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まーりたん

Author:まーりたん
大分県で暮らす四十路主婦
“ まーりたん ” の
ブログへようこそ(*^^*)♪

日々を彩る ちょっと素敵な
出来事を我が家の笑導犬?
マンジ君と楽しくお届けして
ます。目下、郷土史に夢中♪
心躍る探訪をご一緒に。

臼杵の富士甚醤油マスコット
キャラ・とっくりこだぬき君が
仲間入りしてからは、嬉しさ
余ってマンジ君の“ 悪がね ”
ぶりもますますエスカレート。

そんなふたり(2匹)の様子も
併せてお楽しみ下さい(*^^*)

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俳優でミュージシャンの ピエール瀧さんが日本各地の城下町を訪ね、

当地の学芸員や歴史ガイド、郷土知識に長けた古老?など、地元の方々と

心和む交流を通して、お城や城下町に隠された不思議を楽しく紐解く旅番組

歴史発見 城下町へ行こう!( BS朝日・毎週水曜 PM10:00~10:54 )

次週( 5月1日 )は、大分県の杵築( きつき )城下町が紹介されますね

昔は木付城と書いていました

コチラの石には 『 木付城址 』 と彫られてます。 ちょっと読みづらいですが



杵築城は豊後( 大分県 )守護職 大友氏家臣・木付氏のお城でした 

しかし秀吉さんの朝鮮出兵の頃、大友氏は本領・豊後を徐国処分( 改易 )に

なり、飛び地として豊後杵築を領した細川忠興の家臣・松井氏が城代へ就任。



九州の関ヶ原とも呼ばれる 石垣原の戦いでは、豊後奪還を賭けた大友義統

( 大友宗麟の息子 )軍によって攻め込まれます
 そこで松井氏から救援要請

を受け、杵築城へ駆け付けたのが元・秀吉の軍師で中津城の大殿様 黒田如水

( 黒田官兵衛 )率いる軍勢  来年の大河も楽しみだな~









杵築城の城門を潜った場所には、明治政府の方針で不要とされた庚申塔や、

お寺等から寄贈された古い石塔が安置された公園があり、そのおびただしい数、

一見おどろおどろしさすら覚える光景は、ホラー映画 オーメンの名物場面

( ダミアン君がポッケに手を突っ込み、十字架だらけの墓地に佇むシーン )

みたいで、石塔群の正体と事情を知らなかったチビの頃はホント怖かった

明治政府の方針で不要とされた庚申塔や、お寺から寄贈されたおびただしい数の石塔
 
そういえば、今日は確か、今年2度目の庚申の日です

皆さまのお体に棲む三戸の蟲のご機嫌はいかがでしょう? モホホ









杵築城下町は南北の丘に武家屋敷、中間の谷に商人の町が配されてます。

酢屋の坂と志保屋の坂・サンドイッチ城下町きつき

手前が 酢屋の坂。 坂下を横切る道路を挟んだ向かい側は 志保屋の坂

地形を活かし、坂に挟まれた構造から、地元では “ サンドイッチ城下町

なんてユニークな呼ばれ方をしています







歴史発見 城下町へ行こう!の番組内では、杵築城の殿様が召し上がって

あまりの美味しさに思わず 「 うれ〇いの~ 」 と仰った言葉が何と、

そのまま料理名になってしまったという杵築の郷土料理も紹介される模様です

更に、木付城がいつから、どのような理由で杵築城と書かれるようになったかも

番組内で紐解かれるかもしれません ( 天守入口・扁額の文字は杵築城です )







瀧さん、マンホールの蓋にデザインされたカブトガニも見つけて下さるかな?

雪笹紋?いえカブトガニマンホールの蓋です

こうして挙げてみると、杵築城下は不思議だらけかも 灯台下暗しだったのか?

来週の水曜日が楽しみです

今夜放送の駿府城下・後編も観ますけどね


 





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2013/04/24(水) 10:18 | コメント:8 | トラックバック:0 |

むかーし むかーし、慶長5年9月のことじゃったー。

豊臣秀吉に本領の豊後を追われた大友氏22代 ヨシムネが、関ヶ原ん時に

毛利輝元にほだされち西軍に付いち、豊後奪還のため別府に上陸したんと

あー、ヨシムネっちゃ大友宗麟の息子、嫡子じゃ。 義統っち書くんやけど

九州征伐ん頃、宗麟が秀吉ん傘下に入っちからは、秀吉からん字を貰うて

吉統に変えたっち云われちょる。 あー、こまけえこたあ知らん







父ちゃんは13年前ん1587年に、既にデウスさんのところへ行っちょん

でな、ヨシムネは代々豊後大友氏に仕えちょった遺臣3千人に迎えられち、

別府ん立石に本陣を構えたんと。 スギノイとかあん観海寺温泉郷やな

おーここぢゃここぢゃ。 うまい具合に写真が仕込まれちょんやねえかえ。

ここは別府市南立石です

アクアビートで遊んじ、のんびり棚湯に浸かっち、船旅ん疲れもすっかり

取れたヨシムネはな、手始めに東軍方・細川忠興ん飛び地に建つ木付城

攻撃することにしたんち。 あー、後になっちから 石垣原の戦いっち呼ばるる

アレやな。 なにえ?そん時はアクアビートも棚湯も無かったやろがえっち?

