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まーりたん

Author:まーりたん
大分県で暮らす四十路主婦
“ まーりたん ” の
ブログへようこそ(*^^*)♪

日々を彩る ちょっと素敵な
出来事を我が家の笑導犬?
マンジ君と楽しくお届けして
ます。目下、郷土史に夢中♪
心躍る探訪をご一緒に。

臼杵の富士甚醤油マスコット
キャラ・とっくりこだぬき君が
仲間入りしてからは、嬉しさ
余ってマンジ君の“ 悪がね ”
ぶりもますますエスカレート。

そんなふたり(2匹)の様子も
併せてお楽しみ下さい(*^^*)

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天正9( 1581 )年8月18日、立花道雪さんの寄り切り勝ち 高橋紹運さんと

宋雲尼さんの長男・統虎( むねとら )は、めでたく立花家の婿養子となります 




太宰府を後にした統虎一行の立花到着を、道雪さん以下家中総出で待ち構え、

熱烈歓迎 道雪さんの一人娘・誾千代( ぎんちよ )13歳と、統虎( 後の立花

宗茂 )15歳の結婚は、立花城下にも明るい話題となって駈け巡ります。 主家の

大友氏が衰退の一途を辿る中、この上ない慶事だった事は想像つきますネ




それから3か月後の天正9年11月には、反大友派の秋月氏・宗像氏との小金原

( こがねばる )の戦い
が起き、統虎はさっそく義父・立花道雪さんに従って出陣

するんですけど、今回はちょっとスピンオフ編で、こうした戦乱の最中、その生涯を

平和の架け橋としての役割に捧げた女性について、綴っておきたいと思います


立花家重臣の屋敷があった立花口付近

上の画像は当時、立花家重臣の屋敷が建ち並んでいた立花口付近の地図。

道雪さんのお墓がある梅岳寺を過ぎ、東の方向( 地図左下 )へ登って行くと、


立花山麓には由緒ありげな古民家が立ち並ぶ

行く手にはこんな風景が かつて筑前一の要城・立花城があった立花山頂へ

続く道の脇には由緒ありげな古民家が建ち並んでます。 辺りには屋号が立花の

商店や会社
も多くて、もしかして立花家御用人の末裔さんなのかな~などと勝手に

想像しつつ撮影したのは昨年の1月 冬空の下、楽しくも超寒い一日でした


松尾岳には道雪の室・松尾殿の御屋敷がありました
松尾岳について(案内図より)

道雪さんが出陣前に戦勝祈願していたという六所宮 大鳥居近くに設置

されていた立花山案内マップの解説に、 “ 松尾夫人 ” の名前を発見

松尾夫人は、立花道雪さんが生涯でただ一人迎えた側室・お色姫なんですね。

立花城北西に位置する松尾岳の館で暮らした事からそう呼ばれた様です。





永禄10( 1567 )年から2年間に亘る 大友氏と毛利氏の北九州覇権争いでは

毛利氏が本国での戦に備え、手を組んでいた反大友派を置き去りにして撤収

という結果に終わってしまい、反大友派は大友氏に降るほか無くなります・・・




で、毛利氏の後ろ盾のもと大友氏と争っていた反大友の筑前守護代・立花鑑載

( あきとし )を降参させて、新・立花城督に任命された戸次( 立花 )道雪さんへ、

同じく反大友派だった宗像氏より和睦目的で嫁がされたのが宗像氏貞の妹

お色( 菊花 )姫 = 松尾夫人。 ただ、半ば押しつけ的な輿入れだった事も

あってか、宗像氏からお色姫と同時に贈られた二つの土地、西郷と若宮を

道雪さんは宗像氏に突き返してしまい、これが宗像氏家臣らの不満を募らせ、

暴走させて多くの死傷者を出した小金原の戦いの火種となってしまいます




また、道雪さんは立花氏を継いだものの、自分から「 立花 」姓を名乗る事はなく

本名の 「 戸次( べっき ) 」で通したとか、やっぱり頑固オヤジですね~




そんな頑固一徹カミナリ親爺当時59歳の道雪さんに嫁いだお色姫は25歳。 

宗像氏は、元は周防の大内氏に仕えていた事から、お色姫は幼少期に大内家の

お家騒動( 1551年に起きた大内義隆が重臣の陶隆房に討たれるクーデターに

絡む )に、大友宗麟の実弟・晴英( はるふさ )同様巻き込まれてしまい、凄惨な

現場を目の当たりにした為に、美しい姫ながら心がやや不安定だったといいます。





それでもお色姫は、大友氏と宗像氏の平和の架け橋になろうと精一杯努めます。

その甲斐あって、宗像氏に限っては、耳川での敗戦以降の主家・大友氏弱体化と

共に筑前で次々と蜂起する諸氏には加わらず、警備のみ担当したそうです





立花家も、敵地に独り投げ込まれたも同然の彼女を家族皆で支えます。

側室というより養女的だったんでしょうかね、道雪さんとの間に子供は無く、

天正15年に39歳の若さで亡くなったあとは、統虎( 後の立花宗茂 )が、

お色姫の菩提寺・竹龍院に田地七町を寄進するなど、供養に務めています



高橋紹運公は三柱神社の配祀神でもあります

立花宗茂が初代藩主となった筑後柳川の 三柱( みはしら )神社には、

宗茂公と道雪さん、誾千代さんを御祭神に、歴代藩主そして宗茂公の実父・

高橋紹運さんが合祀されているんですが、その隣に青柳( 道雪室 )とあります。

多分これもお色姫( 松尾夫人 )の事じゃないかな~と勝手に推察してます




お色姫は、最初は立花山ふもとの青柳村石瓦( 古賀市青柳 )で暮らしていた

そうですが、大友氏衰退に伴う戦乱が激化し、立花城下にまで及びはじめた為

道雪さんは、お色姫を炊事場や貯蔵庫など籠城設備の整った安全な松尾丸

( 松尾岳の館 )へ、侍女らと共に避難させたとか。 優しいですね、道雪さん





女性が戦争の道具とされた哀しい時代にありながら、切なくも救われる話です。

そういうことで、今回は紹運と宋雲尼スピンオフ編でした 次回へ続きます。





紹運と宋雲尼【】【7】【番外編B】【





●参考:吉永正春著 『 九州戦国の女たち 』






本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます


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2013/10/04(金) 20:32 | コメント:4 | トラックバック:0 |


「 まーりたんは全く、ヌイグルミ使いが荒いのだニャ

ヌイグルミはフツー眺めたり抱っこしたりして可愛がるものではニャいのか

ヌイグルミに趣味の手伝いをさせる持ち主は、地球上でもまーりたんぐらいニャ

だけどお絵かきは楽しくもあり、複雑ニャ心境ニャのだ

まーりたんは全くヌイグルミ使いが荒いのだニャ!だけどお絵かきは楽しくもあり、複雑ニャ心境ニャのだ

「 マンジ君はぶつぶつ独りごとを言いながら何をしているんだろう・・・












「 ややっ、こだぬき君ではニャいか。 そろそろおやつの時間かニャ

マンジ君、その絵はもしかすると・・・

「 マンジ君はお絵描きをしていたんだね あれっ、その絵はもしかすると・・・











「 大友氏全盛期の九州は筑前かい かなりイビツで大雑把だけど、紹運さんと

道雪さんのお城の位置関係も一目で判るし、マンジ君にしては上出来だよ

01-29まーりたんの記事では分かり難い所を体系的にすすんで補佐ニャのだ

「 まーりたんの拙ニャい記事では解り辛い部分を、体系的に補佐したのだニャ









それではマンジ君の手描き?地図を参考に

高橋紹運さんの居城・岩屋城から、北西に四里ほど離れた福岡県糟屋郡

立花山の山頂に、道雪さんが筑前守護代として着任した立花城があります

立花山案内図
立花城案内図(福岡県糟屋郡新宮町)

立花城解説(案内図より)

名将・立花宗茂の義父で、筑後柳川藩祖としても知られる立花道雪=戸次鑑連

( べっき あきつら )さんは永正10( 1513 )年、大分県は豊後大野市生まれ

戸次氏は蛇神婚伝説に起源する豊後の在地勢力・大神( おおが )氏の庶流で、

道雪さんは宗麟の実父・20代義鑑( よしあき )の頃から大友氏に仕えます。





14歳の初陣以降負け知らずの勇将で、40歳の時に落雷で歩行ができなくなり

ますが、輿に乗って戦場を駈け巡り、数多くの武功を挙げます これは、配下の

武士らの尊敬を集める人望や才智も備えていた事、それにより固い信頼関係で

結ばれていたからに他なりません 実際に道雪さんの配下の武士は皆勇猛で

「 自分の配下になれば必ず高名を上げさせてみせる 」が、道雪さんの座右の銘



六所神社(立花山)

