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まーりたん

Author:まーりたん
大分県で暮らす四十路主婦
“ まーりたん ” の
ブログへようこそ(*^^*)♪

日々を彩る ちょっと素敵な
出来事を我が家の笑導犬?
マンジ君と楽しくお届けして
ます。目下、郷土史に夢中♪
心躍る探訪をご一緒に。

臼杵の富士甚醤油マスコット
キャラ・とっくりこだぬき君が
仲間入りしてからは、嬉しさ
余ってマンジ君の“ 悪がね ”
ぶりもますますエスカレート。

そんなふたり(2匹)の様子も
併せてお楽しみ下さい(*^^*)

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戦国時代、主君・大友宗麟公より筑前領を任され、立花(戸次)道雪さんと共に

粉骨の働きをした豊後大友氏家臣・高橋紹運さん、そして愛妻・宋雲尼さんの

幻影を求め、今年9月に訪ねた太宰府市の岩屋城址。 紹運さん御夫妻が

居城としていた岩屋城は、標高410メートルの四王寺山 中腹に建っていて、

山頂には7世紀頃の古代山城跡、西日本に多く分布する神籠石のひとつ

大野城遺跡があります 岩屋城址を見学後、こちらへも立ち寄ってみました。

大野城跡

四王寺山の尾根伝いには、土を突き固めた城壁( 土塁 )が延々と巡らされ、その

全長は8キロ以上に及ぶ壮大なもの 地表には倉庫の礎石が遺されてます。


大野城が築かれた理由(解説板より)

解説板によれば大野城の築造開始からおよそ100年後の奈良時代末期、

大野城内に四天王を祀り、仏の力でも国を守ろうとしたことから四王寺山という

今の呼称になったそうです。 古くは大野( おおの )山大城( おおき )山

呼ばれていて、太宰府天満宮パーキング領収証に刷られている山上憶良さんの

歌にも詠まれています。 永禄13( 1570 )年、4歳になる長男の千熊丸( 後の

立花宗茂 )を連れ豊後高田・筧の館から、筑前の岩屋城へ着任した高橋紹運さん

ご一家は、きっと大宰府政庁跡や、この大野城跡へも足を運ばれたことでしょう。 

とりわけ当時二十歳の戦国女子宋雲尼さんは、対海外の壮大な歴史ロマンが

息づく古都・太宰府に、胸をときめかせたんじゃないかな~、なんて想います 
  





昨年夏の終わりに柳川の天叟( てんそう )寺を訪ねて以来ずっと、

紹運さん御夫妻の連載記事を書いてみたいと思っていたので、今回その念願が

叶い、凄く幸せです そして、拙ブログをいつも温かい目で見守って下さる

皆さまのお陰で、稚拙ながら、どうにか最終回へ漕ぎ着ける事も出来ました。 

心よりお礼申し上げます






大げさかもしれませんが、高橋紹運さんの事を初めて知った時は、雷に打たれた

様な衝撃を覚えました。 辞世の句の一節 『 雲居の空に名をとゞむべき 』 。 

「 流転する雲( 人の心 )に記憶されればそれでいい 」的な意味ではないかと。

まーりたんの勝手な解釈ですが・・・





紹運さんを心から慕い、共に戦って亡くなられた763名の岩屋城兵の方々。 

全員のお名前を調べる力量がないのが心苦しい限りですが、紹運さんと一緒に

今は四王寺山の懐に抱かれ、心安らかに眠られている事を願ってやみません


尾花礎石(大野城跡)


大野城跡(木標)


焼米ケ原・尾花地区(大野城跡)


天正14( 1586 )年7月27日 午後5時。 大友軍の大将・紹運さんは亡くなり、

籠城軍も全滅。 岩屋城は陥落します。 が、攻城軍の島津氏にも甚大な損害が

出て、多くの兵が命を落としています。 なのに島津軍の大将・島津忠長さんは

紹運さんの遺骸を前に膝をつき、男泣きに泣いたと云われているんです・・・  





続いて島津軍は立花城攻略へ向かいますが、降伏勧告の使者を送る程度で

攻城手段を打てないまま同年8月23日、秀吉さんの先鋒隊が10日に九州入り

( 小早川・吉川・黒田軍7千の門司着 )の報せを聞き、本国へ撤収を始めます 

ここで登場するのが紹運さんの長男・18歳の立花城主・統虎( 立花宗茂 )さん。

立花城を飛び出し、島津軍を追撃 父の岩屋城と宝満城を奪還し、さらには

島津軍に捕えられ肥後南関( 熊本県玉名郡 )に監禁されていた母・宋雲尼らを、

秀吉方となった龍造寺政家さんの協力を得て、救出する事にも成功するんです

島津軍は11月に豊後へも攻め込むのですが、これはまたの機会に書きます。


焼き米ケ原と四王子山・大野城跡解説

翌天正15年3月、秀吉さんも自ら25万とも云われる大軍を率い九州入り

島津氏を降参させて九州国割りを行い、筑後4郡13万2千石を拝領した統虎は

主家・大友家から独立した大名に取り立てられ柳川城へ。 立花宗茂と改めます。

母の宋雲尼は、三池郡1万8千石の大名となった次男・統増( 後の高橋直次 )の

三池の館( 大牟田市大字新町・現三池小学校 )で暮らしたと云います。 






秀吉さんの死後、慶長5( 1600 )年に起きた関ヶ原の戦いでは、宗茂さんは

恩義から西軍に付き、母・宋雲尼さんは大坂城で人質生活となってしまいます。

しかし、黒田如水加藤清正の説得を聞き入れて降伏。 領地を没収されますが、

その後の頑張りで家康さんに認められ、柳川城主へミラクル復帰を果たす事と

なるんですね 宗茂さんの父・高橋紹運さんは島津軍に徹底抗戦しましたけど、

ケースバイケース。 家康さんに徹底抗戦を挑めばどういう事になるか・・・

紹運さんも草場の陰で胸をなでおろしてたかも。







宋雲尼さんは晩年を次男・直次の江戸屋敷で過ごします。 慶長16( 1611 )年

4月27日、波乱の60年を頑張って生き、ようやく愛する夫・紹運さんのもとへ

宋雲尼さんのお墓は江戸下谷の広徳寺から、関東大震災後に福岡県柳川市の

高橋紹運さんの菩提寺・天叟( てんそう )寺に合祀。 まーりたんの知る限り

戦国九州一の素敵なご夫婦 紹運さんと宋雲尼さんどうぞ安らかに


岩屋城本丸跡へ(道しるべ)

今よりもはるかに混沌とした時代に生まれながら、他人のスケールに頼らず

清廉に、賢明に生き抜いた高橋紹運さんご夫妻と、岩屋城の勇士の方々

相手の心を推し量り、自分を信じて歩いていくことの大切さや素晴らしさ、

それこそが希望であることを、427年の時の流れを諸ともせずに力強く

教え続けてくれている気がします ありがとうございます 

この先もそうして誠実に、心の限りを与え続けていくんでしょうね、紹運さん

あなたに出会えてよかったです。 遅かれでも、本当に






紹運と宋雲尼【17】【18】【





●参考:岩屋城[1586年]玉砕覚悟の籠城戦

吉永正春著 『 九州戦国の女たち 』






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2013/11/02(土) 05:17 | コメント:9 | トラックバック:0 |


野望を遂げる為5万の兵で攻城を続ける島津軍の大将 島津忠長さん( 36 )と、

763名の籠城軍を指揮し、主家より任された筑前領と 大切な家族を死守したい

大友軍の大将 高橋紹運さん( 39 )。 天正14( 1586 )年7月27日、両者は

まるで噛み合わない3度の交渉を経て、ついに最終決戦へと もつれ込みます






まだ陽も昇らない午前4時。 毎度の如く竹束を楯に、トランプの兵隊スタイルで

エッチラオッチラ山道を、長い行列を成し岩屋城へ向かう島津軍。 城壁にびっしり

取りついた島津軍が夜明けと共に浮かび上がると、今度は城兵が大木や巨石を

落とし、沸きたつ油をかけ、槍で突いて撃退します バランスを崩した攻城兵は

ドミノ倒し状態で片っ端から堀へ落下 しかし、スペアなら事欠かない島津軍。

 