あー、こまけえこたあ知らん







そうしち大友ヨシムネ軍はな、別府湾に沿っちから、

国東半島ん付け根にある木付城目指し、北上しちいったんや・・・












御曹司ヨシムネ 「 者ども!細川忠興の家臣・松井康之の

木付城が見えたぞ! ネバゴナギ~ビューア~♪ 

豊後は誰にも渡さん!
 南蛮の音曲はやっぱテンションあがるゼ♪ ムジカ最高

杵築城が見えたぞ!

重臣Y&M 「 ヨシムネ坊っちゃまは何と、頼もしい事であろう。

南蛮の音曲を心底愛されていた先代・宗麟公様の形見

ユーロビート全集が、坊ちゃまを加護しているかの様だ










あー、ヨシムネはな、リックアストリーの Never Gonna Give You Up を

聴きよったごとあるな。 なにえ?ユーロビートは20世紀の歌やろうがえっち?

あー、こまけえこたあ知らん











御曹司ヨシムネ 「 二の丸三の丸はあっという間に落ちたな

残すは本丸のみ!この城門をくぐると庚申塔だらけで

ちょっと怖いけど、天守まで一目散に駈けるのだー


杵築城城門

重臣Y&M 「 主君・大友氏の除国を嘆き、この木付城内で

最期を遂げられた木付殿も、ヨシムネ坊っちゃまの雄姿を

さぞ、お喜びになっておられる事でござろうなぁ...














御曹司ヨシムネ 「 おお、これが木付城の天守か 

小ぶりだとは聞いていたが、何気にエレガントだぞ


昭和45(1970)年に建てられた杵築城天守閣



重臣Y&M 「 ヨシムネ坊っちゃま、大変です!!

こちらに未来の出来事が綴られておりまする


宮本と小次郎の決闘は杵築城代松井康之の子が

御曹司ヨシムネ 「 なに?慶長17年に周防沖で宮本武蔵と

佐々木小次郎なる者が決闘するだと? 検分役は

木付城代・松井康之の子、興長だと書かれているでは

ないか! もしやこれは予言者のスレッドなのか














重臣Y&M 「 ムムっ、天守入口に南蛮人パードレか? 

しかも扁額の文字が、木付城ではなく 杵築城に...


天守入口には和装の南蛮人が!

重臣Y&M 「 さては撹乱戦術か?松井康之め、謀ったな












御曹司ヨシムネ 「 おまいら入り口で何モタモタしてんの? 

こっちこっちー


杵築藩主 松平侯使用の具足、陣羽織

杵築城の案内人さん 「 そうですね、大友ヨシムネ様なら...











杵築城の案内人さん 「 これなど如何でしょう?

ヨシムネ様、これなど如何でしょう?悪くない

御曹司ヨシムネ 「 うん、悪くないネ♪












重臣Y&M 「 ヨシムネ坊っちゃま!木付城は今や敵軍の

城ですぞ。 無防備な態度はお辞め下さいませ

はっ、作務衣姿の怪しき男の手が、曲者め


ガイドさんの手が伸びてきた




南蛮人A 「 ワタシモ、カッチュー ツケテミタイデース

作務衣姿のガイドさんが鎧をつけてあげてます

南蛮人Aの友人 「 良いかい?撮るよ~♪












重臣Y&M 「 一体どうなっておるのだ、この城は~

平成23(2011)年にリニューアルした杵築城天守内・階段に手すりがつきました

御曹司ヨシムネ 「 おまいら、今は2013年だよ 石垣原の

戦も江戸時代も遥か昔に終わっちまって、杵築城天守は

展望台を兼ねた郷土史ミュージアムになってるんだ


木付が杵築と書かれるようになったのは1712年から。

徳川家朱印状の書き違いを機に、杵築に変えたらしいよ













重臣Y&M 「 という事は、総ノリつっこみだったのですか~

されど、天守からの眺望は見事にてござりまするな


杵築城天守東南側・杵築大橋と八坂川

御曹司ヨシムネ 「 川岸にホームセンターツチヤの看板が

見えるだろ? 記事2枚目の画像は、八坂川河口に

架かる あの杵築大橋を走ってる時に撮ったんだ











昭和45年に建てられた杵築城ん模擬天守にはな、廃藩置県まで杵築城主を

しよった松平氏の具足や陣羽織、戊辰の役に従軍した杵築藩士の遺影や

火縄銃、外務大臣・重光葵の遺品などが展示されちょる。 豊臣秀吉が

九州を平定しちからはな、豊後が大友氏時代んごと、でーけえ国にならんよう

7~8つに細切れにされち、秀吉ん家臣縁者が豊後に ようけ入っちょん。

杵築城には石田三成ん兄・石田正澄着用の兜も展示されちょるんで


こちらの甲冑はなんと!