( 道雪さんが出陣前に戦勝祈願していたという立花山麓の六所神社です )

六所宮解説板



実父と継母に疎まれ、守役や叔父にも裏切られ、不遇な少年期を経て21代目

当主になった義鎮( 宗麟 )を支え、父の様な厳しさと母の様な慈愛の心でもって

教育した道雪さん
 宗麟との絆の深さは間違いなく肉親以上、計り知れません。





また、宗麟が21代目当主になって間もない頃、早くに亡くなったものの宗麟の事を

心から愛してくれた実母の里・周防の大内家で家臣・陶氏による謀反が起きます。

宗麟は大内家の次期当主にと望まれた実弟・晴英を大内家へ養子に出しますが、

陶氏と対決姿勢を露わにし周防に侵攻してきた毛利氏により、宗麟の弟は諸とも。 





毛利氏との約束を守り、宗麟の弟を見捨てざるを得ない判断を下したのは重臣の

道雪さんでした。 永禄10年、今度は毛利氏が北九州へ侵攻してきた時、弟君の

弔いの為にと、道雪さんは宗麟に第一陣を願い出、毛利氏に通じた一族を降ろし

大活躍。 戦後、宗麟から博多を支配する筑前一の要城・立花城督を任されます

立花山登山道へ

元亀2( 1571 )年、道雪さんは妻・仁志( 筑後長岩城主・問註所鑑豊の娘 )と、

57歳にして初めて授かった愛娘・誾千代、家臣その家族らと共に立花城へ着任。

立花姓を継ぎ、宗麟に付き合って剃髪し、立花( 戸次 )道雪と名乗ります。




道雪さんは入城後、ふだんは山麓の館で暮らし、館を中心に大門から立花口に

かけては重臣( 小野、由布、綿貫、十時 )達の屋敷が建ち並んでいたとか。

御花で見た柳川城下絵図と同じ姓の重臣さんたち。 由布( ゆふ )さんや

十時( ととき )さんは、大分市南部に縁が深いんですよネ・・・





道雪の愛娘・誾千代姫といえば、幼いながらも進んで父について城の見回りへ

行き、道雪と家臣たちの話を熱心に聴き、早くも女城主の器を見せ始めます。

玄海灘へ沈む夕陽を瞳を輝かせて眺め、立花山で伸び伸びと、利発に育つ

誾千代姫。 細やかで優しい心と男子にも劣らない気丈さを備え、

立花の家臣らも一目置く、美しい姫へと成長していくのでした





愛娘の充分な資質を見込んだ道雪さんは、天正3( 1575 )年5月、

七歳の誾千代に城督を譲り、立花を後継できるよう教育を施していきます 

これは離反の相次ぐ大友一族からの跡継ぎ介入を防ぐためだったとも

云われていますが、誾千代姫は父・道雪の期待に応えていくんですね。







そんな道雪さんの悩みは只ひとつ、あとは良き婿を・・・。

今は辛うじて戦乱を抑え、勢威を保っている大友氏もいつか衰退するときがくる。

ワシももう年だし、その時に立花家の運命を誾千代一人に背負わせるとなると

死んでも死に切れん・・・( 切実








「 道雪さんの予感は見事的中して、それから3年後の天正6( 1578 )年、

九州で栄華を極めていた大友氏は、日向における島津氏との耳川の戦い

境に、衰退への道を辿りはじめるんだね、マンジ君 」

九州かい?何だかいびつな形だけど、マンジ君にしては上出来だよ

「 大友氏は耳川の合戦で宋雲尼の兄ほか、優れた武将を数多く失くすのだニャ。 

そんニャ手負いの大友氏に、新興勢力の龍造寺氏がムクムクガブリニャのだ













「 厳しい時代だね...。 しかし今回は気が利くじゃないか、見直したよマンジ君

気が利くじゃないか、マンジ君。 見直したよ!

「 反大友派の国人領主達も巻き込んでの新興勢力・龍造ジシに、道雪と紹運

連携プレーで応戦するのだニャ 次回はそんニャ只中の天正9( 1581 )年、

立花ドーセツに乞われての宗茂ムコ入りエピソードを、お届け致しますニャ~












「 おや?マンジ君のフードに見慣れないお菓子が入っているぞ

チロくま 中身はマンジ君の大好物、従来の白熊チロルみたいだけど・・・

商品名も新たに、リニューアル発売されたんだろうか・・・? 」

あっ、マンジ君が大好物の白熊チロルだ。 さては、まーりたんさんからこれで買収されたんだな

「 さてはマンジ君、新商品チロくまと引き換えに地図描きを引き受けたんだな・・・。

大好物のお菓子を貰っておいて文句を言うなんて・・・マンジ君らしいや













マンジ君のイビツな一筆描き九州図をちょっと拝借して ハイ、描いたのはワタシです

元祖・白熊チロルVSネーミングもリニューアル新興勢力?チロクマ

従来の白熊チロル( 左 )に対する新興勢力・肥前の?チロくま( 右 )

耳川の敗戦を境に、大友氏の筑前筑後は龍造寺氏に蚕食されていきますが・・・

耳川敗戦後の新興勢力はチロクマではなく、肥前の熊さんです

天正12( 1584 )年、肥前のチロくま龍造寺隆信さんが島津氏に敗れたのを機に

風向きが一転。 今度は雷神&風神こと、道雪さんと紹運さんが筑後へ進出し

大友氏の旧領奪還&巻返しに奔走 しかし、この陣中で道雪さんは病に倒れ...。

宗麟は意を決し、関白秀吉さんの大坂へ( この続きは大友宗麟物語でどうぞ




秀吉さんが四国を平定後、次のターゲットを丁度九州に絞っていた戦国後期、当地

九州では大友、龍造寺、島津三氏による三巴の戦が繰り広げられてたんですね





紹運と宋雲尼【】【5】【





●参考:遠藤周作著 『 王の挽歌 』  / 吉永正春著 『 九州戦国の女たち 』

岩屋城パンフレット~玉砕覚悟の籠城戦






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2013/09/30(月) 20:04 | コメント:4 | トラックバック:0 |


思ひおく言の葉なくてついに行 道は迷はじ なるにまかせて


「 言い遺す適当な言葉が浮かばないまま、この世を去る時が来てしまった。

しかし、もう道に迷う事はないだろう。 あとは成るに任せるだけなのだから 」




慶長9( 1604 )年3月20日、黒田如水公が療養先である伏見の藩邸にて、

福岡から駆け付けた息子・長政を前に詠んだ辞世の句です。 享年59歳。



先見の明と調略家としての才を信長さんに認められ、名刀へし切を授かり、

信長さん亡き後は、忘れ形見の秀吉さんを支え、天下人へと押し上げます。

豊前国の大名となって、現役を退いた後も秀吉さんに変わらず信義を尽くし

秀吉さん没後の関ヶ原の時には豊前・中津城に居て、東軍の勝利を予見

西軍が圧倒的な九州の諸城を、心ある軍略にて瞬く間に開城、席巻した如水。


崇福禅寺

黒田如水公の廟所・博多区千代の崇福寺です。

如水公の命日にちなみ、今回は崇福寺をご紹介させて頂きます


崇福寺・博多区千代

崇福寺の山門は、福岡城の本丸表御門を大正7年に移築したものです。

鉄格子の隙間から、山門の木札に書かれた説明文を、どうにか撮影

崇福寺の山門は、福岡城本丸表門を移築したものです・鉄格子の隙間から撮ったどー♪

崇福寺は、仁治元( 1240 )年に太宰府・横岳に創建されますが

天正14( 1586 )年、豊後大友氏家臣・高橋紹運の守る岩屋城が

島津軍の攻撃で落城した折りに焼失。 後に太宰府別院として再興された

崇福寺を、関ヶ原後の慶長5( 1600 )年に筑前国主となった黒田長政が

この地、博多区千代へ移して以降、福岡藩主黒田家廟所となり現在に至ります。





山門を潜ると崇福寺の広大な境内正面奥に見えているのは本堂です。

崇福寺境内・右は心宗庵・正面は本堂

画像右側壁に囲まれた建物は心宗庵と呼ばれる塔頭( たっちゅう )。


心宗庵(解説板)

塔頭とは、高僧の墓守り用に弟子が建てた庵の事らしく、心宗庵内には少弐氏

大友氏 )が勧請した5世の方が祀られているという解釈で良いのかしら?

