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まーりたん

Author:まーりたん
大分県で暮らす四十路主婦
“ まーりたん ” の
ブログへようこそ(*^^*)♪

日々を彩る ちょっと素敵な
出来事を我が家の笑導犬?
マンジ君と楽しくお届けして
ます。目下、郷土史に夢中♪
心躍る探訪をご一緒に。

臼杵の富士甚醤油マスコット
キャラ・とっくりこだぬき君が
仲間入りしてからは、嬉しさ
余ってマンジ君の“ 悪がね ”
ぶりもますますエスカレート。

そんなふたり(2匹)の様子も
併せてお楽しみ下さい(*^^*)

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『 秋月家人共、古処山頂より東方を見渡せば、秀吉公の軍兵両軍に充満し、

諸郡の陣に燃す火は晴たる空の星の如く、野山も村里も皆軍兵とみえて夥し。

夜明けて古所山上より大隈の城を見れば、一夜の中に見馴れぬ白壁出来、

腰板を打たれば、見る者驚きて神燮( しんしょう )のおもひをせなり。 

是は敵の目を驚かし、勇気をくじかんために、播磨杉原の紙を以、

夜中に城の壁をはらせ、民屋の戸板を集め墨を塗り、腰板にさせ給けるなり 』

嘉麻市観光ポータルサイトより益富城址・一夜城まつり画像

嘉麻市観光ポータルサイトよりお借りした毎年10月に益富城址で開催される

一夜城まつりの画像です 黒田家譜には冒頭の様に記される秀吉さんの

一夜城
説話。 加藤清正に石田三成に浅野長政、色とりどりの幟を掲げる花形

家臣団を従えた秀吉軍に怯えながらの一夜が白々と明ける頃、破却したはずの

大隈( 益富 )城に忽然とこんな天守が現れたなら、秋月氏でなくとも驚いて

戦意喪失しますよね 何ともドラマティックで空想的 秀吉さんって孔雀みたい



益富城(大隈城)80・二の丸、本丸への登り口

さて そんな胸躍る益富城址探訪( 歴史ロマンに恥ずかしいほど酔いしれてる人は

見渡す限り、まーりたん一人です、ハイ。 おばかな中年でスミマセン・・・
も、いよいよ終盤。


益富城(大隈城)16・見学ポイント拡大益富城(大隈城)7・城郭見学ポイント名称

最終回は、益富城( 城山 )自然公園案内図のある現在地から、

遊歩道を通って、二の丸跡に至るまでの遺構などをご紹介したいと思います

お時間の許す限り、どうぞ探険気分でご観覧&お楽しみ頂ければ幸いです




もしかすると、後藤又兵衛さんや母里太兵衛さんの気配が伝わってくるかも

しれませんよ・・・と付加価値をつけておく 

益富城(大隈城)79

現在地より南の方角、椿の向こうは谷で、その先に見える台地は、

ちょうど益富城郭の中央部に当たる別曲輪。 休憩所として整備されてます。

また、二の丸へ登る遊歩道も、案内図12番の別曲輪をなぞる形で設けられ

02益富城(大隈城)21・別曲輪跡

黒田二十四騎( 黒田家重臣団 )の後藤又兵衛基次さんは、こうした別曲輪

城郭東( 豊前 )側へ大きく張り出した出丸部分に5つ、築いてるんですね 

なので益富城郭全体を見ると、アメーバみたいにデコボコした、とっても不思議な

形をしていて、お城と云うよりも戦闘に備えた陣形と呼ぶにふさわしいかも 



益富城(大隈城)27・水の手曲輪

案内図番の水の手曲輪に着きました。

秋月氏時代に造られた曲輪で、飲料用の天然水を溜める貯水池ですネ

木のうろに天然水が溜まっているのを発見

益富城(大隈城)35・小さな天然貯水池

水の手曲輪は昼間でも薄暗く、木々が生い茂る深い森で、枯れ葉に覆われた

地面を踏みしめると、今も水がじゅわっと滲みだしてくる湿地です。


益富城(大隈城)34・木の枝が擦れあって獣の鳴き声みたいな音

頭上でキイキイ獣みたいな鳴き声がするので、恐る恐る見上げてみたら、

互いにもたれかかった木の枝が、その重みで擦れ合う音でした 

地表では、滲み出た水が木漏れ陽を反射。 分かります ココ

益富城(大隈城)28・水の手曲輪付近は今も湿地

で、左手斜面には大きな石がゴロゴロ 

コレに躓いて、湿地帯へ思いっきりダイブしないようお気を付け下さい 

益富城(大隈城)29・廃城時に破却された石垣跡

この石達は、豊臣家が滅亡した大坂夏の陣から3か月後の元和元( 1615 )年

7月に徳川幕府が発布した一国一城令で、益富城が廃された時の石垣です。

後藤又兵衛さんが亡くなった年に壊された状態のまま、399年の時空を超えて

平成の世に残っているんですね。 そう考えると、ちょっと衝撃でしょうか・・・


益富城(大隈城)25・石垣跡

また奇しくも、後藤又兵衛さん出奔後に益富城を引き継いだ母里太兵衛さんも

同年・元和元( 1615 )年6月6日、この益富城で病没したと云われています。

又兵衛さんの訃報から2か月後で、益富城が廃城になる1か月前の出来事




益富城最後の城主で、戦乱の世を生き抜いた母里太兵衛さんの享年は60歳。 

菩提寺の麟翁( りんのう )寺では命日には法要が行われていて、肖像画も

見せて頂ける様ですヨ 長槍を振り回す豪傑太兵衛さんのイメージとは

程遠い、寝間着姿に穏やかな表情をされた老年の母里太兵衛さん像です  




益富城(大隈城)22・登ってきた車道を見下ろす

案内図番の水の手曲輪番の石垣跡を過ぎ、遊歩道を登って行くと

車道を見下ろす斜面に案内図畝( うね )状竪堀が奇麗に残ってました。

益富城(大隈城)23・畝状竪堀

畝状竪堀は、斜面にトタン屋根状の凹凸をつけ、攻めてくる敵の左右の動きを

防ぐための堀で、秋月時代に造られたもののよう。 更に登って行くと・・・

益富城(大隈城)36・本丸跡へ続く二の丸跡への階段

右へ直角に折れる遊歩道の正面に、大きなイチイガシの木。

根本は案内図10番の空堀跡でした

益富城(大隈城)38・イチイガシと空堀跡

空堀は横堀とも言って、深い横溝を掘り、攻めてくる敵を遮断する為のもの。

こちらも秋月時代に造られたものだそうです






そして空堀跡を右へ折れると・・・

益富城(大隈城)39二の丸の入口

白米流し跡など、秀吉さんの一夜城伝説が息づく益富城二の丸入り口です

ふりだしにもどる









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2014/03/04(火) 17:07 | コメント:16 | トラックバック:0 |


黒田二十四騎の幻影を追いかけて、かつての筑前 朝倉地方を巡った先月

大分自動車道 杷木IC を降りてすぐの道の駅 原鶴で入手したパンフレット2冊。

道の駅・原鶴FSバサロで入手したパンフレット2冊

福岡で活躍中のマスコットキャラふくおか官兵衛くんが表紙を飾る

福岡を創った男 黒田官兵衛( 軍師官兵衛 福岡プロジェクト協議会発行 ) 』

には、大河ドラマ・軍師官兵衛で時代考証を担当なさっている小和田哲男先生の

著書に基づいた詳しい紹介が。 『 筑前の小京都 秋月観光案内~戦国時代編

( 朝倉市商工観光課・観光協会発行 ) 』 は、朝倉地方に四百年の歴史を持つ

秋月氏、そして黒田家中でも朝倉に縁の深い官兵衛さんの実弟・黒田図書助直之

( ずしょのすけ なおゆき )さんと、重臣・栗山利安&大膳利彰親子にウエイトを

置いた、総20ページに亘る読み応えたっぷりの内容。 2冊とも大変役に立ち、

勉強になりました、感謝です とりわけ秋月氏については、平定された側の常か

失われた歴史もあるらしく、現地を訪ねる事は大切だなと、つくづく感じました






黒田官兵衛さんの微笑ましい凸凹側近コンビとして、大河ドラマでもすっかり

お馴染みとなった栗山利安( 善助 )さん&母里太兵衛さんの史跡が残る福岡は

朝倉市、嘉麻市へのお出かけをご予定の皆さま、この2冊の無料パンフレットを

見かけた際は、どうぞ入手をお忘れなく また、お節介な様ですが、探訪中の

食事は、道の駅 原鶴( ファームステーション・バサロ )で早めに調達しておく事を

お奨めします。 ここより先、レストランやコンビニを探すのは一寸難しいです

道の駅 原鶴の近く、国道沿いには中津からあげ大吉さんの支店もありました 







それでは、秀吉さんの一夜城伝説が息づく益富城址登城レポの続きを

今回は、城郭東端に築かれた出丸と別曲輪跡へ足を運んでみたいと思います

益富城(大隈城)1・城郭東側の出丸跡、別曲輪へ

益富城( 城山 )自然公園案内図では、ちょうど膨らんだお餅みたいな形に

東( 豊前国 )側へ大きく、独立して張り出している曲輪部分がそれです。 

臨戦態勢上等これぞ黒田六端城の最前線・益富城だ的な出丸と別曲輪を

増築したのはこの方後藤又兵衛基次( もとつぐ )さん。

博多人形の後藤又兵衛
( 写真は記事冒頭のパンフレットより、福岡銀行本店内に展示中の博多人形又兵衛さん ) 





