『 秋月家人共、古処山頂より東方を見渡せば、秀吉公の軍兵両軍に充満し、
諸郡の陣に燃す火は晴たる空の星の如く、野山も村里も皆軍兵とみえて夥し。
夜明けて古所山上より大隈の城を見れば、一夜の中に見馴れぬ白壁出来、
腰板を打たれば、見る者驚きて神燮( しんしょう )のおもひをせなり。
是は敵の目を驚かし、勇気をくじかんために、播磨杉原の紙を以、
夜中に城の壁をはらせ、民屋の戸板を集め墨を塗り、腰板にさせ給けるなり 』


一夜城まつりの画像です


一夜城説話。 加藤清正に石田三成に浅野長政、色とりどりの幟を掲げる花形
家臣団を従えた秀吉軍に怯えながらの一夜が白々と明ける頃、破却したはずの
大隈( 益富 )城に忽然とこんな天守が現れたなら、秋月氏でなくとも驚いて


戦意喪失しますよね




さて


見渡す限り、まーりたん一人です、ハイ。 おばかな中年でスミマセン・・・



最終回は、益富城( 城山 )自然公園案内図



遊歩道を通って、二の丸跡に至るまでの遺構などをご紹介したいと思います

お時間の許す限り、どうぞ探険気分でご観覧&お楽しみ頂ければ幸いです

もしかすると、後藤又兵衛さんや母里太兵衛さんの気配が伝わってくるかも
しれませんよ



現在地


ちょうど益富城郭の中央部に当たる別曲輪。 休憩所として整備されてます。
また、二の丸へ登る遊歩道も、案内図12番の別曲輪



黒田二十四騎( 黒田家重臣団 )の後藤又兵衛基次さんは、こうした別曲輪を
城郭東( 豊前 )側へ大きく張り出した出丸部分に5つ、築いてるんですね


なので益富城郭全体を見ると、アメーバみたいにデコボコした、とっても不思議な
形をしていて



案内図8番の水の手曲輪に着きました。
秋月氏時代に造られた曲輪で、飲料用の天然水を溜める貯水池ですネ

木のうろに天然水が溜まっているのを発見



水の手曲輪は昼間でも薄暗く、木々が生い茂る深い森で、枯れ葉に覆われた
地面を踏みしめると、今も水がじゅわっと滲みだしてくる湿地です。

頭上でキイキイ獣みたいな鳴き声がするので、恐る恐る見上げてみたら、
互いにもたれかかった木の枝が、その重みで擦れ合う音でした


地表では、滲み出た水が木漏れ陽を反射。 分かります




で、左手斜面には大きな石がゴロゴロ

コレに躓いて、湿地帯へ思いっきりダイブしないようお気を付け下さい



この石達は、豊臣家が滅亡した大坂夏の陣から3か月後の元和元( 1615 )年
7月に徳川幕府が発布した一国一城令で、益富城が廃された時の石垣です。
後藤又兵衛さんが亡くなった年に壊された状態のまま、399年の時空を超えて
平成の世に残っているんですね。 そう考えると、ちょっと衝撃でしょうか・・・


また奇しくも、後藤又兵衛さん出奔後に益富城を引き継いだ母里太兵衛さんも
同年・元和元( 1615 )年6月6日、この益富城で病没したと云われています。
又兵衛さんの訃報から2か月後で、益富城が廃城になる1か月前の出来事

益富城最後の城主で、戦乱の世を生き抜いた母里太兵衛さんの享年は60歳。
菩提寺の麟翁( りんのう )寺では命日には法要が行われていて、肖像画も
見せて頂ける様ですヨ



程遠い、寝間着姿に穏やかな表情をされた老年の母里太兵衛さん像です



案内図8番の水の手曲輪、7番の石垣跡を過ぎ、遊歩道を登って行くと
車道を見下ろす斜面に案内図9番 畝( うね )状竪堀が奇麗に残ってました。

畝状竪堀は、斜面にトタン屋根状の凹凸をつけ、攻めてくる敵の左右の動きを
防ぐための堀で、秋月時代に造られたもののよう。 更に登って行くと・・・



右へ直角に折れる遊歩道の正面に、大きなイチイガシの木。
根本は案内図10番の空堀跡でした


空堀は横堀とも言って、深い横溝を掘り、攻めてくる敵を遮断する為のもの。
こちらも秋月時代に造られたものだそうです


そして空堀跡を右へ折れると・・・


白米流し跡など、秀吉さんの一夜城伝説が息づく益富城二の丸入り口です

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