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まーりたん

Author:まーりたん
大分県で暮らす四十路主婦
“ まーりたん ” の
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日々を彩る ちょっと素敵な
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マンジ君と楽しくお届けして
ます。目下、郷土史に夢中♪
心躍る探訪をご一緒に。

臼杵の富士甚醤油マスコット
キャラ・とっくりこだぬき君が
仲間入りしてからは、嬉しさ
余ってマンジ君の“ 悪がね ”
ぶりもますますエスカレート。

そんなふたり(2匹)の様子も
併せてお楽しみ下さい(*^^*)

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都を奈良の飛鳥から琵琶湖の南( 近江 )へ遷して崩御した第38代 天智天皇

その後継を巡り、壬申元( 672 )年に起きた日本古代最大の内紛・壬申の乱

古宮古墳・この階段を下った丘陵南斜面にある模様

天智天皇の庶子で第39代・弘文天皇( 大友皇子 )が、近江朝廷軍として

東国や吉備、筑紫( 九州 )などからも兵を動員し、攻め寄せてくる事を知った

天智天皇の実弟・大海人皇子( おおあまのおうじ = 後の第40代天武天皇 )は、

自分に出仕していた地方豪族出身のトネリらと共に応戦を決意。 大海人皇子は

先ず東国出身のトネリに命じ、朝廷の援軍が上洛する道を封鎖させ、最前線には

側近のトネリを配し、迅速且つ的確な采配で、遂には朝廷軍を降してしまいます





大海人皇子の指揮下、この最前線で活躍したのが、父子だったとも云われる筑紫

( 九州 )出身の大分君恵尺( おおきたのきみえさか )と稚臣( わかみ )でした。 

大分君恵尺は、飛鳥と近江へ奔り、都に残っていた大海人皇子の息子2人を無事

救出。 更には稚臣と共に第一線で果敢に戦い、これによって大海人皇子は勝利

し、古事記編纂を始めたことでも知られる第40代・天武天皇となるんですね





粉骨の働きで逆転勝利をもたらした父子と云えば、真っ先に思い浮かぶのが

16世紀の筑前で、首の皮一枚の九州を死守した高橋紹運&立花宗茂父子。 

7世紀にも紹運さん父子の様な九州男児がいらっしゃったんですね。 そういえば、

紹運さん父子は大分県生まれです もしかして大分君恵尺さんと稚臣さんの

生まれ変わりだったりして なんてネ そんな高橋紹運さんじゃなくて

大分君恵尺さんが眠られているのがココ 大分市三芳の古宮古墳です

大分の君恵尺さんが眠る古宮古墳

昭和58( 1983 )年に国指定史跡となった古宮古墳は、丘陵の頂から

階段を少し下った南側斜面に、開口部を設けた形で造られていました。  

古宮古墳(解説板1)
古宮古墳(解説板2)
墳丘の復元(解説板2)210

岩盤をくり抜いて広めの横穴( 石室 )を開け、そこに石棺を安置した構造。

これは石棺式石室と呼ばれる特異な造りで、7世紀後半頃に

大和明日香( あすか )地方の限られた階層でのみ、造営されたタイプらしく、 

九州では古宮古墳の他に、例を見ないのだそうです

石室実測図(解説板5)
 
石室の奥行は5mほどでしょうか 日本の根幹づくりに繋がった壬申の乱

天武天皇の手足となってミッションを熟し、大貢献をした大分君恵尺と稚臣は、

大分市の賀来( かく )地区、そして庄ノ原( しょうのはる )から上野にかけての

台地一帯を当時本拠地としていた大分豪族の出身です。 正にその本拠地で

発見された、ヤマト政権との非常に深い関わりを示す九州唯一の畿内型古墳。  


大分君恵尺さんが眠る古宮古墳

没後に天武天皇から破格の冠位を与えられた大分君恵尺さんのお墓にほぼ

相違ないとされています。 真正面はさすがに失礼と思い、斜め向きに一枚

史跡の概要(解説板6)


また、古宮古墳は南に川( 住吉川 )、背後に山という風水の思想にも適って

いるのだそうです。 大陸文化の影響が濃かった飛鳥時代は、当然ながら風水も

浸透していたでしょうしね 大分君恵尺さん目線で、解説板の在る場所から

南側を眺めてみました 画像左から右にかけて連なる丘陵が、上野~庄ノ原へ

延びる台地です。 住吉川はその麓、建物が密集した所を縫う様に流れています。

今はアメンボが遠慮がちに泳ぐ住吉川も、昔は岸辺に花が咲く清流だったのかな。

古宮古墳からの眺め・南南東

天武天皇に称えられた一族の英雄的な大分君恵尺さんを、大分豪族の方々は

本拠地から見て北側中央あたり( 三芳地区 )の高台に、本拠地から見える様

安置し、毎日遥拝しては、感謝と一族の末永い安泰の祈りを捧げていたのでは

ないかなあ、なんて思います こうして眺めていると、上野から庄ノ原へと続く

あの台地から古宮古墳を拝む人々の姿が、何だかありありと想像できてしまう

 
日本書紀に記される大分君恵尺(解説板7)

日本書紀には、壬申の乱の翌年・天武天皇二( 673 )年に危篤状態に陥った

大分君恵尺( 将 )を第40代・天武天皇( 大海人皇子 )が見舞い、

特別に親しい詔( みことのり )を贈ったことが記されています

私心を捨てて公の為に尽くし、身命を惜しまず、先の大乱に功績をあげた。

永く慈しみ、もしお前が死ぬような事があっても、私は子孫を厚く賞しよう





天武天皇は追贈として、大分君恵尺には外小紫位( とのしょうしい )という位を、

大分君稚臣には外小錦上( とのしょうきんじょう )という位を与えます。 どちらも

律令制度の中では素晴らしく高い冠位ながら、とりわけ大分君恵尺へのそれは、

破格と言えるものだそうで( 律令制度も勉強せにゃあアカンな・・・これは )、

詔然り、時の天皇から一人のトネリへの施しとしては異例のケースだったとか 

天武天皇は、恩義に大変厚い方でもあったのかもしれませんね 


古宮古墳・展望広場より東側の眺望

古宮古墳の頂は展望広場になっていて、東の方角が遠くまで見渡せます。

一番高い建物はオアシスタワーで、大分駅はその近辺です。 遥か遠くには

別府湾の水平線も・・・。 さて、天武天皇から骨まで愛された?誉れ高き

大分の豪族・恵尺と稚臣。 ところが彼等を輩出した大分豪族その後の記録は、

驚くことに全く残されてないんだそうですね 政府の中枢で活躍した形跡も

無ければ、地元での盛衰についても全くの謎で、手がかりすら掴めないとか・・・

不思議です 失われた大分の歴史、それだけに探訪はやめられません

 






