天正9( 1581 )年8月18日、立花道雪さんの寄り切り勝ちで

宋雲尼さんの長男・統虎( むねとら )は、めでたく立花家の婿養子となります

太宰府を後にした統虎一行の立花到着を、道雪さん以下家中総出で待ち構え、
熱烈歓迎

宗茂 )15歳の結婚は、立花城下にも明るい話題となって駈け巡ります。 主家の
大友氏が衰退の一途を辿る中、この上ない慶事だった事は想像つきますネ


それから3か月後の天正9年11月には、反大友派の秋月氏・宗像氏との小金原
( こがねばる )の戦いが起き、統虎はさっそく義父・立花道雪さんに従って出陣
するんですけど、今回はちょっとスピンオフ編で、こうした戦乱の最中、その生涯を
平和の架け橋としての役割に捧げた女性について、綴っておきたいと思います


上の画像

道雪さんのお墓がある梅岳寺を過ぎ、東の方向


行く手にはこんな風景が


続く道の脇には由緒ありげな古民家が建ち並んでます。 辺りには屋号が立花の
商店や会社も多くて、もしかして立花家御用人の末裔さんなのかな~などと勝手に
想像しつつ撮影したのは昨年の1月






されていた立花山案内マップの解説に、 “ 松尾夫人 ” の名前を発見


松尾夫人は、立花道雪さんが生涯でただ一人迎えた側室・お色姫なんですね。
立花城北西に位置する松尾岳の館で暮らした事からそう呼ばれた様です。
永禄10( 1567 )年から2年間に亘る 大友氏と毛利氏の北九州覇権争いでは
毛利氏が本国での戦に備え、手を組んでいた反大友派を置き去りにして撤収

という結果に終わってしまい、反大友派は大友氏に降るほか無くなります・・・

で、毛利氏の後ろ盾のもと大友氏と争っていた反大友の筑前守護代・立花鑑載
( あきとし )を降参させて、新・立花城督に任命された戸次( 立花 )道雪さんへ、
同じく反大友派だった宗像氏より和睦目的で嫁がされたのが宗像氏貞の妹
お色( 菊花 )姫 = 松尾夫人。 ただ、半ば押しつけ的な輿入れだった事も
あってか、宗像氏からお色姫と同時に贈られた二つの土地、西郷と若宮を
道雪さんは宗像氏に突き返してしまい


暴走させて多くの死傷者を出した小金原の戦いの火種となってしまいます

また、道雪さんは立花氏を継いだものの、自分から「 立花 」姓を名乗る事はなく
本名の 「 戸次( べっき ) 」で通したとか、やっぱり頑固オヤジですね~

そんな頑固一徹カミナリ親爺

宗像氏は、元は周防の大内氏に仕えていた事から、お色姫は幼少期に大内家の
お家騒動( 1551年に起きた大内義隆が重臣の陶隆房に討たれるクーデターに
絡む )に、大友宗麟の実弟・晴英( はるふさ )同様巻き込まれてしまい、凄惨な
現場を目の当たりにした為に、美しい姫ながら心がやや不安定だったといいます。
それでもお色姫は、大友氏と宗像氏の平和の架け橋になろうと精一杯努めます。
その甲斐あって、宗像氏に限っては、耳川での敗戦以降の主家・大友氏弱体化と
共に筑前で次々と蜂起する諸氏には加わらず、警備のみ担当したそうです

立花家も、敵地に独り投げ込まれたも同然の彼女を家族皆で支えます。
側室というより養女的だったんでしょうかね、道雪さんとの間に子供は無く、
天正15年に39歳の若さで亡くなったあとは、統虎( 後の立花宗茂 )が、
お色姫の菩提寺・竹龍院に田地七町を寄進するなど、供養に務めています


立花宗茂が初代藩主となった筑後柳川の 三柱( みはしら )神社には、
宗茂公と道雪さん、誾千代さんを御祭神に、歴代藩主そして宗茂公の実父・
高橋紹運さんが合祀されているんですが、その隣に青柳( 道雪室 )とあります。
多分これもお色姫( 松尾夫人 )の事じゃないかな~と勝手に推察してます

お色姫は、最初は立花山ふもとの青柳村石瓦( 古賀市青柳 )で暮らしていた
そうですが、大友氏衰退に伴う戦乱が激化し、立花城下にまで及びはじめた為
道雪さんは、お色姫を炊事場や貯蔵庫など籠城設備の整った安全な松尾丸
( 松尾岳の館 )へ、侍女らと共に避難させたとか。 優しいですね、道雪さん

女性が戦争の道具とされた哀しい時代にありながら、切なくも救われる話です。
そういうことで、今回は紹運と宋雲尼スピンオフ編でした


紹運と宋雲尼【6】【7】【番外編B】【8】
●参考:吉永正春著 『 九州戦国の女たち 』
※本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。
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