ご興味ある方はどうぞ、じっくりとお読みになってみて下さい


本堂の塀には、名島城から移築された唐門・福岡市内最古の唐門

本堂入り口の門は、黒田如水・長政親子が関ヶ原後、豊前の中津城から

筑前の福岡城へ移る際、一時居城とした名島城より移築された唐門。 

解説板には、福岡市内では最古の唐門との記述もありました。

 



崇福寺境内の見取り図( 文化財位置図 )です 山門手前で撮影。

崇福寺文化財位置図

本堂の奥が、歴代藩主黒田家の墓所になっていて、お寺の方に鍵を借りて

お参りするシステムです。 ここには如水公のお墓もありますが、実際に葬られて

いるのは京都の大徳寺( 龍光院の奥庭 )です。 黒田長政公が父・如水の

追福のため、福岡は博多の崇福寺にも黒田如水の廟を築いたということです

 





戦国時代を生き抜き、後世に天才軍師・黒田官兵衛の名を遺した黒田如水公。

死に臨んでは家臣らの殉死を禁じ、葬儀も質素に執り行うよう長政に命じたと

云われています。 冒頭でご紹介した辞世の句から、非常にロジカルな一方で、

常に迷いと共にあり、生涯普通の感覚を失わずにいた人物だった事が解ります。 





そりゃ、石垣原の戦いの時には 「 もしかして俺、イケるんじゃね? 」 ぐらいは

思ったかもしれません。 だけど他人や時代がどうであれ、自分を本当に満たす

ものは、権力や物質ではない事だけは清々しい程に確信していて、それこそが

没後400年以上経ってもなお、泉のように湧き出す如水の尽きない魅力であり、

天下人=ベストの考えを持った方々に畏れを抱かせた要因でもあったのかな、と。





家康の子・結城秀康までもが惚れ込んでしまったという如水公の人となり。

関ヶ原で勝利した家康さんも、戦後暫くは黒田如水に対する焦燥感を隠せず、

我が子をも懐柔して攻め込んでくるのではないか、と気が気では無かった様子。 

小説やドラマで描かれる黒田如水最後の大勝負・打倒家康!天下獲りの野望

云々は、これに尾ひれがついたものではないかな、なんて勝手に想ってます 


 


官兵衛は自分の天下構想を秀吉という素材によって、たとえ一部でも

描き終えたことに満足だっただろう
』  播磨灘物語の最終巻に添えられた

行ですが、この言葉大好きなんです 如水公もきっとそう思っている気がして  






いつもながら好き勝手書かせて頂き、申し訳ありません。

黒田如水公の命日に寄せて


路地裏探検せずにはいられません!(博多区千代)

崇福寺をコの字型に取り囲む、博多区千代4丁目の路地裏。

大都会博多とは思えない昭和の匂いが漂っていて、思わず探索








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2013/03/20(水) 18:43 | コメント:7 | トラックバック:0 |

2012年12月1日、土曜日。 約ひと月振りの土日連休に浮き足立ち

思い立ったが吉日とばかり朝8時に大分市を出発、やってきたのは福岡県

福岡市。 右手に博多湾を臨む福岡都市高速環状線を只今、若干緊張気味に

走行中です 寒空ながら、本日の九州北部地方・福岡のお天気は上々 




おや?車内からは何やら、泰造さん&ホリケンさん扮するテリー&ドリー

およそ地で行く、にわかに信じがたい中年夫婦の会話が聴こえてきますよ 

ちょっと聞き耳をたててみましょうか、アバンティじゃないけど

福岡都市高速環状線

ドリー( ウチのダンナさん )「 左に合流すんの、見えんし、こえーんだよなぁ

テリー( まーりたん )「 オニイチャンならきっとデキるよ~。 やってみ~てよ~ 」

ドリー( ウチのダンナさん )「 よーし、やってやる、今や! うおー緊張した~ 」



碧く雄大な山々、その麓からはこんこんと温泉が湧き、湯煙立ち上る豊後国

大分県で生まれ育ったこの ウツケ兄弟 中年夫婦、都会の道には不慣れです。


福岡城方面へ

決してネタではなく、本当にこの様な危なっかしい会話を交わしつつ天神を通過、

西公園ICで降り、きっと何かしらのご加護あって辿り着いたであろう福岡城址 

11か月ぶりのお邪魔です 福岡市入りする前、朝倉市太宰府市にも

立ち寄り、散策を愉しんで来たので、時刻は既に午後3時をまわってます






豊臣秀吉の天下獲りに軍師として貢献、豊前( 大分県北部 )中津市の中津城

初代城主でもある黒田官兵衛孝高( 黒田如水 )。 その嫡男・黒田長政が、

関ヶ原の戦功により、徳川家康から筑前( 福岡県西部 )52万石を拝領し、この

福岡の地に築いたのが福岡城 下の地図赤い四角で囲まれた場所です。 

福岡城は別名・舞鶴城とも呼ばれていたため、舞鶴公園と記載されてます

福岡城址(舞鶴公園・大濠公園)周辺図

黒田家発展の基礎を築いた黒田高政( 黒田官兵衛の曾祖父 )が移り住んだ

備前( 岡山県 )邑久郡 福岡村に因み、かつて福崎と呼ばれていたこの地は、

初代福岡藩主・黒田長政によって 福岡という名に改称されます。






福岡城址( 舞鶴公園 )駐車場横の三の丸に在り、二の丸、本丸へと続く

松ノ木坂 息子・長政の栄転と共に中津を離れ、名島城を経て福岡城へ

移った黒田官兵衛は、黒田家家臣の屋敷が建ち並ぶ三の丸の北西、博多湾を

臨む小丘に隠居宅を構え、奥さんの幸円さんと二人で暮らしたそうです 

銀杏に覆われた福岡城址(舞鶴公園)松ノ木坂

息子・長政に会いに行く時は官兵衛くん、この松ノ木坂を歩いたんでしょうね。

その後姿はどんなだったろう 後ろ手に少々ガニ又で、時折梢を仰ぎ見ながら

ゆっくりと...。 あ~、一句詠んで街へ消えていく吉田類さんとカブってしまう 


福岡城・三の丸解説板の向こうには国際マラソン取材の報道車

松ノ木坂登り口に建つ福岡城址・三の丸現地解説板です その左上部分、

木立ち越しに写っているのは、12月2日に開催される福岡国際マラソンの

スタート&ゴール地点となる平和台陸上競技場。 平和台陸上競技場は

福岡城三の丸跡地に在ります。 11か月ぶりに福岡城址を再訪したこの日は、

福岡国際マラソンの前日。 水色のラインが入ったワゴンは報道車です 


第66回・福岡国際マラソン選手権ゲート(平和台陸上競技場)

平和台陸上競技場入り口には、第66回 福岡国際マラソン選手権大会のゲートも

既に設置されていて、長い柄付きのモサモサマイクを担いだ報道関係者が、

せわしなくゲートを出たり入ったりしてました で、まーりたんが今いる場所は

というと、下の舞鶴公園現地解説板・赤い四角の現在地  

福岡城址・三の丸と大濠公園地図

平和台陸上競技場入り口正面には、栗山善助と並び、少年時代から官兵衛に

出仕していた家臣母里太兵衛( もりたへえ )邸の長屋門があります。

母里太兵衛邸長屋門

今年1月の福岡城址散策記事でも書かせて頂きましたが、

「 酒は飲め飲め、飲むならばぁ~ 」 のフレーズで有名な黒田節は、

この黒田家重臣( 黒田二十四騎の一人 )、母里太兵衛さんが、名将

福島正則とお酒の飲み比べをし、その勢いに任せて日本号と呼ばれる

名槍をブン取った?豪快エピソードから生まれたものなんだそうです

旧母里太兵衛邸長屋門・解説板


そういうわけで、今回はかつて黒田家重臣のお屋敷が建ち並んでいた

三の丸を散策してみたいと思います 二の丸、本丸天守台跡

ついては、今年1月の福岡城址散策記事をご覧ください







福岡城・三の丸広場入り口に建つ 名島( なじま )門

福岡城址・三の丸・名島門


黒田官兵衛孝高( 黒田如水 )・長政親子が、豊前の中津城を出て、筑前の

福岡城へ入るまでの期間、居城とした 名島城の脇門を移築したものです。

名島門・解説板


名島門を潜り抜けると三の丸広場。 黒田長政の福岡城は本丸を中心に

東・北・西を二の丸が囲み、三の丸は南方位に配されています。 

福岡城址・三の丸

しかし12月に入ったばかりなのに、この日は手袋を持って来ればよかったと

思う程の冷え込み 大手を振り歩いてると、じんじん指先から凍りつきそう







さらに歩いて歩いて、三の丸西端の大濠( おおほり )公園に到着 

三の丸を抜けると、かつての干潟を西側の要害とした名残の大濠公園


大濠公園は、その名前の通り、福岡城西側の要害として設けられた大きな

お濠の跡です 博多湾の入海になっていた潟地を利用して造られており、

その景観は、当時と殆ど変わっていないんだとか

大濠公園


寒くて夕暮れも近いせいか、舞鶴公園利用者は少ないな、なんて思ってたら

大濠公園はランナーでいっぱい 国際マラソン大会に出場する選手の方か、

健康作りや趣味で走ってる一般の方か、見分け不能なほど皆さん、真剣です

選手?一般の方?大濠公園の周りを脇目も振らず走る方たち


さて、この後もまだまだ訪れたい所があるので、あまり長居はできません。

再び三の丸広場に戻り、名島門へ向かう途中、何気に振り返って空を仰ぐと...