●参考 : 豊田寛三・後藤宗俊・飯沼賢司・末廣利人著 『 大分県の歴史 』 

GoogleBooks仁藤敦史著 『 古代王権と官僚制 』四、天武朝の外位






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2014/03/13(木) 13:26 | コメント:14 | トラックバック:0 |


只今、信号待ちをしている場所は 大分市 椎迫( しいさこ )地区を流れる

住吉川上流に架かる鳥越橋の上です 目の前を奔る道路は県道21号線。

ここを左折すれば、大分自動車道の大分IC が待ち構えていて、右折すると

大友氏時代に国府が置かれていた古国府( 元町 )経由で、大分市中心部へ 

左折すると大分ICです。鳥越橋入口

これから向かう先は、ちょうど標識越しに見えている木が生い茂った丘陵地。

周囲の山は切り崩されて高層マンションがいくつも建ち、開発が進む中にポツンと

取り残された感じの丘。 あれは古墳で、古宮( ふるみや )古墳と呼ばれてます。 

国指定史跡・古宮古墳

古宮古墳は7世紀頃に畿内( 現在の近畿地方 )中級豪族の間で流行ったものと

同じ構造。 詳しくは後程、現地にて古墳の写真と併せてご紹介させて頂きますが

九州では唯一です。 よって被葬者は、ヤマト政権との結びつきが非常に深く、

672年に起きた皇位継承紛争・壬申の乱の際、大海人皇子( おおあまのおうじ )

を第40代 天武天皇に即位させる為に尽力したトネリ( 皇族の警護・世話役 )で、

日本書紀にその名と活躍が記される大分( おおいた )の豪族二人・恵尺と稚臣の

内、大分君恵尺( おおきたのきみ えさか )だと考えられているんですネ 






古宮古墳へのルートは、冒頭の画像・鳥越橋を右折、県道21号線に出たら

最初の信号を左折して、丘陵に在る新興住宅地・季の坂方面へもう一度左折。

暫く行くと、右手に国指定史跡・古宮古墳の看板と登り口があります

季の坂の看板を右折

九州戦国の歴史だけでもアップアップしてるのに、7世紀のジンシンの乱

テンム天皇 おおいたくん、じゃなかったオオキタノキミって~

まーりたんと同じく、オツムから今にもブスブス煙が立ち上りそうなアナタ

古宮古墳に至るまでに、天武天皇や壬申の乱が、あらま、そうだったのね~

なんて、ちょっぴり身近に感じられるお話をしますよ~


古宮古墳・駐車場

まず、第40代・天武天皇は古事記の編纂を開始した方です

記憶力抜群の稗田阿礼( ひえだのあれ )に語り伝えを読ませるなどして・・・。

そして奥様は、伊勢神宮の式年遷宮を初めて執り行った持統( じとう )天皇

天照大神を彷彿とさせる寛容さと厳格さで、日本の形を創った女性天皇ですよね。

うっかり忘却の彼方だったアナタ、これで少しスッキリした気がしませんか 


壬申の乱史跡・古宮古墳へ

壬申の乱は、第38代・天智天皇から皇位を譲られた庶子・大友皇子( おおともの

おうじ )と、天智天皇の実弟・大海人皇子( おおあまのおうじ = 後の天武天皇 )

とのサバイバル戦説が有力の様 天智天皇は生前、自分に仕えていた実弟

大海人皇子に皇位を譲る約束をキャンセルし、我が子可愛さに庶子・大友皇子に

皇位を継承させます。 大友皇子は第39代・弘文天皇となり、大海人皇子も

これを素直に受け入れて出家。 ところが天智天皇が崩御すると、紛争が勃発


古宮古墳の大分君に会いに行きまーす♪振り返り一枚

皇位継承を諦めて出家してくれたけど、少なからず不満は抱いているであろう叔父

大海人皇子を今の内に潰しておくため弘文天皇( 大友皇子 )が先に挙兵

これを大海人皇子が迎え撃つ形で壬申の乱は始まりますが、もしかすると弘文

天皇から皇位継承権を奪還する為の大義名分、機が熟すのを待ってたのかも


オアシスタワーが見える大分駅方面

大海人皇子は、自分に出仕していた有能な地方豪族を味方に付けて応戦。

ついには造反者が天皇を降してしまうという、まさかの勝利を得るわけですが、

この壬申の乱の時、まさに身を呈した粉骨の働きをして大海人皇子を守り、

即位へと導いたキーパーソンが当時、大分市の賀来( かく )地区そして庄ノ原

( しょうのはる )から上野にかけての台地一帯を本拠としていた大分の豪族

出身の 大分君恵尺( おおきたのきみ えさか )だったんですね。 




第40代・天武天皇はこうして誕生 恵尺は死後に大変高い冠位を授かります。

おおいたくんの頑張りが無ければ、もしかすると古事記も日本書紀も編纂され

なかったかも知れないし、日本の形も、今とは全く違う物になっていたかも・・・

壬申の乱は飛鳥時代の関ヶ原?いやいやそれ以上、国生みのレベルに近しか 


わんこに気づかれた!

壬申の乱が起きた別の理由、興味深い諸説もいくつかあるんですヨ

ひとつは、古事記で描かれる神功皇后の朝鮮出兵に起因する白村江の戦い

これに大敗した時の天皇は、第38代・天智天皇で、国防のために朝鮮式の城

大野城など九州北部にやたら多く遺る古代山城跡=神籠石 )を沢山築かせた

上に、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖の南へ遷し、百済の難民を避難させます。

これが豪族や民衆への大きな負担となって反発を招き、唐風への転換を進める

天智天皇に反感を抱く勢力が蜂起したのが壬申の乱、とも云われているんです。





他には、絶世の美女歌人・額田王をめぐる天智天皇、天武天皇の三角関係が

壬申の乱に発展したと云うロマンス説も 面白いのは、壬申の乱では大分君

恵尺・稚臣( わかみ )の他にも佐伯男( さえきのおとこ )など、いかにも九州に

縁深げな名前が登場するんです 壬申の乱の舞台は、実は九州だとする見方

( 九州王朝説 )もある様ですが、逆に勘繰りたくなるほど徹底否定されてます


丘の頂・古宮古墳に到着

オアシスタワーを東に望み、丘陵に接するお宅のワンコに不審がられながら

ようやく頂に着きました 大分君恵尺さんが眠られている古宮古墳です。







お墓は、ここから階段を少し下った場所にあるモヨウ

古宮古墳・階段を少し下るみたいです

「 あなたのお陰で古事記を読む事が出来るんですね、ありがとうございます

おおいたくんを起こさないよう小声で御挨拶してきまーす 次回へ続く









●参考 : 豊田寛三・後藤宗俊・飯沼賢司・末廣利人著 『 大分県の歴史 』 

ウィキペディア壬申の乱 / 歴史人コラム 『 女性天皇の時代 』小林よしのり







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2014/03/10(月) 17:47 | コメント:2 | トラックバック:0 |


