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まーりたん

Author:まーりたん
大分県で暮らす四十路主婦
“ まーりたん ” の
ブログへようこそ(*^^*)♪

日々を彩る ちょっと素敵な
出来事を我が家の笑導犬?
マンジ君と楽しくお届けして
ます。目下、郷土史に夢中♪
心躍る探訪をご一緒に。

臼杵の富士甚醤油マスコット
キャラ・とっくりこだぬき君が
仲間入りしてからは、嬉しさ
余ってマンジ君の“ 悪がね ”
ぶりもますますエスカレート。

そんなふたり(2匹)の様子も
併せてお楽しみ下さい(*^^*)

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とある素敵なお宅の庭先に掲げられた木製板の標に

『 野津原宿 上簾戸 ( あげすど ) 』 の文字。

上簾戸(熊本城寄りが上簾戸)

ここは加藤清正公が肥後街道沿いに設けた5つの宿場町のひとつ

野津原宿の西入口から直ぐの場所。 今市宿場町の起点と終点にも

木戸屋がありましたが、野津原宿もまた然りです。 

板に書かれた文字から、野津原宿場町の出入り口を仕切る木戸

簾( すだれ )をはめ込んだ 簾戸( すど )だった事が窺えます。 

粋ですね  


因みに肥後熊本寄りの簾戸は “  ” を付け上簾戸( アゲスド )、

豊後府内、鶴崎寄りの木戸は下簾戸( サゲスド )と呼ばれていた様子。










まーりたんがウロウロしているエリアを、当時の町図でご紹介しますと・・・

参勤交代道路「肥後街道」野津原宿・西380

画像の真ん中あたり、“ アゲスド ” と書かれた場所に出没中



手持ちの資料 豊の都市おおいた歴史散歩 によれば、

『 町屋 』 というのは参勤交代の際、中級武士が泊まる宿だそうです。

上級武士は 『 お客屋 』 、そして藩主は宿場町の中央部分に濠を廻らせ

どかーんと構える 『 御茶屋 』 に分宿する形をとっていました。

参勤交代道路「肥後街道」野津原宿・御茶屋周辺380

赤いマークの現在地は、野津原支所裏のバス停

地蔵谷道を下ると、国道442号線沿いの野津原支所に出ます。

大分市野津原地区の肥後街道は、国道の北側に沿って奔っています










清正公ゆかりのパスで警護隊士も後ずさり

まーりたん一行、野津原宿場町の中央部まで堂々入場です

これより斜向かいの御茶屋跡へ、いざ参らん

手形もちゃんと持ってます!

右手( 野津原バス停付近 )には、記事でご紹介の町図を含む

野津原の歴史に関する情報満載の解説板が建ってます












江戸時代、肥後熊本藩の御茶屋が置かれていたという野津原神社に到着。

野津原神社参道

町図の通り、実際に御茶屋は肥後街道沿いから随分奥まった場所に

あったモヨウ 参道入り口から臨む境内は遥か彼方です








歩いて歩いて、やっと社殿手前の鳥居まで来ました

野津原神社(加藤神社)