再び三の丸を通り、次に目指す場所へ・・・とその時

逆光で実際より暗く写ってますが、上の画像中央部分の空に彩雲らしき

ものを発見 すかさずズームで拡大してみると、こんな感じに

もしかして彩雲じゃないかしら?

仏教では、 “ 虹色に輝く彩雲はお釈迦様の雲 ” だとか、お釈迦様の

進化系?阿弥陀如来は彩雲に乗って現れる、なんて言われてますよね。 

ありふれた気象現象といえばそれまでですが、仮にささやかでも、タイミングを

見計らった様なミラクルは特に心して、感謝して受け止めるようにしてます 

写真に残せて良かった








彩雲に手を合わせた後、この日いちばん訪れたかった場所へ来ました。

三の丸北西の小高い丘の上にある黒田如水隠宅あと

三の丸 北西の小丘に在る、官兵衛くんの隠宅 “ 御鷹屋敷 ” 跡です

黒田如水隠宅・御鷹屋敷解説板


彩雲を見つけたのは、ここを目指して早足で歩いていた途中の出来事。

官兵衛くんご夫妻に歓迎されたようで、ただいま胸がいっぱい状態です

このおめでたいオツムは、簡単には修正できそうにありません

黒田如水公、ちょっとお邪魔します

再来年には大河ドラマで大ブレイク必至の官兵衛くん。

いくら中津の祖母から官兵衛くんの話を聴いて育ったとはいえ、馴れ馴れしく

呼ぶのは そろそろNGですね、これからは黒田如水公とお呼びしなくては・・・。

小丘に隠宅跡碑を見つけた時、最初に “ 黒田如水公 ” という字が飛び込んで

きて、「 そう呼んでくれても良いのですよ 」 と優しく窘められている気もしました








当時はこの隠宅 “ 御鷹屋敷 ” から博多湾がよく見えたんだそうです

博多湾は如水公の古里・播磨( 兵庫 )の海に似ていて、奥さんと二人、ここから

眺めては懐かしんでいたと、司馬遼太郎先生の播磨灘物語にありました

時は移り、今や隠宅の北側( 博多湾方面 )は高層ビルが犇めきあう大都会。

昔はこの場所から博多湾が見渡せたんですって

黒田如水公は老後( といってもまだ50代だけど )、城下町博多の子ども達を

相手に遊ぶのが大好きだったそうです。 博多の子ども達もまた、如水公を慕い、

30代の頃、有岡城で負った傷痕が顔に残る如水公を全く怖がりもせず

如水公が城下町へ降りて行けない日は、ここ隠宅まで押しかけてきてたとか

子ども達が襖を破こうとも、全く怒る事もなく、自由に遊ばせていたんだそうです。

まるで、小袖から手毬を出し、子供たちを喜ばせる良寛さんみたい

  





というワケで、博多のど真ん中を通り、次に訪れた先は・・・

天神のど真ん中、福岡市役所前を通過中



天神からいちばん近い、博多湾を臨む埠頭。

天神から一番近い博多湾


さすがに海や島影は、時代が移り変わっても

そうそう変わるものでもないし・・・

播磨の海ってこんな感じだったのかな?

福岡城・三の丸の御鷹屋敷からは、こんなふうに見えていたのかな?

播磨の海ってこんな感じなんですか?如水公








埠頭へ到着する前に、黒田如水公のお墓がある博多区千代の

崇福寺も訪ねましたが、長くなりましたので、ご紹介はまた追々に




実のところは、先月11月29日、黒田如水公の誕生日に突如閃いた

今回の黒田官兵衛の幻影を追っかける福岡県の旅

ささやかなミラクルに中年女子のハートをときめかせつつ、続きます









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2012/12/02(日) 23:10 | コメント:6 | トラックバック:0 |

名島城址を後にしたまーりたん一行は、次の目的地 立花山へ向け

ただいま福岡市東区を北上中です ここは東区唐原一丁目にある

JR鹿児島本線 九産大前駅(きゅうさんだいまええき)。 

九産大前駅

なのに、道路を隔て斜向いのファミリーマートは九産大駅前店

ファミマ九産大駅前店

ん?JR九産大前駅の前にあるから九産大前駅前店ではないの

あ、そっか 『  』 が二つも付いちゃ、ややこしや~だもんネ

などと、どーでも良かれな事を巡らせつつ九州産業大学方面へ右折








福岡県糟屋( かすや )郡 新宮( しんぐう )町に入りました

立花山の中腹に位置する明治6年創立の 新宮町立 立花小学校 

新宮町立・立花小学校

標高367mの立花山は新宮町、久山町、福岡市東区にまたがり

山頂には中世、豊後府内( 大分県大分市 )を拠点に九州6か国

( 豊前、豊後、筑後、筑前、肥前、肥後 )を治めていた大友宗麟

代表される大友氏6代貞宗の次男 大友貞載が1330年に築城した

立花城跡があります  歴代城主の中でも有名なのは大友家重臣 

立花道雪( たちばなどうせつ ) = 戸次鑑連( べっきあきつら )。

立花城古地図(新宮町)
( 立花城古地図・画像は新宮町のホームページより )




永禄期、旧領地継承を理由に広島の戦国大名・毛利元就が九州へ侵攻

反大友の豪族らと手を組んで合戦となり、立花道雪( 戸次鑑連 )さんら

豊州三老と呼ばれる大友氏の重臣たちが活躍し、毛利軍を撃退。

その武功を讃え、宗麟は立花道雪さんを、博多湾を見下ろす筑前一の要城、

立花城督に任命したのでした 戦国時代は日々こうした領地の

切り取り合戦の連続 宗麟公が心の安らぎを求め、

フランシスコ=ザビエルの言葉にウットリしたのも解る気がします









立花山 登山口近くの立花酒店 ここら辺はやはり立花姓が多い

立花酒店

立花道雪は宗麟と共に出家の折、名を 鑑連から 道雪 へ。 

立花城督を任されると同時に、宗麟から立花姓を許されてます







実の父親から廃嫡を企てられた宗麟を支え、大友家に謀反を起こした家臣を

討ち、宗麟に21代目家督を継がせ厳しく教育更に周防大内氏の弔い合戦と

銘打ち、毛利氏・龍造寺氏と戦い、 宗麟に付き合って出家まで

大友氏の義烈な重臣で、名将としても名高く、宗麟にとっては間違いなく

肉親以上の存在だっただろう道雪さんも1585年、73歳で病没します






道雪さんは死の間際においても忠実で 「 我が躯に鎧を着せ、

島津に首(こうべ)を向け埋葬せよ
 」 と家臣に命令 


「 島津に勝つ為には、羽柴秀吉に援軍を頼む

しかありません
 」 と 宗麟にアドバイスしたのも道雪さんらしい...。 


史跡文化財・梅岳寺

立花山登山口に建つ曹洞宗 立花山 梅岳寺(ばいがくじ)

創立は1385年、室町幕府の三代将軍・足利義満の時代。

立花道雪は このお寺で、母親と一緒に眠っています

梅岳寺


九州征伐の際、秀吉が豊後( 大分県 )へ派遣した先発隊を活かせず、

島津軍に本拠地の府内( 大分市 )まで侵攻を許した大友氏は宗麟の没後、

22代義統の代で改易となりますが、対照的に大友氏重臣・立花家は

道雪の娘( ぎん千代 )の婿・立花宗茂( たちばなむねしげ )が立花城にて

島津軍に応戦、撃退したために、大友氏から独立した大名に取り立てられ、

筑後十三万石のお殿様として柳川城へ栄転 立花城には秀吉さんの

お気に入り大名・小早川隆景が入城、名島城へ移る迄の居城とします 

ようこそ立花山へ

しかし関ヶ原では、秀吉さんへの恩義から立花宗茂は西軍に付きます。 

京極高次の大津城攻めに時間をとられ本戦に臨めず、柳川城へ戻り籠城

東軍・佐賀の鍋島氏に攻められる中、黒田官兵衛加藤清正の説得工作で

宗茂は命を落とす事無く開城降伏。 官兵衛くんも清正公も、だからスキ





しかも、立花宗茂は後に家康さんからその器量を買われ、若干23歳で

天下無双の大将として太鼓判を押された上、柳川城主に返り咲くという

なんともラッキーというか、ご加護ある生涯を送った方の様です 

大友氏についても官兵衛くんが宗麟の孫・義乗をサポートし、徳川家の

大臣旗本に推した事で、改易はされたけど名門の名は遺せたんですネ 











立花道雪が出陣前に必ず参拝したという六所宮( ろくしょぐう )