古代豊後の 真名野長者伝説が起爆剤となり、地方・郷土史に対する自身の

興味は一気にヒートアップ こうなったらもう、お好きにどうぞの憑依?任せで

現地へ導かれては白熱モードで記事を書き、かれこれ3年になろうとしとります

 


探訪先で出会うのは苔生した石垣や鄙びた建造物、たまに時を駈ける住職さん

なのに、その度に心が瑞々しく、真っ新に蘇る気がするのはどうしてでしょう

有難い事に、こうして臆せず等身大の記事を書き続けてると、素晴らしいご縁にも

恵まれる様で、日本史や郷土の歴史に精通された方々からは耳寄りな情報を

頂ける事も多く、それが次なる 冒険 探訪の扉を開けてくれるんですよネ
   
ホルトホール大分(11月3日)

文化の日は、ブログ『 大分/高校野球懇話会 』 のオーナー、mozqmanさんからの

情報で、ホルトホール大分へ出掛けてきました。 大友氏遺跡 上の原館がある

上野の森から、大分駅方面へ下った駅南エリアに今年7月、オープンしたばかりの

複合文化交流施設です。 文化の日には珍しく、空は今にも泣き出しそうな曇天

週末は史跡眠る野山に放牧が常のまーりたんも、潔く室内学習ができそうです






施設の名称は、大分市の木に制定されている 『 ホルトの木 』に因んでいます。

ホルト = ポルトガルを意味するという説もあり、南蛮( ポルトガルやスペイン )との

交易を開いた戦国大名・大友宗麟をシンボルとする大分市の文化施設にぴったり。

ホルトの樹(鶴崎公園グラウンドにて撮影)

昨年、鶴崎公園グラウンドで撮影したホルトの木です

ホールのネーミングは二年ほど前に一般公募が行われ、実はまーりたんも

応募したんですが、思いっきりボツりました  ま、この話はどうでも良いとして

先日、豊後大友氏家臣・高橋紹運さんの記事を書いている時に mozqmanさんが

ホルトホールの図書室に たまたま立ち寄った際に見つけたのですが、

1580年の九州鼎立(ていりつ)勢力図が、歴史群像という本の10月号に

載ってますよ
」 と親切に教えて下さいましたアリガトウゴザイマス






1580年といえば、天正6( 1578 )年の耳川の大敗から二年後、弱体化する

豊後大友氏に対して、肥前の龍造寺氏、薩摩の島津氏が九州で勢力を伸ばし、

三つ巴の戦いが繰り広げられていた頃。 立花道雪さんと高橋紹運さんが守る

大友領の筑前国は、龍造寺氏と手を結んだ秋月氏が豊前との間を寸断していて、

孤立状態だったそうです 文化の日は、この当時の詳しい九州鼎立勢力図

見たさにホルトホールの図書室へ向かったはずが、手に取ったのは・・・


太田亘著「邪馬台国」は豊後国だった!驚愕の古書発見

太田亘著・「 邪馬台国 」は豊後国だった という驚愕の本 に遭遇

日の丸印刷より昭和55年10月31日に発刊の、書店では入手困難な古書ですが

これに記されている邪馬台国の場所は、有力候補地のひとつに挙がっている

大分県北部の宇佐市ではなく 、なんと大分市の丹生地区 

鶴崎の東、坂ノ市に近い、昔は丹生( にゅう )の庄と呼ばれていた所です

大友宗麟時代は、高橋紹運さんの妻・宋雲尼さんの実兄・斎藤鎮実さんが

領主でした。 鎮実さんは、耳川の戦いで亡くなってしまうんですけど・・・







こてんぱんにバッシングされるのを承知の上で、淡々と考証されている太田さん

文章を読む内に、卑弥呼は天照大神や八幡の女神と同一視される事もあってか

邪馬台国のありか論争は壮大なコトになってるけど、実は案外、坂ノ市辺りだった

のかもしれないな~なんて思えてくる癒し系の?ほっとする内容でした 



東北の歴史に大変お詳しい郷土史家で、ブログ 『 のんびりと、じっくりと! 』 の

オーナー、korekaradaさんは、これまた高橋紹運さん関連の久留米探訪記事

書いている時、「 邪馬台国の中心地は、福岡県久留米市の高良山とする

( 民俗学者・谷川健一 )説がありますよ
」 と親切に教えて下さいました

こうした胸躍る情報をご教授下さるのは本当に嬉しくて、有難い限りです







邪馬台国は郷土を誇りに思う方々の心の中に何時までも在れば素敵だなぁ

思います しかし、卑弥呼さんも、自分の名前が独り歩きし過ぎてエラい騒ぎに

なっている事に恐縮して、「 あのっ、あたし、そんなに凄くないけん 」 

なんて言ってそう・・・ 太田亘氏のこの本は、ホルトホール図書室2階の郷土史

コーナーに2冊置いてますので、ご興味ある方は是非 灯台下暗し的な展開に

新鮮な驚きと空想にも浸れ( 真実という場合も充分あり得ます )良いですよ 

館内図書室・郷土史コーナーから見下ろしたホルトホール内

ホルトホール図書室2階・郷土史コーナーから見下ろした館内ですまだ新品! 







それでは、「 邪馬台国は大分市の丹生地区だった! 」という

太田亘説に基づき、鶴崎・坂ノ市方面へ出かけてみる事にしましょうかね~ 

行くしかないでしょう、坂ノ市方面へ

丹生の庄( にゅうのしょう )邪馬台国を探しに出掛けたのは、ホルトホール大分を

訪れた翌日の11月4日、昨日です。 この日は午後2時まで法事で、それから

義伯父を戸次へ送り届けて、自宅へ戻り着替えて探訪へ 日没迫る、急げ 




坂ノ市地区には、太田亘氏の著書の中で女王・卑弥呼の菩提寺とされている

お寺もあるんですよ 次回はそちらもご紹介させて頂く予定です










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2013/11/05(火) 18:33 | コメント:14 | トラックバック:0 |


石田三成さんの妹婿 福原直高公が、秀吉さんの命で但馬国( 兵庫県北部 )

から豊後国( 大分県 )へ加増転封。 府内その他12万石の領主となり、

慶長2( 1597 )年より築城を開始した府内城( 荷揚城 )。

府内城着到櫓

関ヶ原後の慶長6( 1601 )年には、竹中重利公が高田城より入城。 

天守閣を建て、翌年の慶長7( 1602 )年にお城の全容を完成させます 




竹中重利公は、黒田官兵衛と共に秀吉さんの軍師として活躍した竹中半兵衛

従兄弟です。 九州関ヶ原の時は高田城主で、最初は中立の立場でしたが、

中津城から東軍として出陣した黒田如水公が真っ先に向かったのは高田城

如水軍が到着すると、竹中重利公は直ちに息子・竹中重義に兵を付け従軍させ、

これで竹中氏は東軍となり、戦後は親子二代に亘って府内城主を務めるのです。

01-25府内城沿革

竹中氏の後は、豊臣秀頼さんの家臣を経て、関ヶ原では東軍に味方した

日根野吉明公が一代限り。 後、松平氏が10代続き、廃藩置県を迎えます。 








そんな府内城の本丸隅にいらっしゃるのが、秀吉さんの時代到来と入替わりに

400年の歴史に幕を下ろした豊後守護・大友氏21代大友宗麟公( 胸像 )。

五色の雲と大友宗麟公胸像・府内城址にて

この建物は府内城西丸跡に建つ大分文化会館( 今秋閉館予定です )

