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まーりたん

Author:まーりたん
大分県で暮らす四十路主婦
“ まーりたん ” の
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日々を彩る ちょっと素敵な
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マンジ君と楽しくお届けして
ます。目下、郷土史に夢中♪
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ぶりもますますエスカレート。

そんなふたり(2匹)の様子も
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唐津観光協会鎮西支所ブログ 』 を運営されている 福ちゃんさんこと

名護屋城観光ガイドの方が先日、今回の名護屋城登城レポへ大変温かな

コメントを下さいました 好き放題書いているにも関わらず、恐縮です





肥前・名護屋城址への訪問を計画なさっている皆さま、お出かけの前には

唐津観光協会鎮西支所ブログのチェックを、どうぞお忘れなく

名護屋城址周辺の陣屋跡や、道の駅・桃山天下市で開催中のイベント等々、

名護屋城所在地・佐賀県唐津市 鎮西町の最新情報が入手できますヨ


  






さて、名護屋城本丸の南側から見下ろした馬場へと降りてきました

三の丸と二の丸を繋ぐ馬場

馬場は、その名の通り馬の訓練場として また三の丸と二の丸とを繋ぐ

重要通路として機能していた様子。 道幅15メートルの馬場両側の石垣は、

築城時( 420年前! )の状態のまま残っていて、櫓へ登る石段も現存

東西100メートルの馬場・西寄りに設けられた馬場櫓台( 跡 )です。

名護屋城跡馬場櫓台
名護屋城跡・馬場櫓台

馬場櫓台の石垣は、円形の大きな野面石の周りに割石を配し、櫓内部には

栗石( 川原の石 )を詰めるなど、城内石垣の中でも特異&必見ポイント 

名護屋城跡・割り石の中に野面の鏡石がひとつ

試行錯誤をして積まれた形跡もあり、もしかすると名護屋城の設計担当だった

加藤清正公がこの場所に立ち、「 イメージと違うんだよなぁ~

なんて、あーでもない、こーでもない言ったのかも






更に、馬場から三の丸へ入る場所に設けられた三の丸櫓台跡の石垣には、

なんと重さ11トンの城内最大の自然石が埋め込まれているんです

下の画像・3つ並んだ大きな石の中央がそれなんですが・・・

名護屋城跡石垣・中央が最大11トン

比較対象物を置き忘れましたーテヘ

名護屋城へ登城された際に、その大きさと迫力を体感して下さいませ~





いくら加藤清正公が触ったかもしれない石だからといって、延々石垣と

にらめっこばかりしていては本当に日が暮れます ・・・ということで、

段差が大きく隙間だらけで、足をぐきっとやりそうな現存石段をよじ登り、

馬場櫓台の上に仁王立ち 南西の方角には弾正丸が広がります。

礎石がたくさん弾正丸


弾正丸は当時、名護屋城総取締を担っていた甲斐( 山梨県 )甲府城の大名

浅野長政公の居住曲輪だったのだそう。 浅野長政公は、秀吉さんの正室

ねねさんの義兄弟で、武功を挙げるよりも官僚として有能な方だった様です。

曲輪名は、官位の弾正少弼( だんじょう しょうひつ )に因むのでしょうか

搦手口・弾正丸平面図(現地解説板)