おや、鳥居には 『 加藤神社 』 と彫られていますが・・・







野津原神社には、加藤清正公も祀られてるみたいですどうりで。

野津原神社由来記1

明治4( 1871 )年 4月、野津原の郷社に祇園社のスサノオノミコト

恵良地区の法護寺に祀られていた加藤清正公を合わせ祀り、それから

野津原神社と称すようになったと、境内の神社由来顕記にありました



うーん、またまた(個人的に)知られざる大分の歴史に触れ、感激

これだから郷土探訪はやめられません













「 よく来たね

野津原神社奥の小学校も御茶屋跡なんだよ
 」

よく来たね♪神社奥の小学校も御茶屋跡だよ

見れば見るほど愛嬌たっぷり野津原神社のこま犬くん

恐らく郷社の頃からココで暮らしてるであろう彼の言う事は、

郷土史野津原を抜粋した現地解説板にも記されてました

肥後領野津原の成立




こちらがその野津原東部小学校の校舎とグラウンド。

小学校と神社の敷地をあわせると、お城が建てられる程の広さです

野津原神社の奥には野津原東部小学校

その規模からしても御茶屋は藩主の宿泊所としてだけでなく、政治的、

軍事的な機能も兼ね備えていた要所だった事が想像できますよね 

さて、ここ野津原宿の御茶屋に泊まったセレブな方々の中でも、とりわけ

スペシャルな有名人といえば、やはり勝海舟先生と坂本龍馬さん







幕末の文久4( 1864 )年2月、

幕府により長崎出張を命じられた勝海舟が、坂本龍馬を伴い

神戸から船で大分県佐賀関に上陸 その後、鶴崎、野津原、久住と

肥後街道を通り熊本へ行き、長崎に向かいました

海舟日記(三)江戸東京博物館所蔵

野津原バス停の現地解説板には、江戸東京博物館所蔵の

海舟日記( 三 )
より、野津原に宿した同年2月17日と、

その翌日の記録が写真で紹介されてます 







枠外には勝海舟が野津原( のつはる )の地で詠んだ歌

「 民のかまどゆたけきものを、しらぬいのつくし生うてう野津原のさと 」 も。

海舟日記(三)十七日、野津原に宿す

「 十七日

野津原に宿す。 五里、山の麓にて人家可ならず。

八幡川( 七瀬川 )あり。 

大抵一里半ばかり、川堤に沿って路あり。

海道( 街道 )広く、田畑は厚肥、桃菜花盛、

関東の三月ごろの季節なり。
 」 海舟日記( 三 )



野津原を発つ日( 1864年2月18日 )の記録には、

1707年2月に世利川井戸を引き、町を豊かにした当時の村長

工藤三助さんの記念碑を見学し、感想を綴ったくだりもありました




幕府から大変なミッションを受けての旅だったにも関わらず、

訪れた土地々々で歌を詠み、そこに生きた先人に想いを馳せた勝海舟。

豊後を歩いて下さってありがとうございます 

野津原宿御茶屋跡(野津原東部小学校)

野津原東部小学校の正門も、歴史を感じさせる佇まいです

海舟先生と龍馬さん、この道から御茶屋に入ったのかしらん










続いて向かったのは、御茶屋跡から東へ少し歩いた恵良地区の鷲城山

法護寺
。 加藤清正公の御霊が野津原神社に移されるまで祀られていた

日蓮宗のお寺で、雲鶴山法心寺第3世日達上人が17世紀後半に建立。 

鷲城山・法護寺


法護寺には、熊本藩主 加藤清正公が野津原の領民からも慕われ、

尊敬されていたことが窺える 『 清正公殿 』 があります

法護寺・清正公殿

手持ちの資料 豊の都市おおいた歴史散歩 によれば、

加藤清正公は水利、治山、経済など、領民の生活基盤の安定化に

積極的に取り組み、それは領民にとって大きな心の支え、絆となり、

その証として清正公を讃える清正公殿が法護寺の境内に建てられた
、と。





鶴崎の歴史ガイドさんも言ってたけど、やっぱり清正公って凄い

府内( 大分県大分市 )を拠点に北部九州を大きく束ねていた豊後国主

大友氏の時代が幕を下ろした16世紀末、豊臣秀吉の九州平定によって

訪れた小藩分立時代。 バラバラに分割された豊後国( 大分県 )に暮らす

人々は、これから誰に支配されて、どうなるのか凄く不安だったと思います

清正公はそれを推し量り、自分の領地とした豊後の野津原や鶴崎で暮らす

人々の生活はもちろん、その心も大切にしたんでしょうね、きっと 








丸山神社では吉田松陰先生の動画でしたが、ここ法護寺そばの野津原

肥後街道うぉーく看板では、清正公の待ち受け動画が貰えまーす

法護寺前では清正公の待ち受け動画がもらえます。久住宿より西はまたいつか♪

さて、肥後街道 野津原編は今回でひとまずお仕舞いです。 

お付き合い下さった皆様、ありがとうございました

久住宿から西編も、この往来手形を持ってまたいつかレポします






帰路、手形をぶらぶらさせながら、車を停めた場所まで歩いていたら

首から水筒を提げ、帽子を被ったボランティアガイドさんらしき

年配の女性が どこからともなく現れ、それはそれは大きな声で


「 8月23日には清正公まつりがあるけん、

またおいでなー
 」 と、肥後街道越しに言われました。 


嬉しかったです






通りの向こうから肥後街道往来手形が見えたかどうかは謎だけど、

何故一目でまーりたん達の素性を察知できたかも謎だけど、

清正公ゆかりの手形の威力、改めて実感












本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます
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2012/06/07(木) 19:19 | コメント:11 | トラックバック:0 |

「 ニャに 」

ニャに?手放ニャす以外ニャいのかニャスダック!