館内には、府内城のパンフレットと登城記念スタンプが置いてあり、昨年

くすのきクラブの方々が制作された府内城本丸の模型も展示しています 










こんにちは、宗麟公 七夕の空に五色の雲が浮かんでますよ

あら、なんだか浮かない表情。 どうしちゃったのかしら

お天気にしてくれてありがとう宗麟公♪

もしかして、また誰かに府内城築城主と間違えられちゃったんですか

宗麟公が築城したのは臼杵城だけど、府内は豊後大友氏歴代の本拠地で、

21代目の宗麟公は、南蛮との交易を開き、豊後府内に西洋の医療技術や

文化
を導入した大分の祖ですから、府内のど真ん中にいらっしゃるのですよ



時間は、午後1時35分ぢゃ。By宗麟公

「 そうではない、ただシンケン暑いのだ









でもね、直射日光を浴びて眩いばかりに輝く宗麟公の剃髪頭のお陰で、

5日に遥々東京から大分へいらっしゃった戦国史のお師匠さん piglet01さんが、

九州北部では梅雨の最盛期にも関わらず、雨に遭う事なく豊後・豊前の

史跡巡りを楽しめたそうですよ、アリガト宗麟公

ワシの居城は臼杵城ぢゃが、若い頃は府内の大友館におったのだ

「 ワシをてるてる坊主扱いするとは何事ぢゃ 

そこの民百姓女、勝手に写真ばかり撮っちょらんで、はよあっち行け 」













なんだか宗麟公の御機嫌を損ねたみたいなので、本丸を離れて浄安寺

かつての府内城三の丸に建つ、歴代府内藩主の菩提寺です

豊後府内藩主の菩提寺・浄土宗 浄安寺


お寺の前にはセブンイレブン。 これで場所は大体お判り頂けるでしょうか

浄安寺の前はセブンイレブン


竹中半兵衛重治さんの従兄弟・竹中重利公のお墓にお参りがしたくて

境内を捜してみたものの、墓石がどれも古すぎて、刻字が読めない・・・

慶長6年3月 竹中重利が、豊後高田(1万石)から府内へ入部。初代重利のお墓はここに

とりあえず、まとめて心を込め、お参りを たぶん、この内のどれかでしょ










続いてやってきたのは、長濱神社。 大分で一番早く開催される夏祭り

江戸時代より続く長濱さまの最終日でした 雨が降る事でも知られたお祭り

なんですが、今年は快晴。 大分地方は七夕の翌日に梅雨明けしました 

長浜神社へ参拝


今年になって、高千穂を巡ったり神様の名前を知る機会に恵まれているため、

これまで気にも留めなかった長濱神社に祀られている神様のチェックをば

長濱神社の御祭神は少彦毘古命、天神様、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

天神様・菅原道真公それに、少彦名命( 少彦毘古命 )・スクナビコさんだ  

高天原から追放され国つ神となったスサノオノミコトの末裔・オオクニヌシノミコト

( 大黒様 )に稲作などの様々な知恵を授けたという、一寸法師のモデルとも

言われている小さな小さな神様です。 もちろん古事記にも登場します 

三柱目は、食穂魂命( 宇迦之御魂神 )・ウカノミタマノカミ。

スサノオさん系の神様ですが、お稲荷様と同一視されているんですね、成程


下長濱橋

七夕の午後、ペットボトルの麦茶片手に新府内の荷揚町から、大友氏時代の

旧府内・長浜町まで、ぶらぶらと歩いてみたんですけど、見慣れているはずの

大分市内でも、まだまだ知らないことだらけ。 七夕の日、五色の雲の下

足の向くまま、目的なしの散策もまた楽し の一日でした









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2013/07/09(火) 19:03 | コメント:10 | トラックバック:0 |

昨日の昼下がり、府内( 大分市 )上空に現れた五色の短冊 “ 彩雲 ” 。

いったいどれくらいの方がご覧になられたのでしょう

まーりたんは府内城の天守台上で、このささやかで素敵な奇跡に出会いました。

七夕の午後、府内上空に現れた五色の短冊

前回、彩雲に遭遇したのは、福岡城址の黒田如水公隠宅跡を訪ねた時でした。

今回は、扇城・中津城の記事を書き終えた後。 

おめでたい性格なもので、とびきりの心付けを頂いた気分です




彩雲は阿弥陀如来さんの乗り物とも言われ、とても縁起が良いのだそうです。

ご覧くださった皆様のもとへも、より一層の幸せが届きますように

では、これから朝ごはんの支度ですので、続きは後程







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2013/07/08(月) 05:40 | コメント:11 | トラックバック:0 |


黒田官兵衛孝高( 黒田如水 )と共に、秀吉さんの天下獲りを支えた軍師

竹中半兵衛重治の従弟で 府内城三代目城主 竹中重利公の嫡男が

寛永10( 1633 )年、現在の大分市金池町に再興した万寿寺

金池町・万寿寺の山門

高崎山 に別院を持つ臨済宗妙心寺派の寺院 万寿寺MAP★ )は、 

もとは豊後守護 大友氏の菩提寺で、府内城址( MAP★ )の在る今の大分市

中心部より東南の古国府地区 東元町( MAP★ )に、大友氏5代貞親が建立。




ですが、天正14( 1586 )年、九州制覇に乗り出した島津軍の府内侵攻によって

焼失 府内城主竹中氏が江戸初期に再興する迄の47年間は廃寺だったそう。

中世府内マップ(豊の都市おおいた歴史散歩本より)
( MAPは、大分市商工農政部観光課発行・豊の都市おおいた歴史散歩ガイドブックより )




猛勢島津軍に脅威を感じ、傘下に入る事を条件としたSOSを、豊後守護・大友

宗麟
から受けていた秀吉さんは天正13( 1585 )年10月、停戦命令を下すも

島津軍は聞き入れません よって征伐のため、秀吉勢が九州へ下るまでの間、

豊後臼杵城では領民全員を城へ避難させ、宗麟自らフランキ砲で島津に応戦 

支城の鶴崎城では、留守居の吉岡妙林尼さんが智謀にて島津の大軍を撃破。

筑前立花城でも大友氏重臣・立花道雪の娘夫婦が、籠城&追撃で島津と奮戦。

 