そして秀吉さんの朝鮮出兵の折り、石田三成公を待たせカンカンに怒らせた

黒田官兵衛が、一緒に碁を打っていた相手というのが このお方、浅野長政公

だったんですって 秀吉さんの命令により浅野長政と共に再度朝鮮へ渡った

1597年2月・慶長の役での出来事で、同時期に黒田官兵衛は次男・熊之助を

亡くしてます 官兵衛は軍監として、長男の黒田長政は第三軍として渡海

父と兄の後を追いかけ出陣した熊之助は、玄海灘で嵐に遭い命を落とす事に...。


搦手口の虎の口は黒田如水のならではの手法

弾正丸には、お城の大手口に対し裏口に当たる搦手口( からめてぐち )が

あり、搦手口は城内に5か所ある虎口( 出入り口 )の一つです。 

搦め手口・位置図

5か所の城内出入り口が虎口と呼ばれるのは、防備強化のためにクランクを

造り見通しを悪くした形状が、そのネーミング通り虎の口に似ているから











虎の口と言っても・・・ 

虎の口といっても・・・

小倉城の とらっちゃくんみたいなまんまるふわふわではなく、クランクだから







そう、こんなイメージですネ 小倉城の麗虎招福・送り虎みたいな。  

麗虎招福・送り虎

そして小和田哲男さんの 『 ミネルヴァ日本評伝選・黒田如水 』 によれば

この虎口のデザインこそ、如水が縄張りをした城の特徴なんだそうです









搦手口近くにも、諸大名の陣屋跡紹介パネルがありました

名護屋城南方向の陣屋

名護屋城の南側には、功名が辻の山内一豊さん、戸次川原で豊後大分の為に

戦って下さった長宗我部親子のお父さん・元親公、大友氏家臣高橋紹運の子で

立花道雪の娘婿・柳川返り咲き王子の立花宗茂公に、豊後の臼杵藩主初代

稲葉貞通公、同じく豊後日出藩主初代の木下延俊公など、こちらも凄い







では城内散策用に設けられた園路を通り、ボチボチ駐車場へ戻りますかネ

園路を通り大手口(駐車場)へ戻ります

文禄・慶長の役は、1598( 慶長3 )年8月、秀吉さんが没した事により

ジ・エンド。 黒田如水( 官兵衛 )と長政親子は豊前の農村復興に努めますが、

直ぐに次なる時代の転換期が訪れ、黒田長政は東軍として中津城より出陣

父・黒田如水も東軍旗を掲げ、西軍が圧倒的な九州で戦う事となるのです。

 
友好の記念植樹・けやきの木

帰り際、駐車場で目に留まった欅の木。

日本と大陸との友好記念植樹の様でした

名護屋城跡記念植樹・けやきの木

肥前・名護屋城址探訪レポ、いかがでしたでしょうか?

少しでも散策気分を愉しんで頂けたなら幸いです










本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます

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2013/02/22(金) 19:39 | コメント:10 | トラックバック:0 |


天下人・秀吉さんの夢の跡、佐賀県唐津市 東松浦半島の名護屋城址

名護屋城跡の位置と玄海灘の島々
( イラストマップは、唐津観光協会発行 『 特別史跡 名護屋城跡ご案内パンフレット 』 より )





伊達政宗公が青葉城( 仙台城 )へ移築したという伝説が残る 幻の本丸大手

潜り抜け、ついに本丸へやってきました ここは名護屋城本丸北西隅に遺る

天守台跡 玄海灘に浮かぶ島々、遠くは壱岐、対馬まで見渡せます。 

名護屋城跡天守閣より玄海灘を臨む

今から420年前、秀吉さんの朝鮮出兵で知られる文禄・慶長の役の頃。

この場所には5層の瓦葺き屋根と千鳥破風、漆喰塗りの白壁が施され、

最上層には炎形装飾の火頭( かとう )窓と、高手摺りが設けられた

5層6階、地下1階から成る7階建ての望楼型天守がそびえていたとか
 
名護屋城図屏風より天守閣

最上階からの眺めはどんなだったでしょうね( 屏風図は現地解説板より ) 








天守台跡の更に北西端にきてみました 

西側に張り出した一段低い場所に在る曲輪は、遊撃丸です。

名護屋城並びに諸大名陣屋跡図

文禄2( 1593 )年に講和使節として明より来日した沈惟敬( チン ウェイチン )

