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まーりたん

Author:まーりたん
大分県で暮らす四十路主婦
“ まーりたん ” の
ブログへようこそ(*^^*)♪

日々を彩る ちょっと素敵な
出来事を我が家の笑導犬?
マンジ君と楽しくお届けして
ます。目下、郷土史に夢中♪
心躍る探訪をご一緒に。

臼杵の富士甚醤油マスコット
キャラ・とっくりこだぬき君が
仲間入りしてからは、嬉しさ
余ってマンジ君の“ 悪がね ”
ぶりもますますエスカレート。

そんなふたり(2匹)の様子も
併せてお楽しみ下さい(*^^*)

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過去記事 加藤清正公が創建 『 法心寺 』 と千代の鶴崎 で

ご紹介させて頂いたこの場所憶えていらっしゃいますでしょうか

鶴崎高等学校と鶴崎小学校に挟まれた哲学の道(かつての鶴崎城郭)

現在は、鶴崎高等学校鶴崎小学校が建ち並ぶこの一帯

江戸時代は肥後熊本藩の支庁( 御茶屋 )があり、勝海舟と坂本龍馬が

長崎出張の際に宿泊した地( 鶴崎本陣跡 )としても知られていますが、

それよりも前、大分市鶴崎地区が肥後熊本藩の飛び地となるまでは、

大友氏の重臣・吉岡長増が築城したとされる鶴崎城が建っていました





今回は、そんな鶴崎城に纏わるスーパーマダムの武勇伝を

勉強がてら語らせて頂きますので、どうぞごゆっくりと御観覧下さい

大友宗麟物語スピンオフ編それでは はじまりです








鶴崎城を築城した吉岡長増は、大友氏21代宗麟と、その父20代義鑑に

仕えた 加判衆( 政治の補佐や領国支配を担当するトップチーム )

でしたが、天正元( 1573 )年、宗麟が43歳の時に亡くなります。 





それから13年後の1586年、九州制覇に乗り出した薩摩( 鹿児島 )の

島津軍が、豊後( 大分県の中、南部 )を侵攻 

大友宗麟は自ら秀吉のもとへ出向き、援軍を要請します。


 

長宗我部元親、信親親子ら豊臣先発隊が 四国から豊後大友軍の

応援に駆け付けた 戸次川の戦いにも勝利した島津軍は、

更に勢いを増し、その一部は鶴崎地区へも攻め寄せてきました








そこで登場するのがコチラのシスター 智謀の女武将こと

吉岡妙林尼( よしおかみょうりんに ) 。

スーパーマダム智謀の女武将・吉岡妙林尼ちゃん

吉岡妙林尼は、初代鶴崎城主 吉岡長増の嫡男・吉岡鑑興の妻。

夫の 吉岡鑑興が、天正6( 1578 )年の 高城川原の戦い

( 大友氏が日向の大名・伊藤義祐をかばい、宮崎県児湯郡の高城川原で

島津軍と激突大友氏衰退の引金になった戦 )で戦死したため尼に。 




鶴崎城主は、妙林尼の亡き夫 吉岡鑑興の子・吉岡統増が継ぎますが、

この時は宗麟と共に臼杵城籠城戦の最中で、鶴崎城には居ません。




妙林尼は、鶴崎城に残っている部下や農民たちを集めて

鉄砲の使い方を教え、城の周りには巧妙な落とし穴も堀らせ、

工夫を凝らした様々な罠を仕掛けて籠城戦に備えます







年も迫った12月、島津軍の武将・伊集院久宣、野村文綱、白浜重政に

率いられた約3千の軍勢は、いよいよ鶴崎城へ 

ところが、妙林尼のまさかの罠に、ことごとく掛かり大苦戦 

なかなか鶴崎城を落とせません 

タイムマシンがあれば、どんな罠だったか見て来たいところです







決着が着かないまま年が明けた天正15( 1587 )年=宗麟の没年

豊臣秀吉の大群が大阪から九州征伐にやってくる、と聞いた島津軍は

一旦、引き揚げを決めます。 撤退の前夜、妙林尼は城を開け渡す

ふりをして、鶴崎城内で大宴会を開き島津軍を接待 その翌朝、

妙林尼は鉄砲隊を指揮して島津軍を一網打尽にし、壊滅させました







智謀を巡らせ、約3千もの島津兵をこてんぱんにやっつけた吉岡妙林尼

もちろん決死の覚悟だっただろうし、胸も痛めたに違いありません


西鶴崎二丁目・千人塚の上に建てられた寺司地蔵尊

乙津川の近くには、島津軍の戦没者を供養する寺司地蔵尊があります。


( 参考 : 現地解説板 寺司地蔵尊の由来 )