六所宮鳥居

筑前風土記による由来は太古、伊邪那岐命の禊祓いによるもので、

神代の昔から天照大神が鎮座していたそうです

のち、春日大神、熱田大神、賀茂大神、宇賀大神、貴船大神等近くの

産土神をあわせ祀り、六所大権現と称されるようになったとか。








大きな鳥居をふたつ潜って、石段を上がった所に拝殿があります

六所宮拝殿


拝殿の後ろには更に急こう配の長い階段があり、その上が神殿。

すでに神殿にお参りを済ませ、階段を降りていく家族連れをパチリ

階段を降りて行く家族連れ

う~、目眩がしそう










小ぶりながら気品漂う六所宮の神殿です

六所神社神殿

立花道雪さんが信仰した六所宮の神様、初めまして。 こんにちは

私は大友宗麟公と同じ 府内( 大分市 )生まれで

黒田官兵衛くんがお城を築いた福岡県と大分県の県境 豊前国

( 中津市 )で育った者です  ・・・とアピールしつつ、ご挨拶

ここまで無事に導いて下さってありがとうございます








福岡城  名島城  立花城 と、関ヶ原後の

慶長時代から中世へ時間を遡りながら、大分県と繋がりの深い

先人の方々が築城されたお城や史蹟レポを、稚拙ではありますが

連載でご紹介させて頂きました 楽しんで頂けましたでしょうか 



このあとは福岡市内へ戻り、ヤフードームや福岡タワーのある百地

( ももち )海浜公園
を散策して、JR博多シティへ向かいました











おまけのご紹介です

先日、ウチのダンナさんが明野アクロスの紀伊國屋書店で

仕入れてきた古書 『 記録写真集 二豊今昔 』 

いま、古書フェアやってるみたいです

記録写真集・二豊今昔

これによると、大分市の鶴崎踊りの始まりは、なーんと

立花道雪さんから。 1530年の永禄時代、大友宗麟の為に

道雪さんが京都から舞妓さんを呼んで踊らせたのが始まりだそうです 

さすが宗麟公は御曹司戦国大名だわ~







●参考 : 双葉社 格付け戦国100大名 ・ ウィキペディア立花山城

    新宮町、立花小学校ホームページ ・ 現地解説板

    別府郷土史文化研究会発行 志多摩一夫著 二豊今昔









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2012/02/01(水) 17:10 | コメント:13 | トラックバック:0 |

ここは福岡市東区名島3丁目。 博多湾へ注ぐ多々良川に近い

にしてつ貝塚線 名島( なじま ) 駅です 

名島駅

まーりたんがこれから向かうのは、大友宗麟に代表される大友氏庶流

( 分家 )の立花鑑載が築城したという 名島城(址) 

大友氏の後、名島城は毛利元就の三男で、秀吉のお気に入り戦国大名

小早川隆景により改築され、隆景の養子・小早川秀秋へ受け継がれました 






その小早川秀秋は関ヶ原の際、黒田長政の工作で東軍に付き勝利し、

領地を筑前30万7千石から51万石に加増されて、備前岡山のお殿様に

名島城は黒田長政が引き継ぎますが、福岡城の竣工と同時に役割を終え

廃城。 福岡城には 名島城から移築された名島門 が遺されています 

名島駅で見せて頂いた地図

名島城址の場所が解らず、名島駅前で路頭に迷っていた まーりたん に


「 名島城址の看板は出ていませんので、

これをどうぞ ご覧ください
 」 と、

名島駅の親切な駅員さん が見せて下さった名島駅周辺地図

ピンクの蛍光ペンで塗りつぶしている所が現在地、名島駅です






「 すいません、県外から来たもので 」  

名島駅へ駆け込み 方向オンチの言い訳をしながら必死に名島城の

ありかを尋ねる まーりたんに、名島城址までの道順を繰り返し丁寧に

教えて下さった駅員さん、本当にありがとうございました 

地図を撮れば済む事に、最後の最後に気付く私って~

都市高速の下・名島城へ

名島駅前から箱崎方面へ一つ目の信号を右折し、あとは直進です

で、都市高速の下を潜れば・・・


 

セブンイレブン 福岡名島一丁目店に到着

セブンイレブン福岡名島一丁目店

名島城址のある丘陵は、セブンイレブン 名島一丁目店駐車場の向かい側。

パンと飲み物を買って、10分ほどクルマを置かせて貰いました







名島城址は、高台の閑静な住宅地の中にあるモヨウ。

早足で坂を登っていくと、初めて看板らしきものを発見

高台の住宅地へ続く道

城山道( しろやまみち )

『 愛称の謂れ 』

名島城の 「 本丸 」 があった

城山道

・・・と記されてます。 その隣には名島城郭の簡易絵図











城山道を登り切った場所には古墳みたいな台地がありました。

どうやらここが名島城址のようです

名島城址公園四阿新築工事中

が、フェンスは閉じられていて先へは進めません なんと

3月15日までは名島城址公園の整備工事中

立ち入り禁止ですって 生卵や座布団はどうか投げないで~

樹木を植えるための工事期間中

名島城は、歴代城督に大友家の重臣立花道雪( =戸次鑑連 )

を持つ立花山城の出城として築城、機能していました  

立花山城跡のある立花山 ( 福岡県 新宮町 ) も

このあと訪ねました 次回ご紹介予定です  








筑前國続風土記の記述などを基に名島城の概要を記したサイト

『 名島城 』 によれば、名島城の所在地は福岡市東区名島一丁目

( 旧筑前国糟屋郡 )。 三方位を海に囲まれた標高26mの小さな山に

あり、築城主は大友氏6代貞宗の子、大友貞載の子孫一族の立花鑑載。
 
名島城古図
※絵図の拡大はこちら




先ほど歩いてきた城山道のあたりが本丸で、他二の丸、

三の丸、南丸で構成されていた様ですが、今はその殆どが市街地化

されており、遺構は僅かだそう。 上下名島城絵図、名島城跡碑

の画像は、よかとこBY福岡県徹底探険隊・名島城址より拝借

名島城跡の碑


1592( 文禄元 )年と1597( 慶長2 )年の2度に渡る秀吉の朝鮮出兵

( =文禄・慶長の役 )の際には、淀君を伴い秀吉が宿泊した

事でも知られる名島城。 調べていたら、秀吉が名島滞在中かつて沖合に

あった小島・妙見島で開いた茶游会で使用したという井戸の写真が

太閤秀吉茶遊井戸跡
( この画像は ふるさとナビ(fujino@古賀) よりお借りしました )







秀吉さんのお気に召さなかったのか、今回は城址公園整備中のため

名島城址へは入れず仕舞いで、次なる目的地へ向かったまーりたん 

それでも本丸跡( 城山道 )までは行けたし、ま、良しとしますかネ








次回は、過去記事臼杵城(址)登城記おまけ 『 ソーリンくんと立花くん 』

こだぬき君が熱演した立花道雪縁の地をご案内させて頂く予定です

香椎方面へ・立花山(新宮町)

予定は未定ではありますが どうぞお楽しみに










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2012/01/27(金) 20:11 | コメント:8 | トラックバック:0 |