が宿泊した場所で、彼は遊撃将軍と呼ばれていた事からこの名が付いたそう。





ただ、この講和交渉は戦争を早く終わらせるために 沈惟敬小西行長とが

共謀し、明側には秀吉が降伏したと伝え、秀吉側には明が降伏したと伝える

欺瞞工作だった事で交渉は決裂 慶長の役へと、もつれ込む事になります 


名護屋城天守跡より壱岐対馬方面の諸大名陣跡

東出丸で見た名護屋城跡陣跡位置図にも、そうそうたる戦国大名の名が

連なっていましたが、西側・遊撃丸の方向にも、戦国時代の九州における

最大の合戦・高城川原の戦いで大友軍を壊滅させた 薩摩は島津3兄弟の

島津義弘さん、織田信長の水軍として毛利軍を撃破するなど、海賊大将の

名を轟かせた志摩の九鬼嘉隆さんの字兜の妻夫木くんがまだ記憶に

新しい直江兼続さん黒田如水とも親交が深かった知性派小早川隆景さん、

名護屋城天守跡より馬渡島方面陣跡図

などなど、これまた書き出したらきりがない戦国大スター殿様がいっぱい







文禄・慶長の役の折り、全国から160人余りの大名が肥前・名護屋城へ集結、

城周辺に陣屋を構えたと云います。 この日道の駅・桃山天下市で入手した

陣跡巡りパンフレット
によれば、説明板設置の陣屋跡は40か所ほどで、

その中の23か所が国の特別史跡に指定されているんだそうです。 

02-03あなたの街のお殿様は居る?諸大名の陣屋跡

番号をふってある所です。 お名前は以下の通り。

あなたの街の戦国大名さんは居ますか


特別史跡指定の諸大名陣跡23か所

字、デカくてごめんなさい!










再び、名護屋城天守跡碑の場所まで戻ってきました

名護屋城天守後より貯水池の在った水手曲輪を見下ろす

青いビニールシートで覆われた斜面下は水手( みずのて )曲輪です。

城内には井戸も沢山掘られてますが、水不足に備え雨水を溜める貯水池

して機能していた模様。 で、まーりたんが今居るのは赤い丸印の場所

名護屋城跡・本丸天守台解説板

方位は、上西、下になります






ココが赤い丸印天守台跡で、その東南には本丸御殿・・・

肥前名護屋城図屏風(本丸天守台)が描かれた方向

御広間・対面所・・・秀吉が大名らと対面儀式をするところ

御台所・・・調理場 書院・・・秀吉が政務などを行う所

御座間・御殿・・・居間や寝所などの居室部分




・・・などが往時はあった様なんですが、

現在は石塔ポツンで、後はガランドゥ

名護屋城跡・玉石で囲まれた本丸(天守台)東西145m、南北125mの西北隅に天守閣が在った

ですが、石塔の周りには工事告知の立て看板や、コーンが見えますよね

本丸御殿跡の遺構表示を目的とした整備工事を、平成20年度から実施中

なんだそうです “ 遺構表示を目的とした整備工事 ” というのは、

発掘調査で見つかった玉石敷や礎石などの遺構を盛土して保存し、盛土上の

同じ位置に、明らかになった御殿の建物や中庭の範囲を再現し表示する事。





なんで掘り当てた遺構にわざわざ、また盛土するの?って

腑に落ちないお顔のアナタ、それはですな、次のよーなワケがあるのです。





名護屋城は廃城にされる際、御殿や櫓など建物を解体した後に残る礎石上に

厚さ30センチ以上もの盛土を被せ、建物の柱礎石はもちろんのこと、建物が

在った場所すら判らない程に、完全な埋め込み処理がなされたんだそうです

跡形も無く消し去りたい程、名護屋城の建物を忌まわしく思ってたのかな

名護屋城本丸南西隅櫓跡

例えば本丸南西隅の南西隅櫓跡。 往時を探る事も、破却当時の状況を

保存する事も同様に大切ですので、発掘調査をして礎石( 柱位置 )や建物の

規模等が解った後は元通りに盛土をし、地表面の同じ位置に疑似礎石を置き、

玉石が敷かれていたならば疑似玉石を配し、遺構の状態を地表面に再現表示。

建物の範囲は界線で、盛土が施されていた場所は赤色塗装で示しています。

名護屋城本丸南西隅櫓跡(解説)


名護屋城本丸・南西隅櫓跡から、本丸北西端の天守台跡を臨む。

白い界線上本丸西側には、多聞櫓が連なっていたらしい

名護屋城跡本丸南西隅から天守跡(西北)を臨む。当時はこの直線に多聞櫓あり

玉石で囲まれた右上は、地中にも玉石敷きが施されていた建造物跡









本丸南西隅櫓跡から、そのまま東へ移動してみると・・・

名護屋城跡・埋められた石垣(一部)南東側

本丸東南の地表から顔を覗かせる埋められた石垣。 この石垣は

廃城時に埋められたものではなく、420年程前、戦国大名らの割普請

名護屋城が築城されて間もない頃の拡張工事跡の様です 

埋められた石垣(解説板)