後藤又兵衛さんの活躍記録は、黒田官兵衛さんが先鋒を務めた九州征伐時の

宇留津城攻めに始まり、官兵衛さんの豊前入封後は地頭・宇都宮氏の鎮圧

更に秀吉さんの朝鮮出兵では亀甲車も操縦し3度の手柄を挙げ、関ヶ原では

石田三成公の家臣で槍の名手・大橋掃部( かもん )を一騎打ちで破るなど、

まさに猛将と呼ぶにふさわしい方です。 身の丈は6尺( 180cm )を超える

母里太兵衛さんに次ぐ大男だったとも云われ 筑前入国後は1万6千石を貰い

益富( 大隈 )城代に。 後藤又兵衛さんは、黒田二十四騎の中でも選りすぐりの

黒田八虎( はっこ )に数えられる重臣ながら、訳あって最初は黒田官兵衛さんの

嫡男・松寿丸( 後の黒田長政公 )と、兄弟同然に育てられるんですね 





年は松寿丸より8歳も上だった事で、黒田家へ来た経緯や時期、なぜ兄弟同然に

育てられたかについては諸説ある様ですが、又兵衛さんのお墓が残る大分県

中津市 耶馬渓では、以下の通り伝承されてます

大分県中津市の後藤又兵衛さん伝説1
( 中津市 耶馬渓 伊福の里・後藤又兵衛の墓 現地解説板より )
大分県中津市の後藤又兵衛さん伝説2

後藤又兵衛さんは関ヶ原後、筑前1万6千石の益富城主という地位を

得ながらも、慶長11( 1606 )年に黒田家を出奔、秀吉さんの遺児・秀頼公の

直属となります。 これは黒田官兵衛さんが亡くなった2年後の出来事で、

又兵衛さんは敬愛する養父・官兵衛さんの死を機に、かねてから確執があり、

官兵衛さんとは似ても似つかない黒田長政公に見切りをつけた、というのが

小説等でも物語られる後藤又兵衛出奔理由の通説となっています ですが

上記解説板の記述を読む限り、又兵衛さんは黒田官兵衛さんの生前から

黒田家を出たかった様。 しかし官兵衛さんと長政に許されなかった、と取れます。


02益富城(大隈城)3・出丸跡

後藤又兵衛さんは、母里太兵衛さんと並ぶ黒田二十四騎の豪傑ながら、

母里太兵衛さんと異なる部分は、最強の忠臣である前に戦国武士とはどう生きる

べきか、という哲学みたいなものを早い時期に確立していた所にある気がします。




実際に勇猛なだけでなく、戦の指揮官を務めさせてもピカイチの才能を発揮する

智将でもあった後藤又兵衛さん 知略と豪胆さで、喩え大けがを負っても挫けず

立ち向かう又兵衛さんの気質、武将としての器を黒田官兵衛さんが見逃すわけが

ありません。 一方、尊敬する父のハートをがっちり掴み、戦の度に美味しい所を

持って行ってしまう又兵衛に対する長政くんの胸中は、さぞ複雑だった事でしょう


益富城(大隈城)7・別曲輪跡へ

大好きなお父さんに認められたい焦りと、又兵衛さんへの劣等感を募らすほどに

先走ってはズッコケて、長政VS又兵衛確執エピソードの数々が生まれるのも

無理はない気がします 又兵衛さんが黒田家を出奔( 無断退職 )するに至った

理由は、やはり又兵衛さんの兄を長政公が破門にした事、それに根っからの

戦国武士だった又兵衛さん、関ヶ原後は自分を騙し騙し鎖に繋がれているだけの

出番のない番犬みたいな状態には、耐えられなかったんじゃないかと思います。

官兵衛さんも今や博多の子どもを相手にすっかり丸くなっちゃって石垣原合戦

真骨頂を見せつけた華麗なる智将・俺の黒田如水は何処へ行っちゃったんだい


益富城(大隈城)8・別曲輪跡

後藤又兵衛さん四方山は、これ迄にも勝手ながら何度か書かせて頂きましたが、

その度に頭に浮かぶのは、小学校時代に読んだ オオカミ王ロボの物語

戦国武士としての誇りを棄て、尊敬に値しない相手の御機嫌を窺い、己の本質を

捻じ曲げるぐらいなら、飲まず食わずでも、自分の信念を貫ける道を俺は選ぶ

筑前1万6千石? 黒田六端城の益富城主? そんなもん惜しいとも思わねぇゼ

又兵衛さんは、こんな素晴らしくロックな人だったんじゃないかしら、なんて





孤高の武将、ラスト戦国武士・後藤又兵衛基次さんは、

後世の人達に夢を与えて続けてくれる人 だからこそ又兵衛さんを題材にした

お話は多く、元和元( 1615 )年の大阪夏の陣で伊達政宗公の鉄砲隊の前に

倒れ、亡くなったはずの後藤又兵衛さんのお墓や、それに纏わる伝説

日本各地に存在しているのではないかなぁ、そんな風に思います

大河ドラマ・軍師官兵衛で、早く塚本又兵衛さんにお目にかかりたいです








崖沿いの武者走りをひたすら歩いて、豊前へ向けられた弓矢の先っぽ部分

後藤又兵衛基次さんが築いた益富城東端の出丸 別曲輪に到着しました

益富城(大隈城)11・焚火の跡

あらっ、もしや一夜城のかがり火跡 えっ、今は中世だっけ・・・  








益富城址登城レポ、あと一回続きます







●参考 : 「 軍師官兵衛 」福岡プロジェクト協議会発行パンフレット

福岡を創った男 黒田官兵衛 / 黒田家前史論集・後藤又兵衛覚書

八幡和郎著・軍師黒田官兵衛~その戦略と生涯







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2014/03/01(土) 14:58 | コメント:12 | トラックバック:0 |


筑前 益富( 大隈 )城の本丸跡より眺める西側の景色 

国道322号線と211号線が縦横にクロスする福岡県嘉麻市を一望できます

益富城(大隈城)・本丸より西側の眺望

画像左手益富城の南西には、標高900m前後の古処山、屏山、馬見山が

屏風のように連なっています。 その昔、朝倉地方と呼ばれていたこの一帯は、

古処山城を拠城に鎌倉時代から400年間続く武家豪族 秋月氏の領地でした。


筑前の小京都~秋月観光案内・戦国時代編(朝倉市商工観光課発行)

しかし弘治3( 1557 )年、筑前の秋月氏は豊後守護の大友氏と戦って敗北。

秋月氏は周防山口の毛利氏を頼って落ち延び、毛利元就公の支援で再興を

試みるも2年後、大友氏21代・宗麟が将軍・足利義輝より 九州の武家を統括する

九州探題職に任命されたため、仕方なく大友氏に従属せざるを得なくなります






ところが風向きが変わり、天正6( 1578 )年の耳川の戦い高城川原合戦 )で、

大友氏は薩摩の島津氏に大敗、急速に衰退し始めます。 大友氏の弱体化に伴い

勢力を伸ばしていた肥前の龍造寺氏を討ち、いよいよ独走態勢に入った島津氏は

九州制覇を阻む最後の敵・豊後大友氏に猛攻を仕掛け、秋月氏もお家再興の

チャンスとばかり、反大友豪族の一派として島津氏に加担してしまうんですね






これに困り果てた豊後大友氏21代・大友宗麟は、病の体をおして

関白秀吉さんの大坂城へ自ら赴き、傘下に入る事を条件に援軍を要請。

これを受けて、秀吉さんの九州平定( 島津征伐 )戦がスタートします。 

天正14( 1586 )年7月25日、先発隊として九州北部へ送り込んだ側近・黒田

官兵衛さんの軍4千に続いて翌年、秀吉さんも自ら20万の大軍を率い九州入り。






秀吉さんの大軍は2隊に分かれ、

黒田官兵衛さんは秀吉さんの弟・秀長さんの軍と合流し豊前・豊後・日向と東側

ルートで九州を南下。  秀吉さんは筑前・筑後・肥後と西側ルートで島津方の城を

攻略しながら南下、薩摩を目指します。 その途中に、益富城はありました。 

羽犬塚など秀吉さんが通ったルートには伝説も残り、これを探訪するもまた楽し 


益富城(大隈城)71・一夜城はこんな感じで古処山をにらみつけた?
 
