマの場面映像とともに、お話させて頂きます







片岡鶴太郎さん扮する関白秀吉さん ドラマでは少し意地悪く描かれますが、

実際ちゃっかりした方でもあった様で、史実を読んで成程な箇所も多いです。

ドラマ・大友宗麟物語より、関白秀吉さん

秀吉さんは宗麟の願いをふたつ返事で聞き容れます。 それもそのはず、四国の

次はターゲットを九州に定め、この年の1月より準備を始めていたといいますから。

そんな時、九州6か国を背負った守護が自ら降って来る事は、九州平定を半ば

終えたも同じ。 ドラマでは描かれませんが、秀吉さんは上機嫌で宗麟に城内を

案内した、と云われています 秀吉さんには時代の風が吹いてたんでしょうね









病の体で大役を終え、疲れも緊張もきっとピーク状態だったであろう大友宗麟公。

海原の先に大友の出城がある高崎山が見えたときは、ほっとした事でしょう

大阪南港直行便の関西汽船さんふらわあ・あいぼり(別府国際観光港)

宗麟が大阪南港発、豊後直行便の さんふらわあ・あいぼりで帰路に就いたか、

実際のお供は豊後商人の仲屋宗悦さんだったかは、定かでありませんが・・・。







一方、宗麟が去った大坂城では、秀吉さんと側近の千利休さんが、

次のような会話( 会議? )をなさってたみたいなんです






秀吉さん 「 南蛮かぶれの九州の坊主、すっかりやつれきって、悟りきれん僧侶の

様な顔をしていたな。 あれでは到底、島津腹には勝てまい・・・ 」





千利休 「 九州御平定の後、大友家の所領は如何様になさるおつもりですか?

豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後6か国の守護をゆるされた、九州きっての

名門でございます。 しかも、すすんで殿下の軍門へ降って参りました。

それを思えば2、3か国の安堵は・・・ 」






秀吉さん 「 豊後一国で良かろう 」

ドラマ・大友宗麟物語より、宗麟の所領について会議中の千利休と秀吉さん

千利休 「 殿下、いま何と・・・ 」








ヒデヨシサーン・・・

こうして大友家にかろうじて安堵された豊後一国も、いずれは秀吉さんによって

没収、大友氏は改易されてしまうんですけどね・・・。 キビシイ時代です





それはさておき、宗麟と秀吉さんの間で取り決めがなされた後は、九州の

諸勢力も、秀吉さんをバックに付けた大友に付くか、独走態勢の島津に付くか

決めなくてはなりません。 島津義久さんを盟主に、反秀吉連合を結成する

豪族らもいれば、長いこと反大友派だった筑紫氏は、大友氏と晴れて和睦






そんな中、秀吉さんの惣無事令( 停戦命令 )を黙殺した島津義久さんは、

本国薩摩で3万の兵を集めると天正14( 1586 )年6月、道雪さん亡きあと、

高橋紹運さんと実子の統虎( 立花宗茂 )が守る筑前大友領進撃を忠長に命じ

反秀吉(大友)派の求めで、島津軍は大友の本拠地豊後にも照準を合わせます

大友氏の筑前での領域(1580年頃)岩屋城パンフレットより


天正14( 1586 )年7月、筑前目指して進軍する島津軍が、大友氏に寝返った

筑紫広門の勝尾城( 佐賀県鳥栖市河内町 )を攻撃した報せを受け、秀吉さんも

ついに島津征伐( 九州平定 )戦に乗り出します 先鋒として同年7月25日、

黒田官兵衛が四千の兵率いて進発 翌年の天正15( 1587 )年3月1日、

秀吉さんも弟の秀長さんと共に大軍を従え出陣。 2隊に分かれ九州入りします。






天下人・秀吉さんの九州平定戦がスタートしたことを知ってか知らずか、

天正14(1586)年7月、島津軍は鳥栖の勝尾(かつのお)城を開城させた勢いで

次なる攻撃目標、筑前最初の砦・高橋紹運さんの岩屋城( 太宰府 )へ

反秀吉( 大友 )派も従えた島津軍は、5万近くに膨れ上がっていたといいます






いよいよ高橋紹運さんの岩屋城籠城戦が始まりますが、これについては詳細に

綴らせて頂く予定ですので、紹運さんには、まだまだお元気でいて貰いますヨ

紹運さんファンの皆様、どうぞご安心を それでは、続きはまた次回  





紹運と宋雲尼【10】【11】【12





●参考 : 遠藤周作原作 ドラマ 『 大友宗麟物語~心の王国を求めて

小和田哲男著 『 黒田如水~臣下百姓の罰恐るべし

岩屋城[1586年]玉砕覚悟の籠城戦







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2013/10/16(水) 19:40 | コメント:4 | トラックバック:0 |


天正12( 1584 )年3月、筑前・筑後・豊前エリアの反大友派を味方につけ、

強大な新興勢力へと成長しつつあった肥前の龍造寺隆信さんが、あろうことか

島原の沖田畷( おきたなわて )で、島津・有馬の連合軍に討たれてしまいます





それまで龍造寺氏に味方していた反大友派は、今度は一斉に島津氏へ付き、

秀吉さんの九州征伐2年前の勢力図は、最大勢力に膨れ上がり九州制覇目指し

北上する薩摩の島津氏 日向耳川の大敗以降、衰退の一途を辿りながらも

北部九州6か国の守護と 九州探題(九州の武家を統制する役職)の誇りに懸けて

領地の死守に踏ん張る豊後の大友氏との攻防図へ、描き替えられて行きます





筑前( 福岡県北部 )では立花道雪さんと高橋紹運さん、それに道雪さんの娘婿・

統虎(後の立花宗茂)さんも新婚生活を返上し、反大友派勢力の攻撃に対抗中 

豊後大友氏21代 宗麟から既に家督を譲られていた主家の嫡男・22代義統

( よしむね )さんも、本拠地の豊後( 大分県 )で7千名の兵をかき集めると同年

7月、旧領を奪還すべく 筑後( 福岡県南部 )の黒木へ出兵させます

臼杵城址(丹生島城)

