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まーりたん

Author:まーりたん
大分県で暮らす四十路主婦
“ まーりたん ” の
ブログへようこそ(*^^*)♪

日々を彩る ちょっと素敵な
出来事を我が家の笑導犬?
マンジ君と楽しくお届けして
ます。目下、郷土史に夢中♪
心躍る探訪をご一緒に。

臼杵の富士甚醤油マスコット
キャラ・とっくりこだぬき君が
仲間入りしてからは、嬉しさ
余ってマンジ君の“ 悪がね ”
ぶりもますますエスカレート。

そんなふたり(2匹)の様子も
併せてお楽しみ下さい(*^^*)

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柳川市 鍛治屋町にある 臨済宗妙心寺派の寺院 天叟( てんそう )寺

天叟寺(てんそうじ)高橋紹運公記念塔

天叟寺境内には戦国時代、豊後国守護21代目・大友宗麟の命で筑前へ赴任、

大友家の重臣・立花( 戸次 )道雪と共に 粉骨の働きをした勇将 高橋紹運

( じょううん )と、その妻 宋雲尼( そううんに )の合祀墓が建てられてます





高橋紹運については、昨年夏の柳川探訪記で少し御紹介させて頂きましたが、

今回は、江戸時代の浮世草子作家にも影響を与えたと噂される逸話を遺した

素敵なご夫婦高橋紹運さんと宋雲尼さんの生涯を、時代背景その他交えつつ

数回に分け、お話してみたいなと思います。 宜しければお付き合い下さい






宋雲尼の実父は、豊後大友氏20代 義鑑(よしあき)に仕えていた斎藤長実

斎藤長実( ながざね )は、当主を支える重臣の中でも 政治の補佐や領国支配を

担当するトップチーム 加判衆( かばんしゅう )の一人で、丹生庄( 大分市 )領主を

任されていました。 が、天文19( 1550 )年2月、かねてより主君・義鑑から

実行を迫られていた嫡子・義鎮( よししげ=後の宗麟 )廃嫡に同意しなかった為

謀殺されてしまいます これに危機感を覚えた同・反対派の大友家重臣二名が

決起し、クーデター( 大友二階崩れの変 )が勃発。 実の父親を重臣に討たれる

という苦難を背負い 義鎮( 宗麟 )は家督を継承、豊後大友氏21代目当主へ






先哲史料館に鎮座する憂いを秘めた若き日の義鎮(宗麟)公。 ハンサムです

大分県立先哲史料館HPより・大友宗麟公

当時21歳だった義鎮(宗麟)は、自分の父によって謀殺された重臣・斎藤長実の

遺児・鎮実( しげざね )を不憫に思い、斎藤長実の跡を継がせ、丹生庄の領主を

任せたのでした。 後、天正6( 1578 )年 耳川の戦いで没するまで宗麟に仕え

数々の武功も挙げ、大活躍した侍大将 斎藤鎮実。 これが宋雲尼の実兄です 


斎藤鎮実の生年は不詳ですが、大友宗麟と年齢が近かったと云われています。

妹・宋雲尼の実名も定かでなく、呼び名は法名の宋雲院殿花獄紹春大姉から?








さ、続いては、柳川返り咲き王子・立花宗茂の実父としても知られる 高橋紹運。 

実家は、豊後( 大分県 )国東半島の吉弘氏で、紹運の実父の名は吉弘鑑理

( よしひろ あきただ )。 大友氏重臣トップチーム 加判衆の一人であり、さらに

その最高峰 豊州三老( 立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理 )の一人でした。






国東市武蔵町では毎年7月、南北朝時代から続く 戦勝と五穀豊穣を祈願する

大友氏一族・吉弘氏ゆかりのお祭り “ 吉弘楽 ” が開催されているんです

国東市武蔵町に伝わる吉弘氏ゆかりの吉弘楽(おおいたデジタル紀行より)

まだ足を運んだことがないのでローカル情報番組・おおいたデジタル紀行の

映像をお借りしてですけど  大友氏宗家を支えた豊後国東( くにさき )の

吉弘氏は、豊州三老の吉弘鑑理を始め、勇将を数多く輩出しているんですヨ


国東市武蔵町に伝わる吉弘氏ゆかりの吉弘楽・楽打ち(おおいたデジタル紀行より)

天正14( 1586 )年、筑前に侵攻した薩摩の島津軍と果敢に戦った高橋紹運は

吉弘鑑理( 豊州三老 )の次男
です。 そして、島津軍から立花城を妻・誾千代

共に守り抜いた立花宗茂( 初代柳川藩主 )は、高橋紹運と宋雲尼の長男。 





慶長5( 1600 )年、九州関ヶ原 石垣原の戦いの際、大友家の再興を願い

亡き主君・大友宗麟公の嫡男である 大友義統( よしむね )軍の侍大将として

黒田如水軍に立ち向かった吉弘統幸は、吉弘鑑理の孫紹運の甥です。 

国東市武蔵町に伝わる吉弘氏ゆかりの吉弘楽(おおいたデジタル紀行)


さて、お話を戻しまして・・・

高橋紹運さんの名前ですけど、まるで出世魚?めまぐるしすぎです 

( 自分が )混乱しない様、順を追って控えておきます

天文17( 1548 )年、豊州三老・吉弘鑑理の二男として生まれた高橋紹運の

幼名は 弥七郎。 元服後に主君・大友義鎮( 宗麟 )から一字を貰って

吉弘弥七郎鎮理( しげまさ )と名乗ります。 後に筑前の高橋氏を継いで

高橋鎮種( しげたね )。 剃髪して高橋紹運( じょううん )と号します、OK






高橋紹運さんの人となりは、次回以降ぼつぼつと綴らせて頂く予定の

宋雲尼さんとの婚儀や、師父と慕った戸次鑑連( べっき あきつら=立花道雪 )