「 じりじりと値を下げる展開ニャのか 」













「 マンジ君はさっきからブコツフォンで誰と何を喋ってるんだろう 」

マンジ君はブコツフォンで誰と何を喋ってるんだろう?

「 手放す以外ニャいのか、ニャスダック 」














「 あっ、ブコツフォンからももちゃんアプリを取り出したぞ 」

ブコツフォンからももちゃんアプリを取り出したぞ

「 ももちゃんは、天使さんみたいに可愛くて癒されるニャ~ 

厳しい競争社会のニャかで、心安らぐひとときニャのだ・・・ 」













「 確かにマンジ君に引き替え、可愛くてお利口さんなももちゃん

天使さんだよね ところでマンジ君、今日はイマイチだよ 」

ところでマンジ君、今日はイマイチだよ

「 こだぬき君、本日は随分ストレートなあてこすりではニャいか 」













「 マンジ君、今日は肥後街道沿いの今市( いまいち )にある

石畳道路で有名な、かつての宿場町をご紹介するんだよ

今市宿場町・豊後側入り口標識

「 野津原地区に 府内へ六里、鶴崎へ八里と記された大きな木の標が

建ってるよね。 奥の一段高くなった場所が今市宿場町の入口だよ













「 今市宿場町豊後側入口の現地解説板には、小さな銀色のポストが

備え付けられていて、大分市野津原市民センター( 野津原支所 )発行の

今市石畳周辺ミニマップ( 無料 )が入ってるんだ 」

今市宿場町・現地解説板



約400年間続いた豊後国主、大友氏の時代に幕が下りたあと、

豊後は豊臣秀吉により7分割され、今市はそのひとつ岡藩の領地でした。

解説板はこの他にも幾つかあり、今市地区の歴史が綴られたものも。

それによると・・・





文禄3( 1594 )年、中川秀成( 豊臣秀吉に仕えていた武将 )が、

岡藩7万石の領主として入封。 今市地区も岡藩の領地になりました。

中川氏は、野津原村から西の肥後街道を参勤交代道路の一部として

利用するようになり、今市は庄屋伝兵衛の祖先が藩命により開発。

宿場町として整備されたのは慶長年間( 1596~1615 )との事。

今市地区は七瀬川と芹川との間、標高450mの台地に出来た集落で、

古くから物資の集散地、物流拠点でもあったようです。






そして関ヶ原後の慶長6( 1601 )年2月。 

東軍に付いた肥後熊本藩主 加藤清正は、関が原の戦いの恩賞として

徳川家康より豊後国内の海部、大分、直入三郡のうち2万石を拝領。

今市地区を含む野津原は、このときから肥後領となりました。

参勤交代道路と5か所の宿場町

現在の大分市鶴崎地区が江戸時代、肥後領だった事は前にお話しましたが、

肥後藩主加藤清正公は熊本から鶴崎までの肥後街道を整備し、

その道筋に藩主が宿泊する御茶屋を備えた5か所の宿場町

( 大津宿内牧宿久住宿野津原宿鶴崎宿 )を設置。 

後の肥後藩主細川氏は、久住宿と野津原宿の間に位置する今市宿場町を

小休止の場として利用
していたそうです。 その際は藩から役人を派遣して、

ソバを御馳走するならわしになっていたとか










こちらがその歴史ある今市宿場町、豊後側の起点です

画像でご紹介した解説板がある場所から、坂を少し登った場所より

始まる石畳道路。 道幅8.5メートルの内、中央部2.1メートルに

平石が敷き詰められていて、その長さは丸山神社までの660メートル。 

今市石畳道路・豊後側起点

起点に建つこのお宅

ブロック塀の標にご注目

木戸や跡

かつては木戸屋だったようです。





それぞれのお宅のフェンスや壁には、こうした標が表示されていて

今市宿場町時代、何屋さんだったかを知りながら散策が愉しめます

今市宿場町あと(突き当りは信玄曲り)