この攻防を8時間に亘り延々と繰り返す内に正午頃、島津軍はとうとう岩屋城の

一角を突き破る事に成功。 怒涛の勢いで土塁を駆け登り大手門から二の丸と

本丸の間を守っていた福田民部さん以下50人の兵を呑みこむ様に襲い、鉄砲と

長槍での応戦も甲斐なく、51名は全員大手門で島津軍に討たれてしまいます

勢いに乗った島津軍は、続けて伊藤惣右衛門さんと成富左衛門さんが守る南門

へ。 大弓を操る成富さんの応戦も矢が底をつき、ここでも70名が亡くなります。

嗚呼壮烈岩屋城址石碑

一方、本丸西南の城戸を守る岩屋城代の屋山種速さんは、紹運さんの右腕として

籠城軍の中でも最大の軍勢を指揮し、島津軍を誘引しては討ち取っていました。

それでも手傷の無い城兵は既におらず、奮戦の度に一人また一人と減って行き、

一回の撃退ごとに数十人の城兵を失いながら、本丸と城戸を結ぶ連絡口まで

後退した時、屋山種速さんは島津の大軍に包囲され、その体は、あっという間に

槍刃の中へ。 父の訃報を聞いた13歳になる屋山城代の息子は、太刀を手に

母親の制止を振り切って島津勢に斬りかかりますが、討ち取られてしまいます






立花城からの増援兵 吉田左京さん以下20名が守っていた安全な裏城戸へも

ついに、島津軍の将・野村兵部さん率いる一千余りの攻城兵が押し寄せます 

20名で一千の敵を相手にするのですから、残念ながらこちらも全員力尽き・・・。






戦端より12時間が経った夕方4時。 本丸と二の丸を繋ぐ城戸を落とされ、

三方位からの攻撃に晒される事となった、今や本丸を残すのみの岩屋城。

それでも高橋紹運さんは諦める事なく、本丸から残された全軍の指揮を執り

片手には数珠を持って亡くなった岩屋城の勇兵たちを弔い、その冥福を祈り

そして、最終作戦を決断するのです。





これまでの攻防で、敵勢には4千近い損害が出ているはずだ。

5万の島津軍といえども兵の一割近くを失えば、次の立花城攻略に

士気を殺がれることは甚だしいに違いない。 立花には師父・道雪殿が

育ててくれた我が息子、統虎がいる。 もう心配はない。

あとは、わたしに残された役割を力の限り、全うするまでだ
 」











紹運殿を助けに行くのだニャ

紹運殿を救けに行くのだニャ!




デロリアン号に乗ってどこへ行くんだい、マンジ君

デロリアンに乗ってどこへ行くんだい?マンジ君!

太ジャイ府の岩屋城ニャ




歴史は変えられないんだよ、マンジ君!

マンジ君、歴史は変えられないんだよ・・・と言っても

一本気は まーりたんさんと同じだから仕方無いしなぁ...

とにかく気を付けるんだよ、マンジ君 」











「 それと西暦は1586年だから、間違わないようにね

こないだ行ってきた昭和より、何百年も昔なんだよ・・・って


西暦1586年だよ、間違わないようにね!マンジ君

マンジ君、行っちゃった・・・。 大丈夫かなぁ









高橋紹運さんは自ら大長刀を振りかざし、ついに岩屋城本丸より討って出ます。

旗本150人と、各持ち場より下ってきた残りの城兵たちが紹運さんに続き、

死に物狂いの突撃戦がスタート。 紹運さんは一人で島津軍17名を斬り倒し、

続く城兵たちも力尽きるまで猛攻撃を続けます。 これによって、島津軍はまたも

大きな損害を被る事となるのです。 資料( 治乱記 )によれば、高橋紹運さん以下

763名の攻防戦で、島津軍5万の内、死者は3700余人、負傷者は1500人




当然ながら軍の立て直しが必要となり、士気も落ちて次の立花城攻めが格段に

鈍化する島津軍。 士気低下の理由は、兵の多大な損害によるものだけではなく、

島津軍の兵士たちの間に激しい後悔の念が芽生えたから、とも言われています。 

欲望にかられて踏み荒らした花畑、むしり取った花々を改めて見てみたら、

類まれなる清廉で、美しい花たちだった、という所でしょうか・・・。 
 
何のためにこんな戦争をやっているのか、分からなくなってきちゃったのかも。

ジャクリーヌ・デュプレ(大神ファーム2013年10月27日)
( 昨日、大神ファームで撮影してきた清楚な薔薇・ジャクリーヌ・デュプレです






高橋紹運さん辞世の句は

『 かばねをば岩屋の苔に埋てぞ 雲居の空に名をとゞむべき( 紹運記 ) 』 

『 流れて末の世遠く埋れぬ 名をや岩屋の苔の下水( 陰徳太平記 ) 』 

となっています。





心配なのは天正14年の筑前太宰府へ向かったらしいマンジ君 

紹運さんたちのお荷物になってなければいいけど・・・

帰還報告は次回にて





紹運と宋雲尼【15】【16】【17





●参考:岩屋城[1586年]玉砕覚悟の籠城戦





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2013/10/28(月) 19:18 | コメント:7 | トラックバック:0 |


天正14( 1586 )年7月。 

九州制覇を目指す5万の島津軍から主家・大友の筑前領を死守すべく、豊州三老

吉弘鑑理(あきただ)の子で大友氏家臣・高橋紹運さん以下 763名の城兵が、

太宰府で半月に亘る攻防を繰り広げた 岩屋城の戦い。 現地入手のパンフレット

岩屋城[1586年]玉砕覚悟の籠城戦 』 を参考にさせて頂きながら綴ってます 






島津軍と籠城大友軍は70対1の戦力差にも関わらず、7月14日の開戦から僅か

10日余り、島津軍は想定外の兵力を失ってしまいます 筑前一の要城であり

九州制覇の最終砦・立花城を落とすウォーミングアップ程度に考えていたために

こりゃエラいこっちゃと、島津軍は紹運さんのもとへ再び使者を送り、降伏勧告

岩屋城入口。防犯カメラ作動中?

高橋紹運さんは防犯カメラまで設置 半端ない守りの堅さです







島津軍の使者は、籠城軍に矢止めを請いながら 紹運さんへこう叫びます


「 キリスト教を盲信し、人心を惑わす非道の大友氏に貴方はなぜ、そこまで

尽くされるのか 貴殿の武功は十分に証明されました。 降伏されたし




これではダメですねおまえの父ちゃんデベソ 」にしか聴こえません。

自己顕示欲の為に戦ってるんじゃない紹運さんも多分、カチンと来たんでしょう。

敵味方が固唾を呑んで見守る中櫓の上から、ガツンとこう言い返します。

岩屋城本丸より(杜の中の青い屋根は九州国立博物館)