今回は、そんな筑後旧領奪還大作戦について綴る予定だったのですが、

高橋紹運さんと妻の宋雲尼さんが元亀元( 1570 )年5月、 当時4歳の千熊丸

( 後の立花宗茂 )を伴い、豊後高田・筧の館から 筑前の太宰府岩屋へ転勤に

なって以降、おざなりになっていた豊後での出来事を書き留めておこうかな、と






元亀元( 1570 )年といえば、大内氏の旧領継承を大義名分に九州へ攻めてきた

毛利氏との2年に亘る戦も引き分け的に収束、反抗を続ける肥前の龍造寺氏とも

激戦( 今山の戦い )の末に講和が結ばれ、ようやく平穏な日々が訪れた年

臼杵城・佛狼機砲レプリカ

名実ともに九州の覇者となった大友氏21代宗麟には、天正5( 1576 )年

ポルトガルより日本初の大砲 “ フランキ砲( 国崩し ) ” が贈られます






豊後とポルトガル( 南蛮 )の交易は、天文20( 1551 )年の出来事から

始まります。 宗麟は当時21歳で、大友義鎮( よししげ )公と呼ばれていました。

フランシスコ = ザビエルを豊後へ招き、鉄砲の火薬など 武器と引き換えに

キリスト教の布教を許可 以降、大友館(政庁)が在った豊後の府内( 大分市 )

には、デウス堂(教会) を始め育児院、西洋( 南蛮 )式の病院等が建てられ、

クリスマスには演劇や演奏会も開催。 国際貿易都市として発展していきます





鎧坂

けれども宗麟の正妻・奈多夫人は、奈多八幡の大宮司の娘だったこと、それに

国東水軍を統括する実兄の田原親賢( ちかかた )を大友家の加判衆にして、

両家の更なる隆盛を図る政略結婚だったために、奈多夫人は宗麟がキリスト教に

興味を持つ事すら快く思わず、断固阻止 宗麟の心を縛り付けようとします。



戦いもせず、騙しもせず、敵にも愛を持って、ですって?

そんなヤワな教えで国が守れるワケが無いでしょっ




以上が奈多夫人のご意見 責任感のある立派な奥様なんですけどお気の毒

早くに実母を亡くした宗麟にとっては、妻には慈母的な安らぎを求めていた様で、

高慢な奈多夫人からは次第に心が離れていきます。 奈多夫人にとってみれば、



大友家を第一に考える良妻なのに、なぜ私じゃダメなの



当時のキリスト教布教の真の目的を思うと、奈多夫人の言う事も間違ってません。

が、キリスト教は既に宗麟の深い傷を癒してくれる絶対的なものとなっていた様。

お姫様として蝶よ花よと育てられた奈多夫人にはこの部分は推し量れなかった








毛利氏との戦も終わり、当主としての役目もひと段落。 重臣の戸次道雪さんを

呼んで立花城督を命じる時
、宗麟はポツリこう漏らします  「 もう疲れた...

だけどこれは夫婦問題の愚痴ではなく、戦で死山血河を見るのはもう嫌だ、の意。





「 周防の大内家でクーデターを起こした陶隆房共々、毛利氏に滅ぼされた弟の

晴英は、わたしが弔い合戦に勝ったからといって、果たして喜んでいるだろうか...。

あの時ザビエルが言っていた通り、戦は何の解決にもならないのかもしれない...。

わたしは府内の大友館を出て、臼杵へ城を移し、家督を息子に譲って隠居する 」





群雄割拠時代の戦国大名らしからぬ、迷いに迷いまくった気弱な発言ですが、

キリスト教に心酔しながら一門の手前、遠慮していた宗麟なら最もな胸の内です。

また、このあと宗麟は自暴自棄的に享楽主義へ傾き、道雪さんの手を焼かせて

しまいますが、この堕落期?がなければ 大分の鶴崎踊りは誕生しておりません


ノビシャドをモデルにした観光案内所サーラデうすき


宗麟&奈多夫人の夫婦仲はこんな感じで、ずっと平行線のままでした・・・。

臼杵に城を移してからは、キリスト教や信者を庇護する事を自らの救いにしたのか

執心は増すばかり。  宗麟の影響で豊後のキリシタンも爆発的に増加します。

そして挙句は臼杵城を妻に譲り離婚 宗麟は48歳にして念願だった受洗をし

晴れてキリシタンに さらには一族家臣の大反対を押し切って、40歳をとうに

過ぎた敬虔なクリスチャンの侍女頭と再婚  自分の意見に逆らう者を罰したり

追い出すどころか、自分から城を出て行っちゃう当主様なんて前代未聞モノ







ですが、この一見とんでもない豊後国主の行動からは、宗麟の心根の優しさや、

本当に求めていた幸せは、絶大な権力や富を得る事ではなく、駆け引きの無い

母親的な愛情と 心の平穏だった事が、痛いほどに伝わってくるんですよね・・・

不遇な過去があるとはいえ、マザコンお坊っちゃま的な宗麟を見限って離反する

一族家臣が相次ぐ中にあり、立花道雪さんや高橋紹運さんなど人間的にも大変

優れた家臣・名将の心を最後まで掴んで離さなかった事にも頷ける気がします

大友宗麟公と天使(臼杵アズレージョ)



