とある素敵なお宅の庭先に掲げられた木製板の標に
『 野津原宿 上簾戸 ( あげすど ) 』 の文字。

ここは加藤清正公が肥後街道沿いに設けた5つの宿場町のひとつ
野津原宿の西入口から直ぐの場所。 今市宿場町の起点と終点にも
木戸屋がありましたが、野津原宿もまた然りです。
板に書かれた文字から、野津原宿場町の出入り口を仕切る木戸は
簾( すだれ )をはめ込んだ 簾戸( すど )だった事が窺えます。
粋ですね

因みに肥後熊本寄りの簾戸は “ 上 ” を付け上簾戸( アゲスド )、
豊後府内、鶴崎寄りの木戸は下簾戸( サゲスド )と呼ばれていた様子。
まーりたんがウロウロしているエリアを、当時の町図でご紹介しますと・・・

画像の真ん中あたり、“ アゲスド ” と書かれた場所


手持ちの資料 豊の都市おおいた歴史散歩 によれば、
『 町屋 』 というのは参勤交代の際、中級武士が泊まる宿だそうです。
上級武士は 『 お客屋 』 、そして藩主は宿場町の中央部分に濠を廻らせ
どかーんと構える 『 御茶屋 』



地蔵谷道を下ると、国道442号線沿いの野津原支所に出ます。
大分市野津原地区の肥後街道は、国道の北側に沿って奔っています

清正公ゆかりのパスで警護隊士も後ずさり


まーりたん一行、野津原宿場町の中央部まで堂々入場です

これより斜向かいの御茶屋跡へ、いざ参らん


右手( 野津原バス停付近


野津原の歴史に関する情報満載の解説板が建ってます

江戸時代、肥後熊本藩の御茶屋が置かれていたという野津原神社に到着。

町図の通り、実際に御茶屋は肥後街道沿いから随分奥まった場所に
あったモヨウ


歩いて歩いて、やっと社殿手前の鳥居まで来ました



おや、鳥居には 『 加藤神社 』 と彫られていますが・・・

野津原神社には、加藤清正公も祀られてるみたいです



明治4( 1871 )年 4月、野津原の郷社に祇園社のスサノオノミコトと
恵良地区の法護寺に祀られていた加藤清正公を合わせ祀り、それから
野津原神社と称すようになったと、境内の神社由来顕記にありました

うーん、またまた(個人的に)知られざる大分の歴史に触れ、感激

これだから郷土探訪はやめられません

「 よく来たね

野津原神社奥の小学校


見れば見るほど愛嬌たっぷり野津原神社のこま犬くん

恐らく郷社の頃からココで暮らしてるであろう彼の言う事は、
郷土史野津原を抜粋した現地解説板にも記されてました


こちらがその野津原東部小学校の校舎とグラウンド。
小学校と神社の敷地をあわせると、お城が建てられる程の広さです


その規模からしても御茶屋は藩主の宿泊所としてだけでなく、政治的、
軍事的な機能も兼ね備えていた要所だった事が想像できますよね


さて、ここ野津原宿の御茶屋に泊まったセレブな方々の中でも、とりわけ
スペシャルな有名人といえば、やはり勝海舟先生と坂本龍馬さん


幕末の文久4( 1864 )年2月、
幕府により長崎出張を命じられた勝海舟が、坂本龍馬を伴い
神戸から船で大分県佐賀関に上陸

肥後街道を通り熊本へ行き、長崎に向かいました


野津原バス停の現地解説板には、江戸東京博物館所蔵の
海舟日記( 三 )より、野津原に宿した同年2月17日と、
その翌日の記録が写真で紹介されてます


枠外には勝海舟が野津原( のつはる )の地で詠んだ歌
「 民のかまどゆたけきものを、しらぬいのつくし生うてう野津原のさと 」 も。

「 十七日
野津原に宿す。 五里、山の麓にて人家可ならず。
八幡川( 七瀬川 )あり。
大抵一里半ばかり、川堤に沿って路あり。
海道( 街道 )広く、田畑は厚肥、桃菜花盛、
関東の三月ごろの季節なり。 」 海舟日記( 三 )
野津原を発つ日( 1864年2月18日 )の記録には、
1707年2月に世利川井戸を引き、町を豊かにした当時の村長
工藤三助さんの記念碑を見学し、感想を綴ったくだりもありました

幕府から大変なミッションを受けての旅だったにも関わらず、
訪れた土地々々で歌を詠み、そこに生きた先人に想いを馳せた勝海舟。
豊後を歩いて下さってありがとうございます


野津原東部小学校の正門も、歴史を感じさせる佇まいです

海舟先生と龍馬さん、この道から御茶屋に入ったのかしらん


続いて向かったのは、御茶屋跡から東へ少し歩いた恵良地区の鷲城山
法護寺。 加藤清正公の御霊が野津原神社に移されるまで祀られていた
日蓮宗のお寺で、雲鶴山法心寺第3世日達上人が17世紀後半に建立。

法護寺には、熊本藩主 加藤清正公が野津原の領民からも慕われ、
尊敬されていたことが窺える 『 清正公殿 』 があります


手持ちの資料 豊の都市おおいた歴史散歩 によれば、
加藤清正公は水利、治山、経済など、領民の生活基盤の安定化に
積極的に取り組み、それは領民にとって大きな心の支え、絆となり、
その証として清正公を讃える清正公殿が法護寺の境内に建てられた、と。
鶴崎の歴史ガイドさんも言ってたけど、やっぱり清正公って凄い


府内( 大分県大分市 )を拠点に北部九州を大きく束ねていた豊後国主
大友氏の時代が幕を下ろした16世紀末、豊臣秀吉の九州平定によって
訪れた小藩分立時代。 バラバラに分割された豊後国( 大分県 )に暮らす
人々は、これから誰に支配されて、どうなるのか凄く不安だったと思います

清正公はそれを推し量り、自分の領地とした豊後の野津原や鶴崎で暮らす
人々の生活はもちろん、その心も大切にしたんでしょうね、きっと

丸山神社では吉田松陰先生の動画でしたが、ここ法護寺そばの野津原
肥後街道うぉーく看板では、清正公の待ち受け動画が貰えまーす


さて、肥後街道 野津原編は今回でひとまずお仕舞いです。
お付き合い下さった皆様、ありがとうございました

久住宿から西編も、この往来手形を持ってまたいつかレポします


帰路、手形をぶらぶらさせながら、車を停めた場所まで歩いていたら
首から水筒を提げ、帽子を被ったボランティアガイドさんらしき
年配の女性が どこからともなく現れ、それはそれは大きな声で
「 8月23日には清正公まつりがあるけん、
またおいでなー


嬉しかったです

通りの向こうから肥後街道往来手形が見えたかどうかは謎だけど、
何故一目でまーりたん達の素性

清正公ゆかりの手形の威力、改めて実感

※本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。
記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます

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