「 主家が隆盛している時は忠勤に励み、功名を競いあう。 しかし衰えた時には

助けようともせず、恩も義も忘れて主家を捨てる者など、鳥獣以下である





紹運さんの言葉には、敵味方に関係なく感嘆の声が上がったといいますオォ

主家・大友が気に入らないから毛利氏と手を結び、毛利氏に置き去りにされれば

龍造寺氏、龍造寺氏が島津氏に討たれれば島津氏と、権力への寝返りを繰り返す

豪族らへの憤りと、そうした時代風潮への嘆きが、大いに込められた台詞です。





紹運さんは常に相手の心情を推し量る事を忘れず、どちらかと言えば我慢をして

与え続けるタイプの人ですキッパリ。 それだけに奪うだけでは手に入らない

恒久的で掛け替えのないものを結果的に、数多く手に入れた方でもあります。 

円満な夫婦仲も、師父・道雪との固い信頼関係も、忠臣も、親思いの息子も、

名将と呼ばれる人徳も  自分のやりかたが絶対だとは言わない。 だけど、

人間に生まれたのなら、それに気づいても良いんじゃないか なぜ、いつまでも

姑息な烏合の衆であり続けるのか その不毛さが解らないのか、情けない。

批判しない主義の紹運さんも、最後に一発言ってやりたかったんでしょう、きっと


岩屋城二の丸曲輪へ続く道

紹運さんの抑制された心の叫びを 察したのか察してないのか、攻防の指令で

忙しい紹運さんのもとへ、島津軍から次なる降伏勧告の使者が派遣されます



「 今一度、降伏すれば我が大将は貴殿に領地を安堵すると言っている。

是非ともこの条件を呑んで頂きたい。 そして共に九州を統一し、さらには中国、

山陰、ゆくゆくは京都へまでも軍を進めようではないか、と・・・ 」 




紹運さんの器量をよっぽど惜しんで下さっての言葉でしょうけど、これもダメです

なんで島津さんから領地を安堵されないといけないんでしょう

紹運さんは最初の交渉で、「 主家の大友か、秀吉さん以外の命には応じない 」と

言ったでしょうに・・・ あまつさえ支配欲の塊みたいな言葉で、紹運さんの心が

動くわけがありません。 是が非でも降伏させて島津軍に加えたいのに、どういう

わけか、紹運さんの神経を逆なでする様な言葉ばかりチョイスする島津さん・・・ 




ある意味凄いですが、当然ながら敵を懐柔するためのリサーチ力の乏しさにより、

通算3度目の降伏勧告の使者も、紹運さんに一蹴にされます ザンネン

岩屋城本丸曲輪登り口

使者はこの石段を転がり落ちるようにして、島津軍の陣地へ帰って行ったとか

どうとか・・・。 意中の人を振り向かせたいなら、自分の強欲ぶりを男らしく?

語って聞かせるばかりではなく、振り向かせたい相手の胸中を先ず推し量る努力、

手間を惜しまない事が大切だったみたいですネ、忠長サン 






こうして通算3度にわたるプロポーズ大作戦はあえなく終了。

ついに運命の1586年7月27日を迎え、最後の戦いが開始されます。

秀吉さんが援軍として派遣した 黒田官兵衛さんを軍監とする島津征伐先発隊は、

二日前の25日に京都を発ったばかり。 九州まで陸路ひと月はかかるでしょう

秀吉軍の到着まで、なんとしても島津氏の九州制覇を阻止しなくてはなりません。

このときの九州の命運は岩屋城主で39歳の高橋紹運さんと、立花城主で18歳の

立花統虎( 後の柳川城主・立花宗茂 )さん親子の肩にかかっていたんです。 



長くなりましたので、続きは次回にて





紹運と宋雲尼【14】【15】【16






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2013/10/25(金) 19:38 | コメント:6 | トラックバック:0 |


「 なに?徹底抗戦だと 

あの粗末な城と七百余りの兵で、我が5万の島津軍に挑もうと云うのか。

高橋紹運、往生際の悪い愚将めが。 よし、者ども、城下に火を放て

そうして籠城軍の士気を殺ぎ、紹運の岩屋城を一気に攻め落とすのだ





交渉人・荘厳寺快心より 紹運さんの返答を聞いた島津軍の大将・島津忠長は、

天正14( 1586 )年7月14日、待機する全軍に岩屋城総攻撃を下知

奇手の軍機動を容易にするため放たれた火はみるみる燃え広がり、その煙は

立花山からも見え、立花城主・統虎は 父の城で攻防戦が始まった事を知ります。


岩屋城本丸曲輪跡と二の丸曲輪跡の間を奔る大野林道

島津軍は、服属の豪族らを併せておよそ5万。 それぞれに鮮やかな旗印を掲げ、

士気を高める軍太鼓を打ち鳴らしながら、岩屋城めがけ直押しに攻め進みます






が、実際には弾除けの竹束を楯に、ご苦労様と声を掛けたくなる位の山登り

岩屋城パンフレットより・弾よけの竹束を盾に進む島津攻城軍
( イラストは岩屋城パンフレットより、弾除けの竹束を楯に進む島津攻城軍 )