そして主君である大友宗麟のために義烈を尽くす姿勢、その優れた働きから

おのずと伝わってくるのではないかなぁと思いますが、あえて書くならば

紹運は饒舌を好まず思慮深く、それでいて勇気もあり、ここぞという時には

怯むことなく自分の意見をはっきりと述べ、敵方さえうならせてしまう・・・

若年にして将としての資質は充分だった様です






永禄10( 1567 )年11月18日に長男・千熊丸( 後の立花宗茂 )が

誕生したことから、高橋紹運と宋雲尼の結婚は永禄8( 1565 )年頃、

弥七郎鎮理( 紹運 )19歳、夫人は16歳ぐらいだったと推算されています。

戦国期にありながら、たとえ短くとも心の通い合う幸せな結婚生活だった事は

間違いなさそう 資料を読んでいるこちらまで満たされた気持ちになります





長くなりました。  

この続きは次回にて





紹運と宋雲尼【1】【







●参考文献、サイト : 吉永正春著 『 九州戦国の女たち 』

 高山由紀子著 『 国東物語~ドン・フランシスコ 大友宗麟

 おおいた暮らし・国指定重要無形民俗文化財「吉弘楽」国東市

 武家家伝 『 斎藤氏 』 『 吉弘氏 』 / 宋雲尼~うたかたの夢







本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます 

 
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2013/09/19(木) 18:09 | コメント:4 | トラックバック:0 |

返り咲き王子 立花宗茂公をモデルにした( と思われる )

柳川市うなぎめしマップキャラクター りっかくんです

うなぎめしマップキャラクター・りっかくん

りっかくんのトレードマークは、輪っかの付いた甲冑。

兜だけじゃなく、胴部分にも輪っかがあしらわれているんですヨ

その実物を展示しているのが 柳川藩主立花邸 『 御花 』 敷地内の

立花家史料館殿の倉

立花家史料館『殿の倉』

立花家史料館では、柳川藩祖 立花宗茂公以来400年以上ものあいだ、

立花家の方々がこの場所で守り、代々受け継いでこられたという

貴重な武具や装束、美術工芸品などを収蔵展示 

更に 三柱神社の御祭神でもある立花道雪( 戸次鑑連 )、立花誾千代姫、

立花宗茂公に加え、宗茂公の実父・高橋紹運の肖像画付きの解説パネルや

立花家の家系図も 立花家の歴史や文化を存分に体感できます

  





史料館入館は御花見学共通チケット、¥500です

柳川藩主立花邸・史料館共通御花入園チケット

入場チケットを勇壮に飾るのは勿論、りっかくんの甲冑

立花道雪を初代とする立花家2代目で、初代柳川藩主

立花宗茂所用の 鉄皺革包月輪文最上胴具足

( てつしぼかわつつみ がちりんもん もがみどうぐそく )。




それにしても、月輪文と称される胴部分の輪っかマーク

熊本城の築城主であり、大分市鶴崎地区では今も せいしょこ様と呼ばれ

愛されている加藤清正公の 蛇の目紋に見えて仕方がないんですけど





で、立花家史料館・殿の倉ホームページコチラ をチェックしたところ、

鉄皺革包月輪文最上胴具足に関する記述は以下の通り( 『 』 内抜粋 )

『 胴に大きく描かれているのは、兜の脇立と同じ意匠の輪貫文

( 立花家の御道具帳では月輪と記す )。 これを蛇の目紋に見立てれば、

宗茂と親交のあったといわれる加藤清正との関わりも想像され、興味深い。

胴廻りは大ぶりで、地鉄は厚く、重量が草摺とも12キログラムと非常に重い。

宗茂は、当時としてはずいぶん体格の良い人物であったことが想像される 』





なるほど~ 確かに加藤清正公は立花宗茂公にとって命の恩人でも

ありますし、義に厚い二人の父を持つ宗茂公の事、きっとそうだと思います 

関ヶ原の戦いでは西軍に加担した宗茂公。 東軍・京極高次の大津城攻めを

断念し、柳川城へ戻った後の籠城戦を説得降伏させたのは確か、

清正公の他に、もう一人いらっしゃったと聴いてますけど・・・まぁいいか 

まーりたんの意中の大名は、月影の棋士だから 










さて、立花家史料館を入ってすぐ右手に展示されていたのは、

今年6月13日に 歴史秘話ヒストリアで “ 強く賢い 戦うお姫様 ” として

紹介され、人気急上昇中の 立花誾千代姫に関する資料

立花史料館を入ってすぐ右手には立花誾千代の紹介文

城督としての器量を実父・立花道雪から見込まれた立花誾( ぎん )千代姫は、

わずか7歳にして 立花城の城督を継ぎ、13歳で2歳上の宗茂と結婚

立花道雪を病で、高橋紹運を岩屋城戦で、二人の父を相次いで亡くす

誾千代と宗茂ですが、力を合わせ立花城を薩摩の島津軍から守り抜いた事で

秀吉によって、主君である大友氏から独立した大名に取り立てられ柳川城

栄転 このとき立花宗茂は19歳、誾千代はふたつ年下だから17歳






関ヶ原の際には、誾千代の反対を押し切って西軍に付き、約4千の兵を率い

戦地へ赴いた夫・宗茂 その留守中、柳川城へ攻めてきた東軍・鍋島軍を

誾千代は残りの家臣達を集め、知略で撤退させたと言われています

ヒストリアの紹介、左には誾千代の肖像画

解説パネル上の壁面には、歴史秘話ヒストリアのポップ

同じ放送回で、鶴崎城主の母・吉岡妙林尼さんも紹介されました

ポップの左側には四百年の時を経て、昨年公開された良清寺蔵の・・・










立花誾千代姫の肖像画 お綺麗な方ですよ

四百年の時を経て昨年(2011年に)公開された立花誾千代姫の肖像画(良清寺所蔵)