ただ、宗麟と奈多夫人の不仲は、夫婦間や家臣達だけの問題にとどまらず、

奔放な父・宗麟に翻弄される母・奈多夫人を心配しながら育った息子、

大友氏22代目の義統( よしむね )の人格にも影響を及ぼしていきます

義統は、母を悲しませる父を憎んで罵るときもあれば、

神仏への寄進に限っては見境のない母を見かねて諌めるなど、

父母の間で揺れ動きながら、統率のとれなくなった大友氏一門を背負っていく

運命な訳で、こちらも宗麟然り国主の憂鬱というか、少々お気の毒です。





そんな22代目・大友義統さんも、耳川の戦いで大敗した後は豊後に於いて活躍。

離反した大友家臣と通じ本拠地・府内へ攻めてきた秋月氏勢を鎮圧するなど、

筑前守の道雪&紹運コンビさながらに、頑張っていらっしゃるんですよ 

一方、父の宗麟は耳川の戦後に体調を崩すものの、臼杵にノビシャド( 修練院 )

を設立したり、府内にはコレジオ( 神学校 )を開校させたりと、相も変わらず

ライフワークに努めます。 が、伊藤マンショ天正遣欧使節を ローマ教皇の元へ

派遣した天正10( 1582 )年に病が悪化。 療養のため津久見へ移住します 

大分市鶴崎のエスペランサ・コレジオ



津久見で療養生活中の天正13(1585)年9月、道雪さんの訃報を聞くと 宗麟は

意を決し、翌年(1586)年3月、病の体で大坂へ 関白となっていた秀吉さんに

降り、島津征伐の援軍を懇願 これを受けて秀吉さんは、天正14( 1586 )年

7月25日、側近の黒田官兵衛孝高に九州攻め( 島津軍鎮圧 )の先鋒を命じ

四千名の兵を付けて京都を発たせます( 秀吉軍は8か月後に出発 ) 




高橋紹運さんが岩屋城を包囲する島津5万の大軍に大ダメージを与え

最期を遂げたのは同年同月27日、官兵衛さんが京都を進発した2日後でした 

こういう流れで時代は移っていきます。 




ということで、次回道雪さんが没するときに遺した名セリフも交え、風神雷神こと

高橋紹運さんと立花道雪さんの 筑後旧領奪還戦のお話をさせて頂きます





紹運と宋雲尼【】【番外編B】【8】【





●参考:小和田哲男著 『 黒田如水~臣下百姓の罰恐るべし






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2013/10/09(水) 18:28 | コメント:4 | トラックバック:0 |

昨日は、このアズレージョ( ポルトガル伝統装飾タイル壁画 )を写真に

収めておきたくて、大分県臼杵市へ 夕方からはダンナさんの恩師の

お通夜だったため、限られた時間内でのトンボ返り散策になりました。

洗礼(久家の大蔵・壁面アズレージョ)

画像は、キリスト教の洗礼を受けた大友宗麟公と、彼を祝福する天使たち

1860年創業の造り酒屋 一の井手・久家本店の酒蔵に描かれています。






他にも、16世紀の大航海時代に臼杵とポルトガルとを往き来したという

南蛮船ナウ号、天正8( 1580 )年に宗麟が私費を投じ寄贈した臼杵の

ノビシャド( 修練院 )で教鞭を執ったヴァリニャーノ神父の通訳で、日本史を

記したルイス・フロイスの肖像、天正10( 1582 )年にローマ教皇の元へ

派遣された天正遣欧少年使節団など、約1世紀に亘る豊後臼杵と南蛮との

交流を今に伝えるアズレージョの数々が、壁面と酒蔵内を美しく彩ります

久家の大蔵(横町側入り口)


手掛けたのはポルトガルのアズレージョ作家 ロジェリオ・リベイロ氏。

色鉛筆で描いた様な素朴で愛らしいタッチと、チャコペーパー色の淡く

幻想的なブルーが白壁に映え、眺めていると心が洗われる気がします

洗礼(天使・左)
洗礼(大友宗麟)
洗礼(天使・右)

九州北部豪雨で、日田市と竹田市にて行方不明になっていた方が

見つかったそうです。 竹田市荻町では、家族同然に育てられていた

家畜の牛が国東半島の付け根、奈多海岸まで流されていたとか。

濁流に呑まれ、何十キロも流され、どんなに怖かったでしょう

だけど、ご家族の元へ戻れただけでも幸いなのかもしれません。








この日、あまりの暑さに逃げ込んだ大林映画の資料館兼、喫茶店 

クランク・インのご主人は、チワワを2匹飼っていらっしゃるそうで、

「 大雨のあいだ、ずっと怯えていて可哀想だった 」 と仰ってました。 

喫茶クランク・インの かぼすフロート


私たちは力を合わせ、励まし合い、共生を心掛けることはできても、

正気を失い荒れ狂う自然の前では、ただ手を合わせ

笹舟の揺れ具合を、おろおろと見守ることしかできません。




自然災害はいつ、どこで起きるか分からない。

そして痛手を負うのは人間だけではない。

私たちは自然を治めたつもりになってはいけない。







クランク・インのご主人のお話によれば、

大林宣彦監督の最新作は、災害をテーマにした作品で

映画の終わりにエンドマークは付けてないとの事でした。

これが作品に込められたメッセージでもあるようです。

この映画についてのお話は、またの機会に









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2012/07/17(火) 13:42 | コメント:11 | トラックバック:0 |

マンジ君劇場タイトル

マンジ君劇場 『 ソーリンくんと家臣 たちばなくん 』


マンジ君劇場キャスト

キャスト

・若き日の大友ソーリンくん・・・マンジ君

・大友家の重臣 ( 立花ドーセツ ) ・・・こだぬき君

・大友家の家臣たち・・・以下、恐れ多くも 友情 特別ゲスト出演

 家臣A・・・あ!官兵衛君 ( 初代中津城主 黒田如水 )

 家臣B・・・ひごまる君 ( 熊本城マスコットキャラ ) 














それでは、はじまりはじまりです・・・















「 白熊チロル と ロールちゃん、どちらも大好物には違いニャいが

こんニャ物をいくら積まれても、深い心の隙間は埋まらニャいのだ... 」

こんニャものでココロの隙間は埋まらニャいのだ!