今川義元の大群を相手に奇跡的勝利を収め、その名を轟かせた 

織田信長も、きっとあの世でびっくりのスーパーマダム吉岡妙林尼

豊臣秀吉から誘われたそうですが、あっさり断っちゃったそうです









「 女性だからって甘く見ると、チクンと刺すわよ 」

秀吉を袖にした?吉岡妙林ちゃんは毛利空桑記念館に居ます

ゆるキャラ妙林ちゃんは鶴崎の毛利空桑記念館に居ます

ゆるキャラとは呼べない気もするけど・・・









本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます
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2012/05/11(金) 19:05 | コメント:8 | トラックバック:0 |

あら 蛇の目紋がデザインされたトンガリ兜のあなたは

難攻不落の巨大要塞、熊本城 を築いた肥後 (熊本) のお殿様、

加藤清正公 じゃあ~りませんか 鶴崎でお会いできるなんて


長烏帽子兜の加藤清正公じゃあーりませんか♪

加藤清正公といえば、明日最終回を迎えるNHK大河ドラマ

『 江~姫たちの戦国 』 で、二条城における家康と秀頼の会見を

取り持った要人として、ワイルドな野武士風スタイルで登場したのが

記憶に新しいところです が、あの会見からほどなく加藤清正

病のため他界。 その後、肥後太守は細川氏へと受け継がれます。







トレードマークの長烏帽子兜を被った加藤清正公胸像が鎮座する場所は、

大分市鶴崎地区 日蓮宗 雲鶴山 法心寺 前。 

法心寺は慶長六年( 1601年 )、当時の肥後太守・加藤清正が創建。




大分県大分市の鶴崎地区は、関ヶ原の戦いの手柄として 徳川家康が

加藤清正に与えた領地、所謂飛び地だったんですネ

鶴崎・法心寺と加藤清正胸像

最初、清正公は家康から熊本県天草の領地を加増して貰いましたが、


「 瀬戸内海に面した大分県の鶴崎地区は将来、

海上交通の要になる
 」 と考え、天草領有を辞退。


代替地として鶴崎の高田地区他、豊後( 大分県 )の諸地を受取。 

( 法心寺・現地解説板 『 加藤清正公と鶴崎の由来 』 より抜粋 )





しかし、さすが築城名人、土木事業のエキスパートとしても名高い清正公

お考えになることが凡人の私とはまるで違う!