館内の展示物は、立花史料館HPに記載されている規定を守れば基本、

撮影は自由の様です有難いですネ 宗茂公の甲冑を、上等そうな

カメラでもってガラスに貼りつき、撮影されてる男性も見かけました

なおインターネットによる公開を伴う場合は立花家史料館HPへの

リンク及び所蔵元・立花家史料館と明記下さい、と添えられていました







立花家史料館には、豊後大友氏6代目・貞宗の子で、立花山城の築城主

立花氏始祖 立花貞載( 大友貞載 )が、足利尊氏より拝領した国宝の刀

所蔵されているそうです この日は見落としちゃったのか、展示されて

なかったのか、帰宅後に史料館のHPを見て知りました。 残念









気を取り直して、こちらは立花家の家紋である 杏葉紋祇園守紋

立花家の家紋・杏葉紋と祇園守紋380

最初、立花家は主君・大友氏ゆかりの 杏葉紋を使用していましたが、

立花宗茂の養子( 立花直次の第4子 )で、柳川藩主2代目・立花忠茂公の

頃から 祇園守紋に移行した様子。 銀杏らしき葉っぱから延びたツルで

クロスした中央の巻物を縛った、ちょっと不思議な御紋ですよね

立花家の家紋について380

祇園守とは、京都東山にある八坂神社のお守りを指すそうなんですが、

家紋の由来 』 というサイトで調べてみたところ、

キリスト教のクルス( 十字架 )を図案化したという説を発掘

『 定かとは言えないが、キリシタン大名やその家臣がクルス紋を

祇園守紋に変え、カモフラージュしたことは確からしい 』 との記述も 

ちなみに 豊後大友宗麟鉄砲隊の馬印は

杏葉紋に筆十字クルスですけどね コレお気に入りなんです








柳川市 奥州町に在る立花家の菩提寺 『 福厳寺 』 の山門にも、

祇園守紋を連想させる彫刻が施されてました

福厳寺・山門の彫刻

解説板によれば、福厳寺は天正15( 1587 )年、

義父・戸次道雪の菩提を弔うために、立花宗茂公が建立。

立花家菩提寺・福厳寺・問註所さんのお墓も

芥川賞作家の長谷健、直木賞作家の壇一雄、自由律の俳人

木村緑平のお墓もここにある、と解説板には記されていました 



まーりたんは 『 問註所 』 さんという珍しい姓のお墓が気になって

仕方がなかったんですけど、後で調べたら道雪さんの室の姓でした

こういうのって、パズルのピースがカチッと小気味よくハマっていく感覚と

いうか、小さな感激の連続ジャブなんですよね~楽しいナ









ふたたび 柳川藩主立花邸 『 御花 』 に戻りまして・・・

レストランが入った棟 『 対月館 』 のロビーには、立花宗茂公所用の

火縄銃が展示されていました もちろんレプリカです

立花宗茂所用・火縄銃・墨縄
立花宗茂公所用火縄銃・墨縄レプリカ(札) 名前は、墨縄かぁ






柳川城天守の模型も 柳川城の記事でご紹介した写真はコレです

柳川城・天守の模型

ときに大分市でも、地域活性化グループ 『 くすのきクラブ 』 の方々が、

江戸時代の城絵図を基に、70分の1サイズで 府内城本丸を甦らせた

そうですね 今朝の大分合同新聞には、プラチナヘアに瞳を輝かせて

模型を見つめる くすのきクラブメンバーの方々の写真が掲載されていて、

つられてニンマリしちゃいました 笑顔の種まき、ありがとうございます

府内城本丸の模型は今後、教材などとしても活用予定だとか。

子ども達にも笑顔や夢がいっぱい伝染すると良いなあ、と思います







柳川藩主立花邸 『 御花 』 対月館のテラスより見下ろす外堀

御堀・どんこ舟

上水は松濤園へ導かれ、松濤園より溢れた上水は、御堀の下を通って

下流域の水路へと導かれるのだそう。 絶えず巡り、循環してるんですね













「 おやずいぶん静かだと思ったら、マンジ君お昼寝してたのか

静かだと思ったら・・・マンジ君お昼寝かな?

「 どんこ舟に揺られる夢でも見ているんだろうか、それとも

もしかすると また・・・













「 思った通りだ マンジ君は多分、コレに驚いて気を失ったんだな 」

また勝手に画像ファイルを開いてたんだな、まさかこれを見て驚いたんだろうか

「 悪戯ばかりするわりには、意外と気が小さかったりするんだよなぁ








気が付いたかい?マンジ君

「 あっ、気が付いたかい マンジ君。 だからいつも言ってるだろう

まーりたんさんの画像ファイルを勝手に開けちゃダメだって















ギョロメ入道3D版ニャのだ

ギョロメ入道が3Dにニャったのだ!

えっ、ギョロメ入道? それは僕のことかい















「 見間違うほど似てるんだろうか・・・ 」

見間違うほど似てるだろうか・・・




「 立花道雪さんと・・・、 」

立花道雪(戸次鑑連)肖像画(所蔵元・立花家史料館)



「 僕って・・・ 」

立花道雪さんと僕って・・・



こだぬき君は道雪さんを一度演じてるし、仕方ないかもね






大友氏に忠誠を尽くし、宗麟にとっては実の父に勝る掛け替えのない

存在だったであろう重臣・立花道雪( 戸次鑑連 )さん縁の地を歩いた

夏の終わりの柳川紀行2012、この辺でお開きにしたいと思います。

お付き合い下さった皆さま、ありがとうございました









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2012/09/20(木) 20:27 | コメント:5 | トラックバック:0 |

台風16号が遠ざかり、羊雲の高い空に爽やかな秋風が吹いた昨日の午後、

大分合同新聞の夕刊1面で大きく報じられた、大変興味深いニュース

大分合同新聞2012(平成24)年9月17日・夕刊

戦国大名・大友宗麟が庇護した事により、16世紀末には豊後( 大分県 )の

キリスト教信者数は、臼杵市を中心に5万人を超えていたといいます 

中でも サーラ・デ・うすきに所蔵展示されている INRI碑が発見されたり、

磨崖クルスが残る臼杵市野津町の下藤地区は、宣教師ルイス・フロイスが

日本史に記した “ 野津の裏山広場に美しい十字架一基を掲げた ” 幻の

キリシタン墓地がある場所だと考えられていて、調査も進められています
 



新聞記事によれば、今回は 磨崖クルスの方角に軸線を向けて造られた

礼拝堂の礎石や、円形に砂利を敷き詰めた広場跡と思われる遺構を確認。

副葬品ではなく、墓地全体がほぼ原形のまま見つかったのは国内でも初めて

らしく、研究者にとっては未知の領域であり、今後の基準となる重要な史跡

なのだそうです 徳川幕府の禁教令から奇しくも四百年というタイミング

先人さん達の声に心の耳を澄ませてみたい、そう思った秋の日でした



 