しかし本拠地・豊後府内への砦、戸次地区で戦っていた大友家臣と、秀吉さんが

四国から派遣した先発隊長宗我部・十河軍が島津軍に討たれ、ついに島津軍は

府内を侵攻 秀吉勢が到着した時には、府内の町は復興もままならない程の

焦土と化していたのです そして秀吉さんの九州平定後、九州6か国を支配

していた大友氏は豊後一国のみの所領とされ、更に朝鮮出兵の際、敵前逃亡の

失態を理由に、大友氏は宗麟の子 22代義統( よしむね )の代で除国処分に






大友氏改易後の慶長2( 1597 )年、秀吉さんは豊後国を7つに分割し、府内は

石田三成さんの妹婿である福原直高さんの手へ。 福原さんは、府内城の築城に

着手、豊後の中心地は今と同じ府内( 大分 )城址公園の在る荷揚町へ移ります。

しかしながら秀吉さんの時代もまた、間もなく暮れようとしていたんですね・・・


大智寺は島津軍の府内侵攻で焼け残ったお寺

天正期の島津軍府内侵攻の際、奇跡的に戦火を免れた豊後大友氏11代親著

( ちかあき )創建の大智寺( MAP★ )。 今も当時と同じ場所に建っています。



また 『 国東物語 』では、ティーンエイジの宗麟が、実父である大友氏20代義鑑

( よしあき )
に進言し、初めて府内を訪れた南蛮人を宿泊させた寺として登場。

大友氏11代親著が創建・大智寺

周辺には、源頼朝から関東御分国( 直轄地 )のひとつに定められた豊後国

歴代守護屋敷、宗麟の生家でもある大友氏館跡や、 天文22( 1553 )年に

当時23歳の大友家当主・宗麟の庇護により建てられた府内教会 デウス堂跡

( MAP★ )等々、大分駅東の旧府内は 大友氏四百年史の宝庫

先日ご紹介した大友氏初代能直創建の若宮八幡も、このエリアにあります。

今は昔の旧府内。 でも古国府( ふるごう )という地名でちゃんと息づいてます






大分市中心部から、ザビエルさんの遊歩公園( MAP★ )を抜ければ、

そこは南蛮の香り漂う旧府内 中世大友氏時代への入り口です

大分川の堤防をなでて渡ってくる風は心地良く 

神社仏閣の境内や郊外型スーパーなど駐車場にも事欠かず

( 参拝や買物もちゃんとしてますから )、

中世大友氏時代へ遊びに行くのはお手軽便利で、そのうえ楽し







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2013/05/30(木) 20:37 | コメント:8 | トラックバック:0 |


オルテリウス世界地図帳・世界の舞台(1595年改定・刊行 )に初掲載された

日本単体図( ※九州部分 )。 これはポルトガルのイエズス会士 ティセラが製作

したもので、ティセラ日本図と呼ばれてます大分市歴史資料館所蔵 )

ポルトガルのイエスズ会士ティセラの日本図(部分)

Figen( 肥前 )と Bugen( 豊前 )の間に、大きく BVN( ぶん )

Chirugo( 筑後 )の上に、これまた大きく GO( ご )と書かれてます。

16世紀のヨーロッパでは、九州を 豊後の国だと認識してたみたいなんですね




推測できる理由は次の通りです。

天文20( 1551 )年11月、フランシスコ=ザビエルが日本を去る際、当時

21歳だった豊後守護・大友義鎮( 宗麟 )公は、インド総督やポルトガル国王に

宛てた親書を託したそうです。 京都では天皇にスルーされたザビエルさんも、

宗麟には手厚く迎えられ、それで豊後という名がヨーロッパに広く知られたらしく、

ザビエルが宗麟に謁見する場面は、後に宗教画にも描かれるんです ビックリ!





ザビエルを見送った数年後の1559年、宗麟は ついに九州6か国を手中に収め、

九州の武家を統制する九州探題職にも就任。 南蛮との交易で、豊後府内に

キリスト教や西洋文化の花を咲かせます ティセラ日本図は、21代 宗麟の

頃に全盛期を迎えた豊後大友氏の栄華を物語る、一目瞭然ツールと言えます 
 




イエズス会の海外宣教活動の目的は、創設者であるロヨラの言葉に従い

「 異教地の征服 」 であったとも云われていますが、フランシスコ・ザビエルさんや、

豊後の臼杵では、大友宗麟の記録も残したルイス・フロイスさんは、日本滞在中、

その胸中に何かしら変化があったものと、まーりたんは勝手に思っています









先日、大分駅の駐車場より東の方角、大友氏時代に国府が置かれていた古国府

( ふるごう )方面
大友館跡が在る 顕徳( けんとく )町方面を撮ってみました

大分駅周辺の景色は、このブログでは初めてのご紹介ですね なんか新鮮

大分駅駐車場より(金池、顕徳町、大分川左岸方面)

天正14( 1586 )年、秀吉さんの九州平定直前に、大友氏の本拠地だった

豊後( 大分県 )の府内( 大分市 )は、薩摩の島津軍に攻め込まれ、

宗麟が築いた南蛮の香り漂う街並みは、すべて焦土と化してしまいました 





大友館のすぐ近くに建っていた ボランティア発祥の地でもある西洋式病院や、

九州征伐の先鋒隊として四国から派遣された長宗我部父子も立ち寄ったという

デウス堂( 教会 )など、今となっては跡地を訪ね、想像する他ありません 

群雄割拠、奪い合いの厳しい戦国時代の宿命も、想像力を伸ばすチャンスは

惜しみなく与えてくれるみたいです 大友氏の菩提寺・万寿寺跡には現在、

大友氏遺跡体験学習館が建ってます。 数々の貴重な史料を頂き、感謝です










さて、こちらのイケメン武士さん 誰だかお解りになりますでしょうか

大分県立先哲史料館HPより・大友宗麟公

大分市 南王子町の 豊の国情報ライブラリー内 県立先哲史料館に常時、

詰めていらっしゃる 大友宗麟公です 見るからにお若いので、まだ臼杵に

居城
を持つ前、府内大友館の若君・大友義鎮( よししげ )公だった頃かしら





そんな豊後大友氏の初代は、承安2( 1173 )年生まれの大友能直

大友能直( よしなお )は、鎌倉幕府を開いた源頼朝さんの腹心である中原親能

( ちかよし )に育てられますが、その出生は謎に包まれているんですって 





 