「 中津城の あ!官兵衛くん と、熊本城の

ひごまるくんを福岡ドーム本丸にご招待ニャ
 」

今はヤフードームだよ

「 福岡ドーム今はヤフードームだよ、マンジ君。

それに本丸があるのはドームじゃなく、お城だよ
 」















「 ところで随分昔の福岡土産だね、どこに仕舞ってたんだい

それとも またデロリアンで過去から持ってきたのかいマンジ君 」

福岡ドーム・アッシュトレー

「 官兵衛君、ひごまる君、お次は天守台ニャ 」















「 眺望はいかがですかニャ~ 」

天守閣に招待するニャ

「 福岡城レポに夢中になってる時の まーりたんさんそっくりだ・・・。

今のマンジ君には何も聴こえていない 」















こちらは国指定史跡 福岡城跡 天守台からの眺望です

福岡タワー・ヤフードーム方面

まーりたんは今、博多湾に面した百道( ももち )方面を臨む天守台の

北西端に仁王立ち。 福岡タワーヤフードームも見えてます















インカ遺跡みたいな天守台への通用門、鉄( くろがね )御門跡

抜けると、大天守跡( この場所 )へ続く階段が設けられてます

天守台への階段

ジャングルジム気分でよじ登れば、ぐるり目前に拓ける大パノラマ

ここから眺める夜の景色もまた素晴らしいだろうな











福岡城を築いた黒田長政の父、黒田官兵衛孝高( 如水 )の生涯を

描いた小説 播磨灘物語の中に 『 官兵衛は桔梗の花を好んだ 』

というくだりがあります 小寺藩の一番家老として まだ姫路に居た

若かりし頃の官兵衛くんは、 “ 桔梗の花は、空が地上に

降りて野に咲いたものだ
 ” と表現し、空の深い青を

映した様な、桔梗色の小袖を好んで身に纏ったと云いますマァ 




そういえば、中津のからあげ侍もブルーの小袖スタイルだったっけ

キキョウの天の川
( 昨年秋、大神ファームゲストハウス前にて撮影した桔梗の花畑 )




『 官兵衛は聡明で、田舎ぶりながらも貴公子といった印象。 利欲の

念が薄く、豪族や資産家たちとの低俗な雑談が大の苦手。 戦国の世で

のし上がるための資質に欠けており、それは生涯を通してのものだった 』 

と、司馬遼太郎さんは著書 播磨灘物語 で綴られてます 








官兵衛くんは自らの才略には自負があり、コネクションを駆使し、

織田信長に謁見 有能と見れば身分を問わず引き抜く事でも

定評があった織田信長に、官兵衛くんは羽柴秀吉を紹介されます

そんな中、自分を信長に取り次いでくれた武将・荒木村重が信長に謀反。

村重を救うため、単身で説得に向かった官兵衛くんも囚われの身に













福岡城 大天守台跡の礎石

大天守台跡・礎石

天守閣の有無については議論されているものの、仮に存在したとすれば

天守台の礎石や石垣の規模から考え、5層式の大天守閣で、

東側に中天守、小天守もあったと推定されています



大天守復元図 ( 現地解説板より )

大天守復元図


ダイナミックに積まれた石垣にリアルな “ のみ ” の跡を発見
 
のみで削った跡


一年間にわたる幽閉生活の中で、官兵衛くんは片足の関節を病み、

頭部は皮膚病にかかり、例えてるならブラックジャックみたいな風貌に

変わり果ててしまうんですね そのうえ掛け替えのない友まで亡くし

大きな挫折を味わう事になるのですが、同時に この孤独な時間は

官兵衛君の品性を更に磨きあげ、老成させる重要な過程でもあったんです

まぁ、紳士は損をしがちというのは昔から大体決まってますから
 







ハングリー精神に欠けるヤワなロマンチストかと思いきや、根底には

自らの才に対する絶対的な自信と、夢を確実に現実化するための

構想を練る力も兼ね備え、それでいて引くべき時にはスッパリ潔く引く。

ときに走れメロスを地で行く様な愚直な突っ走りもやり、そんな自分を

客観視してはあざける皮肉屋さんな一面も持っていた黒田官兵衛くん

もぅ、ストライクです







いいえ、まーりたんだけではないんですよ

播磨灘物語の最終巻で、司馬遼太郎さんも官兵衛くんのことを


「 親友に持つなら、こんな男がいい 」 


と、言い切っていらっしゃいます


埋門跡

大天守から一段降りた場所にある埋門跡


埋門跡を潜ると大木がうっそうと生い茂る杜。 根っこが凄いです

埋門跡を潜ると

あっ、杜の中を行く青い小袖のアナタはもしや

二の丸から天守台まで先導してくれた2匹のカラスくんを威嚇し

さっき木の根っこに躓き、転びかけたウチのダンナさんです









ウチのダンナさんが向かう先、福岡城 南丸にあるのは多耳櫓

多耳櫓
( 多耳櫓の写真は現地解説板より )


多門櫓は福岡城にある47の櫓のうち、当初から現存している唯一の櫓で

弓矢を放つ穴や石落としを備え、国の重要文化財に指定されてます









黒田官兵衛孝高( 如水 ) の息子・黒田長政が築城した福岡市

中央区にある福岡城(跡)のご紹介はこれにてお開きとさせて頂きます 






続いては福岡市、東区にある 築城は大友氏の庶流 立花鑑載、拡張

工事は秀吉の五大老 小早川隆景、黒田親子が中津城から福岡城へ

移る際に一時居城にもしていた名島城跡をご紹介・・・と行きたいところ

なんですが、長くなりましたのでまた次回という事でご了承下さい

福岡市東区名島一丁目

名島城址は、この高台の住宅地にありま~す






●参考:福岡城址現地解説板 ・ 司馬遼太郎著 『 播磨灘物語 』








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2012/01/23(月) 17:46 | コメント:6 | トラックバック:0 |


さて、今まーりたんが居る場所はと云いますと

国指定史跡 福岡城( 址 ) 松ノ木坂御門跡
  
松ノ木坂御門跡


赤いマークの現在地です

福岡城郭図(天守)
( 現地解説板より・福岡城郭図 )


これより福岡城址本丸の天守台を目指し、

福岡城築城主で 戦国大名の黒田長政と、その父 

中津城初代城主で、同じく戦国大名・黒田官兵衛孝高(如水) 

親子についてのお話をしつつ、のんびり散策してみたいと思います

宜しければどうぞご一緒に









登ってきた坂道を、松ノ木坂御門跡より振り返ってみました

駐車場を見下ろしながら坂を上がる

舞鶴公園の駐車場、その向こうに見えるのは平和台陸上競技場、

かつての三の丸です 鴻臚館( こうろかん )遺跡もあの辺り







前編でご紹介した旧母里太兵衛邸長屋門、名島門、下の橋 大手門、

伝潮見櫓も松ノ木坂御門の下。 では二の丸、本丸、祈念櫓方面へ 

二の丸、本丸跡へ

黒田くん、お邪魔します







初代は源頼朝の重臣で、豊後国の守護を任されたのち四百年続いた

正真正銘、名門出の戦国大名 大友宗麟公と比較すれば

黒田官兵衛長政親子に代表される黒田家は割とノーマル




官兵衛くんは姫路城で生まれますが、官兵衛くんの父や祖父の代は

近江から備前( 岡山県福岡 )を経て、播磨( 兵庫県姫路 )へ漂着。

ただ、黒田家が恵まれていたのは品性と才覚でした

これにより人に引き立てられ異例の出世 父、官兵衛( 如水 ) は

豊臣秀吉の名参謀役として異才を発揮。 息子、長政は関ヶ原の戦いで

西軍の武将達を寝返らせる交渉役として活躍し、家康に賞されます

その後も長政は、56歳で亡くなるまで徳川に忠実に仕えました。





晩年は博多の子ども達を相手に穏やかな日々を過ごしたという長政の父、

黒田官兵衛( 如水 ) 現役時代は自分が見込んだ主君の為に

アンダーで奔走 豊後を追われた大友氏にも助け船を出してます





権力者を通し自らの才覚で世をどれだけ動かせるか、そして一度は

天下獲りの野望も持ったとかどうとか...。 官兵衛くんは品性にも優れ、

人望厚い知性派。 中途半端な欲を持つぐらいなら一切を禁じる的な

ストイックささえ感じる戦国時代には稀な、紳士的でクールな武将で

ありながら、一方では、友情や信義のためなら我が身を省みず突っ走る

不器用な熱血漢でもあり そこがまた、たまらなく魅力的です 




  