さて、川下りのどんこ舟に勝る ゆらゆらのんびりペースでお届けしています

夏の終わりの柳川紀行、今回は 元文三年( 1738 )年、柳川藩主5代目

立花貞俶( さだよし )が、柳川城の南西隅に、家族と過ごすプライベート

空間として設けた別邸 御花( おはな )を ご紹介したいと思います 

柳川藩主立花邸・御花・正門と西洋館

御花は、柳川観光バスツアーには必ずと言ってよいほど組み込まれている

超有名観光スポットで、柳川のシンボルです なので、お邪魔するのは

初めてではありませんが、何度来ても圧倒されるのはこの立派な正門 


正面に見える洋館は、明治43( 1910 )年、立花家の迎賓館として

建てられた西洋館で、今は結婚式場としても利用されているそうです




( 回廊から眺める西洋館鹿鳴館様式の流れをくむ伝統建造物です )
回廊から眺める木造2階建の洋風建築・西洋館・伯爵家の迎賓館



また、御花園内ご案内図には 明治時代、伯爵だった立花家14代当主

立花寛治( ともはる )が造営し、現在は国の名勝になっている日本庭園

松濤園( しょうとうえん )の沓脱石は、柳川城旧天守閣の台石を

移したとの、これまた興味深い記述も 



( 対月館のテラスより見下ろす国の名勝・松濤園
対月館テラスから国の名勝・松濤園を見下ろす



松濤園に面した大広間は客室として設けられた総木曽桧造りの空間。

中の間、三の間の床は畳を取り除くと、なんと能舞台になるんですって

( 鴨居にずらりと並ぶ、見るからにユーズドの金箔兜にもご注目 ) 
大広間と御居間

これらは、このあと見学予定の立花家史料館にも収蔵展示されている

立花家に伝わる兜。 西洋甲冑の影響を受けており、桃の実を思わせる

形状から、名前は 金箔押桃形兜( きんぱくおしももなりかぶと )

金箔押桃形兜・解説板

思った通り、どうやら実際に戦場で着用された兜も含まれてる模様

これだけの時空ソルジャー部隊が四六時中睨みを利かせていれば、

泥棒さんもうかつには忍び込めませんよね。

みつかったら最後、どこまでも追いかけられそうだし 







大広間へ通じる廊下角には柳川城下町絵図も飾ってありました

城下町絵図・柳川城を囲む武家の名。戸次、由布、十時など大分でも馴染み深い姓が

柳川城を取り囲む武家屋敷の主は、戸次、由布、十時( ととき )氏

などなど、大分市でも馴染みの深い姓が目立ちます 







終戦後、旧伯爵邸は 『 松濤館 』 と呼ばれる料亭旅館に。

柳川藩主立花邸御花本館松濤園、松濤館マップ

時代の流れとともに機能は変化しても、回廊で繋がれた趣ある建物たちは

当時の佇まいを存分に感じさせてくれます。 開け放した木戸を抜ける風に

吹かれていると、まるでエレガントなマダムになった気分ざますのよ。

回廊

まーりたんと一週間前後して、柳川散策を愉しまれたという

ブログ 『 ぼちぼちいきましょう 』 のオーナー

doremiちゃん さんは、西洋館内や守衛室ギャラリーも見学されています 


記事はコチラです 柳川そぞろ歩き

URL:http://bochibochidoremi.blog133.fc2.com/blog-entry-519.html

立花家史料館『殿の倉』

次回、夏の終わりの柳川紀行2012 最終回( 予定 )は、

御花敷地内に在る 立花家史料館をご紹介したいと思います 







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2012/09/18(火) 06:07 | コメント:18 | トラックバック:0 |

柳川藩主立花邸 『 御花( おはな ) 』 の北、柳川市本城町に在る

柳城中学校と柳川高校に挟まれた小丘の上に本丸跡を遺す 柳川城

柳川城址(柳城中学校、柳川高校)