のう、早川主馬首( はやかわ しゅめのかみ )よ、

町民から戸板や障子を運ばせて作ったハリボテの天守ながら、上々のデキとは

思わんか? 官兵衛に頼らずとも、この程度の奇策なら、ひとりで出来るもん




「 仰る通りです、秀吉さま。

益富城を棄てて、あの古処山に逃げ込んだ秋月種実( たねざね )から見れば

魔法の一夜城です きっと胆をつぶして降参してくるに違いありません 」


益富城(大隈城)55・白米流し跡
 
「 そう思うか?ワシってやっぱり凄いよな!近々海外進出もしてみようかしらん 

そうじゃ、この崖から白米を流して、見せかけの滝も作ってしまえ。

早川主馬首よ、この益富城は、おことにくれてやるぞ




「 大河ドラマ・軍師官兵衛 第五話で赤松氏が喋っていたようなセリフですが・・・

秀吉さま、ありがたき幸せ~



益富城(大隈城)64・一夜城伝

・・・という経緯で、島津方の秋月種実・種長親子は程なく秀吉さんに降り、

天下の名器・茶道具楢柴( ならしば )を献上した事で命を助けられます





秀吉さんは家臣の早川主馬首さんを益富城の城番に据え、島津氏討伐の為

秋月種長さんに先鋒を務めさせ再び九州を南下。 種長さんは後、日向( 宮崎 )

の高鍋藩へ移封。 波乱の生涯ながら慶長元年、52歳まで生きられたとか



益富城(大隈城)63・益富城の歴史


さて、ここで豊後の歴史好きな方へ耳寄り情報ですご存知だったらごめんなさい!


秀吉さんの九州平定の最中に益富城番となり、そのまま居城

益富城歴代城主に名を連ねていらっしゃる早川主馬首さん。

この方、大分県の方々には早川長敏という名で知られている方で、

秀吉さんの朝鮮出兵( 1592年の文禄の役 )での失態を理由に、宗麟の子・

大友氏22代義統( よしむね )が豊後を除国処分となった大友氏改易の翌年

文禄3( 1594 )年に豊後府内へ入封した初代府内藩主で、府内城2代目

城主
です。 全国的には、早川長政早川主馬首の名で通っている様ですが、

大分県では早川長敏が一般的で、それ以外の名前では誰って感じですよね。





府内城の築城は慶長2( 1597 )年、石田三成さんの妹婿の福原直高さんが

始めたので、早川長敏さんが府内へ来た当時、今の府内( 荷揚 )にお城は無く、

とりあえず旧・府内( 古国府 )の大友館をリノベーションして暮らしていたそうな。

後、早川さんは一度、府内を離れますが、三代目府内藩主に返り咲くんですね





関ヶ原の時には西軍に付き、東軍・細川氏の説得に応じ開城するも改易となり、

府内城には早川さんに代わって竹中半兵衛さんの従弟・竹中重利さんが入城

そんな早川さん、大阪の陣では豊臣方として戦いますが、後の消息は不明 

息子さんは細川忠興公の家臣になり、子孫は仙台藩に仕えたとの説も・・・。

早川さんもなかなか謎の多い、興味をそそられる方でいらっしゃいます

益富城で後の府内城主に出会えるなんて、またも予想外のオマケがついてきた
 

益富城(大隈城)あれは噂の一夜城?本丸跡

益富城・本丸跡の可愛らしいプチ天守

西側の城下から見上げると、本当に天守の望楼っぽく見えるんですよ










続いて豊前( ぶぜん )方面を望む 益富城( 大隈城 )本丸東側の眺めです

高土塁の向こうは絶景だけど絶壁ですので、あまり乗り出してはダメですよ

02益富城(大隈城)74・本丸東側の横矢


南北一直線上に並ぶ益富城の二の丸・本丸曲輪の東端ラインには、

攻めてきた敵へ矢を射かけるため土塁を張り出させた横矢( よこや )が2ヶ所、

奇麗に遺されてます。 特に本丸の横矢は長さもあって、石垣までしっかり 

益富城(大隈城)・本丸東側の横矢は石垣も残ってます


本丸の横矢には更に、櫓らしき建物も完備されていた模様。

武器弾薬倉庫でしょうか

益富城(大隈城)・背後は櫓もあった横矢跡


城郭の形は、まるで豊前へ向け巨大な弓を引き絞った様にも見える益富城

慶長5( 1600 )年、関ヶ原の戦功によって筑前へ入封した黒田長政公が、

東の隣国・豊前との国境に巡らせた出城 黒田六端( ろくは )城のひとつです。

黒田氏のあと豊前へ入封したのは、ガラシャさんの夫としても有名な細川忠興公。

黒田長政公と、細川忠興公は不仲だった、と云われているんですね・・・





黒田六端城の中で唯一、豊後( ぶんご )に面した麻底良( まてら )城には

温厚な智将・栗山備後利安さん。 一方、豊前( ぶぜん )を見据える最前線の

益富城には、豪傑の後藤又兵衛基次さん。 1606年、又兵衛さんが黒田家を

出奔した後も同じく豪傑の母里太兵衛友信さんを配したことから豊前、つまりは

細川氏に対する黒田長政公の只ならぬ疑念 みたいなものが感じられます











つと振り返れば、益富城・本丸跡のあづまやより、西側城下を眺める人影

益富城(大隈城)・本丸の東屋から城下を眺める人は誰?