木戸屋さんを過ぎ、萬屋さんを左手に、肥後方面へ真っすぐに延びる

石畳道路。 300m程行った先は、クランク状に左へ折れ曲がってます。



これは宿場町を見通せない様にした信玄曲り(下の図)と呼ばれるもので

曲がり角には竹藪もあります。 敵の侵入に対する備えでもあったのかな。

今市石畳道路見取り図1


信玄曲りをもう一度、今度は右に折れると、再び真っすぐな石畳道路

今市石畳道路見取り図2

清正公創建の丸山神社手前で、石畳道路の今市宿場町は終わります





肥後側の起点( 丸山神社石段そば )から眺めた石畳道路。

野津原・今市石畳道路

300mほど先は、左へ折れる信玄曲り。 正面に竹藪も見えますネ






参勤交代道路 今市石畳は、昭和47年3月21日に県指定文化財となり、

その後、保存修理が行われ復元されました。 通して見るとこんな具合

今市と縁ある歴史上の人物

さ、続いては加藤清正公が設置し、勝海舟と坂本龍馬が宿泊したという

野津原宿の御茶屋跡を訪ねてみたいと思います

 

野津原宿は、今市宿場町から豊後府内、鶴崎方面へ車で数分










で、

もう着きました



といっても、ここが野津原宿の御茶屋跡ではありませんヨ

野津原バス停(野津原支所裏)

大分市野津原市民センター( 野津原支所 )裏のバス停です

この場所に建つ現地解説板には、野津原宿の町図に始まり、

勝海舟が野津原に宿をとった際の記述( 海舟日記の一部 )が

写真で掲載されていたりと、見応えある資料がそりゃあまぁ沢山

とりあえずは穴が開く程見て、それから散策を始めたいと思います







そうそう、もちろんココも肥後街道( 豊後街道 )ですよ

清正公ゆかりの往来手形も持参しました


じゃーん なんとゆーばかごなんでしょう

手形もちゃんと持ってます!


「 ややっ、清正公ゆかりの手形ではニャいか

まーりたんはいつの間に持ち出したのだニャ
 」

ややっ、清正公縁の往来手形ニャのだ!まーりたん、いつの間に持ち出したのだ!

「 まーりたんさんはマンジ君でもあるんだから、仕方ないね 」


次回は海舟と龍馬の足跡を追って野津原宿を訪ねますニャ~

「 というワケで、野津原うぉーくは次回も続くのですニャ~ 」











本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

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2012/06/05(火) 17:25 | コメント:8 | トラックバック:0 |