遺構が見つかりながら、未だ解明されてない謎もいっぱいの名護屋城址

02-26名護屋城本丸南西隅櫓跡・発掘調査時の写真

まーりたんの現在地は赤い丸印より、やや右です。

名護屋城の普請では縄張りを担当した黒田如水公も、きっとこの界線上を

何度も往復し、あっちから眺め、こっちから眺めしたんだろうなルンルン








本丸から見下ろす馬場櫓台跡 

名護屋城本丸跡より馬場櫓台と弾正丸を臨む

馬場は本丸の南側下にあり、三の丸と二の丸を繋ぐ通路にもなってます。 

馬場櫓台の向こうは弾正丸。 肥前・名護屋城の総取締役を担っていた

甲斐国( 山梨県 )の大名さんが居住されていた曲輪ですが、またしても

長い記事になりましたので、この続きは次回お話させて頂きます 






いつにも増して心ときめく肥前名護屋城の冒険 散策 

ご興味ない方は退屈ですよね、ほんとすみません

いい加減 次回で最終回にしようと思います・・・








本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

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2013/02/18(月) 18:57 | コメント:7 | トラックバック:0 |


秀吉の軍師・黒田如水( 官兵衛孝高 )の実子と言えば、関ヶ原の戦い後に

家康さんから筑前52万石を拝領し、初代福岡城主となった黒田長政公

有名ですが、妻・幸円さんとの間にもう一人、男子がいたのをご存知でしょうか




ウィキペディア黒田孝高には、熊之助という名前だけが記され、如水を描いた

小説にもドキュメント本にも先ず、登場しません。 それだけに知りたくなって

調べてみたところ、長政の実弟・熊之助くんは元服前に他界されていました 




それというのも文禄・慶長の役の際、既に家督を継いでいた兄・長政だけでなく

父・官兵衛も朝鮮へ出陣したことで、熊之助くんは自分だけ豊前の中津城

お留守番しているなんて嫌だ、と家臣を連れ大陸へ渡ろうとした様なんです




ところが熊之助くんは途中 海上で嵐に遭い、あっけなく命を落としてしまいます 

調べて解ったのはこれだけですが、熊之助くんの訃報を恐らく異国の地にて

知らされたであろう如水、長政親子の心境を想うと、なんだか切ないですね。 



 