頼朝さんは伊豆に流罪中、政子さんと言う妻がありながら、お世話係の

利根局( とねのつぼね )さんとの間に、ベビイが出来ちゃったそうです アラ・・・



まーりたんの記憶が正しければ、恐妻家としても名高い?頼朝さん。 

腹心・中原親能の奥さんは利根局の姉だったことから、妊娠中の利根局を

頼朝さんは、中原親能に預けます。 で、中原家で生まれたこのベビイ

後の豊後守護・大友氏初代となる能直ではないか?と云われているんです。

大友の姓を名乗るようになったのは、利根局さんが後に再婚し、我が子を

大友郷( 現在の小田原市東大友町、西大友町、延清 )で育てた事に起因。







この頼朝落胤( らくいん )説は、大友氏顕彰会の理事長でいらっしゃる

牧達夫さんが、大分市のタウン紙に平成24年9月より、月イチで

連載されているコラム 「 大友氏四百年 」第6回目で取り上げられていた

テーマなんですが、内容は毎回、まるごと抜粋してお届けしたいぐらいの

豊後大友氏に関する 緻密で貴重なお話( 永久保存版的史料 )ばかり。

まーりたんは毎号、たいへん楽しみに読ませて頂いてます






頼朝落胤( らくいん )説については勿論、否定説も挙がってはいますが、

頼朝は恐妻家だから、能直の異様なまでの出世ぶりを政子が許す筈がない

とか、利根局さん側の家系図には再婚相手の子と記されている、といった具合。

落胤説の方が、裏付け的にもしっくり来るなあと感じるのが面白いところデス





頼朝落胤説について、もう少し詳しく知りたいとおっしゃる方が、もし

いらっしゃいましたら、もちょっと掘り下げた続編を綴らせて頂きま~す







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多忙の為、頂いたコメントのお返事は、27日以降になりそうです 

申し訳ありません ご訪問&応援は、いつも通りさせて頂きます

皆様、嬉しく励みになるお言葉を 本当にありがとうございます




2013/05/24(金) 23:08 | コメント:9 | トラックバック:0 |


文治元( 1185 )年、源平合戦に勝利した源頼朝は 鎌倉幕府を開き、弟の

義経ほか残党を捕え、治安維持や荘園管理のため、全国に守護・地頭を設置。

まーりたんは学校で 「 イイクニ( 1192 )つくろう頼朝さん 」と習ったんですが、

今は守護・地頭が置かれた1185年を、それとする説もある様ですネ




で、九州は豊後国( 大分県 )守護を命じられたのが、相模国( 神奈川県 )の

御家人だった大友能直( よしなお )。 大分ゆかりの皆さまならご存知の通り、

21代目にキリシタン大名 大友宗麟が誕生する 豊後大友氏の初代です。 





昨年1月、大友氏遺跡体験学習館で頂いた歴史教室資料入門編によれば、

大友氏初代能直と2代目・親秀( ちかひで )は、在地勢力の大神氏などと

養子縁組をしながら勢力を固めて行き、3代目・頼泰( よりやす )の時代に

下向。 高国府勝津留( たかごうかちがつる )に居を構えたとされています




高国府勝津留が具体的に何処かの解説は無かったので、調べてみたところ、

上野丘陵ないし、大分川河口左岸の沖積地ではないかと推定されている様子

というわけで以後、約400年間に亘って、大友氏は豊後を支配するのです

府内古図上の若宮八幡社(大友府内旧跡めぐり)

府内( 大分市 )の大友氏旧跡に建っている府内古図で示された探訪マップ

( 古い地図を見ると胸が高鳴って 病の一種です )  中から今回は、大友氏初代

能直が、1190年~1199年の建久( けんきゅう )年間に 源氏の氏神様である

鎌倉の鶴岡八幡より分霊、創建した 若宮八幡社を訪ねてみたいと思います 

若宮八幡社は 府内大友館跡の南西、大分市の上野地区10番に在ります。




お正月明けに探訪記事を書いた別府市の朝見八幡も同じく、大友氏初代

能直の創建とされていますが、朝見の名は、熱海が訛ったものらしいですヨ








若宮八幡社は創建以来、豊後大分における大友氏の氏神様として崇拝され

大友氏21代宗麟や、宗麟の実父・20代大友義鑑( よしあき )が神殿を修営。

また、大友氏19代義長は、永正5( 1510 )年に 釣鐘と鐘楼を寄進してます。

若宮八幡社(大分市上野)

境内の解説板によれば、大友氏時代には華やかな祭礼行事も行われていて、

今の大手町3丁目から長浜町1丁目辺りには祭礼の際、お神輿の仮鎮座所となる

御旅所( おたびしょ )が設けられていたそうです。 祭礼では宮社( ぐうしゃ )より

御旅所まで ご神体をお運びする神幸( しんこう )があり、その時には、大友館から

飾り馬が出て、重臣らも加わっての豪華絢爛なパレードも繰り広げられたとか






時は移り、

豊後大友氏が22代目・義統( よしむね )の代で改易となり、江戸時代に入ると、

府内城3代目城主・竹中重利( 秀吉の軍師・竹中半兵衛重治の従弟にあたり、

九州関ヶ原時は高田城主で、およそ中立の立場から東軍・黒田如水に加担 )が、

戦国期の島津氏府内侵攻で荒廃していた若宮八幡社を再築 

正保元( 1644 )年には、府内城5代目城主・日根野吉明( ひねのよしあきら )

により、祭礼も再開されます。

現在の社殿は平成15年の幹線道路工事に伴い新築されたものピッカピカです


若宮八幡由緒

ここで、またしても面白き発見( 個人的に )をしてしまった まーりたん



少々ピンボケしてますが、

若宮八幡社由緒略記に掲載されている御祭神にご注目

若宮八幡社由緒略記1

八幡様の御祭神と言えば、ヤマトタケルのちょっぴり意地悪なパパ・景行天皇や、

奈多八幡宮にも祀られている応神天皇や神功皇后などが馴染み深いんですが、

若宮八幡社の御祭神は・・・



1、帯中津比古命( たらしなかつひこのみこと )

2、品陀和気命( ほむだわけのみこと )

3、息長帯比賣命( おきながたらしひめのみこと )

4、大雀命( おほさざきのみこと )

5、善神王( ぜんじょう )




申し訳ないんですけど、皆さま一体どちらの神さまでしょう? と思い、

帰宅後に調べてみたら なんと・・・



帯中津比古命は、ヤマトタケルの子で14代 仲哀( ちゅうあい )天皇

品陀和気命は、15代 応神( おうじん )天皇

息長帯比賣命は、応神天皇の肝っ玉お母さん神功( じんぐう )皇后

大雀命は、16代 仁徳( にんとく )天皇



でした!

なぜか全尊、古事記 )に登場する時の名前で記されているんです





ときに今月28日の発売日が待ち遠しい里中満智子先生の古事記 ≪弐≫には、

悲劇の勇者ヤマトタケルのエピソードが記された中ツ巻と、仁徳記・雄略記など

下ツ巻が収録されるそうで、上記の神様達も この名前で登場するのかな?