「 そうニャ、名案を思いついたのだニャ 」

良い事を思い付いたのだニャ




「 若様、お呼びでしょうか 」

若様、お呼びでしょうか?




「 おまい達に面白いものを見せてやるニャ 」

面白いものを見せてやるのだニャ




「 凶暴なエテ公だゾ ほれほれニャ~ 」

ほれほれ、エテ公ニャのだ~




「 猿に驚いて気を失ったゾ。これは愉快ニャ 」

これは愉快ニャのだ

「 ウサ晴らしにもってこいニャ~のだ 」
















「 ソーリン公様、何をなさっているのですか 」

ソーリン公様、何をなさっているのです?

「 ややっ、立花ドーセツではニャいか。面倒くさいのが現れたニャ~ 」















「 これは何という事を 悪戯が過ぎますぞ 」

猿を仕掛けたら気絶したのだニャ~

「 猿を見ただけで気絶したのだニャ~ 情けニャい家臣たちニャ 」















「 ほれ、立花ドーセツも気絶してみろニャ 」

ドーセツも気絶するのだニャ!








「 えいっ! 」

えいっ!

「 ドーセツよ、ニャにをするのだ 」















「 ぐったりしているではニャいか ニャんと哀れニャ 」

ぐったりしているではニャいか!哀れニャ

「 いくらニャんでも、酷過ぎニャのだ 」














「 お言葉ですが若様、人を弄べば徳を失い、

物を弄べば志を失うのですよ。
 by立花道雪 」

人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失うのですよ



「 ドーセツの言う通りニャのだ。 深く反省するのだニャ・・・ 」

反省するのだニャ・・・

「 解って下されば良いのです、若様 」









立花道雪(たちばなどうせつ)=戸次鑑連-Wikipedia- によれば、

道雪は、宗麟の父( 大友義鑑 )の代から大友氏に仕える重臣。

初陣で敵将を捕縛するという手柄を挙げ、二階崩れの変( 大友義鑑が

後妻と共謀し実子、義鎮=宗麟廃嫡を企てた際、反発した家臣によって

襲撃された事件 )からは義鎮(宗麟)を守り、無事に家督を継がせます。



また道雪は、たとえ主君であろうと 「 間違っている 」 と思った時には

歯に衣を着せず諫言 ある時、宗麟は凶暴な猿を手元に置き、

猿が家臣達に飛び掛かる様を面白がったとか。 これを聞いた道雪は、

他の家臣達と同じ様に宗麟の前へ出向き、宗麟がけしかけた猿を鉄扇で

打ちのめしてしまいます 驚く宗麟に 「 人を弄べば徳を失い、物を

弄べば志を失う 」 と戒め、宗麟を改心させたという逸話が残ります














ちょっとマンジ君! こだぬき君!

いつまでも遊んでないで、早くおやつを食べて

ツリーの飾り付け
、手伝って頂戴!














「 まーりたんと奈多夫人と立花道雪、一番おっかニャいのは誰ニャ 」

さっさとおやつを食べてツリーの飾り付け手伝って頂戴!

「 マンジ君、悪いけど僕の口からはとても言えないよ・・・ 」










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2011/12/14(水) 15:31 | コメント:10 | トラックバック:0 |


宗麟公はデウスに対し、無条件で自分を愛してくれるはずだった父や

母の姿を重ねていたのかもしれません キリスト教の信仰と保護に

熱心だった宗麟ですが、自国の基本理念にするため、禅宗の奥義も

究めていきます。 また家臣に仏教徒が多いことから仏教についての

勉強も怠りませんでした キリスト教信者か否かにかかわらず、

領民の面倒もよく見、 『 神のもとに皆平等 』 の教えを

素直に実践しようとした臼杵城主でキリシタン大名の大友宗麟 。

日本一大きなモミの木クリスマスツリー

( 宗麟レリーフから数歩の所に立つ城下を臨む大きなモミの木 )





( 日本一大きなモミの木ツリーだそうです 認定証もアリ ) 

認定証も♪

一方で宗麟の妻・奈多夫人は大分県の方なら良くご存知の海水浴場、

奈多海岸のある杵築市は奈多八幡宮司の娘。 

心の傷を癒す様にキリスト教へ傾いてゆく宗麟に不満を抱いていました。 

更にロマンチストの宗麟は女心を掴む人でもあった様で、女性問題

持ち上がる度に、奈多夫人は大激怒 してたんだとか




「 あなたは私ではなくデウスと結婚したのよ 

出て行きなさい この金髪○○野郎!! 」




ここまで凄まじいやりとりがあったかどうかは定かではありませんが

ヒステリックな一面もお持ちのモノスゴパワフルな奥様だったらしく

宗麟は天正6年(1578年)48歳の時、当時二十歳だった嫡男・義統に

家督を譲り臼杵城を出て、城外に新しい屋敷を建てて暮らし始めます


多目的広場から本丸跡へ

( 二の丸と本丸を隔てる空堀に沿い 『 秀吉と利休 』 で

第三回女流文学賞を受賞した臼杵出身の作家・野上弥生子文学碑、

西南戦争で戦った臼杵隊の慰霊塔など、先人功績碑が並んでます )