でんな、やっぱし展示物ん目玉はコレやと思うちょる 

浅井三姉妹の兄弟はな、父ちゃんの浅井長政が信長に滅ぼされちから

細川氏の家臣になっち、晩年は国東半島ん真玉町で暮らしたんと。

まあ下ん解説を読んじみよ おもしりいけん。

浅井長政の二男は細川公の家臣を経て国見町で生涯を閉じた


こん他にも おもしりい話があるんで。

杵築城より ちいっと南にあん別府湾に面した日出城は、秀吉んカアちゃん

ねねさん一族の城じな、秀吉ん孫の国松が 徳川の追っ手を逃れち、

日出藩主・木下氏に匿われち、そこん四男坊になりすまし、

豊後大分で生き延びた、っち云う伝説が残っちょんのよ。  

あー、こまけえこたあ知らん  ほな、ぼちぼち往ぬるで。









なにえ?おいさんの正体を教えろっち?

あんたも物好きやなえ。

まーりたんっちいうシがな、おいさんを ココじ紹介しちょるけん、

暇やったら見ちょくれ。  ほな、またな










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2013/01/29(火) 19:00 | コメント:16 | トラックバック:0 |


人の体内には三戸( さんし )の蟲が棲んでいて、年に6回・60日ごとに巡ってくる

庚申の夜、この三戸の蟲が私たちの体から抜け出して、閻魔さま( 天帝 )の

所へ行き、それぞれが宿る人間の罪を 告げ口しちゃうんだそうですよムフフ 





そして閻魔さまは、三戸の蟲達が提出した報告書を基に、あの世へ行った後の

私たちの運命を決めるという訳。 ぽかぽか陽気の お花畑へ送られるか

大きな釜で ぐつぐつ煮られるヒョエエ~な場所へ堕とされるかは、日頃の行い

次第。 善人の顔をして陰で悪事を働いても、全てお見通しですヨ という

中国三大教( 仏教・儒教・道教 )の一つ、道教( 民俗宗教 )に基づく戒めです。





昨年6月、市内のタウン新聞に古国府歴史研究会の方が、庚申塔とその由来

道教に纏わる探訪コラムを綴られていて、とても興味を惹かれました

で、昨日は杵築市へ出かけ、杵築城下町の散策がてら、城山公園に数多く残る

庚申塔など、土着信仰を今に伝える石造物群を 改めてじっくりと観察

杵築指定文化財・城山公園石造物群

杵築城天守西側の城山公園では、明治期以降 政府の方針で不要とされたり、

区画整理で撤去された庚申塔や、古くは南北朝時代にまで遡る国東の印塔など

170基程を引き取り安置。 旧石造物のテーマパークみたいになってます






杵築城の天守閣にも勿論登りましたので、追って登城レポもお届けする

予定です が、まだ福岡の小倉城曲輪散策レポも途中なのであった 

杵築城・天守閣へ

まぁ、杵築城関ヶ原の頃には細川忠興公のお城( 正確には家臣の )