来月車検を控えた愛馬プリウスを馬場に停め、道路わきの解説板を

熟読していたら、おそらく柳川高校野球部の生徒さんでしょうね

わきを締めた直向きなフォームでクルマの横辺りまで駆けて来ると

まーりたん達を認め、気を付けの姿勢で、わざわざ帽子まで取って

こんにちは 」 と、ものすごキレ良く挨拶して下さいました

柳川城址・解説

敷地内へ勝手に車を乗り入れ 写真を撮りまくっている怪しい中年女を

これっぽっちも訝しげに見る事もせず、なんて出来た生徒さんでしょう

あ、いえ、どういたしまして 」 気が付けば小声でそう返事してました







さて、いよいよ立花宗茂公が見事にリバイバルを果たしたラッキー

キャッスル柳川城( 址 )へお邪魔しますが、本丸跡への登り口には

柳川城址について更に詳しく記述された解説板が建っている模様。 

柳川城址解説板と石塔が見える


柳川城の歴史は古く、藤原氏の時代に砦として築かれたという伝説も

残るものの、本格的にお城が造営されたのは永禄年間( 1558~1569 )、

築城主は、戦国時代の筑後国南部の大名・蒲池氏16代 鑑盛( あきもり )と

されています 蒲池鑑盛さんも、これまた誠実で義に厚い大変優れた武将

だったらしく、ウィキペディア蒲池鑑盛によると、家臣の反乱から逃れてきた

肥前( 佐賀県 )の大名 ・龍造寺氏を二代に亘り保護。 後の龍造寺隆信の

肥前復帰は、柳川城主 蒲池鑑盛なしでは果たせなかったと言われてます。

柳川城は、ここで既に復帰に絡むミラクルを起こしていたんですね

柳川城址(現地解説板)1


また、蒲池鑑盛は豊後の大友氏の家来としても大活躍し、大友宗麟から

数多くの感状を贈られているそう ですが、耳川の戦いで没します




蒲池鑑盛の息子・蒲池鎮並( 鎮漣 )は、混乱の隙に大友氏の勢力圏を

奪いにかかった肥前の龍造寺隆信へ一時的に寝返るものの、再び大友氏へ

戻ろうとしたために龍造寺氏により謀殺され、柳川城も奪われ、蒲池氏は

滅亡 大友氏は、立花道雪と高橋紹運を派遣し、龍造寺氏の柳川城を

攻めますが、カミナリオヤジじゃなかった 雷神の渾名を持つ立花

道雪
でさえも攻めあぐねた堅固な城だった事から、柳川城を物語るときには

「 柳川三年 肥後三月 肥前久留米は朝茶の子 」

なんて言うんだそうです

意味は、柳川城を落とすのには三年かかり、肥後( 熊本城 )は三か月、

肥前( 佐賀城 )と 久留米城は朝飯前。 現地解説板のココにも

柳川城址(現地解説板)2


そして戦国末期、立花宗茂公の時代が幕を開けます。

立花宗茂の実父が守る太宰府の岩屋城を落城させた薩摩の島津軍は、

立花道雪から誾千代を経て宗茂が引き継いだ立花城へも攻めてきます

立花宗茂は妻の誾千代とタッグを組み、島津軍に徹底抗戦。

援軍( 豊臣軍 )の九州到着まで持ち堪え、立花城を守り抜きます

それだけでなく宗茂は、高橋紹運との戦いで消耗していた島津軍を追撃

実父・紹運の岩屋城や宝満城などを奪還する武功も挙げます。

これにより秀吉から宗茂は筑後柳川13万石を与えられ、初代柳川藩主に。

義父の道雪がどうしても攻め落とせずに地団駄を踏んだお城が、奇しくも

宗茂公の手中に落ちてくるなんて、誰かが仕組んだみたいですよね







ところが、秀吉への恩義から後の関ヶ原の戦いでは宗茂は西軍に加担。

柳川城に籠城する宗茂を、加藤清正黒田官兵衛らが説得し降伏させます。

領地を奪われ、妻の誾千代も病で亡くし、牢人生活を送る宗茂でしたが、

努力と人柄を家康に気に入られ、柳川藩へ異例の復帰を遂げるのです


柳城中学校のグランドを横目に柳川城本丸跡へ
( 柳城中学校のグランドを見下ろしながら、柳川城本丸跡へ






さらに、一時は滅亡した蒲池氏も 蒲池鑑盛の孫( 三男 統安の子 )で

僧侶だった応誉が、立花誾千代の菩提寺・良清寺を開いたことにより、

応誉は柳川藩主・立花氏の家老となり復帰。 蒲池の名を再興します

こうしてみると、柳川城はまるで、不死鳥のご加護を受けているかの

ように思えてきます おそるべし柳川城関係者リバイバルマジック










で、夏草が覆い被さる螺旋状の石段を上がってみると・・・

あらっ、ちゃんと天守閣が建ってるじゃない

柳川城の写真(御花にて撮影)

でも、ここに天守が建っていたのは明治初期まで。

元和7( 1621 )年 立花宗茂公が再び柳川城主となり、以後

柳川城は立花氏10万9千石の居城として明治維新を迎えますが、

柳川城址の解説板によれば、明治5( 1872 )年1月18日の失火に

より焼失 石垣も海岸堤防の補強に使用されるなどし、現在は

柳城中学校の校庭の一隅に小丘と石垣の一部を残すのみなんだとか。

天守の写真と説明書きは、柳川藩主立花邸・御花にて撮影しました





柳川城址・解説板見つけた!

本丸跡には 柳川城の絵図つき解説板が



柳川藩主立花邸 『 御花 』 対月館には 天守の模型も飾られてました

その説明書きによると、柳川城は単層入り母屋造りの奥行きの深い長櫓

南中櫓( みなみなかやぐら )に、天守閣は五層五階、八棟造りの層塔。

柳川城絵図

天守の高さは地上約36mで、およそ8階建てビルに相当するそうです

初層は約15.3m×19.1m、

第五層( 最上層 )は約7.6m×9.6m( 推定値 )。

天守台の石垣は高さ約8.1m( 本丸地面から )








現在の柳川城本丸は、こんな感じですけどね

柳川城の本丸跡

ここでお弁当をひろげて、立花道雪さんが落城させられずに

悔しがったという名城柳川城の姿を想像するのも楽しそう








それでは最後に、立花宗茂公が柳川城へ返り咲くまでの期間中

柳川名物の川下りコースにもなっているかつての水運、農業用水路の

掘割、有明海沿岸の堤防や街道整備に至るまで、柳川都市化計画に

尽力された柳川城主 田中吉政公についてのレポを少しだけ





手持ちの資料 双葉社の 『 戦国100大名 』 には “ 石田三成を

捕えた男
” として掲載されていたので、そちらも読んでみました

吉政公は近江のご出身で、豊臣秀吉の小田原征伐では秀次軍として闘い、

また関ヶ原の前には、黒田長政や藤堂高虎と共に西軍に先手を打ったりと、

大活躍された武将さんなんですね まーりたんは、まだまだ今のところ

九州の大名だけでアップアップなもので、知らなくてすみません吉政公





関ヶ原において、敗走中の石田三成を捕縛する大手柄を挙げたことが

吉政公が筑後柳川城32万石の大名になるきっかけだったわけですが、

ウィキペディア田中吉政には、捕縛の際、腹痛を起こしていた三成へ、

吉政は体に良いニラ粥を差し出し、気遣ったというエピソードも 

石田三成は、お礼に秀吉から授かった短刀・石田貞宗を吉政公に渡し、

他の者より、お前に捕えられた方が良い 」 類の事を言ったのだとか。





戦国の世って、人を人とも思わずバッサりやっちゃうイメージが

拭えないんですが、こうして礼節を弁えた武将さんたちのエピソードを

知るたびにホッとします 霊名は バルトロメヨとの記載もありました。

田中吉政公って、キリシタン大名だったのかしら

柳川城本丸跡にクルスの刻印岩を発見!田中吉政公に由縁?