この話だけを聞けば、熊之助くんの若気の至りのように思えますが、慶長の役の

頃になると日本軍は苦戦し、九州諸国の年貢米も多くが兵糧として大陸へ渡り、

お百姓さん達も陣夫として徴発され、豊前国内は大変荒れたのだそうです

( 中津ご出身の外園豊基氏の著書 『 戦国期在地社会の研究 』 参考 )。

もしかすると熊之助くんは、豊前のお百姓さん達が苦しむ姿を見かね、父や兄の

力になり、少しでも早く戦を終わらせなければ、と思い急いたのかもしれません。






官兵衛だけでなく、秀吉さんの大義の下、全国から肥前へ召集された諸大名にも

水面下で様々なドラマがあったであろう文禄・慶長の役。 その軍事拠点として

また、今後の日本と大陸との友好推進シンボルとして 佐賀の東松浦半島に

今も遺る肥前・名護屋城跡。 九州内のお城を未だ数える程しか巡っていない

まーりたんですが、名護屋城跡はこれ迄で最も鮮烈に刻まれ、魅了されました。







さて、前回ご紹介させて頂いた名護屋城跡 東出丸から、天守台跡の遺る

本丸へ向かうには、三の丸を通らなくてはなりません。 空も視界も清々しい程に

開けていた東出丸とは打って変わり、三の丸郭は うっそうとしげる木立の中  

三の丸へ向かう途中で壊された石垣がゴロゴロ

しかも三の丸が近づくにつれ、脇には壊れたまま放置された石垣がごろごろ。

これは江戸時代、徳川幕府によって人為的に破壊されたものなんです

寛永14( 1637 )年に起きた島原の乱を教訓に、農民らが二度と古城を

砦にして一揆をおこさないよう、名護屋城の石垣も その一環で壊されました。

大陸に対しては、二度と攻め込んだりしませんよ、という証でもあった様です。


名護屋城・三の丸解説

名護屋城 本丸を警護する重要な区域として造られた三の丸郭。

名護屋城跡・三の丸

現地解説板によると、本丸を護る武士達が詰めていた場所らしいですから、

この辺りを甲冑に身を包んだお侍さんたちが物々しく往来することも・・・ 

ちょっと、どきどきして来ました






こちらは三の丸に遺る高台唯一の井戸

名護屋城跡三の丸に残る井戸

名護屋城内には6つの井戸が掘られていて、三の丸にあるこの井戸は

城内で一番高い場所に在り、従って一番深い井戸でもあった様子

名護屋城三の丸・井戸跡解説1

茶の湯を愛した秀吉さんだけに、城内に井戸が多いのはいかにもだなぁ

思います。 ちょっとボケちゃってますが、城内にある井戸の位置図です。

名護屋城時代の井戸跡(赤丸印)

上の位置図・右下 大手口の井戸というのが、コチラ

朝鮮通宝などが見つかった大手口前井戸(駐車場附近)

ここは三の丸ではなく、かつての大手口に当たる名護屋城跡 駐車場入口。

この場所に残る井戸からは、何と朝鮮の通貨も出てきたんだそうですヨ 

文禄・慶長の役の折、時の国王の悪政に苦しみ、新天地を求めて大陸から

日本へ渡った朝鮮の方も少なくなかったそうで、佐賀の唐津焼や有田焼は、

渡日した朝鮮の職人さんが始めたのが起源だとも聴いています

大手口前井戸(他城内には6つの井戸がある)

もしかすると大手口近くで、出仕人や大名さんらに器を売っていた職人さんも

いらっしゃったんでしょうかネ 秀吉さんは、献上された唐津焼や有田焼の

器でお茶を愉しんでいたのかしら 空想は尽きませんが、そんな茶の湯

大好き秀吉さんの名護屋城における居住スペースがコチラですジャーン! 

東出丸・三の丸・本丸の東一帯に位置する赤い部分の 山里丸なのダ広っ。 

赤い部分が秀吉さんの居住スペース
名護屋城跡・秀吉が居住した場所、山里丸


山里丸周辺が描かれた肥前名護屋城図屏風( 現地解説板より )

名護屋城図屏風(写真1)山里丸周辺

豪放な城構えと個人的な先入観から、秀吉さんのプライベート茶室も

さぞかしゴージャスでキンキラキンでっしゃろ、なんて思いきや・・・

意外にも簡素で風流

名護屋城跡(写真7)山里丸草庵茶室想像図

秀吉さんの山里丸草庵茶室想像図 あらあら、そうだったんですか

ご興味ある方は、発掘調査状況写真と見比べてお楽しみ下さい

名護屋城跡(写真8)草庵茶室跡と宗湛日記

四畳半に竹の柱、えっ?秀吉さんは菜園のご趣味もあったんですか

そっか、秀吉さんはお百姓さんの子せがれから天下人になられた方でしたね、

忘れてました 秀吉さんはお百姓さんの心を忘れないでいて下さったのかな










侘び寂び風流な山里丸から、再び物々しい三の丸へ戻ります。

01-56名護屋城跡・本丸を重要な区域、三の丸の石垣

中途半端に壊された石垣と、三の丸郭を暗く覆う木々が、なんとも言い難い

空気感を醸していて、ここに佇むと鳥肌が立つというか、背後でカチャリと

甲冑の音が聴こえても、なんら不思議じゃないような気持ちになります 





名護屋城は、先人の心が今も呼吸し続けている 生きた古城だと思います。

お城巡りベテラン組の方は、もっと的確に表現されるのでしょうけど...