でしたから・・・次回は小倉へ戻るかな 







冒頭で道教の教えについて書きましたが、人間は弱くて狡賢くて、

微塵も罪を冒さずに生きていくのは、なかなか難しいものです 

三戸の蟲に ありとあらゆる罪を告げ口されて、その度に閻魔さまから

命を縮められたり お咎めを受けていては、たまったものじゃありませんよね 






そこで人々は、三戸の蟲が閻魔さまに罪を告げに行く庚申の夜になると

眠らずに夜通し詰め、逆に三戸の蟲を監視してやろうという風習 庚申講を行い、

庚申講を3年( 18回 )続けた記念に、庚申塔を建立したのだそうです 





庚申塔は三戸の蟲を封じた塚に建てる供養塔であり、

信仰のお陰で3年間無病息災に過ごせたという感謝の証でもあり、

更には、そうした事から魔除けや結界の意味合いも生じたのでしょうか 

村の境目に塞神として建てられることも多かった様子。

享保9(1724)年の庚申塔・杵築城石造物公園

庚申塔に彫られる像は、その名の通り干支の申、見ざる・言わざる・聞かざる

の三猿や、鼻や手足がヒョロリと長かったとも伝えられる不思議な神様

猿田彦神など。 画像上が多分、それだと思って撮影しました

天照大神の孫 ニニギノミコトは天孫降臨の際、突然現れた猿田彦の異様な

風貌を怪しみ、その正体をアメノウズメに命じて、さぐらせたと云います。 

サルタヒコは、もしや宇宙人?アヤシイのだー


享保九(1724)年の庚申塔・杵築城石造物公園

また、古国府歴史研究会の方のコラムによれば、最も多いのは本尊でもある

青面金剛が彫られた庚申塔だそう。 他にも阿弥陀様、仁王様や観音像など

実に様々で、豊後大友氏時代に国府が置かれていたことに地名が由来する

大分市の古国府( ふるごう )地区では、弁財天坐像や、不動明王の庚申塔も

確認&現存していて、“ 庚申の寄合い ” も平成初期まで続いていたとの事


享保4(1719)年の文字庚申塔・杵築城石造物公園

杵築城の城山公園には、像ではなく文字だけが刻まれた庚申塔もあり、

総じて享保年間( 江戸時代中期 )の物が多かった様に思います

ウィキペディア庚申塔によれば、現存する日本最古の庚申塔は

埼玉県の庚申板碑
で、文明3( 1471 )年 室町時代のものだとか。






こちらは、小倉や中津、豊後高田など、かつての豊前国方面から

豊後杵築へ来る旅人のための 道標的な役目も持つ庚申塔だった様  

豊前からの旅人の為に設置された庚申道標・杵築城石造物公園

青面金剛と同様に、庚申塔の本尊とされていた猿田彦神は道案内の神様でも

あるんだそうです。 この石に猿田彦神が彫られているかどうかは、見る限り

全く判りませんが、こうした路傍の石仏さま( 庚申塔 )に江戸時代の旅人達は

手を合わせ、道中の安全をお祈りしたんでしょうね 







道教に起源する三戸の蟲封じから、悪疫調伏や豊作祈願、道案内などなど

その土地の人々にとって、親しみやすく最も身近だった信仰対象物・庚申塔。

街の発展と共にお役御免となり、次第に こうして城跡や神社仏閣の敷地内

ひと所に集められた状態でしか 見る事が出来なくなりつつありますが、

コラムを綴られていた古国府歴史研究会・牧達夫氏のお話によると、

それでも探してみれば、大分市内でも まだまだ出会えるといいます






ちょっと不思議で懐かしい路傍の石仏様や神様たち、

今度、探してみようかな

  









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2013/01/21(月) 19:01 | コメント:13 | トラックバック:0 |


国東半島南側の付け根部分に、守江湾という小さな入り江があります。 

この守江湾に突出した岬、八坂川の河口に建つのが杵築( きつき )城  

商人の町標識


杵築城下町は、南北の小高い丘陵地に武家屋敷、間の谷に商人の町を配した

地形を活かした町割りで、サンドウィッチ型城下町という何ともユニークな名でも

親しまれているんです 画像下は酢屋の坂の休憩所から眺めた杵築城下。 

酢屋の坂休憩所から眺める杵築城下町

さて、それでは 官兵衛くんの関ヶ原 『 石垣原の戦い 』 中編の続きを

ご興味ある方、今回もお時間のゆるす限り、どうぞごゆっくりとお楽しみ下さい






豊後奪還を賭け別府・浜脇へ乗り込んできた大友義統の軍が、東軍・細川忠興の

飛び地に建つ杵築城(木付城)を攻撃し始めた、という報せを受けた官兵衛くん、

安岐城に押さえの兵を残し、9月13日早朝、杵築城へと救援に向かいます






細川忠興の家老・松井康之ら細川軍が守る杵築城は、すでに三の丸、二の丸を

落とされ、本丸を残すのみとなっていたものの、黒田の援軍が迫っている情報を

入手すると、大友義統軍は杵築城の攻撃を中止し、本陣・別府の立石へ撤収


酢屋の坂と大原邸
( 杵築城下町・酢屋の坂 )