( 空堀に架かる土橋を渡り本丸へ 臼杵城は戦国時代から近世迄、

各時代の遺構がそのまま残されている事でも注目されてます )

臼杵城址・土橋を渡ると本丸

息子で22代・大友義統に家督を譲り早々と隠居。 

おっかない妻からも解放され、とりあえずは自由の身となった宗麟。  




「 これからは誰にも気兼ねする事なく、

思う存分ライフワークに没頭できるぞー
 」 




と言わんばかりに宗麟は日向国土持( 現在の宮崎県延岡市

無鹿地区 )に、キリスト教信者たちが心穏やかに暮らせる理想郷

『 務志賀ムシカ = ポルトガル語で音楽の意  』 建設に着手。 

しかし、度が過ぎたのと面倒見の良さがたたって、耳川の戦いで大敗。 






島津軍の猛攻撃で多くの優秀な家臣を失い、大友氏を衰退へと向かわせる

きっかけとなった耳川の戦い、別名高城川原の戦いから後は、

家臣の離反も相次ぎ、島津氏と組んで攻撃を仕掛けてくる大友一族も...。

これによって大友氏の領地は蚕食されて行き、天正8( 1580 )年頃の

大友氏領地は、九州6か国のうち、豊前豊後・筑前の一部を残すのみに。 

臼杵城本丸・卯寅口脇櫓絵図

( 空堀にかかる土橋を渡るといよいよ臼杵城本丸です )







( 本丸の出入口を固める鉄門( くろがねもん )跡 )

臼杵城址・鉄門(くろがねもん)跡

天正14年の春、いよいよ島津軍が九州制覇に乗り出します。

大友宗麟は関白秀吉さんの元へ降り、領国の保護と援軍を懇願します 





島津軍は秀吉さんの停戦命令を蹴り、筑前そして豊後南部を侵攻

宗麟は領民を臼杵城へ避難させるとフランキ砲をブッ放し、籠城戦で粘ります

しかし、大分市の大南地区へ先発隊として派遣されていた長宗我部・十河軍が

島津軍に撃破され、利光宗魚が守る大友の支城・鶴賀城も落城( 戸次川の戦 )。

島津軍は府内へ進軍し、宗麟が築き上げた南蛮都市は焦土と化してしまいます。

もと3層4階の天守櫓跡

( かつて3層4階の雅な天守閣がそびえていた臼杵城天守櫓跡。

ここからは見えませんが、天守櫓の石垣は、表面は不揃いながら胴長の

石を選んで積む野面積で、奥の方でしっかり噛み合っているそうです )





( 天守櫓跡の南西角から先ほど通ってきた空堀を臨む。 二ノ丸からの

侵入に備え、天守櫓(跡)は空堀が見下ろせる位置にあります )

臼杵城址・天守櫓西側の空堀

島津軍が九州を完全制覇する直前、ぎりぎりのタイミングで、

秀吉軍が25万の大軍を率いて北九州に到着 

島津派の城を片っ端から攻め落とし始め、その情報を得た島津軍は

大慌てで退散。  ほどなく秀吉さんによって九州は平定されますが、

大友氏の領地は豊後国のみとなり、その後の朝鮮出兵での失態を理由に

大友家は宗麟の子・大友氏22代義統の代で改易となったのでした。






また慶長5(1600)年9月、毛利家に身を寄せていた大友義統は、

関ヶ原の戦いに乗じて西軍として豊後へ上陸。 大友遺臣を召集して

旧領奪還戦を目論みますが惨敗( 石垣原の戦い )、無念の幕引きに
 




ですが、東軍として義統軍を破った初代中津城主黒田官兵衛(如水)

義統の命は奪わず、しかも義統の息子で宗麟の孫・大友義乗を後見。 

徳川家に仕えさせ、三千三百石の大臣旗本へ推し上げます

これにより大友家は再興の夢は断たれたものの、

名門の名は残す事ができ、運の良い一族だった、と語り継がれます。 

宗麟が純粋に信仰したデウスさんのご加護だったのかもネ

臼杵城址・本丸御殿指図

( 江戸時代に入ると藩主が政務を執行する空間 表( おもて )と、

藩主のプライベート空間 奥( おく )としての機能を持つ本丸御殿が

中心的な役割を担います。 おもても奥も書院造りを基本としていました。

絵図(指図)によると、表(茶色部分)には、 『 御広間(おひろま) 』

『 大書院( だいしょいん ) 』 等、政務遂行や儀礼に使われた部屋

が見られます。 御広間等からは御舞台が見える構造になっています

舞台は主に能に使われていたと考えられてます。 一方、奥(青色部分)

には、御座間と呼ばれる藩主の部屋があります。 本丸北側の崖際には

『 御湯殿 』 が設けられ、今でいう展望風呂風の造りになってます )















さて、時は平成。

ここは2011年11月の臼杵湾を臨む臼杵城本丸御殿(跡)