何やら感慨深げ・・・、このままそっとしておこう








次回は、早川長敏( 早川長政・早川主馬首 )さんの後に筑前・益富城へ入り、

豊前に対する堅固な出城・黒田六端城へと改築した後藤又兵衛基次さんのお話

そして今も残る別曲輪や出丸、畝状の堀跡などをご紹介したいと思います







●参考:朝倉市商工観光課・観光協会発行 筑前の小京都秋月観光案内~

    戦国時代編  /  ウィキペディア早川長政( 早川主馬首 )





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2014/02/26(水) 15:46 | コメント:8 | トラックバック:0 |

楽しみにして下さっていた皆さま、大変長らくお待たせ致しました

関ヶ原後の黒田氏筑前入国後、後藤又兵衛基次さんと母里太兵衛友信さん

黒田二十四騎きっての豪傑ふたりが城代を務めた黒田六端( ろくは )城

ひとつ 益富( ますとみ )城址へ、ついにやってきましたよ~

益富城(大隈城)40史蹟・益富城址(二の丸)

別名 大隈( おおくま )城とも呼ばれる福岡県は嘉麻市中益に在る益富城址。



栗山利安さんの麻底良城然り、ここ益富城も元和元( 1615 )年の一国一城令

により破却処分され、現在は 益富城( 城山 )自然公園になっています

が、武勇はもちろん戦の司令官としても長け、武士が崇拝する摩利支天の化身

と噂される事もあったという後藤又兵衛基次さんが益富城へ入城後、

豊前方面に対する堅固な守りの城 = 黒田六端城に仕上げるために髄を極め、

心血を注ぎ改築したであろう形跡は、今も随所に見る事ができます


益富城(大隈城)13・益富城(城山)自然公園案内図。アメーバ城郭

先ず何と言っても面白いのは、標高187mの益富山頂にめぐらされた城郭の形

案内図のオレンジ色の部分がそれですが、ちょっと見はまるでアメーバ

中央より右、横一文字のオレンジ色部分には 二の丸本丸、その北に馬屋

中央より下、東側一帯のデコボコしたオレンジ色部分は、豊前方面に向けられた

出丸と、両脇を固めるために配置した5つの別曲輪なんだそうですね

アメーバみたいな城郭は、東側の出丸を頂点にした逆三角形にも見え、山城と

いうよりも陣形 全体の規模は約5町歩( ちょうぶ )= 五万平方メートルだとか。

福岡ドームより少し狭くて、東京ドームより少し広いと考えればいいのかしらん? 山城にしては広大です









国道211号線からの登城ルートと、二の丸本丸付近を拡大してみました

登山口には毎年10月の一夜城まつり会場となる嘉穂プールがあります

益富城自然公園案内図・二の丸付近拡大
益富城自然公園案内図・注1益富城自然公園案内図・注2益富城自然公園案内図・注3

これぞ後藤又兵衛の黒田六端城!的な周辺の出丸別曲輪から順を追って

ご紹介して行きたいところですが、もう待ちきれないよ~という有難~い

お声が聴こえそうな気がしましたので、付けられた番号の多さでお解りの通り

見所いっぱいの益富城 二の丸跡へ、いきなり飛んでみたいと思いまーす

益富城(大隈城)78・石柱は二の丸に建ってます

史蹟・益富城址の石碑は、二の丸跡に建っているんです







おや、石碑の裏側に彫られている説明を熟読中の相方

益富城(大隈城)47・最近城探訪に熱心になった相方様

史跡巡りを始めた頃は、野放しにすると戻って来ない恐れのある山猿

まーりたんの保護者として付き合ってくれてた相方も、すっかり勉強熱心に。 

大河の第五回・母里武兵衛さんが亡くなるシーンでは瞳を潤ませ・・・

官兵衛さんに人心掌握されてしまった模様、恐るべし



益富城(大隈城)48

『 ( 碑文 )今から約550年前(1430年頃)、大内盛見( おおうち もりはる )が

足利氏の命を受け、肥後の菊池氏を攻めて功を立て、豊前、筑前、肥後、

3国の領主となり、この益富城を築いた。 豊臣秀吉、九州征伐のため西下し、

秋月種実( たねざね )父子を攻めるに当たり、秀吉奇策をめぐらし、町民に命じ

戸板・障子を集め、一夜にして見事な仮城を造り、白米を山麓に向け、滝のように

流したるを見て、一戦も交えずして秋月種実父子、秀吉の軍門に降る。 

その功を讃え、恩賞に秀吉着用の陣羽織とお墨付きを町民に与える。 

慶長5年、黒田長政入国後、後藤又兵衛基次を城主として城を改築する。 

その後、母里太兵衛但馬守友信が城主となる。 歌で名高い名槍・日本号の

その人
である。  元和元年6月、一国一城の命により廃城となる。 

町角に城下町の面影を留めてなお、史蹟は山なみ古処( こしょ )を遠望する 』



益富城(大隈城) 49・横矢(よこや)張りださせた土塁から矢を射て攻敵を撃退
 
石碑の背景に写り込んでいた標柱は、後藤又兵衛・母里太兵衛さん時代に

造られた横矢( よこや )を示すもの。 張り出させた土塁から矢を射かけ

攻めてきた敵を撃退するための場所で、東側( 豊前方面 )に設けられてました。



益富城(大隈城)41

相方が視察に向かった先は、二の丸南側の櫓( やぐら )跡
 

益富城(大隈城) 45・二の丸での戦闘と防御のための櫓跡

この遺構も、黒田六端城( 後藤又兵衛・母里太兵衛時代 )のもので、

二の丸での戦闘と防御の為に造られた櫓跡です。



 

そして、櫓跡の正面( 北側 )には 枡形の虎口( ますがたのこぐち ) 

益富城(大隈城) 43・枡形の虎口

これも黒田六端城( 後藤又兵衛、母里太兵衛時代 )に築造された

戦闘面を重視した出入り口で、搦( からめ )手門跡と考えられている様

そうです 麟翁寺の山門が建っていたかもしれない場所です

益富城(大隈城) 42・搦め手門の跡?枡形の虎口(ますがたのこぐち)