官兵衛くんは即席黒田軍を全員立石へ向かわせ、実相寺山(加来殿山に布陣。

両軍は、立石と実相寺の間の石垣原( いしがきばる )で激突となるのです





大友義統は、重臣の宗像鎮続( むなかたしげつぐ )と、高橋紹運の甥である

吉弘統幸( むねゆき )を左翼・右翼に配置、黒田勢を迎え撃つ形をとりますが、

官兵衛くんの桃太郎作戦が功を成したのか、はたまた亡き友・竹中半兵衛重治

ご加護か、即席黒田如水軍は、官兵衛くんが到着した13日の夕刻から夜には

義統軍をこてんぱんにやっつけ、翌14日には義統軍の左翼・右翼の大将に

有力武将らが亡くなります 9月15日、官兵衛くんの降伏勧告により、大友

義統は降参 中津へ護送され、石垣原の戦いは即席黒田軍の大勝利にて終了。







ところでこの日、慶長5( 1600 )年9月15日は、岐阜県で関ヶ原の戦いが開幕、

同時に終結した日でもありますが、官兵衛くんはまだそれを知る由もありません。







翌16日、官兵衛くん率いる即席黒田軍は国東半島へ戻って、攻略途中だった

国東市の安岐城を9月17日に再び包囲し、城壁を爆破する威嚇攻撃のみで

19日に無血開城させます。 次いで23日には富来城を攻め、翌月10月2日に

こちらも同じく無血開城。 佐伯城角牟礼城隈城には別部隊を送り込み、

ついには大友宗麟公築城の臼杵城も攻め落とし、官兵衛くん率いる即席黒田

如水軍は、こうして僅か一ヶ月足らずで豊後( 大分県 )を平定してしまうのです







無敵の進軍ぶりをみせる黒田如水軍のパワーは留まるところを知らず、続いて

10月5日には小倉城の支城・毛利定房の香春岳城( 福岡県田川郡 )も攻略。

毛利吉成の小倉城、18日には毛利秀包の久留米城も相次いで開城させます。

大津攻めより戻った立花宗茂が籠城する 柳川城( 福岡県柳川市 )攻撃では、

同じく東軍の加藤清正とタッグを組み、立花宗茂を説得 降服へと促します。 







小和田哲男さんの著書・ミネルヴァ日本評伝選 「 黒田如水 」 とにらめっこしつつ

官兵衛くんが落とした九州の城を書き出している内に、何か目が回ってきました

黒田軍、神技としか言い様が... ついでに私も落として~官兵衛くん重症。 






興味深いのは、官兵衛くんはお城を攻める際には必ず勧降工作をし、無血開城を

モットーとしていること 命は助けられたものの行き場を失った敵軍に対しては、

お百姓に帰るか、官兵衛くんに召し抱えられるかを選ばせ、その殆どは黒田軍に

加わるのです 官兵衛くんは軍師として有能であった事は勿論ですが、この

桃太郎作戦で雇い掻き集めた、いつ謀反者や逃亡者が出ても不思議ではない

即席軍隊が結束を固め大活躍 それぞれの力を余すところなく発揮できたのは

やはり官兵衛くんの心ある策謀、人望の厚さ、品性の素晴らしさの賜物でしょうし

黒田官兵衛( 黒田如水 )が稀代の名軍師として、後々まで語り継がれる所以の

一因に違いないと、まーりたんは思います 小手先では人心掌握はできません。






すでに家康さんに白旗を掲げているお城もあった事から、九州における西軍は

残すところ島津氏のみとなります。 官兵衛くんと加藤清正さんは、立花宗茂軍も

味方につけ水俣市まで進軍 しかし、九州平定まであと一歩というところで

家康さんからの停戦命令が下り、軍事行動はこれにてジ・エンドと相成り候。









突然ですが、こちらは熊本城のマスコットキャラ・ひごまるくん( 左 )と

豊前國中津 黒田武士顕彰会のマスコットキャラ・あ!官兵衛くん( 右 )。

加藤清正公の熊本城キャラひごまる君と豊前中津黒田武士顕彰会キャラあ!官兵衛くん。二人は関ヶ原の時も仲良し♪

あ!官兵衛くんマスコットは、これまで黒田官兵衛大河ドラマ誘致活動

地道に続けて来られた有志の方による、オールハンドメイドなんだそうです 

先日それを知り、ますます官兵衛くんが可愛らしく、愛おしく思えてきました





九州における関ヶ原の際、このふたり( 加藤清正と黒田官兵衛ということに

しておいてくださいな )は、連絡を取り合い、連携していた様なんですね。

石垣原の戦いの最中にも、手紙のやりとりをしていた事が分かっています





また石垣原の戦いに勝利した翌日の9月16日、官兵衛くんは、徳川家康の

側近・藤堂高虎に それを伝える文書も送っています 手紙の内容から、

官兵衛くんは九州における関ヶ原の際、切りとった場所を加藤清正と共に

拝領し、息子・長政には上方で新たな所領を貰いたかった様子で、

ミネルヴァ日本評伝選 「 黒田如水 」 の著者・小和田哲男さんは、

これが紛れもない黒田官兵衛の本心だろう、と分析されていました





しかし、官兵衛くんのささやかな願いは、秀吉さんと同じく官兵衛くんを

警戒していた家康さんによって無視される事となります。 家康さんは

加藤清正の希望は呑み、飛び地として豊後を与えますが、官兵衛くんには

大友宗麟の息子・義統を生け捕りにした事への感状のみだったそうです 






天才軍師・黒田官兵衛孝高( 黒田如水 )。 並外れた才覚を持ちながら、

その素顔は ごく普通の子煩悩な良きパパだったという事でしょうか 

東軍だの西軍だの派閥問題は、隠居後の官兵衛くんにとっては はっきり言って

重要では無く、九州における関ヶ原の戦いでは家族と領地を守り、信義の為に

踏ん張ってみたところ、追い風が吹いてきて、僅かひと月ほどで九州を席巻






秀吉さんに、頭脳と人心掌握の才を警戒されて中津へ遠ざけられた時と同じく、

家康さんもまた恐れさせ、謀らずも主役を食ってしまい兼ねないパターンに陥り、

目を付けられた上、あらぬ疑惑を持たれてしまうんですね。 無理もないけど 







そんな親心を知ってか知らずか官兵衛くんの息子・黒田長政が関ヶ原で手柄を

たてて、家康さんから福崎( 後の福岡 )の地、筑前52万石を貰い、意気揚々と

凱旋帰国した時の、官兵衛くんのまさかのお言葉発射エピソードや、京都で

のんびり余生を送ろうとした官兵衛くんのお屋敷に、これまたはからずも信奉者が

押し寄せ、その人気ぶりに焦燥感を募らせた家康さんの思い込みによるオモシロ

挙動など、お話させて頂きたいことは尽きないのですが、またおいおいに







官兵衛くんの関ヶ原 『 石垣原の戦い 』 編は、これにて幕引きと致します 

お付き合い下さった方、ありがとうございました お楽しみ頂けたでしょうか

不完全燃焼気分でモヤモヤしているゾという方、何卒、ご官兵衛( 勘弁 ) 









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2012/11/16(金) 20:13 | コメント:6 | トラックバック:0 |