清正公創建、丸山神社の石段を降りた場所に、野津原町商工会による

感性を磨く旅・肥後街道( 豊後街道 )うぉーく の看板があります

肥後街道うぉーく看板

バーコード対応の携帯でアクセスすると、肥後街道オリジナルアニメを

頂けるそうで、ウチのダンナさんは早速ダウンロード










あっ、吉田松陰先生だ

オリジナル待ち受け動画・吉田松陰先生も駆け抜けた肥後街道

日本の行く末を案じながら、肥後街道を長崎目指し走る松陰先生

吉田松陰先生も、かつてこの街道を駆け抜けたお一人なんですね












その一方で・・・

マンジ君、よく眠ってるわね

マンジ君、ぐっすり眠ってるわね








ところで、こだぬき君。

もしかして今、私と同じこと考えてたりする











あるわよ、ここに。

もしかして私と同じこと考えてる?こだぬき君

丸山神社のお騒がせドラゴン君に倣って、マンジ君のシッポにも

包帯みたいなものを巻けば、イタズラ封じが出来るんじゃないかと

想っているんでしょうこだぬき君

木製の包帯は無いから、代わりに このリボンで試してみない













製造されてから30年近くが経過していると推定されるマンジ君

マンジ君は老朽化で既に尻尾の先が擦り切れています

のつはる物語・尾を切られた竜 』 のお話のように、あえて

シッポに傷を入れなくても、既に老朽化で一部擦り切れております。













ここに木製の包帯代わりのリボンを結び・・・

マンジ君のシッポに包帯代わりのリボンを結んでみます

その後の行動を、こだぬき君と一緒に観察してみたいと思います













あっ、マンジ君が起き上ったわよ、こだぬき君

マンジ君が起きたわよ、こだぬき君




Ayana’さんに作って頂いたお気に入りの帽子

おかしな向きに被って、きっと寝ぼけてるのね


ねぼけて帽子をへんな向きに被ってます




寝起きの覚束ない足取りで台所へ向かってる

キッチンへ向かうマンジ君




食品庫へ直行か・・・。 こだぬき君、残念ながら

マンジ君には全く効果が無かったみたいね


マンジ君には効かなかったみたいね、でもお菓子の買置きはないから諦めるわよ

でも大丈夫。 食品庫にお菓子の買い置きはしてないから

こだぬき君は、太り気味のマンジ君の健康も心配してるのよね、

ありがとう











あっ

今度は冷蔵庫の野菜室を勝手に開けてる


今度は冷蔵庫の野菜室を覗いてる!


ここはさすがに覗かないだろうと思って隠してた

パンダプリンを3個とも、あっさりと見つけ出し、


野菜室に隠してたパンダプリンを3つまとめて運び出すマンジ君




運び去って行くマンジ君・・・


リボンを巻いたことで、逆にイタズラの勘が冴え亘った模様です

尻尾にリボンを蒔いたことでイタズラパワーに拍車がかかったマンジ君でした

あらっ、こだぬき君が倒れちゃった 

大丈夫 しっかりして、こだぬき君










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2012/06/03(日) 13:19 | コメント:4 | トラックバック:0 |

慶長15( 1610 )年、当時の肥後太守 加藤清正公が49歳の時、

参勤交代の安全を祈願し、肥後街道沿いの大分市野津原 今市地区に

建立したとされる丸山八幡社。 今市の鎮守様でもあります




丸山神社手前の唐破風が施された立派な楼門は、享保5( 1720 )年

大分市古国府( ふるごう )の宮大工が、今市在住の豪商から寄進の

依頼を受けて創建 日光東照宮の 『 ひぐらしの門 』 を模して

造られたそうです。 従って呼称も同じく 『 ひぐらしの門 』 。

丸山神社・ひぐらしの門

唐破風部分に彫られているのは、前回ご紹介した のつはる物語

尾を切られた竜 』 に登場する お騒がせな竜くん











御年292歳の竜くんです なかなか迫力もあり見事ですが

黒目がちの大きく円らな瞳が、個人的にちょっぴり愛らしくも感じます

のつはる丸山神社ひぐらし門の竜


イタズラが過ぎるため少しだけ切られてしまった、という尻尾の先には

包帯の様な木片が巻かれてます ちゃんと手当てして貰ってる

丸山神社の竜くんのシッポに包帯が?


楼門をくぐると、ココにも竜の彫り物を発見

丸山八幡宮


ひぐらし門には、このほか農作業や酒造りの工程を表した彫刻や、

丸山神社ひぐらしの楼門・十二支や二十四孝、農作業の工程などの彫り物

十二支二十四孝孟宗竹の語源でもある孟宗を含む中国古今の

孝子24人 )を造形した楼門創建当初に施された数多くの巧みな彫刻が

三百年の時を超え現存しており、市の有形文化財に指定されてます。

丸山神社ひぐらしの楼門彫刻

楼門の隅や天井付近は暗いため、頑張ったもののピンボケ気味に


丸山神社ひぐらしの門解説・丸山神社総代長

クリアファイルに挿まれて楼門の格子に提がっていた説明書きです












丸山八幡社の拝殿

丸山神社・拝殿と本殿

大分市役所観光課発行のパンフレット

せいしょこさんが歩いた大分市 』 には

丸山神社は慶長15年、参勤交代の安全を祈願し加藤清正公が創建

ありましたが、拝殿に置かれていた和田文夫宮司による説明書きでは、

丸山神社の起源や変遷など、更に詳しいことが解りました

それによると・・・




慶長15( 1610 )年 菅原道真公を祀る天満社として、清正公が創立。

寛文3( 1663 )年 当時の庄屋が岡藩主の許可を得て

城原八幡社の分霊を祀り、参勤交代の安全を祈願。

明治2( 1869 )年 藩の命により天満社を八幡社に合祀。

この時から 丸山八幡社( 丸山神社 )と称される。



・・・との事












丸山八幡社の本殿

丸山神社・本殿

ひのき張りの本殿は、心安らぐ香りに満ちてました

御祭神は、景行天皇、神宮皇后、仲衷天皇、應神天皇、菅原道真、

大蔵神、高龍神、大山祇神、稲倉魂神。  商売繁盛、学業高揚、

家運隆盛、交通安全に ご利益を下さる神様たちだそうです





 