一方で、高橋紹運さん指揮する岩屋城籠城軍は、地の利を存分に活用し、

山道をエッチラオッチラ登ってくる島津軍を、崖の上から弓、鉄砲で応撃 

さらに大木や巨石を落とし、少人数で片っ端からの撃退に見事成功します 

岩屋城本丸へ続く崖沿いの武者走り

しかし、敵陣の中を強攻突破なさる武勇でも確か、歴史上有名な島津軍。

倒れる味方を踏みつけて、後続控えの兵が次から次へとキャタピラの如く猛進。







太宰府の四王寺山中腹、標高278メートルの岩屋山にある岩屋城郭は、

山頂に本丸曲輪、西方の崖下に二の丸曲輪、更に200メートル下に三の丸と、

喩えるならば、四王寺山を背にした3段デコレーションケーキ風の造りです

岩屋城本丸

縄張りを中心に設けられた十数箇所の小砦に、紹運さんは籠城兵をくまなく配置。

紹運さん自身は本丸に居て、円形に配した手勢へ休みなく指示を出します
 
籠城兵の数は少なくても、こうした紹運さんの的確且つ合理的な采配によって、

一糸乱れず冷静に、島津軍への迎撃を確実に成功させていくのです。 そして

この日( 7月14日 )の戦いは島津軍に想定外の損害を与え、午後8時に終了。






翌日( 7月15日 )、午前10時。 今度は島津軍の大将・忠長自ら軍配を握って

攻撃を仕掛けてきますが、これまた紹運さんの絶妙な反撃を被り、深夜12時

へとへとになるまで攻めたにも関わらず、損害を増やすだけに終わっています。

その後7日間にわたる島津軍の攻撃も、ことごとく失敗

島津軍にとっては、まさにアンビリーバボ~ だけど、これは史実なんですヨ






スペアなしで応戦を続ける岩屋城兵の士気を上げたのは、夜間、抜け道を通って

立花城から運ばれて来る兵糧や弾薬のお陰だったと言われています

若き立花城主・18歳の統虎さんも、お父さんの為に一生懸命だったんですね

立花城から抜け道を使っての兵糧、弾薬の支援も!頑張って紹運さん♪

兵糧の中身と太宰府かつカレーパンとは特に関係ありませんなんとなくで♪






立花城から岩屋城へは、吉田左京さん以下20名の援兵も入っているんです。

力の限り戦って紹運さんと運命を共にする覚悟で、進んで名乗りを上げた方々だと

云います この立花城からの増援兵を、紹運さんは城の背後の裏城戸に配置。




裏城戸は岩屋城内で最も安全な場所らしく、紹運さんの記事を書くにあたり参考に

させて頂いているパンフレット 『 岩屋城[1586年]玉砕覚悟の籠城戦 』 では、

紹運さんは 「 彼らにせめてもの謝意を込めたに違いない 」 と考察されています 


岩屋谷磨崖石塔群

しかし、7月21日。 城の水の手口( 水源 )が島津軍に知られてしまいます

これは島津軍に捕えられたお百姓さんが、恐ろしさのあまり教えてしまった様。

「 水源を塞げば、もって3日だな 」 

水の手口を押さえる事に成功した島津軍は、軍を立て直し、猛攻撃を再開

それでも岩屋城籠城軍の士気は衰えず、負傷した者も果敢に迎撃を続けますが

7月も下旬にさしかかり、日中の気温は日増しに上昇、照り付ける陽射しは

容赦なく体力を奪い、もはやここまで・・・と思った時に雨が降ります






7月23日の夜に降り始めた雨は、まとまった雨量となり、24日いっぱい

降り続きます 雨が上がった25日も足元が定まらないため戦闘は起きず、

籠城軍にとっては正に恵みの雨 攻防開始から10日め、10日ぶりの

休息でした この間に紹運さんは、各持ち場の将を集めて軍議を開きます。






7月26日。 島津軍の陣地では、ホラ貝の音が鳴り響き、再び攻城軍が竹束を

楯に 鉄砲を放ちながら城の目前まで迫り、声をあげて一斉に砦へ押し寄せ

籠城軍も譲らず弓矢と鉄砲で応戦。 ときには砦深く攻め込まれ、それを撃退

だけど、これを延々と繰り返していれば、じきに消耗して多勢の島津軍に圧される

のは明らか。 紹運さんは籠城軍に砦を捨てて三の丸まで退却する様、命じます。

岩屋城本丸からの眺望


攻防開始から10日余り、このときが島津軍にとって初めての勝利でした

島津軍の士気は一気に上昇 籠城軍が捨てた砦を突破して三の丸、その先の

本丸まで押し潰してしまえ!とばかり、怒涛の勢いで攻め込んできますが

実はこれも紹運さんの作戦だったんです 






三の丸の観世口を守る岩屋城代の屋山種速さん( 屋山という姓からして、

きっと豊後高田・筧の館時代から紹運さんに仕えていた方でしょうね )は、

島津軍が狭い観世口に詰め寄せたのを見計らい、三の丸の城壁上で待機中の

城兵に合図を送ります。 途端に、島津軍の頭上からは大木や岩が落ちてきて、

矢玉のシャワーまで降り注ぎ、さすがの島津軍も、命からがら岩屋城を後に

陣地へ一目散 この時の島津軍の損害は数百にものぼったと言われています。






一向に引けを取らない高橋紹運さん以下籠城大友軍に舌を巻いた島津軍は、

再び降伏勧告をするんですが、その内容は攻防戦開始前に口の巧い使者を

派遣しての陰湿な感じから一転、紹運さんの采配、智将ぶりに賞賛を贈り、

いっそ友人になって組まないか?的な内容へと、変化していくんですね





昔の戦争って、首をちょんぎったりと、怖くて野蛮ではありますが、その反面

生命の母である地球に大損害を与えるような物騒で身勝手な兵器は使わず、

アナログで、礼節を守り、きちんと日を区切って戦うし、皆それぞれが自分の

正義の為に一所懸命 それだけに、攻防を続けている内に、対戦相手の

才覚や心意気に感服し、友情や尊敬の念が芽生えたり、本当に大切な事に

気づいていたのかもしれませんね。 相手を滅ぼしてからでは遅いですけど・・・。




ということで、岩屋城籠城戦の後半戦は次回にて





紹運と宋雲尼【13】【14】【15






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貴重なお時間を割いてのご訪問、温かい応援、コメント、いつも心より

感謝しています コメレス、少し遅くなります、どうかご了承下さい



2013/10/23(水) 18:56 | コメント:8 | トラックバック:0 |


「 我亡き後の処置は、立花城主の統虎( 立花宗茂 )に相談せよ。

そして統増( 宗茂の実弟 )、これからはお前が母を守るのです、良いな 」


紹運さんは妻・宋雲尼と次男の統増( むねます )を説得すると、老幼婦女子が

避難する宝満城へ向かわせ、自分は763名の城兵と臨戦態勢に入ります。 

城兵に対し紹運さんは決して無理強いはせず、自分の考えに反対の者は直ちに

岩屋城を下りるよう命じますが、誰一人として去る者は居なかったと云います。 





大変仲睦まじい夫婦だったとの記録が残る高橋紹運さんと妻・宋雲尼さん

城主夫妻が円満且つ慈悲深かった事で、家臣は皆忠誠心に溢れていたそうです。





宋雲尼さんはきっと、誰よりも夫・紹運さんの胸中を理解していた事でしょう

それだけに、夫の決心を揺るがすことは絶対に出来ないということも

そして、この絶望的状況下にありながらもなお、

自分と14歳になる次男、これから大軍に限界まで挑もうとする夫を命がけで

支えてくれる家臣、城兵達。 彼らの為にも、泣き崩れて困惑させてはいけない。 

私には、誠実な夫と長男、次男にも恵まれて過ごした、まほろば太宰府での

幸せな思い出がある これを誇りに、子ども達の為にも生きていかなければ。



宋雲尼さんは繰り返し、自分にそう言い聞かせていた様な気がしてなりません。



岩屋城絵図(パンフレットより)

岩屋城は、立花城、宝満城の前に建つ防衛のための小さな城で、

本丸の広さは南北40m、東西17m。 高橋紹運さんはここを居城として

使っていましたが、天守閣などは勿論無く、城壁は土を盛ってあるだけ。

縄張りを中心に小砦は多いものの、大軍相手に長期間籠城可能な造りではなく、

紹運さんの実子で立花城主の統虎( 立花宗茂 )は使者を通じ、

設備の整った宝満城、あるいは自分の立花城へ移る様勧めますが、

紹運さんの返事は統虎への決別状でした。








天正14( 1586 )年7月13日。 高橋紹運さん以下763名の大友軍が籠る

岩屋城は、およそ5万の島津軍によって包囲され、島津軍は荘厳寺快心と云う

雄弁な僧を使者として岩屋城へ派遣。 紹運さんへ言葉巧みに降伏を要求します。

岩屋城本丸への木標(二の丸へ下りる崖)


「 わが軍が今回兵を動かしたのは、裏切者である筑紫氏を倒すためでした。

筑紫広門は捕えたものの、筑前の諸城に居る筑紫軍はなお降伏しておりません。

これらの兵を筑前より引下げて頂ければ和議を結び、この地より立ち去りましょう。

しかし貴殿があくまで戦うとあれば、わが軍の武力で落城させてしまうまでです 」






・・・と言いつつ、島津軍は筑前に続いて攻め込んだ豊後府内を焼き払った挙句、

約半年間に亘り占領しているんです それに、筑前の諸城に居る筑紫軍とは、

老幼婦女子と妻子が避難している宝満城の兵も指します。 この勧告を鵜呑みに

すればどうなるか・・・ 島津軍が遣わした僧に、高橋紹運さんはこう答えます。

岩屋城・本丸(甲の丸)曲輪

「 薩摩より当筑前の地まで出向いて来られるとはご苦労でした。

この城を捨てよとのお言葉ですが、この筑前は主家たる大友より頂いた地です。 

貴殿にどうこう言われるのは筋違いと言うもの。

大友か、太閤殿下の証札のない限り、言う事を聞く理由にはなりません。

どうしても当城を攻め落とすとあれば、この紹運、力の限りお相手致しましょう 」






紹運さんは、そう語ると有無を言わさず僧・荘厳寺快心を城外へ追い出します。

こうして翌日の7月14日より、島津軍の岩屋城総攻撃が始まるのです

岩屋城二の丸曲輪と本丸をつなぐ道

また、秀吉さんの九州平定の露払い役に抜擢された黒田官兵衛からも進発を前に

筑前の紹運さんのもとへ、岩屋城を退いて安全な場所に移るようにとの通達が

下されますが、紹運さんはこちらの使者にも丁寧に断りを入れて、返しています。

何故、紹運さんはそこまで頑なに岩屋城に籠って戦おうとしたのでしょう










「 チクゼン岩屋城の一里東には老幼婦女子が避難する宝満城、四里北には、

まだ十代の息子夫婦・統虎と誾千代が守る立花城が控えているのだニャ

岩屋城の後方四里の位置には立花城があるのだニャ!

「 岩屋城を捨てれば、島津軍はダイレクトに立花城、宝満城に進んでしまうのは

明らかニャ。 いくら筑前一の要城・立花城といえども、大軍に攻め続けられれば

秀吉軍の到着まで持ち堪えられるか分からニャい そこで、高橋紹運殿は

岩屋城で戦い、島津軍の士気を可能な限り落とそうとしたと考えられるのだニャ 」

こだぬき君、紹運殿の気持ちが解るかニャ?

「 親心からクッションになろうとしたんだね、なんだか切ないねぇ、マンジ君












「 それを言っちゃおしめぇよニャのだ、こだぬき君 紹運殿は息子を思いニャがら

恩着せがましさや負担を感じさせてはニャらぬと、きっと精一杯配慮したのだニャ。

ニャらびに師父・ドーセツの無念にも報いたかったに違いニャいのだ

息子夫婦への島津軍のダイレクトな攻撃を何としても防ぎたかったのだニャ

「 分かったからマンジ君、ポインタを突き付けないでくれないかい危ないよ











「 しかし、こればかりは紹運殿に直接訊かニャい限りは、判らニャいのです

しかし、こればかりは紹運氏に直接聞かない限りは判らニャい!