神亀6( 729 )年頃、宇佐神宮大宮司により、全国八幡社の総本宮

宇佐神宮の別宮として創建されたと伝わる杵築市の 八幡奈多宮。 




参道に建つ ふたつめの鳥居脇で番をしていた狛犬くんです

あらら、すっかり苔生しちゃって

狛犬くんの台に大内村の文字を確認

富来神社の運玉唐獅子像にも似た狛犬君の台側面に

明治時代中期の地名、大内村の文字を発見

という事は、ふたつ目の鳥居は19世紀後期に建てられたものかしら




ひとつめの鳥居を潜って僅か十数メートルで 一気に時間を百年余り

遡り、そして尚且つ気になるのが 大内村という旧地名

国東半島をぐるりとなぞった後、大分市の古国府へ延びる国道10号線と

合流する国道213号線には、大内橋との名が付いた旧い橋も在るんです





目下、郷土史探訪にどっぷりハマっているまーりたん

大内と言えば、周防( 山口県 )の大内氏がまず頭に浮かびます

豊後府内( 大分県大分市 )生まれの戦国大名で、全盛期には九州の

武家を統括する九州探題職も務めた大友宗麟公の弟は、周防の大名

大内義隆公のもとへ養子に出されたし、なにより大友宗麟公が幼い頃に

死別しその面影を生涯追い続けた実の母は、大内家の女性でした。





宗麟の母は、宗麟のパパ = 大友氏20代義鑑に トツギーノする際

もしかすると、般若姫行列みたいに大内家の家臣や従者を大勢連れ、

山口県から船で国東半島に渡り 豊後府内の大友館へと向かったの

かしら で、大内家の花嫁大行列が通過した国東半島の村や橋に

大内という名が付けられたのかもなんて勝手に想像してみたり 

そのうち、いよいよ古老を訪ねて訊き出すはめになったりして・・・ 






山口ン大内氏は大内村と関係あらせんので。

妄想も大概にしよ


豊後史に詳しい方からお叱りの声が飛んできそうな気がするので、

妄想大暴走はこの辺にしておきたいと思います 

ただ、まーりたんも無理矢理かつての大内村( 現在は杵築市の一部 )と

宗麟ママの一族・大内氏を結びつけようとしたワケではないんです






なぜならば 大友宗麟公の正室は、ここ八幡奈多宮の大宮司 

奈多鑑基( なだあきもと )の娘だったからなのです 

前回ご紹介した現地解説板( 奈多宮御由緒 )の後半部分に、

戦国時代の奈多氏という見出しでその旨が記されてます。

奈多八幡宮御由緒2

遠藤周作さん原作の 『 心の王国を求めて~大友宗麟物語 』 では、

家督を継いだばかりの大友義鎮( 後の大友宗麟公 )の正室となる

奈多鑑基の娘( 奈多夫人 )は、矢乃という名前で登場します





矢乃には、国東水軍を束ねていた田原氏に養子として入っている実兄

田原親賢( たはらちかかた )がいました。 大友氏側は、地元の有力な

豪族を家臣にして更なる勢力拡大をはかる為に。 奈多氏側は、大友氏の

傘下に入る代わりに矢乃の兄( 田原親賢 )を加判衆( 大友氏の重臣

トップチーム )に入れる事が目的の、いわゆる政略婚だったわけです

奈多宮御由緒にある名前田原紹忍は、田原親賢の出家後の名です。







矢乃( 奈多夫人 )は、後に大友氏22代目となる義統( よしむね )

授かりますが、宗麟がキリスト教に傾倒するにつれ夫婦仲は険悪に  

自分の兄を大友家の重臣トップに加えるミッションも背負っていたので

政治にも口を挿まざるを得ず、ドラマでは宗麟に疎まれるシーンも...