実は本丸跡に磨崖クルスらしき物を見つけちゃったんですよね~

島津さんの御紋にも似てるけど、十字は十字だしな・・・

心の耳を澄ますと、もしや吉政公からメッセージ送信がムリか・・・



02-01次回は立花邸内の史料館へ

次回は、柳川城址からすぐの 柳川藩立花邸・御花を訪ねる予定です













「 まーりたんは白黒人間ニャのだ

三日月形の散策日焼けです・・・

散策しすぎで、サンダル型に日焼けしちゃったのよ、マンジ君










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2012/09/14(金) 19:08 | コメント:10 | トラックバック:0 |

三柱神社に続いて訪れたのは、初代柳川藩主・立花宗茂公の実父で

豊後大友氏家臣 高橋紹運の菩提寺 『 天叟寺( てんそうじ ) 』 。

立花宗茂の実父、高橋紹運の菩提寺・天叟寺(てんそうじ)

天叟寺は、福岡県柳川市 鍛治屋町に在る臨済宗妙心寺派の寺院。

二代柳川藩主 立花忠茂が、高橋紹運の菩提を弔うために

寛永年間( 1624~1643 )に建立したのが始まりとされてます






大分市歴史資料館では、 ootomo3にん組の一員としても

ご活躍中の 高橋紹運さん。 一体どんな人なの






今年の1月に 大友氏遺跡体験学習館で頂いてきた歴史教室資料

『 九州6か国の守護 宗麟の栄華~大友氏400年 現れた大友館 』 、

ウィキペディア高橋紹運天叟寺( てんそうじ )の現地解説板等を

参考に、郷土史の勉強かたがた御紹介させて頂こうと思います

九州の歴史にご興味ある方、どうぞお時間の許す限りお愉しみ下さい 







豊後の大友氏には、なんと約250家もの家臣団がいたんですって

その中でも当主を支え、政治の補佐や領国の支配を担当する重臣を

加判衆( かばんしゅう )と呼び、加判衆の中でも特に優れた人々

つまり大友氏重臣トップチームを 豊州三老( ほうしゅうさんろう )と

21代宗麟の時代には呼んでいたそうで、戸次鑑連( 後の立花道雪 )、

臼杵鑑速( うすきあきはや )、吉弘鑑理( よしひろあきただ )が

これに当たります。 高橋紹運は、その豊州三老・吉弘鑑理の子でした。 







毛利氏との戦いで大活躍した豊州三老の 戸次鑑連( べっきあきつら )

宗麟の命により元亀2( 1571 )年、立花城( 福岡県糟屋郡 )の城督に。

北九州の軍権を任せた立花道雪( 戸次鑑連 )の補佐役を務めさせる為、

高橋紹運には 岩屋城と宝満城( 福岡県太宰府市 )が与えられます 







天正9( 1581 )年、高橋紹運の長男・統虎( 後の立花宗茂 )は、

立花城主で道雪の娘・立花誾千代の婿養子に迎えられ、家督を継承。 

天正12( 1584 )年、高橋紹運は、立花道雪とともに筑後地方を攻略。

黒木氏や蒲池氏を配下に置き、龍造寺氏の柳川城を攻めます

武勇においては道雪に劣らぬものがあったと云われる高橋紹運。

イメージは、こんな感じ

立花邸・御花の売店外壁に紹運&道雪&宗茂公

立花家史料館の売店外壁に掛けられていたものをパチリ 

薙刀を振るうのが恐らく高橋紹運。 右で軍扇を執るのは立花道雪。 

輪っかの付いた兜は、武勇に秀でた二人の父を持つ りっかくんこと

立花宗茂公でしょう しかし皆さん猛々しいですね、キマってます








ところが道雪は陣中病に倒れ、天正13( 1585 )年に亡くなります

翌年の天正14( 1586 )年、九州制覇を狙う薩摩の島津軍が豊後を侵攻。 

1578年の 日向 耳川の戦いで、すでに大友軍に大ダメージを与えていた

島津軍は勢いを増し北上します 長宗我部父子ら豊臣先発隊が奮闘した

戸次川の合戦
にも圧勝し、ついに島津軍は大友の本拠地・府内(大分市)へ。

宗麟が築いた南蛮文化に彩られた美しい街並みも焼土と化します 

(てんそうじ)・高橋紹運の菩提寺

天叟寺の境内には、道雪の死後、宗麟の懇願を受けて秀吉が手配した

豊臣軍が九州へ到着するまでの間、岩屋城で島津軍と戦い亡くなった

高橋紹運公ならびに家臣たちの記録を刻んだ慰霊の碑文があります

高橋紹運公並びに岩屋戦殉者四百年祭碑文1

高橋紹運公並びに岩屋戦殉者四百年祭碑文2

高橋紹運さんは武勇に優れているだけでなく、至誠、義烈の人でもあり

家臣や領民たちからの信頼も大変厚かったと言います。 自ら大太刀を

ふるって敵陣と戦い抜き、豊臣秀吉も、敵である島津軍の大将でさえも

その死を大変惜しんだとか... また紹運は、婚約中に疱瘡を患った事で

容貌が変わり破談を申し出てきた正妻に、「 私は、あなたの心の優しさや

内面に惹かれて婚約を決めたのだから、容姿が変わろうとも問題はない


と、そのまま妻として迎え 仲睦まじく暮らしたと言う逸話も残ってます 

高橋紹運さんは側室を持った記録も無いみたいなんです


天叟寺(てんそうじ)山門・紹運公、岩屋戦殉者の皆さま、安らかに。

天叟寺( てんそうじ )山門の上には美しい青空

紹運さん、岩屋城で戦い抜いた家臣の皆さん、どうぞ安らかに

あなたのような求心力のある方が現れてくれることを祈りつつ・・・







天叟寺のある鍛治屋町から大通りを北へ渡った斜向かいには、

鍛治屋町


立花誾千代さんの菩提寺 『 良清寺 』 が在ります

浄土宗・良清寺(誾千代の菩提寺)