国生みから神武天皇東征、欠史八代迄の上ツ巻を漫画化した古事記 ≪壱≫

では、子供時代に少女漫画で慣れ親しんだ懐しい里中満智子先生の描く世界へ

久々に、思いっきり連れ去って頂きました 活字からあれこれ巡らすのも大切で

楽しいけれど、誰かの創造世界にダイブするのも、時には良い様な気がします 






最後に善神王ですが、

12代景行天皇から16代仁徳天皇までの5代に仕えた 武内宿祢( たけのうち

すくね )
。 何と、360歳を超える長寿の神様なんだそうですえっ? 

しかも大分県の国東半島に縁がある様ですよ 

詳しくは国東半島 くにみ粋群( すいぐん )のサイトでどうぞ



若宮八幡社由緒略記2

若宮八幡社境内の神社には、大友神社に豊後大友氏初代能直公。 

楢( なら )神社には、五十狭芥彦命( いさちのみこと )こと景行天皇の父

11代 垂仁( すいにん )天皇。 天満社には天神様 菅原道真公

多賀神社には、天沼矛で最初の国土を創ったイザナキ&イザナミの神さま






国家の秩序を守るため、時の権力者の切なる願いのもとで

古事記に始まり、この先も記録、編纂されていくであろう日本の史。

神代の頃は荘厳で、わくわくさせてくれる夢物語 

それが歴史に移り替わっても、後になってそうじゃないよ、

こっちが正しいよ、なんてことは尽きないハナシです。

だからこそ、面白いのかもしれません

記録を事実として後世に残そうとした当時の人々の強い思い、

直向きさがそこにあった事は、いつの時代も本当ですから。

それに敬意をはらい、五月晴れの境内を巡り、お参りして来ました

若宮八幡社・350年祭記念碑

でも、次回は大分県津久見市の 民話・宗麟の里由来記にも刻まれている

大友氏初代能直は、源頼朝の落とし子だった?説の真相に迫ってみる予定

ですけどネアハッ  そういえば、明日は大友宗麟公の命日ダ 





 



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2013/05/22(水) 20:09 | コメント:8 | トラックバック:0 |

ここは大分駅の東南に位置する丘陵地帯・上野丘( うえのがおか )

大友宗麟のお墓をデザインされた建築家の磯崎新氏をはじめ、多くの著名人を

輩出している進学校・上野丘高校や、大分市美術館などが建つ文教区です

探険 散策のため愛車ミカン号を置かせて貰ったのは、休日の上野丘郵便局

大分上野郵便局

「 この先にいったい何が? 知りたい、見たい、行きたい、

そんな心の欲求が、まーりたんを危険な場所へと誘うのだ 」

by 藤岡弘探検隊












満面の笑みの藤岡弘さんに見送られ、上野丘郵便局から東へ数十m

一つ目の角を左折し百m程行くと、突き当たりにこんな景色が現れます

うえのはる館へ


本日探訪するのは、天満社の白い鳥居を潜り、石段を登りきった小高い台地の

上にある史跡・府内大友館の別館 上原館( うえのはるやかた )

大友館・上野原館跡へ


府内大友館南西の高台に建つ上原館は、大友氏20代義鑑( よしあき )

後妻と共謀し、実子で嫡男の大友義鎮( 後の宗麟 )廃嫡を画策した挙句、

謀反を起こした家臣らによって、後妻とその子もろとも寝込みを襲撃された

大友二階崩れクーデター現場だとされています グランド・ゼロか・・・

石段上から上野丘西地区を臨む

大友二階崩れの変は1550年、宗麟が別府の浜脇館に幽閉されている間に

起きます。 宗麟廃嫡を命がけで阻止しようとした大友家臣の 津久見美作守

( つくみ みまさかのかみ )と田口蔵人佐( たぐち くろうどのすけ )に斬られた

傷がもとで義鑑は数日後に他界。 こうして皮肉にも宗麟は、廃嫡を企んでいた

実父が家臣に暗殺された事により、大友氏21代目家督を継承するのです


大友氏屋敷跡・上原館


悩み多きティーンエイジの宗麟を描いた高山由紀子さんの国東物語によると、

大友二階崩れの変を起こしたのは、宗麟派の家臣ふたりではあるものの、

元を辿れば、熊本に近い竹田市入田に居城を持つ大友家臣で宗麟の乳父・

入田親誠( にゅうたちかざね )が、守護職を大友義鑑により奪われたことに

恨みを抱く肥後( 熊本 )の菊池義武( 義鑑の実弟 )と組み、義鑑の後妻を

利用し、宗麟廃嫡を画策するよう仕向けさせたという背景ですから複雑です

宗麟が幼少期に亡くした実母は、大友義鑑が常々疎ましく思っていた山口の

大内氏の娘でもあり、義鑑にとっては後妻の悪魔の囁きは好都合だった?





自分を愛してくれた実母を幼くして亡くし、実父には疎まれ、

乳父と叔父にも裏切られ、ついには家臣によって実父を討たれ、

宗麟が若き日に負った心の傷の深さは量り知れません





心の安らぎを西洋音楽やデウスさんに求め、心酔したのも当然の様な気が

してきます ボランティア精神でキリスト教や信者の庇護に奔走する事で

少しは深い心の傷は癒えましたか宗麟公 そして、そんな大友宗麟

肉親以上の愛情と厳しさでもって、しっかりと支えたのが、あのカミナリオヤジ

雷神の渾名を持つ重臣 戸次鑑連( 立花道雪 )さんだったのでしょうかね

大友館・上原館跡解説板

大友館跡( おおともやかたあと ) Ruins of the OTOMO YAKATA

『 上原館は大分市上野丘西にあり、東西約130m、南北約150mの長方形。

北西に主郭の出入り口を固めるための枡形( ますがた )が設けられ、

南と西側には10m( 西 )~25m( 南 )ほどの幅を持つ土塁を盛り上げ、

この基底部に沿って空堀を掘り出していました。 また、東側と北側にある

自然の崖地も巧みに利用して、館内への敵の侵入を防ぐ工夫をしています。

築造の時期は不明ですが、戦国時代末まで利用されました。

宗麟の父・大友氏20代・義鑑( よしあき )は “ 大友二階崩れの変 ” で横死。

当時は二階建ての館であった事が推察され、大友氏を偲ぶ重要な遺跡です。

( 現地解説板より ) 』


周辺の住宅は屋敷跡に建ってます

上原館モニュメントの北側。 この道のずーっと先まで上原館跡です。






上原館北側の突き当り

で、北側の崖地スレスレまで来てみました 大分駅周辺が見渡せます。






再び、上原館モニュメント北側に戻り、台地には登らず左折

再び上原館モニュメント北側へ戻り

台地へは登らず、手前のブロック塀角を左折して・・・





帰りは斜面をダッシュで駆け下りて

帰りは石段・鳥居側からではなく、ガードレールに沿った緩やかなスロープを

藤岡弘さんが待つ大分上野郵便局まで、転ばないようダッシュ 





・・・と、おや

上原館の門番ネコくん

上原館、鳥居側の登り口に門番さんがいらっしゃってる様子 

吊り目に鋭い表情、ootomo3にん組の宗麟ニャンコみたい

気づかれないように写真を一枚 どうも、おじゃましました








いかん、日が暮れる 

再び急げ急げ











ミカン号、お待たせ~

ミカン号ぶじだった♪

藤岡弘さんはココに建つ看板に鎮座してます











まーりたん隊員おかえり、無事だったかい

おかえり

いつもながらドタバタしてるねぇ

・・・なことは言ってません、たぶん。











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ひと月ぶりに連休がとれましたので、この週末(12月1日、2日)は