きわめつけは、宗麟が情をかけた女性をことごとく憎み、迫害 それは

喩えるならギリシア神話に登場するゼウスの奥さん・ヘラ並みの鬼妻ぶり

祈祷師を呼び、宗麟公の浮気の虫を封じる呪( まじな )いもしたとか

とはいえ、それは深い愛情の裏返しであり、切ない女心でもありますよね。

好きな人には自分だけを見ていてほしい プライドの高さ故に、不器用な

愛情表現しかできなかった矢乃姫。 大好きだったんですね、宗麟公のことが










いよいよ、八幡奈多宮みっつめの鳥居です

奈多八幡宮・三つ目の鳥居


扁額からしてかなりの年季もの もしや江戸期

八幡奈多宮みっつめの鳥居の扁額


しかも潜ってみたら、鳥居から松が生えていた

奈多八幡宮・3つめの鳥居から松が生えてる


最後に、寛永19年( 1642 )年 細川氏の家臣であった杵築城代

長岡興長さんが寄進した 楼門を潜ると、ようやく社殿です

奈多八幡の楼門(細川家家臣・長岡興長が寄進)

小和田哲男さん著 『 ミネルヴァ日本評伝選 黒田如水 』 によれば、

豊臣秀吉の九州平定で大友氏の時代が幕を閉じ、細切れにされた

豊後国には関ヶ原の後、小大名が置かれており( 隈城2万石には

毛利高政富来城2万石には垣見一直、竹田城6万6千石には

中川秀成など )、杵築城6万石は細川忠興の飛び地だった様です


細川家家臣・長岡興長が寄進の奈多八幡楼門

楼門を通り抜け振り返ると、参道には3つの鳥居。 その先には

八幡の女神が舞い降りた 伝説の市杵島が浮かぶ奈多の海。









大変長らくお待たせしました こちらが八幡奈多宮の社殿です

奈多八幡・社殿

729年の創建にしては新しすぎるんじゃない

と思われた方、その通りです




かつて別府湾に在ったと伝わる瓜生島が沈没した慶長大地震の折り、

ここ、八幡奈多宮の社殿は津波で大きな被害を受けたそうです

で、寛永4( 1627 )年に 細川忠興公が社殿を再建。

現在の本殿は、明治14( 1881 )年に造営されたものです。





左にご神木の楠木、右に宝物殿を従える本殿は、手入れが行き届き

朱色がとても綺麗です。 そして見るからに宇佐神宮の妹分って感じ

御神木の楠と社殿
 
先程、奈多夫人( 矢乃 )を 超おっかないゼウスの妻ヘラに喩えました。

確かにヘラは、ゼウスが愛したニンフ( 妖精 )を醜い大熊に変えたり、

ゼウスの浮気相手が産んだ子を呪い、苦難のノルマを課すなどしますが

私たちに夢やロマンを与え、荘厳ささえ覚えさせる夜空の星座の大半は、

その身の毛もよだつ鬼妻 ヘラさん絡みの恐怖絵巻なんですよね

時が経てば、どんな出来事も尊く、煌めいて見えるという事でしょうか





矢乃さん、探究し心を寄せずにはいられない魅力あふれるエピソード、

素敵な歴史を紡いで下さって、ありがとうございます

本当に、お疲れ様でした





大友宗麟物語~心の王国を求めて 』 より、

奈多海岸で神楽舞を披露する矢野さん( 戝前直見さん )をどうぞ



宗麟の乳母・入田さんの怪しい眼差し・・・

このあと大友二階崩れの変が起きます。





そういうことで、

今、万感の思いを込めて 二礼二拍一礼

・・・で、よかったかな










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記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます



明日は早朝より外出しますので、コメントのお返事が遅れます。

ご了承下さい

2012/09/01(土) 18:22 | コメント:5 | トラックバック:0 |

アスト国東にて、映画 『 この空の花~長岡花火物語 』 を鑑賞した帰り、

国道213号線沿いの 狩宿( かりしゅく )海水浴場に立ち寄りました

まだ明るいけど時刻は夕方の5時。 見かけたのは、松林に停めた車へ

サーフボードを積み込んで、帰り支度をしていた若い男性ひとりだけ。

8月最後の週末ですもんね。 ところで、この日は大分空港に近い国東市の

海岸でもサーフィンを楽しむ人達を見ました 練習に丁度良いのかな





それはともかく、太い根っこを地面から隆々と覗かせた ゴッツゴツの

老クロマツ林。 蹴躓かないよう注意しながら波の音がする方へ歩いて行くと

白い砂に覆われた遊歩道、それに まーりたんの記憶が正しければ

昭和末期( もっと前かも )の姿を現存しているシャワー棟に到達 

その先には低くて力強い白波が押し寄せる渚と、淡いブルーの海原。 

いつ来ても変わらない、風光明媚で懐かしい景色が迎えてくれました





日本の白砂青松100選にも選定されているという、大分県は杵築市の

狩宿海水浴場には、八幡社の女神さま・比売大神( ひめおおかみ )と、

実在が濃厚とされる最古の天皇( 日向 美々津お舟出伝説で有名な

初代 神武天皇から数えて15代目の ) 応神天皇( おうじんてんのう )

神功皇后( 応神天皇のお母さん )が御祭神として祀られた八幡奈多宮

在り、狩宿海水浴場は 奈多海岸という名でも親しまれてます

八幡奈多宮(一つ目の鳥居)

こちらは最も海側に建つ鳥居 参道には3つの鳥居が建っていて、

社殿に近づくにつれ、時間を遡る感じで古さを増して行くのです








ではまず、最も海側のひとつめの鳥居を潜り、振り返ってみると...

八幡奈多宮

鳥居の間から見える沖合に小さな岩が3つほど顔を出しているのが

わかりますでしょうか あの離れ岩は、厳島あるいは 市杵島

呼ばれ、八幡奈多宮の御祭神であり八幡社の女神 比売大神が

降臨したとされる島
なんです。ズームアップで鳥居も確認。

八幡奈多宮の元宮・市杵島

比売大神( ひめおおかみ )は、大分県宇佐市にある 全国八幡さまの

総本宮 宇佐神宮 二之御殿にも祀られていて、『 宇佐市観光協会発行・

国宝 宇佐神宮 神仏習合の里 散策マップ 』 によると、多岐津姫命、

市杵島姫命、多紀理姫命
という名の3人の女神さまを指すみたいです。







奈多宮御由緒( 現地解説板 )にもある通り奈多海岸の沖合に浮かぶ

市杵島を元宮とする 八幡奈多宮は、八幡社の3人の女神たち=比売

大神が示現した地、つまり 比売大神発祥の地なのです

奈多宮御由緒1

だから何? って声が聴こえてきそうですけど、 

今回せっかく八幡奈多宮の散策レポを書くならと、御祭神に纏わる話なども

調べてみたんです そしたらまぁ何とも心ときめく素敵な発見が










その前に、ふたつめの鳥居を潜りましょうか

八幡奈多宮・二つ目の鳥居

近年、邪馬台国はどこにあったのか論争が、夢とロマンたっぷりに

繰り広げられてますよね 映画・まぼろしの邪馬台国も記憶に新しい

ところです。 結末はどうだったか、すっかり忘れちゃってますが

確か メーテルリンクの青い鳥みたいに、ずっと探し続けていたものは

実は身近にあった
、的な締めくくりではなかったかな~



 

先日、比売大神( ひめおおかみ )応神天皇で検索してたら

その邪馬台国絡みのサイトに幾つか辿り着きまして、そこには 卑弥呼と

比売大神( ひめおおかみ )を同一視する諸説
もあるとの記述が

邪馬台国があったとされる場所には、大分県の宇佐市も堂々ノミネート

してます。 もしも、奈多海岸沖の岩礁に降臨した八幡の女神さま=

比売大神( ひめおおかみ )が卑弥呼ならば、大分県の宇佐市に 全国の

八幡社の総本宮が在るのも頷けます 伝説の女性 卑弥呼さんは

夢や想像力を授けてくれる、まさしく女神さまなのかもしれませんね







さてさて、比売大神や卑弥呼さんまでとは いかずとも、

八幡奈多宮にはもうひとり大変な女性がいらっしゃるんです

後編ではその女性について、親愛を込め綴ってみたいと思います








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2012/08/30(木) 18:07 | コメント:8 | トラックバック:0 |
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