立花家史料館で公開されている誾千代姫の肖像画は、

このお寺の所蔵品だそうです そして良清寺山門の前には・・・

浄土宗・良清寺

子は親の言う通りにはならぬが 親のする通りにする

これは親子関係のみならず、それに準じた関係全てに言える事ですネ。




ゆうべNHKのプロフェッショナルに高倉健さんが出演されてました

「 心は映る 」 まさしく、その通りです。

北野武さんは高倉健さんをシロナガスクジラに喩えていたけど

昨夜は本当に尊く美しいものを見せて頂いた気持ちです 

ご覧になられてない方は何のことがサッパリですね、すみません。

独り言です









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2012/09/11(火) 19:17 | コメント:6 | トラックバック:0 |

柳川名物 うなぎのせいろ蒸しで ガッツリ腹ごしらえをして、

ベテラン船頭さんのドキドキパフォーマンスも絶妙なタイミングで

見物でき、すっかり気分を良くしたところで 今回の目的だった水郷

柳川市 歴史めぐりの旅へ、いざ出発

 






最初に訪れたのは、三橋町 高畑にある 三柱( みはしら )神社

国道443号線沿いの 下百町( しもひゃくちょう )乗下船場から直ぐです

三柱神社と参道

この神社の御祭神は、豊後の大友氏20代義鑑と 21代宗麟に仕えた重臣

立花道雪( 戸次鑑連 )、道雪の娘で僅か7歳にして家督を継ぎ

立花城となった 立花誾千代( ぎんちよ )姫、大友氏家臣

高橋紹運の子で 誾千代姫の夫、初代柳川藩主の 立花宗茂公

三柱神社由緒記1・380

三柱神社由緒記( 現地解説板 )には配祀として神社の建立に携わった

歴代柳川藩主の名、道雪の奥さんと宗茂公のパパの名前もありますね







社務所近くの現地解説板によると、三柱神社の神域は 約62,000㎡。

社殿へ続く長い参道は旧藩時代、馬場として使用されていたそうです

参道の中央には松並木、左右には吉野桜、参道北端には御影石の大鳥居。

左に心字の池があり、廻廊は安芸の厳島神社を模して建造。

うっそうとした楠の巨樹の奥には日光東照宮の陽明門を象った見事な楼門。




ただ、残念なことに平成17( 2005 )年の火災により

( 放火と書かれてました・・・

この楼門を含む大部分が焼失してしまったのだとか・・・






下の画像は、今の本殿 

三柱神社(裏には再建中の本殿)

裏には半分ほどが焼け、現在復旧中の本殿と工事の足場が見えてます






関ヶ原の戦いでは西軍に加担したため、一時は全てを失うものの、

その後の頑張りで見事、柳川城主に返り咲いた立花宗茂公のように

三柱神社が往年の姿を取り戻せる日を、心よりお祈りしています





そして豊後府内( 大分県大分市 )から無事に柳川まで来れた事に感謝

道雪さん、誾千代さん、宗茂公、お邪魔します

三柱神社由緒記2・380

関ヶ原で西軍に加わった者の中で、

かつての領地に甦ったのは立花宗茂のみ






そんな宗茂公にあやかってか、三柱神社は復活の社としても

有名らしいんです で、今年6月、誾千代姫と 吉岡妙林尼さん

紹介された歴史秘話ヒストリア番組内にも登場した 蘇り御守

まーりたんも買ってみました マンジ君、持ってきて












これが蘇り御守ニャのだ

蘇りお守りニャのだ


白地の左側は毎年10月9日~11日の3日間行われる三柱神社

秋季大祭( おにぎえ )の 踊り山車がデザインされた御守り。

淡いピンク地に鳳凰が刺しゅうされた右側が、蘇り御守です

再生、復興を願う皆様にご加護がありますように

いつも貴重なお時間を割いて拙ブログへ足を運んで

下さる皆さま、心より感謝申し上げます 目下、

再起・復興を目指し頑張っていらっしゃる方々には

どうぞ、蘇り御守のご利益がありますように














「 悪戯を何度叱られても懲りないマンジ君は、既に蘇り過ぎだよね 」

悪戯を何度叱られても懲りないマンジ君は蘇り過ぎだよね

「 この御守りだけは、フードに入れて独り占めしちゃダメだよ













ちょっと、こだぬき君もマンジ君も

パソコンの前で遊ばないで頂戴

ブログの続きが書けないでしょ


まーりたんもガミガミ小言ばかりで懲りニャいのだ

「 まーりたんもガミガミ小言ばかりで懲りニャいのだ・・・















正体はガミラス星人ではニャいのか

ガミラス星人ではニャいのか?

「 あっ、それはAyana’さんから頂いたプレゼントBOXの蓋だ















「 まーりたんさん気を失っちゃったみたいだよ。

マンジ君が突然 とらちゃんに変身したと思ったのかな・・・

蘇りお守りを試してみるのだニャ

「 年寄りの冷や水ニャのか 早速 蘇り御守を試してみるのだニャ 」










Ayana’さん、素敵なバースデープレゼントをありがとうございました

また後日、改めてご紹介させて下さい









夏の終わりの柳川紀行、のんびりゆらゆら続きます

夏の終わりの柳川紀行ユラユラのんびり続きます


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2012/09/09(日) 12:49 | コメント:9 | トラックバック:0 |