名護屋城跡三の丸・木材の階段の間に当時の石段も

自身にとっての史跡巡りは、先人の心が残る場所を訪ね、その想いに同調させて

頂く様なものです お城にしても、最初の頃は立派な天守閣や櫓あって

こその城とばかり、造形美や城内の仕掛けに夢中になったりしたものですが、

次第にお城が放つ独特の雰囲気に、心を動かされたりもするんですよね


名護屋城三の丸・本丸警護隊が駆け抜けて行きそうな雰囲気

古跡を訪ねる時は、時代背景や、そこで誰が何をしようとしたのかを探れば、

怖さなどよりも先人の方々への感謝や敬意が、時に親近感すら湧いてきます。




生きている人間だって、自分を認め、気持ちを汲み取ろうとしてくれれば嬉しい

ものです それは身近なご先祖さまでも、遥か遠い時代を生きた歴史上の

有名人だって同じなんじゃないかナ なんて想います。 逆に、自分の事を

知りもせず、推し量ることさえしないまま疎み、怖がられれば悲しいですよね

むやみな恐怖心は、想像し理解しようとしないから湧くのかもしれません。 

まーりたんも庚申塔について知ろうとしない頃は、ただ怖いだけでしたし









ノミ痕が生々しいまでに残る当時のままの平石段と、歩きやすいようその間を

とって、後で埋め込まれた木材とのMIX段を、三の丸から本丸方面へ上り

詰めた場所にあるのが、本丸大手 三の丸から本丸への通用門です。

名護屋城跡・三の丸から本丸へ入る本丸大手櫓門跡・伊達政宗が仙台青葉城へ移築した伝説が残る

本丸大手は、解説板の右上オレンジ色の四角部分で、そこには

こーんな立派な本丸大手門が建っていたんですって

第二次世界大戦・昭和20年の空襲で焼失した仙台青葉城の大手門(名護屋城の本丸大手門移築伝説が残る)

なぜ仙台( 青葉 )城大手門と書かれているかと云いますと、

名護屋城がお役御免になった後、伊達政宗公が名護屋城の本丸大手門を

貰い受けて仙台城( 青葉城 )の大手門として移築した、という有名な伝説が

残っているため けれど、その大手門は第二次世界大戦( 昭和20年 )の

空襲で焼失してしまい今となっては正しく伝説となってしまったワケです









それでは、幻の本丸大手を潜ったつもりで

いよいよ名護屋城 本丸・天守台跡へ

名護屋城跡・貯水池があった水(みずの)手口と天守台方面へ

玄海灘に浮かぶ壱岐・対馬まで見渡せる素晴らしい眺望です。



・・・が、長くなりましたので、続きは次回にて









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2013/02/12(火) 19:03 | コメント:6 | トラックバック:0 |


文禄・慶長の役( 1592年~1598年 )の軍事拠点用に、秀吉さんが全国の

諸大名に普請を割り当て、僅か5ヶ月余りで築かせた肥前・名護屋城



名護屋浦に架かる名護屋大橋を渡り、国道204号を玄海町方面へ

大手門の標識手前で右折し、坂道を上がると駐車場( 城内 )に到着です。

名護屋大橋を越え国道204号線を玄海町方面へ。城山トンネル前で右折すると名護屋城・駐車場より国道を見下ろす

通って来た国道204号を、駐車場から見下ろしてますの図

大手門の標識先には城山トンネルがあり、その上は名護屋城博物館

城山トンネルの上は佐賀県立名護屋城博物館・太閤道の方角です(昔は名護屋浦に橋は架かっておらず山越えでした)