「 判らないのはマンジ君の犬相だよ 」









・・・ということで

名将・高橋紹運さんの岩屋城籠城戦、続きは次回にて





紹運と宋雲尼【12】【13】【14





●参考:岩屋城[1586年]玉砕覚悟の籠城戦

吉永正春著 『 九州戦国の女たち 』







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2013/10/21(月) 17:33 | コメント:2 | トラックバック:0 |


九州制覇の野望達成まであと一息の島津軍は、秀吉さんの 惣無事令なんて

聞いてる場合じゃありません 天正14( 1586 )年7月10日、大友氏と

和議を結んだ筑紫氏の勝尾城( 佐賀県鳥栖市 )を開城させた勢いで、お次は

大友家臣・高橋紹運さんの岩屋城( 福岡県太宰府市 )へと、モーレツ進軍


一方で、天下人秀吉さんもこの日ついに九州平定( 島津征伐 )に乗り出します


正面は、高橋紹運さんの岩屋城がある四王子山

岩屋城は、正面の 四王寺山中腹に建つ、防衛拠点的な小さなお城です。

427年前はどんな景色だったのかな、など巡らせつつ、島津軍目線で一枚

クルマの屋根に腹ばいになってのカーアクション中ではありません、念のため







その数5万余りに膨れ上がった島津軍は同年7月13日、筑前太宰府に到着

岩屋城本丸より見下ろした 太宰府から二日市にかけての一帯は、丸に十字の

島津家を中心に、服属の豪族らの色鮮かな幟で埋め尽くされていたと云います。

天正14(1586)年7月13日、眼下・太宰府から二日市にかけては島津軍の旗で埋め尽くされた

高橋紹運さんは島津軍到着前に、老幼婦女子そして妻子を宝満城に避難させ、

自分はこの岩屋城で763名の城兵と共に、力の限り戦い抜く事を決めるのです。







義とプライドの為に戦って潔く散るのが武士の道?美学?とされていた乱世

命惜しさに無様に逃げでもすれば全て没収の上、後々まで叩かれまくりでしょうし、

時代感の違いもあるんでしょうけど、小市民まーりたんは、残された者の気持ちに

肩入れしちゃって、主君の為とか、意地で死なれちゃうのは、やっぱりNGです


岩屋城本丸跡解説

ただ、高橋紹運さんは、義とプライドは勿論ですが、それ以外にも思うところが

あった方だと思うんですね。 いえ、そちらの比重の方が高かった、かもしれない。

だから心を惹かれるのだと思います




これについては次回また改めて綴らせて頂こうと思いますが、島津軍5万に対し

大友軍は僅か763人。 それでも紹運さんは様々な策を凝らし、見込みを立て、

限界まで諦めず、島津軍に立て直しが必要なほどの大きな痛手を負わせ、

結果的に九州制覇を食い止める、という奇跡を起こしています





しかし、作戦を成し遂げる為には、玉砕を覚悟しなければならなかった・・・

現代においても、本気で何かに取り組んで、自分なりに納得いく成果を出そうと

する時には、背水の陣的な覚悟は必要ですよね。 実際には死ななくても。

紹運さんは義やプライドのためだけに、玉砕による最期を選んだのではなく、

自分の可能性を使い果たした上で、死に臨んだ方の様な気がするんです。





それに加えて平凡な親心が、結果として九州を守り抜いた? 小は大を兼ねる?

プラス、欲しがるばかりでは決して手に入らないオマケまで付いてきたという...。 

紹運さんの史跡探訪では、こうしたことを改めて教えて頂いた気がします

岩屋城・二の丸曲輪つきあたりは紹運さんの胴塚
高橋紹運さんと763名の城兵のお墓がある岩屋城二の丸曲輪跡 )






本拠地から遠く離れた筑前で、小さな防衛拠点を担わされた豊後大友氏家臣、

一人の青年武将に過ぎなかった高橋紹運さんの名は、その人となりを含め、

九州では名高い大名をしのぐほどに、語り継がれているんです 

勿論これは、まーりたんの知識が狭いだけで、紹運さんのような生き方をされた

先人の方は、数多くいらっしゃる事でしょう。 まだ片手で余る程度ですが、

遅かれでも、こうした方に出会える度に希望を感じ、満たされた気持ちになります。






今回はとりとめのない話ですみません

次回は、約半月にわたる岩屋城での籠城戦を、現地で入手したパンフレット

岩屋城[1586]玉砕覚悟の籠城戦 』 を参考に、日を追って詳しく紐解いて

みたいと思います。 ご興味ある方は、引き続き御観覧頂ければ幸いです 
 




紹運と宋雲尼【11】【12】【13





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貴重なお時間を割いての温かいコメント、応援いつも心より感謝しています

所用でコメントのお返事、少し遅くなります、ご了承ください




2013/10/18(金) 19:11 | コメント:9 | トラックバック:0 |


「 高橋紹運公の御笠郡内に入りましたが、本日は如何なさいます道雪様 」

太宰府・連歌屋

「 おりょっ、つるっと着いたなえ。 今日は岩屋やねえで宝満城ん館に行くけんな、

あん...連歌屋んとこを左に曲がらんじ、真っすぐ天満宮ん方へ抜けちょくれ






この日、立花道雪さんがタクシーで来たか、ばりばりの大分弁で喋っていたかは

今となっては知る由もありませんが、石坂の戦(立花宗茂の初陣)からひと月後の

天正9( 1581 )年8月、道雪さんはあるお願いをするため、紹運さんを訪ねます。



天正9年といえば、豊後国に拠点を置く主家・大友氏が 耳川の合戦で島津軍に

敗れ、大ダメージを負ってから既に3年が経っており、雲行きは怪しくなる一方 



立花道雪さんと高橋紹運さんが守る筑前国内でも、チャンスとばかり 新興勢力

肥前の龍造寺氏が、反大友派の国人領主達を味方につけ、大友氏の諸城を

攻め始めていました 道雪さんと紹運さんは連携して救援&来襲する敵を撃退、

食料や武器、資材等を搬入し臨戦態勢を整え...その合間を縫っての面会でした。








道雪さんが訪れたのは宝満山のふもと、竈門( かまど )神社への途上に設えた

高橋紹運さんの館です。 開け放たれた座敷を抜ける風には早くも秋の気配。

木々のさやぎが静寂を一層際立たせる、そんな質朴で落ち着いた佇まいです。

柳川・福厳寺(道雪さんの菩提を弔うため宗茂が建立)境内

画像は立花宗茂公が義父・道雪さんの菩提を弔う為に建てた柳川の福厳寺

撮影したのは昨年の8月後半です  紹運さんの館のイメージ用に蔵出し






さて、道雪さんと紹運さんは宝満山麓の館で、どんなやりとりをしたのでしょう

岩屋城[1586年]玉砕覚悟の籠城戦パンフレットに幾つか掲載されていた

エピソードより、またも勝手ながら端折って御紹介させて頂きたいと思います。 

道雪さんと紹運さんの人となりが ありありと浮かぶ、これまた素敵なお話です 

お時間の許す限り、どうぞごゆっくりとお楽しみ下さい






天正9年、立花道雪さんは既に68歳、35歳年下の高橋紹運さんは33歳に

なっていました。 戦場にある時は武士の守り本尊・摩利支天さながらの武威を

示す二人の将も、坊主頭で、穏やかな目をしてお茶をすすりあっている姿は、

まるで禅家の師弟が対座しているように見えた、と云います

01-34高橋紹運肖像(柳川・天叟( てんそう )寺蔵)
( 岩屋城パンフレットより、切れ長の瞳が優しげな紹運さん肖像 ) 