枯れ葉に覆われて遺構が見え難いので、カメラを引いてみました如何

コの字型になっているのが解りますよネ








益富城址の石碑が建つ場所( 二の丸 )より、北側( 本丸 )を向いて一枚 

あづまやの辺りが本丸跡、展望台を経て、その先に馬屋跡が在ります。

益富城(大隈城)50・二の丸から北へ真っ直ぐ行くと本丸(東屋)

まーりたんの左手には櫓跡と搦手門の遺構、右手には高土塁の横矢

益富城の二の丸と本丸は、南北に細長い直線上に並んでいて、左右は絶壁。

三の丸は無いんですよ。 あとは離れた場所に出丸と5つの別曲輪だけ 






次回は益富城の本丸より、一夜城に纏わる遺跡をご紹介しながらの少し詳しい

一夜城伝説を、そして後藤又兵衛さんはもちろん、後に豊後府内城主となる

ハ○カ○さんも名を連ねていた益富城( 大隈城 )歴代城主のお話など、

これまた現地を訪れて初めて知った四方山も、お届けしたいと思います  

嘉麻市の県道442号線より臨む一夜城伝説の益富(大隈)城
( 益富山遠景 )






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2014/02/23(日) 16:40 | コメント:11 | トラックバック:0 |


大河ドラマ・軍師官兵衛がスタートしてから つねづね思っていた事なんですが、

黒田職隆(柴田恭兵さん)の弟 黒田休夢役の隆 大介さん、シブいですね~ 

第六話で、黒田官兵衛さんの妻・光( てる )へ 遠慮がちに鰻を届けるシーンでは

ちょっぴりコミカルな演技も光っていて、いぶし銀の存在感もさながら、ますます

好きになってしまいました 大分の歴史好きな方なら ご存知とは思いますけど、

隆 大介さんは1985年に公開された映画 『 国東物語 』 で、主人公の大友義鎮

( よししげ )
= 若き日の豊後守護 大友宗麟公を演じていらっしゃるんですよね 




映画・国東( くにさき )物語は、大分市出身の日本画家・高山辰雄画伯の長女

高山由紀子さんが、40代半ばの時に執筆された同タイトルの小説が原作で

ハイティーンの大友義鎮( 後の宗麟 )が、父との確執に悩み、様々な苦難の末に

豊後大友氏21代目当主となるまでの物語。 まーりたんは読んでいて、なんとなく

ジェームズ・ディーンのイメージと重なりました。 小説は2年前に古書フェアで購入

できたものの、映画は未だ観れてません。 日出町の老舗料亭・的山( てきざん )