臼杵城址・本丸跡広場

まーりたん、ただいま壮大なる歴史絵巻の上に立たせて貰ってます






キリスト教をファッション感覚で捉え、割と冷めた目で見ていた信長さんや

秀吉さんに比べると、少年時代に負わされたトラウマに苦しみ続けた反動か、

まるで父母を絶対的な存在と信じる子供の様に、キリスト教を盲信した宗麟。





わきが甘かったと言えばそれまでだけど、神のもとで皆が平等に暮らせる

世界の実現を最期まで夢見続けた理想家であり、ロマンチストな大友宗麟 

癒えない傷を抱えながらも心根が優しく純粋で、面倒見が良いと来れば、

モテるのもムリはないですね、奈多夫人にはホント申し訳ないですが・・・








( 臼杵城・本丸跡東端から臨む臼杵湾 )

臼杵城址・本丸跡から東側、臼杵湾を臨む

宗麟は島津軍との籠城戦の際、城内で流行ったペストに感染。

それが原因で翌年の1587年、療養先の大分県津久見市にて 

57年の激動の生涯を閉じます。 

宗麟は親族や家臣を呼びつけてあれこれ遺言を並べる事もせず、

宗麟の記録を残したラグーナ神父に看取られながら

最愛の父であるデウスのもとへ、静かに旅立ったといいます 

宗麟の死に顔は、生前より遥かに安らかだったとか。









臼杵城と宗麟公について、稚拙なレポでしたがお楽しみ頂けたでしょうか

臼杵城址・東南には卯寅口門脇櫓

臼杵城にはもうひとつ、卯寅口門脇櫓( うとのぐちもんわきやぐら )

という、本丸を攻められた際、海へ脱出する為の抜け道があるんです

卯寅口門脇櫓は本丸の南東側、木立越しに見える櫓で、解説板によれば

外観は二層、内部は三重、外壁は漆喰下見板張り、屋根は切妻屋根。










いきなりですが、これより臼杵城本丸から

城下の海へ脱出を試みたいと思います

卯寅口は脱出口なんです

お時間がありましたら、どうぞご一緒に









脱出口・卯寅口門脇櫓に続く 卯寅口(うとのぐち) 

卯寅口へ


無事脱出を祈願 してか、それともカムフラージュのためか、或いは

脱出口の目印か、卯寅口にはド派手な稲荷神社があります

卯寅口稲荷神社


祠の右手から坂を下り、海 ( 船着場 ) へ急ぐのじゃ~

緊急時の海への脱出口


坂を半周すると、今度は急な階段であるゾ。 振り返ってパチリ

階段を降りたところでパチリ


すぐにもつれる中年の足ながら、どうにか転ばず階段を下り終え、

お稲荷さんに感謝 右手頭上には卯寅口門脇櫓 あんな高くに

鳥居と卯寅口門脇櫓

とりあえずは脱出成功











路地の突き当りに見えるのは、先程潜ってきた卯寅稲荷神社の鳥居

脱出成功、昔は海の上です

ここは港町城南地区。 只今、かつては海の上を歩いてます






で、この角を西へ曲がると600mで サーラ・デ・うすき(臼杵観光

総合案内所)
や、稲葉家に縁のある春日局も暮らした二王座地区

臼杵市中心街へ


卯寅口稲荷神社に近いからかな 港町コミュニティーセンター

(港町商店街) には、竹灯篭の他にも大きなお稲荷さんのオブジェが。

港町コミュニティセンター前


港町商店街の通り沿いに現存するレトロな建物。 現役の床屋さんの様

ですが、その名も 『 スピード館 』 右から読んでネ

凄いとこやさん発見

自販機の缶ジュースも嬉しいレトロ価格 100円です










コチラは港町商店街の西端、辻の大井戸 と呼ばれるエリア

臼杵城、畳櫓の真下に当たる大きな広場( =  )で、この場所を

起点に街路が放射状に延び、独特の城下町スタイルを造っています

04-15放射状に延びる街路の起点・辻の大井戸

商家や武家屋敷、寺院、神社が集中している場所でもあり、うすき竹宵の

会場になっているサーラ・デ・うすきも 二王座地区も、目と鼻の先 

 

臼杵城を見学したのは先月、うすき竹宵の日 この後散策した街の

様子は、過去記事 うすき竹宵祭り前編、 後編でお楽しみ下さい

それでは、まーりたんの臼杵城( 址 )登城記はこれにて







●参考:臼杵城址公園内現地解説板、ウィキペディア大友宗麟(義鎮)

     うすきHISTORY-MAP ( 大友宗麟の時代 )

    ( 臼杵市観光協会・南蛮文化研究会・臼杵市教育委員会 )










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2011/12/12(月) 15:25 | コメント:6 | トラックバック:0 |