湯呑を覗き込みながら、子供時代の思い出話など咄々と語り続ける

道雪さんには老いの淋しさが漂い、紹運さんはそんな道雪さんが気に掛かり

冷えたお茶を替えさせようと、控えの小姓を呼ぼうとしたとき、


「 あ、いや、茶は充分でござる 」 


道雪さんは姿勢を正し、紹運さんの瞳を見つめ、深く息を吸ってこう言います。

「 本日はお願いの儀があって参りもうした。 無理を承知でお願い申す。

統虎( 後の立花宗茂 )殿を立花の家に、誾千代の婿に頂きたい



「 統虎を、でしょうか? 統虎は長男ですし、高橋の家を・・・ 」

わが耳を疑い、思わず絶句する紹運さんの手を取ると道雪さんは頭をさげ、



「 この道雪、若年の頃より主家・大友の為に大小の戦場へ赴くこと

幾十を知らず。 近年に至っては高橋殿の如く良き武将と共に働けること、

名誉なことと存じておる、しかし年を取り申した。 島津、毛利、龍造寺、秋月、

戦えど戦えど大友の武威日毎に落ちるこの頃・・・。 大友の支柱は立花と

宝満、岩屋の三城
。 幸い高橋殿には次男・統増殿がお生まれになった 

統虎( 宗茂 )殿を立花に、貴殿と統増殿で宝満、岩屋の二城を守らるれば、

高橋の家にとっても、主家・大友にとっても至極のことではなかろうか。

我が家臣どもにも一日も早く、よるべき主をたててやりたいのでござる





紹運さんは、初陣を無事終えた長男・統虎と、次男の統増が岩屋城、宝満城を

守ってくれれば主家のためにも喜ばしいと、宋雲尼さんと語り合ったばかり。

しかし、熟誠を込めた道雪さんの言葉から、主家・大友 そして13歳になった

ばかりの一人娘・誾千代姫への切なる想いを汲み取り、紹運さんは瞳を伏せ、

暫く考えたあと、深々と頭をさげ 「 道雪殿の御心の程、身に染みました。 

統虎、差し上げましょう。 ただ若年ゆえ至らぬ部分が多いかと存じます。 

どうか我が子と思われて厳しく躾けられ、一人前の武将にお育て下さい 」 

きっぱり云い終えると、道雪さんに爽やかな笑顔を見せます。 「 有難や... 」

絞る様に言った道雪さんの大きな瞳からは、大粒の涙がこぼれました。 






天正9年8月18日、15歳の統虎( 宗茂 )は婿養子として立花家へ。

出発の日、紹運さんは宝満城の広間で息子の門出を祝福し、こう言います。

「 今後は、この紹運を親とは思わぬよう努めなさい。 変転極まりなき時世、

明日にも道雪公と敵味方になるかもしれない。 その時は道雪公の先陣に立ち、

この紹運を討ち取るがよい。 また、お前の日頃に不満が生じ、道雪公より

義絶を申し渡される様な日が来ても、決して岩屋に戻ろうなどと思わぬこと 」 

紹運さんは言葉を終えると、統虎に備前長光を与えたのでした。 

岩屋山を振り返って

統虎は、父から名前の一字を与えられた家臣と、迎えの使者と共に立花城へ。

父そのものみたいな四王寺山を、こんな風に一度は振り返ったりしたのかな・・・。


九州自然遊歩道道しるべ(拡大)

四王寺山登り口の木製案内図。 上の画像は赤い点の現在地から撮影







統虎に厳しいセリフを言って送り出した紹運さんも、岩屋城本丸の石碑みたいに

四王寺山を下りていく統虎一行を、見守っていたんじゃないかな~と思います

紹運さんが奥さんや息子達に注ぐ愛の深さは、いずれ明かされるんですけどネ。

昭和30年に高橋紹運家臣の子孫が建てた石碑・名前に種の字!

岩屋城本丸跡の石碑は、昭和30年に高橋紹運家臣の子孫が建てたそうです。

裏に回ってみたら名前が刻まれてました。 “ 種 ” の字、受け継がれてますね






高橋紹運さんと宋雲尼さんの長男・千熊丸は元服後、大友宗麟の息子で

大友氏22代義統( よしむね )から一字貰って統虎と名乗ります。 

後の初代柳川藩主・立花宗茂です。 そんな宗茂公はこんな人

立花宗茂・永禄10(1567)年~寛永19(1642)年(立花家史料館蔵)
( 柳川・立花家史料館蔵 )




今回はこの辺で 続編、休み休み続きます。






紹運と宋雲尼【】【6】【






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2013/10/02(水) 20:48 | コメント:4 | トラックバック:0 |


高橋紹運さんの岩屋城へは、県道35号線沿いの太宰府駅を過ぎ、天満宮前の

連歌屋から御笠川に架かる小さな橋を渡り、四王寺山の林道を登って行きます。

林道のカーブには番号が付いていて最寄りの馬場は22番カーブの路側帯

岩屋城登城は22番カーブの路側帯に駐車

ガードレール下に広がる森は、紹運さんのお墓がある二の丸曲輪跡で、

岩屋城の本丸登城口は、林道を隔てた向かい側です

岩屋城跡

紹運さんが着任した443年前と大して変わってないんじゃないのとさえ思える

古い石段を登っていくと頭上が開け、今度は犬走りみたいな崖っぷちの細い道

岩屋城本丸へ

紹運さんが岩屋城主となった翌年の元亀2( 1571 )年、ここより十数キロ北西の

立花城へ着任した立花( 戸次 )道雪さん。 毛利氏撤退後、元亀~天正年間の

初めにかけては国内も安定 主君・大友宗麟から筑前の要を任されたふたりは

互いの城を行き来し、家族ぐるみで親交を深めて行くのです もしかすると、

道雪さんは岩屋城を訪ねる時、お供に背負われてこの道を登ったりしたのかな



紹運さーん、まーりたんも道雪さんと多分同じ路を歩いて、まかりこしましたよ~



岩屋城・本丸(甲の丸)曲輪


立花より当岩屋までは四里に余る道のり、

難儀でござったろう。 して、今日のお供は? 

一献差し上げたいと存じますが




師父・道雪さんや、お供のお侍さんに対しては勿論のこと、高橋紹運さんは

馳せ参じてくれた者に対して、立場に関係なく、こうした労いの言葉を必ずかけて

相手を気遣い、城へ招き入れたそうです 紹運さんの誠実な応対は後の岩屋城

籠城戦の際、交渉のために訪れた使者に対しても変わらなかった、と云います。






そう、岩屋城のパンフレットには、次のような逸話が紹介されていました

( 小説の一部分を抜粋&パンフレットに転載したものの様でしたので、

勝手ながら現代言葉に変換?して、はしょって語らせて頂きます





あるとき道雪さんが連れていたお供の若侍さんが、紹運さんの温かな気遣いに

恐縮するあまり、自分の袴の裾を踏みつけて見事にスッテンコロリン・・・なら

まだ良し? 前のめりの可笑しな姿勢で一旦停止し、そのまま踏ん張ったものの

紙人形みたいに突っ張ったまま上体を3度揺らして、座敷に倒れてしまったとか。




それでも若侍さんは刀の柄をしっかりと押さえ、顔を道雪さんの方へ律義に向けて

いる様子に、お酒を注いでいた小姓が、笑いを堪えきれず吹き出してしまいます。

すると道雪さんは小姓に諄々と、穏やかにこう言ってきかせたそうです。

「 小姓は座敷の上での勤めである故、何事もするすると形よく運ばねばならぬ。

武士の勤めは戦場にある故、畳の上での失敗は何ほどのものでもない。

そのところがよく解っていれば、先刻の事は可笑しかろうはずかない 」




小姓は顔を赤らめてかしこまり、若侍さんは自分のそそうから 話がとんだ方向へ

発展してしまったため身の置き所が無く、額の汗を拭き、しきりに目をしばたく。

何とな~く重い空気を読んだ道雪さんは、わざとオーバーアクションで滑稽に、

この若侍さんが立花城攻めの際、司令塔として優れた働きをした話を始めます。

道雪さんの話を大いに喜んで聴き入る紹運さん。 恐縮しまくりの若侍さんを

称揚し、お酒を勧めて労います。 そうして和やかに時間は過ぎ・・・





まだ日が高いうちに道雪さんは、やや無骨な若侍さんと共に帰路に就き、

岩屋城から四里あまり北西の立花城へ。 紹運さんの傍で家臣らと共に二人を

見送った幼い宗茂は、弥平治という名の家臣にこう囁いたといいます。

「( 道雪さんは )心優しきお方。 あの武士も面目をほどこしたであろう。

父上( 紹運さん )から盃を頂く( 若侍の )目には涙が光っていた 」




そこで弥平治は、幼い宗茂( 千熊丸 )にこう応えます。

「 立花道雪ほどの武将がそば近く召し連れる者、家中選り抜きの者であるに

違いないでしょう。 かの侍には私が無く、主君の事のみが念頭にあった事。

まことに名将・立花道雪。 また、それにふさわしき良き侍でございます 」

噛みしめる様な家臣の言葉は、千熊丸の心に清々しくしみ透っていくのでした。


・・・というお話です


岩屋山山頂

本丸曲輪最奥の台地( 小丘 )に登ってみました。 標高281mと記されてます

ここが岩屋山の頂らしく、岩屋城絵図で見ると、館らしき建物がある場所かな。

岩屋城絵図(パンフレットより)