現在は梅園として整備されている福岡城址、二の丸跡

福岡城二の丸跡梅園
二の丸梅園・長政について

黒田長政は秀吉の秘書官、石田三成を憎んでいたと云われています 

秀吉の側近として素晴しい働きをしていた父、官兵衛の失脚は

三成くんの画策だと思ってた様なんですね。 父、官兵衛に比べると

人間的にスケールが小さく、武断派だったとも言われる黒田長政

関ヶ原で黒田長政は、西軍( 石田三成軍 )を打ち破りますが、

それ以前に福島正則加藤清正らと、石田三成を襲撃しています。

よっぽど三成くんが嫌いだったのかしら






しかし関ヶ原の合戦後、黒田長政は 敗北した石田三成を前に、

乱暴な扱いはせず、馬を降り敵軍の大将として礼節を示したと云います

さすがは官兵衛くんのご子息、充分ご立派です 

わたしゎなにさまダ







豊臣秀吉は官兵衛君を同志の様に信頼する反面、油断をすれば

天下を獲られてしまいそうな不気味さも感じていたと言われてます。 

実際、秀吉の九州平定に大貢献した官兵衛を九州へ追いやった挙句

秀吉は豊前中津16万石を与えただけでした・・・ 







官兵衛くんは朝鮮出兵の際、体調不良を口実に一度帰国しています。

秀吉の命で再度朝鮮へ渡るものの、今度は囲碁をして三成を待たせるなど

わざと秀吉の怒りを買う行いをしてます。 息子・長政の武功に免じ許され

ますが、厳罰に処されても構わないほど官兵衛君は朝鮮の侵攻、そして

秀吉さんの傲慢さと疑り深さに、いい加減嫌気が射してたのかな


二の丸跡・扇坂

福岡城( 址 )二の丸から本丸へ続く扇坂



福岡城の石垣

扇坂の両脇を固める石垣( 左側 )

積み石の大きさは、これまで見てきたお城の中で一番かも

石垣とタバコ

タバコの箱を隙間に置いてみました 何処だか分かります










扇坂を登ると本丸( 現在は桜園 )の入り口、表御門櫓跡

表御門櫓跡

本丸北側の庭には、公式政務を執り行う表御殿と、城主のプライベート

空間・奥御殿を合わせた本丸御殿が造営されていたそうです

本丸御殿だけでは狭いため、後に二の丸と三の丸にも御殿を増築。
 

現地解説板に福岡城本丸御殿の平面図がありました。

福岡城本丸平面図

上の画像、右下の青い屋根の櫓が 表御門櫓です



表御門櫓・古写真

表御門櫓の古写真も遺ってました 当時の門は大正7年

黒田家の菩提寺( 臨済宗大徳寺派崇福寺 )の

山門
として移築され、現存しています( 県指定文化財 )。








天神方面を臨む、本丸北東端には 祈念櫓

祈念櫓

鬼門封じに建てられた櫓で、僧徒が交代で詰めていたそうです。

祈念櫓は大正中期に一度、北九州市八幡東区にある大正寺へ移築。 

昭和59( 1984 )年に現在地へ戻されたものの様式が大きく変化し、

床の規模も当初の4分の1ほどになったとか 

祈念櫓跡から天神方面を臨む

柵で囲まれた祈念櫓の外に御祈念櫓跡の標。 床はこの辺りまで









再び本丸御殿の方へ降り、いよいよ大天守跡へ。

福岡城天守台

中津で暮らしていた頃、まーりたんを可愛がってくれていた祖母

大好きだった官兵衛くんご子息のお城なだけに、ついつい長話になって

しまいました お付き合い下さり、ありがとうございます


鉄御門跡

天守台へ続く鉄( くろがね )御門跡





福岡市中心部を一望する天守台からの素晴らしい眺望は次回、

名島城址レポと併せてお届けしたいと思います



●参考:福岡城跡現地解説板・ウィキペディア-黒田長政-






 
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2012/01/21(土) 06:34 | コメント:10 | トラックバック:0 |


「 黒田くーん、中津城を去ってしまったアナタを

追いかけて私、福岡まで来たわ~
  」

福岡市中央区

ここは福岡県福岡市中央区。 午前10時20分に大分ICから高速に乗り

約2時間で本日最初の目的地、福岡城址( 舞鶴公園 )へ到着

この日( 2012年1月15日 )のお天気は薄曇り、のち晴れました







明治通りを大濠公園方面へ走り、大手門バス停を過ぎたところで左折。

お濠( 下の橋 )を渡ると右手前方、石垣越しに見えてくるのは下の橋

大手門
( 2008年11月復元 )。 その先には昭和31年に黒田別邸

より再移築されたという、二重二階入母屋造りの伝潮見櫓。 

下の橋大手門・伝潮見櫓

でもって、伝潮見櫓の奥には、旧母里太兵衛邸長屋門

・・・があるんですヨ ここからは見えなくてゴメンナサイ

 



母里太兵衛=母里但馬守友信( もりたじまのかみとものぶ ) は、

黒田家の重臣・黒田二十四騎の一人 





これは九州もんにはあまりに有名なお話ですが、母里但馬守友信は、

福島正則より勧められた酒をイッキ飲み干した褒美に名槍・日本号

( 福岡市博物館所蔵 )を授かったそうで、この逸話に因み作られた

民謡が 「 酒は飲め飲め 」 でお馴染みの 黒田節です。





まーりたんの実家にも、立派な槍と赤い盃を持った羽織はかま姿の

ガラスケース入り武士人形があったっけ・・・。 物心ついたばかりの

まーりたんにも認識できたほどイケメン風だった黒田武士のモデルは

福島正則か、母里太兵衛か、はたまた長政か未だ謎だけど・・・

下の橋大手門

下の橋大手門 ( 画像上 ) と名島門 ( 画像下 )

名島門
( 下の橋大手門と名島門の写真は現地解説板より )



名島門( なじまもん )は、旧母里太兵衛邸長屋門の西に在り、

黒田長政が父、黒田如水と共に福岡城へ入る前に一時居城としていた

名島城の数少ない遺構の一つで、家臣の邸宅門として使用されました。

この日、福岡市東区にある名島城址も訪ねましたので、お楽しみに









さて、これだけ黒田を連発すればもうお分かりですよね

そうです 

福岡城は、大分県中津市に中津城を築いた兵庫出身の戦国大名で、

秀吉に天下を獲らせた名軍師と謳われた 黒田官兵衛孝高

( 出家後は黒田如水 )の嫡男、黒田長政が関ヶ原の戦功によって

建てたお城で、築城は慶長6年( 1601年 )より7年の歳月をかけてます 

官兵衛くんの息子・黒田長政は、豊前中津十二萬三千石から何と

筑前五十二萬三千石のお殿様になったんですね

 





また、かつて福崎と呼ばれていた博多湾を臨むこの地を、黒田家の出所とも

される岡山県の地名をとり、福岡と名づけたのも黒田長政だそうです

福岡城天守閣復元CG

上の画像は現地解説板に描かれていた福岡城天守復元図




内郭は天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層造り。 47の櫓が在ったと云われ

広さは福岡ドーム6個分( 約41万㎡ )。 鶴が羽を広げた姿に似ている

ことから別名舞鶴城とも呼ばれました ウィキペディア-福岡城- に

よれば、最古の絵図に天守は描かれていないため、徳川幕府への遠慮から

“ 天守は造られなかった ” とされていましたが、黒田長政の後、

中津城主
となった細川忠興の手紙には、天守の存在を窺わせる

記述があり、 “ 幕府への貢献の為に取り壊した ” という説も












突然ですが、このコは福岡市花と緑のマスコットキャラクター

グリッピちゃんです カワイイ

福岡市花と緑のマスコット・グリッピとなかまたち


福岡城駐車場 ( 平和台陸上競技場そば ) の

トイレ前にいらっしゃいました

福岡城のトイレ


で、そんなまーりたんが今居るのは赤いマークの現在地

舞鶴公園周辺案内図380

平和台陸上競技場の右側に 鴻臚館( こうろかん )跡

展示館
 と記されているのがお分かりになりますでしょうか









もと福岡城三の丸東方の一画、旧平和台球場のあたりには、古代

( 太宰府政庁時代 ) 、日本国家の外交、交易施設兼、迎賓館として

使われていた 鴻臚館 と呼ばれる建物があったそうなんです

下の画像は現地解説板に描かれていた鴻臚館想像復元図

鴻臚館想像復元図

古代の外交施設 鴻臚館( こうろかん ) は

平安京( 京都 )、難波( 大阪 )、筑紫( 福岡 )の3か所に

置かれていましたが、現在その場所が確かめられ、遺跡も

残っているのはここ、福岡の鴻臚館跡だけ
との事 

 





下の画像は鴻臚館跡展示館 ( 現地解説板より )

鴻臚館跡展示館

福岡県民の皆様からは 「 常識じゃん!  」 というお声が

聴こえてきそうですが、鴻臚館は日本百名城八十五番の

福岡城とセット
で見学すべき史跡みたいです 肥後の太守

加藤清正公没後400年を記念して昨年、見事に復元を遂げた

熊本城に習い、福岡でもNPO団体による鴻臚館を含めた

福岡城の天守を復元する運動
が展開されているそうで、

次回ここを訪れた時はどうなっているのかな何だかワクワクします









福岡城へ来るまでは、恥ずかしながら鴻臚館の事など全く知らなかった

まーりたん 真名野長者伝説の次は大友氏遺跡に夢中になり

今回は愛しの官兵衛君に会いたくてココへ来たら鴻臚館遺跡へ導かれ

何だか遺跡にオイデオイデされてる気がする今日この頃デス










次回、後編では、現在は市民の方々の憩いの場、舞鶴公園の一部として

整備されている福岡城址を散策しながら黒田官兵衛孝高( 如水 )