1556年、大友義鎮26歳の時、3方位を海に囲まれた豊後臼杵の

丹生島に築城した天然の要塞 臼杵城 以後、義鎮はこの臼杵城を

居城とし、宗麟と号した1562年( 永禄5年 )に、丹生島( 城下 )を整備。

臼杵城絵図・天守部拡大

臼杵城は上下階の平面が同形の、重箱を想わせる総二階造り櫓を特徴と

した31基の櫓と、3層4階の天守を持つ大変雅な佇まいの城だったそう







臼杵城主は 大友家が宗麟( 義鎮 )、義統の2代

 石田三成の妹婿で、後に 府内城を築城する 福原直高 

豊臣氏の家臣で、石田三成や黒田官兵衛(如水)とも親交があった武将

太田一吉 関ヶ原の功績により、美濃国から五万石で入封した

稲葉貞通と受け継がれます( 稲葉氏は明治維新まで続きます )。







廃藩置県後、最後の臼杵城主・15代 稲葉久通が1873年に廃城。 

お城の周囲も埋め立てられ、海は城郭の東(本丸跡)から臨める程度。

現在は石垣と3つの櫓を残す城址公園として市民に親しまれています

臼杵城址

それでは、春は桜の名所でもある臼杵城址を濠と石垣、櫓群が残る

城郭西側( 上の画像左下部分 )から順に ご案内させて頂きます


大手門公園~畳櫓

宜しければ、どうぞ散策気分でご観覧くださいませ












大手門公園。 写真は先月、うすき竹宵の日に撮影したものです

画像右上は 畳櫓(たたみやぐら) 。 宝暦13(1763)年の

大火で焼失しますが、翌年1764年に再建され今に至る現存櫓です

臼杵城下

かつて石垣の直下は海  臼杵城は大分県南の地形の特徴でもある

リアス式海岸の岸壁上にそびえており、海側からの侵入は

ほぼ不可能と言っても良い、まさに天然の要塞だったのです












石垣上の土壁に沿った鎧坂(あぶみざか)を登ると 畳櫓へ到着。

臼杵城を軸に、西の方角へ扇状に広がる城下町が一望できます

大門櫓を潜ると畳櫓

畳櫓は桁行4間(7.92m)、梁行3間(4.44m)の2階建て。

現地解説板によれば、入り母屋造りの屋根を持つ櫓で、正保年間

( 1644~1648年頃 )に建てられたのが始まり 名の由来は、

当時 三の丸があった祇園州( 旧稲葉家別邸、八坂神社方面 )から

畳櫓は辰巳の方角で、たつみたたみに変化したという説が残ります












畳櫓の向かい側、城郭の北西端には時鐘櫓( ときかねやぐら )跡。

時鐘櫓が見えます

櫓跡の鐘は元禄13年( 1700 )年鋳造、寛政2( 1790 )年に改鋳、

原山時鐘( はらやまときかね )と呼ばれていて、

江戸末期迄は、二王座地区の原山時鐘堂で時を告げていたそうです

時鐘櫓

平成20年( 2008年 )、臼杵城跡西ノ丸・鎧坂の土壁復元の折り、

約140年ぶりにもとのサヤ 時鐘櫓跡へ戻されたとか。 おかえり














鎧坂を見下ろす時鐘櫓跡。 うすき竹宵の際は絶好のビューポイントでも

あるんです 先月5日、時鐘櫓跡から撮影した鎧坂の写真がコチラ

臼杵城・時鐘櫓から鎧坂を臨む

壁を挟んで左側が鎧坂、右側は4枚目の画像でご紹介した大手門公園。

いかがでしょう 













畳櫓と時鐘櫓の中間に建つ櫓は、大門櫓。 二の丸への入り口です。

畳櫓と時鐘櫓の中央に位置する大門櫓


この大門櫓を潜った先には、もしや雅な二の丸御殿が

二の丸御殿指図


・・・と思ったら、建物の礎らしきモノが残るのみ

建物の礎石らしきもの

ですが、


うすき竹宵の日、大門櫓寄りの二の丸跡はこの通り竹ぼんぼりや

雅な色のオブジェで彩られ、当時あった御殿の趣が演出されます

大門櫓付近の竹雪洞やオブジェ

あとは想像力を大いに働かせて、ブラ○モリ風にお愉しみ下さい













このほか臼杵城郭中央部、二の丸跡には・・・

二の丸跡(西の丸)


明治10年の西南戦争で、臼杵へ侵入した薩摩軍と戦った臼杵藩士ら

( 臼杵隊 ) を祀る臼杵護国神社。 また、手前は終戦後の

昭和20年、地下から発見された砲弾(レプリカ)を奉納した砲弾記念碑

臼杵護国神社と砲弾記念碑


記念碑の西側には、稲葉家歴代藩主を祀る旧稲葉神社があります

稲葉神社


更にその南側には、大友宗麟公のブロンズレリーフ

大友宗麟レリーフ

宗麟レリーフは臼杵城郭のド真ん中、オヘソ部分に鎮座。




前回の記事でご紹介した他にも、宗麟はポルトガルの青年医師を招き

西洋医学の病院( 日本初の総合病院 )を府内に設立。 領民には

無料で診療を受けさせます また、島津軍に攻め込まれ 臼杵城に

篭城する際宗麟はキリスト教徒もそうでない者も城に避難させ、

自ら握り飯等を配ったのだとか やっぱりお料好きだったのネ
 
宣教師は記録の中で宗麟を 「  」 と記しているそうです





宗麟公の偉業を讃え1937年、朝倉文夫の弟子でもあった臼杵出身の

彫刻家・日名子實三( ひなごじつぞう )氏がこのレリーフを製作。

第二次世界大戦中の1944年、軍事資材として政府に献納されますが、

1982年、京都嵯峨美術短期大学の辻浩氏の手により 昭和57年

12月に復元。 現在に至ります ( 大友宗麟レリーフ解説板より )








暗い少年時代を経て、21歳の時に フランシスコ=ザビエル と

出会い、ようやく自分にとっての真の幸せに辿り着いた大友宗麟

32歳で臼杵城を完成させ 城下に修練所、城内には礼拝所も建て、

キリスト教と信者の為に奔走する中で自らも癒され、深くて大きかった

心の傷も、きっと少しずつ埋まって行ったのではないでしょうか・・・ 

けれども時は戦国


 




「 汝、殺すなかれ 」 というデウス( キリスト )の教えと、

自国を護るため殺生は避けられない乱世の現実に揺れ動き、

キリスト教に理解を示さない妻や家臣たちとの関係に悩み・・・。 隠居後も

宗麟は、武将としての資質がまだ未熟な嫡男・義統のフォローに奔走。

柵や運命に煩わされ、なかなか一筋縄とは行かなかったようです

日本初の大砲・仏狼機砲(国崩)