荘を大友館に、国東の六郷満山など、映画は大分をメインに全編オールロケ

そのうちWOWOWで発掘映画として放送してくれないかな~なんて思ってます





映画・国東物語で青春時代の大友義鎮公を演じられた隆 大介さんは当時28歳。

ふと思い立って調べてみたところ、奇しくも昨日の豪雪バレンタインデーが

な~んと、お誕生日でいらしたんですね 今年57歳になられたそうです 

おめでとうございます 黒田休夢に扮する57歳の隆さんは猛々しく、スキン

ヘッドも良くお似合い。 観ていて今度は大友宗麟公とイメージが被ってしまう



曹洞宗・聖寿山麟翁寺本堂

さて、それでは嘉麻市役所 嘉穂庁舎から程ない母里太兵衛友信公の菩提寺

聖壽山 麟翁寺 』 探訪レポの続きに戻りたいと思います 






大住職様が大分弁に近い親しみの湧くお国言葉で、あっけらかんと教えて下さった

アレ 」 の場所へやってきましたよ その名の通り、蝋の花を散らした様に

可愛らしく咲いている蝋梅の向こうには、低い塀で囲まれた3つのお墓。  

左から母里友信(太兵衛)、母里友晴(太兵衛の子)、母里友清(太兵衛の孫)の墓

大きさは違えど、大木の根本に仲良く並ぶ3つのお墓は、向かって左から

母里太兵衛友信公、中央の円柱形は太兵衛さんの息子・母里友晴さん、一番

大きいのが太兵衛さんの孫・母里友清さん、母里家3代のものだそうです



大友義統本陣跡の記事でも書かせて頂きましたが、母里太兵衛さんの正妻は

大友宗麟公の娘
です。 太兵衛さんが側室を持っていた記録も調べた範囲では

見つからず・・・。 なので、もしかすると真ん中のお墓に眠る母里友晴さんは、

太兵衛さんと正妻の子、つまり大友宗麟公のお孫さんかもしれないんですね 


母里但馬守(太兵衛)友信さんのお墓

こちらが囲いん中に3つ並んじょる左ん隅ん こまいやつ

と、大住職様が親切に教えて下さった 母里太兵衛友信公のお墓です 

麟翁寺では「 アレ 」で通じるらしい母里太兵衛( 母里但馬守友信 )公のお墓 


こまい( 小さい )アレの他、2基のお墓についての詳細は訊きそびれましたが、

母里家3代、中央は大友宗麟公のお孫さんのお墓という事にしておこうっと




大友宗麟公の孫と言えば、大友氏22代義統( よしむね )公が秀吉さんの

朝鮮出兵時の失態
を理由に豊後を改易された後、加藤清正公に預けられ、更に

黒田如水公に器量を見込まれて、徳川家の高家旗本となったラッキーボーイ

大友義乗( 大友義統の子・よしのり )さんが、まーりたんの知る限りでしたし、 

母里太兵衛友信公のお墓があると聞いて訪れた麟翁寺でのオマケに感謝






母里太兵衛友信公のお墓傍の御影石に刻まれていた麟翁寺縁起略記

麟翁寺縁起略記~日本号を呑み獲ったのは天正18年1月3日、太兵衛35歳の時

弘治2( 1556 )年に播州 加古川に生まれた母里太兵衛さん。

黒田節に謡われる、太兵衛さんが福島正則公から名槍・日本号を呑み獲った

天晴れ珍事件は天正18( 1590 )年1月3日、黒田家の年賀の使者として

京都伏見を訪れた時に起きた模様。 太兵衛さんはその時、え~っと34歳か

麟翁寺縁起略記~太兵衛さん益富(大隈)入城は慶長12(1607)年齢51歳

更に、後藤又兵衛基次さんが黒田家を出奔し、豊臣秀頼の家臣となり大阪城へ

入った後の慶長12( 1607 )年に、又兵衛さんの益富城( 大隈城 )を継いだ事、

8年後の慶長20( 1615 )年6月に他界された事、などが記されていました





母里太兵衛さんは、義兄弟の契りを交わした栗山備後利安( 栗山善助 )さんと

協力し合い、官兵衛さん、そして黒田家の危機をこれまた何度も救った方です。 


秀吉さんの九州平定戦で黒田官兵衛さんが先鋒を任されたときは、島津方の城

豊前の宇留津城へ一番乗り。 滝をも制する?アノ槍使いで、がむしゃらに猛攻

大暴れして高い功績を挙げます 一本気で勇猛なモーレツ太兵衛さん返せば

主君を決して裏切らない愚直な忠臣、しかも剛腕。 秀吉さんはそこを見込んで

太兵衛さんを直臣に欲しがったと云いますが、官兵衛さんに断られたとか


石垣原合戦では官兵衛さんの命令で、義理の兄である大友義統を諭し、降伏へ

導いた事からも、腕力だけでない太兵衛さんの直向きさ、誠実さが窺えます








お墓参りも済ませたし、墓地を出て山門へ向かおうとしたその時、

境内の犬小屋から麟翁寺のワンコくんが飛び出してきて、

杭から延びたリードに首を引っ張られた状態で立ちあがり、吠えるでもなく

しきりにシッポを振って、両前足でオイデオイデするのです・・・