お盆を過ぎた8月の週末、福岡県は 柳川市へ出かけてきました 

別府湾を臨む大分県大分市から 有明海に面した柳川市まで、

中九州ほぼ横断の旅です 鳥栖ジャンクションで大分自動車道から

九州自動車道に乗り換え、ウチのカーナビ君は教えてくれなかった

新品のインターチェンジ みやま柳川で降り、国道443号を柳川市方面へ。

みやま柳川

みやま市と柳川市の間には、矢部川が流れています。

今年7月初めの北部九州豪雨では、大分県北西部を流れる河川同様

この矢部川でも増水、堤防が決壊したと聴きました。

被害に遭われた皆さま、心よりお見舞い申し上げます







車窓を流れる どこまでも青々と豊かな みやま市の風景に

少しホッとしつつ・・・  柳川市までは約11キロの道のり 

青々とした長閑な田園風景の中を奔る国道443号線を柳川方面へ


途中 道の駅みやまに立ち寄り、これからお邪魔する柳川市の情報を

どっさり入手 ご存知の方も多いとは思いますが、柳川市は映画

東京日和 』 のロケ地でもあるんです 以来、柳川が大好きになり

ヒロイン気分に浸って川下りを愉しんだ思い出も・・・( ミーハーです

道の駅みやまで観光パンフレットをどっさり入手

柳川うなぎめしマップの表紙でフィーバーポーズをとる甲冑姿のボクは

うなぎめしマップキャラクターの りっかくん 輪っかの付いた兜から

推測すると、彼は恐らく立花道雪の娘婿 立花宗茂公でしょうな







さて、そんな りっかくんに導かれ、散策前の腹ごしらえに訪れたのは

柳川市 沖端町の 皿屋 福柳さん

皿や・福柳さん

りっかくんが仰るには、柳川生まれの北原白秋も愛した味だとか







お店の斜向かいには、水郷柳川観光 川下りの乗下船場がありました。 

お店の前は川下りの乗下舟場

柳川市役所観光課のパンフレットによると、柳川市内を網の目状に

巡る水路( 掘割 )の総延長は930Km。 その歴史は何と、今から

およそ四百年前 筑後国主 田中吉政公の時代に遡るんだそうです 








あっ、川下りの舟が帰ってきた

柳川下り

民家や蔵のすぐ裏手を流れ、風情たっぷりの川下りコースでもある

こうした水路( 堀割 )は、田中吉政公の治水、利水工事によるもの。

柳川城下の生命線として、重要な役割を担っていた様です

  






さ、とりあえずは食事食事

福柳さんの店内

河童の置物をはじめ、何だか不思議で楽しい骨董品がランダムに並ぶ

薄暗い土間を通り抜けると、庭が見える小上がりの客席になってます。

照明が柔らかいので、らんまのステンドグラスが綺麗 奥( 画像左手 )は

レトロなソファや調度品が置かれた、天井の高いホール風の洋広間です。

 





まーりたん一行は小上がり席で、柳川名物うなぎのせいろ蒸しを注文

鰻のせいろ蒸し・福柳さん

簡単には、せいろで蒸し上げた うな重に錦糸卵をのせたものですが、

たれの味や焼き方など、それぞれお店ごとに秘伝の調理法があり、

なかなか奥深い料理なのだそう 

柳川で うなぎのせいろ蒸しを味わえるお店は、りっかくんのマップに

掲載されているだけでも22店舗。 ここ、福柳さんの周辺では9店舗が

犇めきあっていました。 なんだか中津の唐揚げ店みたいです




因みに皿屋・福柳さんは、地元の最高級醤油を使った、

ややあっさりめのタレが特徴
らしいのですが、まだまだ

柳川修行が足りない まーりたんには、微妙な味の違いは判りません。 

だけど、ふっくら香ばしくて美味しかったです ごちそうさまでした








次に向かったのは、福柳さんから徒歩圏内の 沖端( おきのはた )地区

城南川に架かる橋 画像左、水路を隔て見える海鼠漆喰の白壁は、

立花道雪さんを初代とする立花家伯爵邸 『 御花 』 の倉壁です。

柳川市・沖の端の城南川に架かる橋

このブログにも度々登場する 立花道雪( =戸次鑑連 )さんは、

大友宗麟と宗麟の父に仕えた重臣ですが、宗麟の命で福岡に赴任。

道雪の娘婿 立花宗茂は、関ヶ原の戦いで西軍に味方し、一時は

城も領地も全て失うものの、その後の頑張りで徳川家の信頼を得て

柳川城主に返り咲いた事が、今日の立花家繁栄の礎となっています。





立花家のお屋敷 御花は観光バスも立ち寄る超有名観光スポットで、

敷地内には史料館もあります。 まーりたんは、かれこれ3度目の

見学でしたが、道雪さんの事を知って訪れたのは今回が初めて 

そのせいか感激もひとしおでした 







我つひに 還り来にけり 倉下や 揺るる水照の 影はありつつ

白秋が帰郷した際に詠んだ歌「我つひに 還り来にけり 倉下や 揺るる水照の 影はありつつ」

立花伯爵邸 御花の蔵壁の袂には、北原白秋の歌碑も








あら、丁度良い所に川下りの舟が通りかかりました

ベテラン船頭さんです

お客さんに和み感たっぷりの独特の節回しでガイドしつつ、その間には

鼻歌も聴こえてきます これはベテランの船頭さんですよ








柳川情緒を振りまきながら、スィーッと通り過ぎたは良いものの・・・

えっ、その橋をくぐるの?

あらら、お客さんたちを舟底にぺったりと伏せさせて、

船頭さん、その橋を潜るんですか







船頭さんは橋の欄干にひょいと手をかけ、お猿さんみたいに

よじ登ったかと思えば、すぐさま えっさえっさと駆け足

橋の欄干で様子を窺ってる

反対側の欄干から、舟が出てくる様子を窺ってます






で、タイミングを見計らい・・・

タイミングをみて・・・


ぴょんと舟に飛び降りて、再び何食わぬ顔で竿を持つ

さすがです!ブラボー

船頭さんを追いかけてきた まーりたん含むギャラリーから拍手が起き

ベテラン船頭さんはこちらを見て、ニッコリ  

実は、このサービス・パフォーマンスも川下り名物のひとつなんです 



それにしても船頭さん、お顔を拝見する限りではアラエイティーでは

なかろうかと 今回の柳川散策、ドキドキわくわくのオープニングを

ありがとうございました。 いつまでもお元気でいて下さいネ





夏の終わりの柳川紀行、ぼちぼちと続きます






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2012/09/06(木) 20:12 | コメント:7 | トラックバック:0 |
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