かねてから訪ねてみたかった九州北部の史跡巡りを楽しんできます

いつもお越し下さる皆様、更新期間があいてしまい、申し訳ありません

両日とも日帰り旅ですので、普段通りご訪問、応援はさせて頂きます。

皆さまもどうぞ素敵な週末をお過ごしください


2012/11/28(水) 21:17 | コメント:10 | トラックバック:0 |


鎌倉時代から戦国末期まで、およそ四百年に亘り、府内( 大分市 )を拠点に

豊後( 大分県 )守護として君臨した大友氏。 その21代目で、南蛮( 西洋 )

との交易を開き、豊後府内を国内における西洋音楽や演劇、西洋医療技術、

ボランティア発祥の地
とした大友宗麟公の偉業を讃え、シンボル化しましょう

という動きが、昨年の暮れ辺りから急速に高まっている大分市 






今年の5月には、市報おおいたの裏表紙に月イチで “ 大友宗麟の実像 ” と

銘打った、史実に基づく大変興味深い大友宗麟公紹介記事の連載もスタート

これは保存版です

下の画像は、市報おおいた9月1日号のそれに掲載されていた17世紀前半の

ヨーロッパの宗教画ですが、描かれているのは何と、府内の大友館にて

聖フランシスコ=ザビエル( 左 )が、当時21歳の豊後大名・大友宗麟( 右 )に

謁見した場面( 想像図 )なんだとか。 西洋ではこんなイメージだったんですね

豊後大名・大友宗麟に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル(市報おおいた9月号より)

来月8日、大友氏遺跡体験学習館で開催予定の戦国クリスマスイベントでは、

この歴史的、運命的な出会いのシーンを再現する演劇も上演されるそうです

( 戦国クリスマスイベントのお問い合わせは、大分市総務課537-5602まで )





大友宗麟の実像記事によれば16世紀、多くの大名が海外との交易に受け身の

姿勢であった中に居て、大友宗麟は フランシスコ=ザビエルが府内を去る際

インド総督やポルトガル国王に親書を託すなど積極的で優れた外交手腕を発揮。

それで宗麟の名と、豊後という地名がヨーロッパに広く知られたのだそうです。





宗麟が西洋人に初めて遭遇したのは、父・義鑑との確執に悩んでいた16歳の時。

ジャンク船で沖の浜瓜生島 )へ漂着した南蛮人の中にいた宣教師パウロから

キリスト教の知識も既に得ていた為、ザビエルを友好的に迎えた事も頷けます。

それにしても、若き宗麟( 義鎮 )公の麗しい事

やっぱりこのテの衣装を着こなせるのはGACKTさんしか・・・。

もし大河になったときは、宗麟役は是非ともGACKTさんに( しつこい




 



処で大友宗麟は織田信長と同時期に活躍、九州で覇を唱えた戦国大名なのに

まーりたんを含む地元の人ですら、そのプロフィールは殆ど知りませんという方が

最近まで少なくなかったのは、宗麟が心底からのキリシタン大名であったため

宗麟が亡くなった直後より始まった長い禁教の歴史の中で、暗黙の内に伏せられ、

その影すら埋もれてしまった事も、大いに関係しているのではないでしょうか





奇しくも今年、2012年は、徳川幕府の禁教令が下りてジャスト400年め。

磨崖クルスから程ない場所より54基ものキリシタン墓地跡が原形のまま

発見される
など、ビッグで不思議なニュースもありました。 400年の時を経て

ようやく誤解が解け、その功績を再び広く知られ、宗麟公も今頃はきっと厳つい

表情も綻び、にっこり笑顔で下界を眺めているんじゃないかなぁ、なんて想います





そういえば先日の大分トリニータJ1復帰も、ブルーのユニフォームの着心地は

まんざらでもなかったぞ
、という大分駅前の宗麟公からのお返事だったりして

いえいえこれは選手の皆様、サポーターの皆様方のファイトですね、すみません

 




・・・とまあ、いつもながら先人にやたら馴れ馴れしく好き勝手書いておりますが

それというのも大友宗麟公に突如、只ならぬ興味が湧いたのが昨年の秋ごろで

紀伊国屋の古書フェアで希少本・高山由紀子さんの国東物語を入手でき大喜び

宗麟の墓所や縁の地を心の向くまま訪ねていた矢先、これまた絶妙なタイミングで

大友宗麟物語~心の王国を求めて も再放送され、探究心は更にヒートアップ





大友氏遺跡体験学習館では元館長さんに詰め寄り豊後大友宗麟鉄砲隊

メンバーの方からは思いもかけず、拙ブログへ温かなコメントも寄せて頂けるなど、

無礼を承知で宗麟公を身近に感じずにはいられないワクワク怒涛の一年でした

その間、何気に購入した宝くじにも、数千円ではありますが2度ほど当選

宗麟公or記事にした先人の方が取材費を下すったものと勝手に思い込んでます

相変わらずオメデタイな~





でもって、去る10月10日、たまたまチャンネルを合わせたテレビのニュースから

再来年の大河決定の報せが飛び込んできた黒田官兵衛については、中津市で

暮らしていた子供時代に祖母から度々話を聴かされており、これまた2年程前から

急激に心を惹かれ始め、今やブログ記事をご覧の通りの身も蓋もない有様です

これはもう流れに抵抗せず、郷土史の川に身を委ねる河童になる他ないなと...






ちょっぴり早い気はしないでもないけど、週末毎に飽きもせず郷土史探訪に明け

暮れて来たこの一年を振り返り、書いてみました こうして毎回楽しく、自由に、

幸せな気持ちで記事を綴れるのは、いつも温かく見守って下さる皆様のお陰です。 

貴重なお時間を割いてのご訪問、応援、コメント、心より感謝申し上げます 





稚拙ながら読んで良かったかも、なんとなく楽しい気分になった、笑えた

そう思ってもらえるような記事が作れる様、これからも楽しみつつ、

マイペースで頑張って行けたらナと思っております

今日の大分はまたもや雨、しかも荒れ模様でかなり冷え込んでます。

皆様もどうぞ、お風邪など召されませんようお気を付け下さい









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2012/11/26(月) 19:53 | コメント:9 | トラックバック:0 |
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