宗麟により日本で初めて使われた大砲・国崩し(フランキ砲)レプリカ

大友宗麟ブロンズレリーフの隣にあります。










後編では臼杵湾を臨む臼杵城郭東側、本丸跡周辺を巡りながら 

宗麟大友家について、お話してみたいと思います

多目的広場~本丸跡へ

次回もお時間の許す限り、ごゆっくりとお楽しみ下さい









●参考:臼杵城址公園内現地解説板、ウィキペディア大友宗麟(義鎮)

     うすきHISTORY-MAP ( 大友宗麟の時代 )

    ( 臼杵市観光協会・南蛮文化研究会・臼杵市教育委員会 )








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2011/12/09(金) 18:44 | コメント:6 | トラックバック:0 |

西洋の彫刻が施された椅子に座り、南蛮船をバックに鉄砲を突き立てる

雄々しい姿。 鋭い眼光は不敵にも見えますが、胸元にはクルス

( 十字架 ) 。 さて、こんな私は一体誰でしょう

常識じゃん!と想ってらっしゃる大分県民の方、歴史通の方、ここはどうか大目に

臼杵城址・大友宗麟レリーフ・日名子實三作

ヒントその1、織田信長公と同世代、元同職。 荒くれ暴君の異名も 

ヒントその2、強面ながら心はデリケート。 屈折した少年時代を送る

ヒントその3、料理研究家でもあった 臼杵風パエリアを発明

ヒントとどめ、名前が 「 ごめんなさい 」 の英訳に似ている














コラッ

大友宗麟公に叱られそうなヒントばかり出して

・・・と、自分にお灸。  あっ、答え言っちゃった

アイム・ソーリン じゃないや、I'm sorry

気のせいか、冷え込みが一段と厳しくなって参りました・・・














今日は、毎年うすき竹宵まつりの会場にもなっている臼杵城を築いた

大分のお殿様、大友宗麟公についてお話してみたいと思います 

臼杵城下



冒頭の画像は臼杵城址の宗麟公レリーフ( 日名子實三氏作・復元 )。

解説板によれば、大友宗麟公はかつて九州6か国( 豊前、豊後、筑前、

筑後、肥前、肥後 )を治めていた戦国大名で、九州髄一の覇者

称されています。 1562年には臼杵湾に面した丹生島に天然の要塞、

臼杵城を築城 熱心なキリスト教信者でもあった宗麟は、スペインや

ポルトガルとの交易を開き 大分県の臼杵を名実共に政治経済の

重要地、国際都市として発展させた、という偉業を成し遂げています

臼杵城絵図・本丸部分拡大


大友氏初代は源頼朝の重臣。 公家の作法も心得ていた家柄で、

約4百年に亘り豊後国守護を務めます。 宗麟の息子・大友義統の時、

朝鮮での失態を理由に、豊臣秀吉によって22代で改易されますが、

黒田如水が後見した宗麟の孫・大友義乗は徳川家の旗本に。 

九州きっての名門、大友の名を遺します。




義統( よしむね )の父・宗麟は大友氏21代目。 

出家前は義鎮( よししげ )と云い、府内( 大分市 )の生まれ。 

大分駅前には大友宗麟公像があります

大分駅の大友宗麟像
( この画像はWikipediaより拝借 )





1530年、豊後国守護・大友氏20代義鑑( よしあき )の嫡男として

誕生した義鎮( 宗麟 )。 恵まれた環境下で当前の様に

家督を継承したのかと思いきや、幼い頃に実母と死別 

後、「 我が子( 宗麟の異母弟 )を家督に 」 と画策する継母から

壮絶ないじめを受けたらしく、何と実父・義鑑も継母に加担





更に宗麟廃嫡を企てる義鑑を家臣が暗殺 

これにより義鎮( 宗麟 )は家督を継ぐ運びとなるものの、

心に深い傷を負った事で 気性の荒さや粗暴な振る舞いが目立ち、

心の隙間を埋めるかのように享楽的な生活に傾倒していったのだとか...。 

宗麟公は酒好きの暴君であったとも伝わる所以かも 






ところが、やはり神様はちゃーんと見てるものですね

大友21代目の家督を継いだ翌年、天文20( 1551 )年、布教の為 

大分を訪れたフランシスコ=ザビエルと義鎮は運命的な出会いをします。





後にドン・フランシスコという洗礼名を授かった宗麟は、

自分を慕って臼杵へ移住してくるキリスト教徒たちの為に

教会を建てるなど、キリスト教と信者の保護に奔走 

臼杵城本丸標に大友宗麟発見!
( 臼杵城址・本丸跡にて )






宗麟が少年時代から青年期にかけて負った大きな心の傷は、

同様に痛手と苦しみの中でもがき、キリスト教に救いを求める人々の心を

理解し、深く癒す事が出来るチカラへと変化していたに違いありません

大友宗麟公さま、荒くれ暴君なんて言って、アイムソーリー






先日、うすき竹宵祭り・般若姫行列の記事でご紹介させて頂いた

観光案内所サーラ・デ・うすきは宗麟の時代、臼杵城下に実在した

ノピシャド( 修練院 )を模した造りなんだそうです







次回はそんな荒くれ天使大友宗麟公

築城した臼杵城( 址 )へ登城してみたいと思います 

宜しければ引き続き、お付き合いくださいませ

臼杵城絵図・天守部拡大

●参考:臼杵城址公園内現地解説板、ウィキペディア大友宗麟

     うすきHISTORY-MAP ( 大友宗麟の時代 )

    ( 臼杵市観光協会・南蛮文化研究会・臼杵市教育委員会 )










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2011/12/07(水) 18:29 | コメント:13 | トラックバック:0 |
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