実在しないものが見えたり聴こえたりはしないけど、

田舎町で愛犬と姉妹の様に育った杵柄か、野生の勘は未だ

失われておらず何かなし自負もあるまーりたん

加藤清正公が手がけられた場所を訪れた際に決まって察知するのは、

ワイルドで、どっしりとした空気感みたいなもの

8割方は気のせいや空想由来だとしても不思議です

清正公は、まーりたん愛しの官兵衛くんとも仲良しだったんですよね~








あんまり居心地が良いので、社殿横の大きな杉のご神木を見上げて

ぼーっとしていたら、毎度道連れにされるウチのダンナさんが、境内を

一周している間に何やら面白いものを見つけた様子で戻ってきました

丸山神社・本殿奥の森に不思議な形の木を発見

本殿の裏は美しい森なんですが、写真の中央辺りに

うねった黒い枝が樹の中ほどの高さから、えらく不自然に伸びてるのが

分かります ウチのダンナさんはソレを指差してます。









ズームアップしてみると 何となく竜の姿にも見えるような・・・。

丸山神社・本殿裏の森・昇り竜みたいな木が!

頭を右に口を開け、空へ昇って行く途中・・・の様に見えません 

ご想像で愉しまれるなり、否定されるなり、後はどうぞお好きに 













さて、次の目的地へ向かうため、再び立派な ひぐらしの楼門を今度は

拝殿側からくぐります  この楼門の最搭高は8メートル余りだとか。

丸山神社ひぐらし楼門・拝殿側より撮影



「 石段がすべります、注意して下さい。 宮司 」

丸山神社・宮司さんの温かみ溢れる手書き注意書き

宮司さんの温かな手書きの注意看板にも和みを頂きました


野津原・今市石畳道路

続きましては、かつて参勤交代の宿場町として栄えた今市石畳道路

散策しつつ、文久4年に勝海舟と坂本龍馬が、鶴崎本陣の次に宿泊した

野津原宿( 野津原御茶屋跡 )を訪ねてみたいと思います










本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

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2012/06/01(金) 13:26 | コメント:5 | トラックバック:0 |