麟翁寺のワンちゃんが熱烈歓迎♪くんくん匂いを嗅いで何か察したのか・・・

近づいて、左手を差し出してみたら、両手( 両前足? )をこんなふうに乗せて

まーりたんの指先をくんくん。 その仕草がとっても可愛いので、ダウンコートの

右ポッケに仕舞っていたデジカメを出して、片手でパチリ








安心したのか、両手( 両前足? )は掌に乗せたまま、今度は完全リラックスモード。

シッポは絶えず振りながら、余程まーりたんを気に入ってくれたのかと思いきや、

このワンちゃんは、目の前にいるまーりたんを見てない事にハタと気付きました

まーりたんの右肩を見て嬉しそうにシッポを振る。もしや麻底良城から誰か一緒に

かたく握手した手( 前足? )は依然そのままだけど、ワンコが真っすぐ嬉しそうに

見つめる先は何故かまーりたんの右肩あたり ここへ来る前に訪ねた場所は、

太兵衛さんと義兄弟の契りを交わしたお兄さん・栗山善助さんゆかりの史跡・・・

もしかして、まーりたんから麻底良城の匂いがするとか? なら、このワンコが今

見ているものは あなたもしや、太兵衛さんなんじゃないの 

もしや太兵衛なの?博多人形の母里太兵衛

お顔の角度といい、まなざしといい・・・やっぱり似ています








・・・ということで、お待たせしました

次回は母里太兵衛さんが後藤又兵衛さんから受け継いだ黒田六端城の

ひとつ、嘉麻市の益富山頂に遺る益富城( 大隈城 )跡

嘉麻市の県道442号線より臨む一夜城伝説の益富(大隈)城


・・・と行きたいところですが、ちょっとココへ寄り道しまーす

国道211号線沿いに清酒・黒田武士と書かれた酒蔵発見!


●参考文献・資料 : 八幡和郎著 「 軍師黒田官兵衛~その戦略と生涯 」

軍師官兵衛福岡プロジェクト協議会発行・福岡を創った男~黒田官兵衛






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2014/02/15(土) 19:35 | コメント:2 | トラックバック:0 |


龍光山 円清寺麻底良( 左右良 )城址など、黒田如水( 官兵衛孝高 )公から

最も信頼されていた黒田家の筆頭家老・栗山備後利安( 善助 )さんの足跡が

色濃く残る福岡県朝倉市 杷木志波( はきしわ )地区を後に、国道211号線を

北上。 宝永2( 1705 )年、小鹿田( おんだ )焼き開窯の際に技術伝達を担当

したという柳瀬三右衛門さん縁の小石原( こいしわら )焼きの里を走り抜け

( 国道沿いに小石原焼の窯元や直売所が沢山あったのに、この日は立ち寄る時間が無かったのが心残り

到着したのは、福岡県 嘉麻( かま )市 大隈( おおくま )町です 

母里太兵衛と後藤又兵衛さんの幟がはためくココは?

福岡県 嘉麻市は、栗山備後利安さんと同じく黒田二十四騎の母里太兵衛友信

( もりたへえとものぶ )さん、そして耶馬渓玖珠に伝説を残す後藤又兵衛基次

さんに縁の深い土地なんですね 大隈町に在る母里太兵衛さんの史跡を見学

する間、車を置かせて頂いた嘉麻市役所には、ふたりの幟も立てられてました
 

嘉麻市役所・嘉穂庁舎です♪

大隈町に所在する嘉麻市役所は、嘉穂( かほ )庁舎です

嘉麻市役所には3つほど庁舎があるので、目的地に設定する際はお間違いなく


嘉麻市役所嘉穂庁舎・大隈町

さて、これより向かう先は大河ドラマ軍師官兵衛・第六話で、母里家のためにも

強くなりたいという純粋な思いゆえ、挙句には滝を相手に槍を振り回していた

速水もこみちさん扮する母里太兵衛友信公の菩提寺 麟翁寺( りんのうじ )です。

母里太兵衛さんは、官兵衛さんよりも10歳年下の 弘治2( 1556 )年生まれ

母里姓を賜り、黒田官兵衛さんに出仕した時は、まだ14歳だったんですね 







理知的な岡田官兵衛さんもステキだけど、これからはワイルドでピュアな

もこみち太兵衛さん あ~らイケナイ私ったら

もとい 母里太兵衛友信公ゆかりの史跡も是非、巡ってみたいワ

なんて胸を高鳴らせているそこのアナタ

今回は麟翁寺へ素早く迷わず辿りつける最短コースをお教えしちゃいますヨ 

嘉麻市役所嘉穂庁舎の駐車場右手路地は何処へ

嘉麻市役所 嘉穂庁舎を目指して来たら、庁舎に向かって右手・敷地内駐車場の

隅っこに狭い路地があります。 そこを入って、あとは真っすぐ進んで下さい 




途中、左手にこんな景色が見えてきたら正解です

嘉穂庁舎P右手の路地を通り抜け中。左に立派なお堂が見えました、目指すはあの御堂のお寺です!