現存しているのは、主郭から麓へ広がる曲輪( 平坦面 )や竪堀、掘切りなど。

林道は、本丸と二の丸の間を分断する形で奔っています。 城主の屋敷風の

建物があったと思われる小丘から、本丸曲輪全体を見下ろしてパチリ

岩屋城本丸

街角にある小さな公園程度の広さしかない、本当にささやかな本丸曲輪です。

それでも眼下には大宰府政庁跡や、白村江の戦いに絡む古代山城跡など、

いにしえの都・太宰府。 背後には雄大な四王寺山に、山上憶良が万葉集にも

詠んだ大野城 豊後育ちの戦国女子にとって、太宰府は憧れというか、

たまらないものがあったんじゃないかな~、なんて思います

本丸からの眺望(解説パネル)

さらに傍には、幼いながらに体格が良く、お相撲や弓が得意、父譲りの思慮深さも

備え、日々元気に逞しく成長していく長男・千熊丸( 後の立花宗茂

そして、四王寺山の大自然にも勝る懐の深さを持つ誠実な旦那様・紹運さん

筑前へ転勤となったものの、同僚は紹運さんが師父と尊敬してやまない道雪さん。

まほろば太宰府の恩恵の中、家族水入らずで暮らすには充分すぎる空間まで 

まさに 「 こいぬ~の~横には~あなた~ 」の世界





いつの間にか、宋雲尼さんの胸の内妄想に切り替わっちゃってますが

一度は諦めかけた幸せを手にした宋雲尼さんだけに、きっと全てのものに

心から感謝しただろうナと思います。 幸せだっただろうな~、ホント





次回は、立花道雪( 戸次鑑連 )さん、そして愛娘・誾千代姫のことなどを

書かせて頂こうかなと思います。 どうぞお楽しみに






紹運と宋雲尼【】【4】【






●参考 : 岩屋城[ 1586年 ] 玉砕覚悟の籠城戦

吉永正春著 『 九州戦国の女たち 』






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2013/09/28(土) 10:37 | コメント:9 | トラックバック:0 |


主家・大友のため筑前で大活躍をした上から高橋紹運、宗麟と肉親以上の絆で

結ばれていた立花道雪( 戸次鑑連 )、そして紹運と宋雲尼の長男 立花宗茂。  

立花邸・御花の売店外壁に紹運&道雪&宗茂公

昨年、柳川の御花を訪れた時、売店外壁に掛けられていたタペストリーです。

勝手に名付けて筑前三銃士 イラストレーターの諏訪原寛幸さんが描かれると

もう圧倒されるというか、魂が籠ってるというか、素晴らしいの一言に尽きます




観る者に夢を与えてくれるのと同時に、諏訪原さんの作品からは、先人の方に

対する敬意が、ひしひしと伝わってくるんですよね イラストの紹運さんは、

島津の大軍と戦う最後のシーンのイメージかしら...。 それにしても、諏訪原さんに

描いて貰えた先人の方々は、きっとあちらの世界で鼻高々でしょうね~








個人的には、こういう感じも好きなんですけどネ

大分市歴史資料館マスコット・大友3人組(宗麟、道雪、紹運)

大分市歴史資料館のマスコット ootomo3にん組(ヒトじゃないから “ にん ” がひらがな?)

左から、デウスさまLOVEでも家臣への感状はマメに書きます大友宗麟公、

この人に育てられればもれなく名将にどんぐりまなこの雷オヤジ 立花道雪

切れ長の瞳に節義と仁愛を湛えた高橋紹運が それぞれモデルだと思われます

この3にん組が結成されたのは、名将・立花宗茂公の幼少期かな?たぶん





当時、豊後大友氏21代目宗麟は、既に北部九州6か国( 豊前、豊後、筑前、

筑後、肥前、肥後 )の守護で、九州の武家を統制する九州探題職にも就任

ところが、内々の事情あって、宗麟をいけすかなく思う筑前の守護代・高橋鑑種

がリーダーとなり中国の毛利元就と手を結び、秋月氏他反大友派を集めて蜂起





これは弥七郎鎮理( 紹運 )さんの長男・千熊丸( 後の立花宗茂 )が生まれてすぐ、

永禄10( 1567 )年の出来事で、大友宗麟( 義鎮 )は豊州三老をはじめ、

宋雲尼の兄・斎藤鎮実らに筑前討伐を命じます 弥七郎鎮理( 紹運 )さんも

実父で豊州三老の吉弘鑑理(あきただ)に従い、家族を豊後に残して筑前へ出陣。 





一方、毛利元就さんも負けじと、吉川元春や小早川隆景など、来年の大河にも

間違いなく登場するであろう錚々たるファミリーを九州へ送り込み、筑前国内は

毛利大友の戦火の海と化し・・・戦乱は永禄12( 1569 )年まで続きます。





毛利氏と大友氏の北九州覇権争いは、大内輝弘に宗麟が軍を与え、毛利氏の

本国へ攻めのぼらせた事で収束します。 ふたつの戦を良しとしない毛利氏は

大急ぎで撤収 この作戦は大友宗麟の参謀役 吉岡長増( 鶴崎城のゴッド

マザーとして名高い?吉岡妙林尼さんの義父 )の進言だったと云われてます 





因みに大内輝弘は、宗麟の母方の祖父でもある周防国守護30代目大内義興

( よしおき )追放計画がバレて、大友氏を頼り豊後へ亡命していた大内高弘の

子です 輝弘は豊後で生まれ、父と同様に当主奪取の野望を持っていました。 


01-15岩屋城本丸からの眺め

さて、こちらは岩屋城本丸からの眺望です 岩屋城は、大友氏に反旗を翻した

筑前守の高橋鑑種さんが築城、城主だったお城ですが、毛利氏の後ろ盾を失い、

命は助けられたものの、高橋鑑種さんは豊前の企救郡( 小倉 )へ追放されます。 

で、宗麟の命により吉弘弥七郎鎮理( 紹運 )さんが岩屋・宝満2城の城督へ


岩屋城址解説板

しかも弥七郎鎮理( 紹運 )さんは、謀反を起こした高橋鑑種( あきたね )さんの

旧臣たちの願いを聞き入れ、高橋姓を継ぎ、名前にも一族の間で平安時代より

受け継がれてきた“ ” の字を入れ、吉弘弥七郎鎮理( しげまさ )から

高橋主膳兵衛鎮種( しげたね )に改名 宗麟から貰った “ 鎮 ” の字しか残ってない・・・


岩屋城解説板パノラマ写真より

そんな紹運さんの懐の深さがきっと功を奏したんでしょうね、

筑前には平穏な日々が訪れます


岩屋城本丸より(杜の中の青い屋根は九州国立博物館)

元亀元( 1570 )年5月、高橋主膳兵衛鎮種( 紹運 )さんは、大分県は国東半島

豊後高田の筧の館から家族3人と家臣らで、筑前の太宰府( 岩屋城・宝満城 )へ

お引越し。 ときに長男の千熊丸( 後の立花宗茂 )は4歳、妻・宋雲尼は20歳、

23歳の高橋鎮種( 紹運 )さんは岩屋城を居城とし、民政を行っていくのです。


宝満城ではなく、手打ちそば・うどん宝満屋さん

こちらは、高橋鎮種( 紹運 )さんが詰城とした宝満城、ではなく

太宰府の手打ちそば・うどんの宝満屋さんですが、屋号の由来は言わずもがな







また、翌年には糟屋郡新宮町、大友氏6代貞宗の次男が築城した立花城へは、

高橋鑑種と共に毛利氏に通じた立花鑑載( あきとし )に代わって、豊州三老で

58歳の戸次鑑連( 立花道雪 )が、夫人と一人娘で3歳になる誾千代を連れて

着任。 主君・大友宗麟に見込まれて、道雪&紹運 ふたりの勇将は筑前の要に。

でもって、三人そろって剃髪 ootomo3にん組 ここに結成です






年齢差35歳の道雪さんと紹運さんは、筑前で良き父と息子のような関係を

築いていきます。 次回は、立花城と岩屋城を行き来して親交を深めて行く

ふたりの素敵なエピソードなどを、御紹介させて頂こうと思います





紹運と宋雲尼【】【番外編A】【3】【






●参考文献、サイト : 吉永正春著 『 九州戦国の女たち 』

秋月観光協会発行・筑前の小京都・秋月城下町 ~ 戦国時代の秋月氏

岩屋城[ 1586年 ] 玉砕覚悟の籠城戦 / ウィキペディア「 高橋鑑種 」







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2013/09/25(水) 21:41 | コメント:4 | トラックバック:0 |