終日好天に恵まれた昨日 加藤清正公が整備し、参勤交代道路として

使われた大分市鶴崎と熊本とを結ぶ 肥後街道を巡ってきました 




熊本城の築城主としても知られる肥後のお殿様 加藤清正公は、

関ヶ原の戦功により豊後鶴崎( 現在の大分市鶴崎地区 )を加増されて

以降、町の整備に努め、鶴崎の領民をとても大切にしたそうです

今でも鶴崎の人達にとって清正公は特別な存在で、敬愛されてます





文久4( 1864 )年には勝海舟や坂本龍馬も歩いたという肥後街道沿い、

かつての今市宿場町外れに建つ 丸山八幡神社

大分市のつはる丸山八幡神社

慶長15( 1610 )年、加藤清正公が参勤交代の安全を祈願して創建。 

清正公は慶長6年、鶴崎に 雲鶴山 法心寺も建立しています。



今年は清正公生誕450年という節目 大分市には清正公ゆかりの

神社や仏閣、祭りも多く、機会ある毎にご紹介できればと思います







では早速、今回は清正公が肥後街道の今市宿場町に建立した

丸山八幡社( 丸山神社 )に伝わる物語


大分市・伝統文化継承の会プレゼンツ

のつはる物語 『 尾を切られた竜 』 を、

「  」 部分はソフトな大分弁バージョン( まーりたん翻訳 )で

お届けさせて頂きます


お時間の許す限り、どうぞごゆっくりとお楽しみ下さい







『 今市の丸山神社には、ひぐらしの門と呼ばれる立派な楼門があり、

楼門の入り口正面には、今にも動きださんばかりの、それは見事な

彫刻がありますが、これには実はこんな言い伝えがあります




むかし、今市は土地が高い所にあったので、田んぼに水を引くことが

出来ず、溜め池を掘って田んぼを作っていました。

溜め池は、丸山神社からそれほど遠くないところにありました。




ある年のこと。

いつもは満々とたたえている溜め池の水が、日照りでもないのに

一日一日と減って行くので、村人たちは心配で心配でたまりません。

水はどんどんと減って、ついには池の底わずかになってしまいました。 

溜め池はカラカラに乾き、ひび割れができました。

このままでは稲がみな枯れてしまうと、途方に暮れる村人たち。

のつはる物語 『 尾を切られた竜 』1


「 月夜ん晩、溜め池んそばに竜がおった! 」 

という村人が現れました。 誰一人信じる者はいませんでしたが、

あまり真剣に言うので、数人の村人が確かめる事になりました。




ある月夜、数人の村人が恐る恐る溜め池に近づき、そして木陰から

そっと水面を見ると、青白い月が水の無い溜め池の底を照らしていました。

すると、溜め池の真ん中に何か大きな石のようなものがあります。

「 溜池ん中に、あげえでけえ石があったかえ?

と、一人がつぶやいた時、石がグラリと動いたのです。

村人は皆、わが目を疑いました。




そこでは大きな竜が、僅かに残った溜め池の水を飲んでいました。

村人は声を上げるのも忘れ、その様子を呆然と見ていました。

のつはる物語 『 尾を切られた竜 』2


やがて竜はゆっくりと頭を持ち上げ、丸山神社の方へ姿を消しました。

竜の姿にぼうっとしていた村人は、はっと我に返ると村へ跳んで帰り、

早速この出来事をみんなに知らせました。 






驚いた村人達は集会をひらき、どうしたらよいかと色々考えました。 

「 溜め池ん水がアッちゅうまに

減っちしまうんは、あン竜が飲みよるけんやな。 

こまんのう。 どきからやっち来よんのかのう?
 」

思い当たる村人は誰もいません。 






二日ほどして村人の一人が、

「 丸山神社じ、立派な竜ん彫り物を見た事が

あんけど、もしかしち、あン竜じゃなかろうか?
 」

と言い出しました。 村人たちは皆信じられない様子でしたが、

他に考えようもなく、一応確かめる事にしました。




その夜、数人の村人が竜を見たのと同じ時刻に神社にやってきました。

すると竜の彫り物はなんと、ぽっかりと抜け出していたのです。





あくる日、楼門を再び見に来ると、竜はちゃんと彫り物のままでいました。

「 見事な彫り物やけん、魂が宿っちしもうたんや 」

村人たちはまた困ってしまい、集まって話し合いました。

「 こんままじゃ、米が穫れんごとなるで 」

「 でん彫り物を壊すんは、何かなしむげねえなぁ 」

村人たちは頭をかかえました。







「 本物んごとあるけん、いけんのかん知れんで。

彫ったシに言うち、ほんのちいっと傷をつけちみる

っち言うんはどげえかえ?
 」 村人の一人が言いました。 


彫り物に傷をつけるとは、いかがなものかと皆はしぶりました。 

しかし、他に良い考えも浮かびません。


のつはる物語 『 尾を切られた竜 』3

村人たちは仕方なく、竜を彫った大工を呼び、傷をつけてもらう事に。

大工はとても嫌がりました。 何しろ精魂込めて彫った竜だったからです。




傷をつけるなど、わが子をのみで傷つけるようなもの。

だからといって、このまま村人たちが困っているのを見過ごす訳にも

行きません。 大工はしぶしぶ竜に傷をつけることにしました。

そして龍のシッポのところを少しだけ切り取りました。






不思議な事に、それ以後 竜は楼門を抜け出さなくなりました。

のつはる物語 『 尾を切られた竜 』3

溜め池の水もだんだんと水かさが増し、枯れる寸前だった稲は

生き返り、秋には黄金の穂をつけました。 

それからのち、村人は田んぼの水に困らなかったそうです。

おしまい 』










さあ 当ブログをご覧の皆さま、

これが噂のドラゴンが宿る丸山神社ひぐらし門です

丸山神社・ひぐらしの門

伝説の竜くんは・・・居ますね、この上に 本日はご在宅の様子

それではいざ、丸山八幡社 ひぐらしの楼門 














「 この続きは次回だヨ 」

野津原神社のこまいぬクン♪
( 愛嬌たっぷり♪ 野津原神社の狛犬君 )





というわけで、続きは次回にて










本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます


2012/05/30(水) 17:52 | コメント:7 | トラックバック:0 |
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