細く長い路地の突き当りは左へ折れていて、浄土真宗の寺院・貴宝山 光圓寺の

境内に繋がってます。  その光圓寺の山門を出て左隣のお寺が麟翁寺 

貴宝山光圓寺の山門を出て左手には母里太兵衛さんの幟がはためく聖寿山麟翁寺

母里太兵衛さんの大河幟、ここでもはためいてました 聖寿山 麟翁寺




門柱横の麟翁寺略記には、あの黒田節にも謡われる母里太兵衛さんの菩提を

弔うため、慶長20( 1615 )年に建立された曹洞宗の道場とあります 

麟翁寺・寺号は太兵衛さんの戒名から

もとは大雄山 永忠寺という後藤又兵衛基次さん建立の寺だったんですね



後藤又兵衛さんの実父は、織田信長に反旗を翻した事から秀吉軍が兵糧攻めに

した三木城主・別所氏家臣( 後藤基国 )です。 小寺氏の下にいた元同僚でも

あり、その遺児・後藤又兵衛さんは黒田官兵衛さんが引き取り、又兵衛さんより

8歳年下の嫡男・松寿丸( 後の黒田長政公 )と、兄弟同然に育てるわけですが、

この二人は兄弟というよりも、むしろ苛烈なライバルといった感じ


聖寿山麟翁寺・益富城の搦手門を移築した山門

黒田如水( 官兵衛孝高 )公が亡くなった二年後の慶長11( 1606 )年、

後藤又兵衛さんはついに長政公を見限り、任されていた黒田六端城のひとつ

嘉麻市の益富城も、母の菩提を弔う為に建立した永忠寺( 現・麟翁寺 )も棄てて

出奔 放浪の末、秀吉さんの後継・豊臣秀頼の直臣に取り立てられるものの、

これで後に後藤又兵衛さんと黒田長政公は、完全な敵味方となってしまいます

 
聖寿山麟翁寺・山門は益富城の搦手門

後藤又兵衛さんが出奔した翌年の慶長12( 1607 )年、母里太兵衛さん51歳の

時に、それまで任されていた黒田六端城のひとつ 福岡県 直方( のうがた )市

遺る鷹取城を離れ、後藤又兵衛さんの益富城へ移り 益富城主となり、8年後の

1615年6月6日、母里太兵衛さんは益富城にて没しています。 享年60歳


一夜城で知られる益富城の搦め手門です!

杷木の麻底良城然り、益富城も元和元( 1615 )年7月の一国一城令で程なく

廃城となりますが、益富城の搦( からめ )手門はここ、聖寿山 麟翁寺に移築

麟翁寺の山門は秀吉さんが九州平定の際に、島津方の秋月氏を降参

させるべく用いた奇策・一夜城で知られる益富城の搦手門なんですよ~
 

麟翁寺前の道路を山手へ登って行くと益富山の・益富城址(黒田六端城)へ到着♪

益富城の一夜城伝説も早くお話したいけれど、麟翁寺にもまだまだ見所

そしてご紹介したい事がいっぱい もう暫くお待ちくださいませ~

 

麟翁寺本堂左手の御堂越しに嘉麻市役所嘉穂庁舎が見えてます

さきほど狭い路地を通ってくるとき左手に見えた麟翁寺境内の御堂。

今度は逆に、嘉麻市役所の嘉穂庁舎が塀越しに覗いてます。 

立派な御堂から視線を右へ移すと、聖寿山 麟翁寺の本堂。

山門を潜った正面にあり、本堂右側は住職さんのお宅になっている模様

聖寿山麟翁寺の境内

さてさて、ところで噂に聴いていたアレは何処かしら

挙動不審に境内をウロウロしていたその時、縁側のサッシがバーンと勢いよく

開いて、70代位の男性が登場 住職さんというよりも御隠居様っぽい雰囲気



コラッ誰じゃなんて昭和の漫画ちっくに怒鳴られる・・・かと思いきや、



あんたどぅ、アレ観に来よったんやろ? アレはな、

そんまま右に真っすぐ行っち、囲いん左ん隅にあん

こまいのがそうじゃ。 ゆっくり見ち行きよ




大分弁であるハズがない だけど、緊張していたせいか御隠居様風住職さんは、

どんな福岡弁で話して下さったか、どうしても思い出す事が出来ません・・・。 

ただ、はっとするほどラフに、博多弁ではない、どちらかというと大分や北九州・

山口方言に近い感じの語尾を上げないお国言葉で、親切に声を掛けて頂いた

その内容は、こんなでした 福岡県の嘉麻市って、何弁が主流なの?


本堂右手は墓地・蝋梅が見ごろを迎えています

母里太兵衛さんの麟翁寺を訪ねた1月の終わり、境内の蝋梅が満開でした

満開の蝋梅の先にアレと、もしかして大友宗麟公のお孫さんかもしれないアレが

あるのですが・・・長くなりましたので、麟翁寺探訪の後編は次回にて 

 






●参考文献・資料 : 新人物文庫・大分県謎解き散歩

軍師官兵衛福岡プロジェクト協議会発行・福岡を創った男~黒田官兵衛






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2014/02/12(水) 19:17 | コメント:7 | トラックバック:0 |
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