過去記事 加藤清正公が創建 『 法心寺 』 と千代の鶴崎 で
ご紹介させて頂いたこの場所




現在は、鶴崎高等学校と鶴崎小学校が建ち並ぶこの一帯

江戸時代は肥後熊本藩の支庁( 御茶屋 )があり、勝海舟と坂本龍馬が
長崎出張の際に宿泊した地( 鶴崎本陣跡 )としても知られていますが、
それよりも前、大分市鶴崎地区が肥後熊本藩の飛び地となるまでは、
大友氏の重臣・吉岡長増が築城したとされる鶴崎城が建っていました

今回は、そんな鶴崎城に纏わるスーパーマダム

勉強がてら語らせて頂きますので、どうぞごゆっくりと御観覧下さい


大友宗麟物語スピンオフ編


鶴崎城を築城した吉岡長増は、大友氏21代宗麟と、その父20代義鑑に
仕えた 加判衆( 政治の補佐や領国支配を担当するトップチーム )
でしたが、天正元( 1573 )年、宗麟が43歳の時に亡くなります。
それから13年後の1586年、九州制覇に乗り出した薩摩( 鹿児島 )の
島津軍が、豊後( 大分県の中、南部 )を侵攻

大友宗麟は自ら秀吉のもとへ出向き、援軍を要請します。
長宗我部元親、信親親子ら豊臣先発隊が 四国から豊後大友軍の
応援に駆け付けた 戸次川の戦いにも勝利した島津軍は、
更に勢いを増し、その一部は鶴崎地区へも攻め寄せてきました

そこで登場するのがコチラのシスター

吉岡妙林尼( よしおかみょうりんに ) 。

吉岡妙林尼は、初代鶴崎城主 吉岡長増の嫡男・吉岡鑑興の妻。
夫の 吉岡鑑興が、天正6( 1578 )年の 高城川原の戦い
( 大友氏が日向の大名・伊藤義祐をかばい、宮崎県児湯郡の高城川原で
島津軍と激突

鶴崎城主は、妙林尼の亡き夫 吉岡鑑興の子・吉岡統増が継ぎますが、
この時は宗麟と共に臼杵城籠城戦の最中で、鶴崎城には居ません。
妙林尼は、鶴崎城に残っている部下や農民たちを集めて
鉄砲の使い方を教え

工夫を凝らした様々な罠を仕掛けて籠城戦に備えます

年も迫った12月、島津軍の武将・伊集院久宣、野村文綱、白浜重政に
率いられた約3千の軍勢は、いよいよ鶴崎城へ




ところが、妙林尼のまさかの罠に、ことごとく掛かり大苦戦


なかなか鶴崎城を落とせません


タイムマシンがあれば、どんな罠だったか見て来たいところです

決着が着かないまま年が明けた天正15( 1587 )年=宗麟の没年
豊臣秀吉の大群が大阪から九州征伐にやってくる、と聞いた島津軍は
一旦、引き揚げを決めます。 撤退の前夜、妙林尼は城を開け渡す
ふりをして、鶴崎城内で大宴会を開き島津軍を接待


妙林尼は鉄砲隊を指揮して島津軍を一網打尽にし、壊滅させました

智謀を巡らせ、約3千もの島津兵をこてんぱんにやっつけた吉岡妙林尼。
もちろん決死の覚悟だっただろうし、胸も痛めたに違いありません


乙津川の近くには、島津軍の戦没者を供養する寺司地蔵尊があります。
( 参考 : 現地解説板 寺司地蔵尊の由来 )
今川義元の大群を相手に奇跡的勝利を収め、その名を轟かせた
織田信長も、きっとあの世でびっくりのスーパーマダム吉岡妙林尼

豊臣秀吉から誘われたそうですが、あっさり断っちゃったそうです

「 女性だからって甘く見ると、チクンと刺すわよ 」

ゆるキャラ妙林ちゃんは


ゆるキャラとは呼べない気もするけど・・・

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