息子長政黒田親子についてお喋りしてみようかなと思います

舞鶴公園(福岡城・松ノ木坂御門跡へ続く坂)

宜しければ引き続きお付き合い下さいませ





福岡城址へ登城しないまま前編を終えてしまうというこの状況

ま、いいか 










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2012/01/18(水) 19:24 | コメント:12 | トラックバック:0 |


1月15日( 日 )の夕暮れ時、まーりたんJR博多シティなぅ



なんかしらネットユーザーの間で流行っちょるごとある

『 ~なぅ( 私は今○○です の意 ) 』 

大分県人まーりたん、遅ればせながら どげえか大分弁で

どうにか 」 )なぅを使う機会に恵まれ、勝手に満足しております  

只今JR博多シティなう

昨日は早朝に大分市を発ち、福岡県へ史跡めぐりに出かけたものの、

訳あって夕刻、福岡市内中心部 JR博多シティ に出没

時刻は17時半。 

愛馬プリウスは東横イン傍の交通センター前パーキングに入庫。



昨年3月九州新幹線鹿児島ルート全線開業に合わせてオープンした

新駅ビル JR博多シティへ 只今徒歩で向かっている途中です








地下3階、地上10階建ての新駅ビルの中には、とんでもない数の

商業施設が各階、まるで碁盤の目みたいに張り巡らされており、

さすがは花の福岡城下町博多 私は一体何時代の人だ 








夕食の時間にはまだ少し早いので、JR博多シティ屋上に設けられた

つばめの杜ひろばへ来てみました。 ここには、博多区

住吉
の住吉神社から分霊した 鉄道神社 があり、表参道には

九州の地名を屋号にした店が軒を連ね、複数の鳥居や手水舎までも

とても地上60mのビルの屋上とは思えない、懐しくて新しい空間です

つばめの杜ひろばの表参道

甘草屋 に 玉名屋、そして暖簾に 由布院屋と書かれた

お店も発見  何が売られているのかな~

由布院屋も発見!

とくに大分県や由布院の産品、食材に拘っているワケでもない様子。

屋号だけか・・・。

心安らぐ佇まいの ごく普通の おでん屋台 でした 









鉄道神社本鳥居です
 
本鳥居(鉄道神社)

鉄道神社の本鳥居に至るまでにくぐる 3つの鳥居にも、それぞれ 

星門( 一の鳥居 )、福門( 二の鳥居 )、夢門( 三の鳥居 ) 

という素敵な名前が付けられておりました 











コチラは アート 縁結び七福童子  ( 籔内佐斗司作 )。

縁結び七福童子

玉砂利に浮かぶ九州の上で、七人の童が電車ごっこに興じています

どこかしら妖怪っぽくもあり、顔を近づけ童子たちの表情や動きを

じーっと見つめていると、暫し異空間へ迷い込んだ気分に













鉄道神社の本鳥居周辺には、九州鉄道建設の大恩人

紹介されていたヘルマン・ルムシュッテル氏のレリーフも。

九州鉄道建設の恩人ヘルマン・ルムシュッテル氏の記念碑

1846年、ドイツ生まれ。 1886年( 明治19 )年に来日し、

九州鉄道の建設、経営を指導。 そうですか、九州鉄道を隆盛へ

導いて下さった祖
でいらっしゃるんですね














これはもしや、酒蔵や旧い居酒屋さんなどの軒先で見かける酒林

( さかばやし )
大きな杉玉ばかり見上げてたんですが、

杉玉を提げている柱の歴史を知り、更にびっくり

百年前の博多駅ホームの柱には杉玉

鉄道神社の表参道と、手前の空間 ( 天空の広場 ) を隔てるこの

3本の柱は、100年前の二代目博多駅ホームの柱ですって 














表参道を見下ろす位置に設けられた展望スペースから

展望スペースからは福岡空港

東の方角には絶えず飛行機が離発着する福岡空港が見えます

画像中央に写っている横長の細い光は、着陸態勢に入った飛行機。

カメラの性能 ( まーりたんのウデ ) 上、これが限度です














JR博多シティ屋上つばめの杜ひろば には、子供たちを

乗せて天空の広場を周る電動ミニSLつばめ電車が走ってます。 

この日はもう終了してましたが、可愛らしいきっぷ売り場と線路をパチリ

ミニトレインつばめ電車の線路と切符売り場


天空の広場の壁一面には、これまた味わい深い 陶板アート

アートの森の陶板

一枚20センチ四方の陶板に、市民の方々から一般公募した絵を転写。

発案者の日本画家・千住博画伯が木の幹や枝を描き、それにレイアウトし

仕上げられたもので、陶板の総数は約5万4千枚。 有田焼だそうです 



 








さて、そろそろ約束の時間ですので、JR九州の観光特急

“ あそぼーい! ” のイメージキャラクター兼、阿蘇駅の

名誉駅長でもある くろちゃん にご挨拶をして、階下へ

くろちゃん


ターン部分が車輪になったエスカレーターを発見

ターン部分は車輪になってました

写真を撮っている人は殆どいませんでしたが、まーりたんは初めて見た

もので、これもパチリ いーんです、田舎者と思われようが

引くなり笑うなり好きにしちょきよ













イルミネーションで美しく彩られた駅前広場を横目に、目指すは

JR博多シティに隣接する 博多バスターミナル

JR博多シティ駅前広場


え~っと、高速バスのりばだから赤いラインを辿っていけばOK

これは解りやすいわ~ ビルの3階からバスが出るのも楽しいけど

高速バスのりばへ


無事、大分方面行の高速バス乗り場に到着

大分行き高速バスのりばに到着


福岡空港国際線経由・別府( 北浜 )行きは・・・

あっ、もう来てた

すでに到着してました


この時間にココで待ち合わせをした人も、ちゃんと・・・いました

ダンナさんの弟君発見!


それじゃ、別府まで運転気を付けてね

義理でコッソリ手を振ってくれました

こっそり手を振ってくれてる人は、ウチのダンナさんの弟君

高速バスの運転手さんやってます











それというのも昨日の朝、まーりたん一行が福岡へ向かっている途中、

由布院を過ぎた辺りで 何気にウチのクルマを抜いて行った高速バス。

運転手さんの横顔が どーもダンナさんの弟君に似ている気がして、

その旨を運転中の相方に報告

雪化粧した1月15日の由布岳
( 福岡へ向かう途中雪化粧した1月15日、朝の由布岳 )






ダンナさんが山田SAより弟君に電話してみたところ、


「 それはオレじゃねえけど、今晩博多から出るけん 」 


との事 中年天然主婦まーりたんの見間違いの思い込み

によるこの一件で、忙しさのあまり互いの休みも勤務時間帯も知らず、

かれこれ1年程会ってなかった兄弟は束の間の再会を果たしたのでした。

めでたしめでたし 







弟君を見送り夕食を済ませ、福岡土産を買い、私たちも帰路へ


福岡の史跡めぐりレポは次回よりお届けさせて頂く予定です














「 はかたかりんとうのキャラクターは、はーとぅ君と言うのだニャ 」

はーとぅ君という名前ニャのだ

「 はーとぅ君の将来の夢は、かりんとうDJになることだって、マンジ君 」















「 ところで、ニャぜ大分県熊本県のお菓子まであるのだニャ

まーりたんは昨日、福岡県へ行ってきたのではニャいのか 」

ニャんで大分県と熊本県のお菓子もあるのだニャ

「 それはね、JR博多シティ地階博多小径さんでは、

九州のこだわり食品、お土産を幅広く扱ってるからなんだ、マンジ君 」














「 しかし福岡へ行ってまで 大分銘菓ざびえるを買うとは、

大都会博多で浮きまくり、急性ホームシックにかかったのかニャ 」

九州こだわり食品・博多小径さん

「 まーりたんさんは、博多小径さん店内に掲げられていた九州各県を

紹介したパネルに、 “ 大分県には昔、大友宗麟という

大変慈悲深いお殿様がいました
” と書かれてる行を

見つけて嬉しくなり、つい買っちゃったんだって 」















「 まーりたんらしいのだニャ~ 」

まーりたんさんらしいね

「 そうだね、まーりたんさんらしいね、マンジ君 」











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2012/01/16(月) 17:31 | コメント:14 | トラックバック:0 |
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