まーりたん、もうじき急こう配の過去を渡り終え、続いてはフラットな現在

現在の先に遠く待ち構えるのは、再び登っては下るアーチ型の未来です  

心字池・もうすぐ過去を渡り終えます。右手は今王社

太宰府天満宮本殿へと真っすぐに延びる3つの連続したこの橋は、手前から

過去、現在、未来を意味し、仏教思想でいう三世一念の相を表現したもの。

この神橋を渡る事で参拝者は三世の邪念が祓われ、清められるんだとか  


心字池と太鼓橋・解説板

3つの神橋は “ 心 ” という字を象った心字( しんじ )池に架かっています

 




過去を表す最初のアーチ橋・太鼓橋をズッコケることなくクリアできましたので、

天神さまこと菅原道真公から謁見をギリ赦されたと前向きに解釈 続いて

現在を意味する平橋( 直橋 )を足取り軽く、やや浮かれ調子で渡りますルン

心字池・現在を表す平橋。左手噴水越しに見えるのは九州最大で最古の絵馬堂

上の画像左手心字池の噴水越しに見えるのは、文化10( 1813 )年に

建立された絵馬堂で、九州に現存する最大かつ最古のものだそうです 

また平橋右脇の小ぶりなお社は1458年、室町時代に再建された志賀社

直橋脇の室町時代(1458年)再建の志賀社・国の重要文化財

安楽寺( 現・太宰府天満宮 )の末社・志賀社には、海上安全の海の神様

綿津見三柱神( わたつみ みはしらのかみ ) ” が祀られています

檜皮葺きのお社には唐破風が施されていて、中世まで大陸との海外貿易

拠点として栄えていた名残りも顕著 志賀社は国の重要文化財です

 







3つめの神橋・未来を意味する太鼓橋も渡り終え、本殿へ至る最後の鳥居を

潜った先に姿を現したのは朱塗りの立派な楼門。 回廊で本殿と連結してます。

最後の大鳥居を潜ると石田三成が再興した楼門(火災で焼失後、大正年間に再々興)

現在の楼門は大正3( 1914 )年に再建されたものだそうですが、それ以前、

明治時代の火災で焼失するまでは、石田三成が慶長年間に再興した楼門が

建っていたというから驚きです 境内入口案内所で頂いた太宰府天満宮&

九州国立博物館パンフレット
には その旨がさらっと説明されてるんですけど、

秀吉さんの秘書官であり、関ヶ原の戦いでは西軍の指揮を執って

家康さんに善戦を挑んだ あの名高い戦国大名・石田三成さんですよ 

独りでびっくりし過ぎかしら・・・おのぼりさんなものでスミマセン






現場型の大名たちからは煙たがられていた、という話は有名ではあるものの、

武将の多くが戦陣に明け暮れていた戦国の動乱期にあって、石田三成さんは

膨大な物資調達や戦地への輸送など粗放にされがちな事務的処理、秀吉さんの

後方支援をパーフェクトに、魔術師さながらに熟す逸材だったとも聴きます







そんなマジカル三成さん縁の楼門を潜ると、いよいよ道真公が祀られた本殿

なんですが、これがまた高名な戦国大名、毛利元就の三男・小早川隆景

天正19( 1591 )年に再建したものなのだとか( 国の重要文化財 ) 

道真公の御霊を祀る本殿(天正19年に小早川隆景が再建)

戦国末期、薩摩の島津軍に太刀打ちできなくなった豊後の大名・大友宗麟が、

傘下に入るのを条件に、秀吉さんへ援軍を求めたことにより始まる九州征伐






秀吉さんが九州征伐の先鋒に選んだのは、毛利・吉川・小早川氏ら中国部隊と、

四国の長宗我部氏の2勢力。 その中の毛利軍を指揮していたのが秀吉の軍師

黒田官兵衛( 黒田如水公 )。 小倉で落ち合うことになる同チームの小早川

隆景
とは 備中高松攻め( この外交交渉の最中に織田信長さんの訃報が入り、

官兵衛は主君の死に泣き崩れる秀吉さんのお尻を叩き、中国大返しを成功させ、

信長さんの形見的存在の秀吉さんを天下人に押し上げます 再来年の大河

ドラマ・軍師官兵衛では最大の見所になると思います )以来の古馴染み。






司馬遼太郎さんの播磨灘物語には、黒田官兵衛孝高は小早川隆景をはじめ、

毛利輝元、吉川元春親子ら同チームの面々とは 『 他人の立場をよく汲み取る

性格が共通しており、攻策も人間関係も大変うまく行った
』 とのくだりも

小早川隆景と黒田官兵衛は仲が良かったらしく、ウィキペディア黒田如水には

それを窺わせるふたりの腹を割った会話、エピソードも紹介されています

九州関ヶ原の際、如水が東軍の幟を挙げるまでに時間を要したのも解る気が...。






一方で四国から派遣された長宗我部軍は戸次川の戦いで残念ながら島津軍に

敗れてしまいますが、合戦場から近い大分市の戸次( へつぎ )地区では今も、

豊後大分のために命をかけて下さった長宗我部軍の供養祭や、戸次川の合戦を

再現したイベント・大野川合戦祭り( 11月だったかな? )が行われてます







後、兵火で焼失した太宰府天満宮の本殿を小早川隆景が再興したのに加え、

黒田如水( 官兵衛孝高 )は楼門、回廊、天満宮の末社、橋などを整備

このため太宰府天満宮では黒田如水公を中興の主と崇め、如水が好きだった

連歌の会を定期的に開催し、明治に至るまで続けていたと云われています

石田三成さん然り、名将達の太っ腹なアフターフォローには敬服するばかり

( ●参考サイト : 太宰府人物リンク 黒田如水


本殿右手は京から道真公を慕って飛んできたというご神木・飛梅

本殿右には、道真公を慕って京の都から飛んできたという御神木の飛梅





ところで、太宰府天満宮のオフィシャルサイトによれば、道真公の菅原家、

ルーツは何と、天穂日命( アメノホヒノミコト )なんだそうですよ





天穂日命は、天照大神( アマテラスオオミカミ )の耳飾りから生を受けたとも

云われる5皇子の次男坊。 長男の天忍穂耳命( アメノオシホミミノミコト )が

天孫降臨伝説で知られる ニニギノミコトのお父さんに当たりますから、

菅原道真公は、ニニギノミコトの叔父さんの末裔という事になるのでしょうか 





それが狡賢い人間に冤罪を着せられて、世のため人のために使うべき能力を

断たれ、失意の内に亡くなったとくれば、天照大神もさぞ激高されたでしょうし

没後に京の都を震撼させる天変地異が起きたのも当然といえば当然かも... 

菅原道真公を祀る天神信仰の神社は、全国に12000社程あるそうです。 








道真公にお参りを済ませ、再び3つの神橋を今度は未来現在過去へと

渡る途中の心字池の畔にて。 神橋左手奥は菖蒲池のある東神苑です。

黒田如水公が庵を構えていたのは東神苑かな?

黒田如水公は菅原道真公を崇敬し、息子・長政が福岡城竣工までに要した

年月の内2年間を、太宰府天満宮の本殿より東に構えた庵で暮らしています。

その才覚ゆえに不遇の天才武将とも言われる黒田如水。 もしかすると道真公に

シンパシーみたいなものを感じていたのかしら2年という歳月も興味深いです。









好き勝手お喋りさせて頂きましたが、道真公に叱られる気配はなくお天気も良好

過去を表す太鼓橋も無事に手前へ渡り終え、最初の場所に戻ってこれました

心字池に架かる太鼓橋

未来から過去へ戻ってくる人と、過去から未来へ進む人が交錯する太鼓橋。

そしてまーりたん一行は、太宰府市を後に福岡市へと向かったのでした









次回はオマケ編だよ

ソフトクリームみたいな狛犬君。お目目は大理石かしら・・・?

ソフトクリームみたいな狛犬くん 美味しそうに本殿を守ってました










本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます


2012/12/20(木) 12:36 | コメント:12 | トラックバック:0 |
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