まーりたんなら美味しい唐揚げが食べられる土地であればどこでも貰います~




雲鶴山・法心寺山門全景

加藤清正公創建 日蓮宗 雲鶴山 法心寺 の山門。 






鮮やかな色彩で、アート色をビシバシ感じる仁王様が迎えてくれます

迫力の仁王様・阿形

彫刻の名手 運慶・湛慶により彫られた、二体の 仁王尊

( 金剛大力神 )
 は、奈良の都から大分県佐賀関にある

早吸日女神社 に贈られたもの。 文化8年 ( 1811年 ) に

ここ、鶴崎の 法心寺山門 に移され 現在に至ります 

繰り返し修復されているため国宝には成り得なかったとの事、惜しい

迫力の仁王様・吽形


銃剣不傷、戦闘必勝の霊験があるとされる金剛大力神( 仁王尊 )。

戦時中は参拝者で大変賑わい、現在も足腰に病を抱える方々が祈願に

訪れているそうです 金剛大力神の前に提げられている幾つもの

草履( わらじ )は、病気の治った人がお礼に奉納したもの

御礼参りの草鞋が沢山


でもって、法心寺の山門をくぐってみると・・・

仁王像の裏は二体の唐獅子

仁王尊の裏側には2匹の狛犬君 これまた目も覚めるカラーです

吽形の狛犬

それにしても狛犬君のお肌の色、ひょっとしてデスラー総統の血縁

阿形の狛犬


法心寺の境内には日蓮上人の立像、その奥が本殿です

日蓮上人立像と本殿

現在は細川家の準菩提寺となっている法心寺の本殿には、清正公の

遺品や歴代の位牌が保管されています。 加藤清正は鶴崎を領有後、

大野川や乙津川の治水工事に着手 堀川( 港 )を造ったことで、

瀬戸内海を往来する船が寄港し、鶴崎は陸海共に交通の要所として

大きく発展しました 大分市の交通機関の基礎を築いてくれた清正公




慶長十六年( 1611年 )清正が病没して以来行われていた法要が、

鶴崎の夏祭り 『 二十三夜祭 』 となり、今に継承されてます







法心寺の山門と本殿に掲げられている 御紋入りの提灯

法心寺ちょうちん

鶴崎二十三夜祭の千灯明は、清正公が大阪城より海路帰国する際、

鶴崎の領民たちが提灯( ちょうちん )で闇夜の船着き場を照らし

出迎えた古事に由来。 清正公は大分の人々にも慕われていたんですね








また、加藤清正といえば 銀杏 と縁が深い事でも有名ですよネ

熊本城にも大きな銀杏の木がありましたが、清正が建立したここ、

鶴崎の法心寺にも、不思議な謂れが残る銀杏の大木があるんです

本殿横の逆さ銀杏

なんと本殿横の銀杏の大木は清正が地面に突き刺した杖ですって


大分市の名木に指定

まるでマジシャンみたいな清正公 夕暮れ間近の法心寺境内で

約20メートル高の銀杏の大木をぼ~っと眺めていたら、不意に

足元で小さなつむじ風が起きてドッキリ ちょっと嬉しかったです









あっ そういえば本題がまだでした









「 うっかりしていたぜよ~ 」

文久四年二月十六日・坂本龍馬、勝海舟宿泊の地

文久四年( 1864年 )、長崎出張のため大阪を発った勝海舟

坂本龍馬は、同年2月15日、大分市佐賀関に上陸 当日は佐賀関の

徳応寺に止宿。 翌16日は大分市鶴崎の本陣、この場所に宿泊






看板の所在地は 大分市南鶴崎3丁目の3。 

現在は鶴崎高校と鶴崎小学校に挟まれた閑静な並木道になってます。

残念ながら建物は跡形も残ってません。 看板設置場所の目と鼻の先、

鶴崎小学校の敷地内に小さな石塔を見つけたけど、関係ないかナ。

南鶴崎三丁目

鶴崎小学校には江戸時代、参勤交代の際 藩主の宿泊所を兼ねた政治、

経済、軍事拠点として、加藤清正公により設置された熊本藩 鶴崎支庁

『 肥後熊本藩 鶴崎御茶屋 』 が在ったそうです。









勝海舟が 『 海舟日記 』 に記した、佐賀関から五里の場所に在る 

豊後鶴崎本陣の跡地には、二股に分かれた大木が立つのみ。 

この大木さんとお話ができたら当時の様子を教えて貰えそうなのに

勝海舟の歌碑

「 大御代は ゆたかなりけり旅枕

一夜の夢を 千代の鶴さき  文久四年鶴崎にて 勝海舟 」




勝海舟が鶴崎を訪れた際に詠んだ歌が 『 海舟・龍馬 宿泊の地 』 

看板の裏にありました。 龍馬との旅は楽しかったんでしょうネ、きっと











「 勝先生! 次は野津原ぜよ~ 」

豊後今市石畳道路

ここは大分市鶴崎から西へ八里の同市、野津原 ( のつはる )

アスファルトから一段高くなった白っぽい道は今市( いまいち )

石畳道路。 この石畳道路沿いには江戸時代、宿や飲食店、代官所等が

軒を連ねており、参勤交代の小休止の場として栄えた歴史を持ちます

今市石畳道路(今市・現地解説板より)
今市と縁のある人物
( 大分市 野津原 ・ 今市石畳道路 現地解説板より )






勝海舟は文久4( 1864 )年、幕府の命で長崎へ出張する際、

門下生の坂本龍馬を伴い神戸を出帆、2月15日に大分市佐賀関に上陸。 

そして大分市鶴崎、野津原、竹田市久住、と加藤清正公が参勤交代の

道路として整備した 肥後街道を通り熊本、長崎へと向かいました

歴史の道 肥後海道・現地案内板(今市)
( 大分市 野津原 ・ 今市石畳道路 現地解説板より )




幕末の一等星龍馬さんを追尾ぜよ 大分市編

お付き合い下さりありがとうございました 

楽しんで頂けましたでしょうか。

大分市野津原から、竹田市久住、熊本へ、まだまだ続く肥後街道。

いずれまた、時間のあるときにでも辿ってみたいと思ってます







本文中の下線付き文字は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます


2011/11/26(土) 15:21 | コメント:6 | トラックバック:0 |
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