来月半ばまで改装工事の為 今回博物館の方は見学できなかったのですが、

佐賀の観光情報サイト 『 あそぼー!さが 』 によれば、“ 名護屋城博物館は

文禄・慶長の役を侵略戦争と位置づけ、その反省の上に立ち、今後の交流・

友好の推進拠点になることを目指し、原始から現代まで数千年に及ぶ日本

列島と朝鮮半島との交流史、約220点の資料を常設展示 ” とありました






名護屋城博物館の裏からは、太閤道( 朝鮮出兵の際 整備された軍用路 )が

延びています。 当時は名護屋浦を渡る大橋は無かったから、山越えですね

太閤道から大手口・大手道を通り、東出丸へ


城郭南に位置する駐車場( 名護屋城博物館・太閤道 )方面から大手口

( 案内所前 )を通り城内へ。 大手道を登り、野面積みの石垣上に当時は

番所や詰所が置かれていた見晴らしの良い東出丸へ向かいます

名護屋城跡・大手道を登り、番所詰所が置かれた東出丸へ

大手道から白熱気味に東出丸を撮影中のまーりたんの影。 その左には、

相方らしき ひょろ長い影も落ちてますが、何卒お気になさらずに 

おや? 木々の間を通って聴こえてくるその声は もしや・・・












「 のう、くゎんよ、くゎんよ、どこにおる? 」


名護屋城跡・東出丸解説


「 はっ、太閤秀吉さま、黒田官兵衛孝高はここにおりまする 」


名護屋城跡・番所、詰所が置かれていた東出丸


「 おお、くゎんよ、そこにおったか。 このところ、なにやら日本と大陸の間が

きな臭いようじゃが、もう黄砂の時分かのう? 思えばワシは420年前、

統領として自国の行く末を案じるが故に、大陸を踏み台に日本侵略を目論む

南蛮イスパニアへ先手を打ち、明や朝鮮を手中に収めようとした。


東出丸の南には佐賀県立名護屋城博物館が見えます

 
サンフェリペ号のクルーらも、南蛮イスパニアはパードレ達を利用しち、戦国

大名を手なずけた上で、日本を植民地化する手はずだ、と白状しよったしな。 


だけん、ワシはバテレン追放令も出した。 それがどうだ、文禄・慶長の役は

天下を獲って頭に乗ったワシの欲の果てだとか、誇大妄想だとか、後世には

ケチョンケチョンに伝えられちょる。 大陸も大陸じゃ。 時の国王による

悪政への反発から日本軍に加担した民衆が ぎょうさんおった事は後回しに、

戦場にされたことで民が憂き目を見た、の一点張りじゃ。 自国可愛さの

偏った見方が、結果的に日本と大陸との間に埋め難い溝を残しちしもうた。


名護屋城跡・東出丸から東の方角を臨む


確かに戦場にされた土地は荒れ、民は苦しむ。

いかなる理由があろうとも戦争は繰り返してはならん。

慶長の役の時に倒れち、真意を語れず仕舞いだったのが心残りよ。



しかし、ワシの名護屋城跡がそれを物語ってきたはずじゃ、

ワシは日本と大陸の行く末が心配でならんのじゃ。

のう、くゎんよ、おまえならワシの気持ちを解ってくれるのう? 」


名護屋城跡・大友義統陣跡は東南の方角です!


「 もちろんです、太閤秀吉さま。 お力になれるか解りませんが、

この黒田官兵衛孝高、それを見越し先日、豊前ゆかりの まーりたんなる

自称・中年女の火消しを調略し、この名護屋城跡へと導き、見学させました。


名護屋城跡・東出丸の東方向に位置する陣跡
 

秀吉さま、平成の世では身分に関係なく個々の想いを自由に、尚且つ

ダイレクトに世へ発信できるブログなるものが発明されております。 

まーりたんなる者は、それを手掛ける民百姓の一人にてござりまする。

 
名護屋城跡・東出丸櫓台


あまつさえ、それがし黒田官兵衛孝高のイメージに のぼせ上っている様子で、

ここへ呼び寄せるのは、毛利秀包の久留米城を落とすより容易うございました。


東出丸櫓台解説


ただ、小倉の細川忠興が申します処、火事でもないのに出没する

中年女の火消し
であり、大うつけとも噂されてございますゆえ、

まーりたんなる者が果たして 太閤秀吉さまのお役に立ちますかどうか...。



とりあえず、日本と大陸の負の歴史遺産であると同時に 友好推進の

象徴である この名護屋城跡の記事を書かせる所存でございます。 

なのでどうか太閤秀吉様、それ以上はご案じなさりませぬよう 」


名護屋城跡・東出丸より名護屋大橋(国道204号)を臨む


「 おお、おお、さすがじゃ、さすがはワシの くゎんじゃ。

九州平定後はお前の才覚を畏れ僻んで、遠い豊前へ左遷しち悪かった。

お前がおらなんだら、ワシは天下統一までの道のりで、もっと多くの犠牲を

出し、民百姓を苦しめておったかもしれんのに。 赦してくれ、くゎんよ 」


名護屋城跡・東出丸から三の丸、本丸へ


「 なにをおっしゃいますか、太閤秀吉様。  私こそ、秀吉さまの特命を受け

朝鮮へ渡った折りには、体調不良を理由に帰国したり、仲間内で囲碁をして

石田三成を待たせ、挙句に怒らせたりと内心、やってらんねーぜ!

的な想いも実のところ、無きにしもあらず・・・。 されど、全ては過ぎた事。 



今は多くの経験をさせて下さった太閤秀吉様へ、この黒田官兵衛孝高、

感謝いたすのみにございます。 ところで太閤秀吉様、お言葉の端々に、

しねっと大分弁が混じっておられるご様子、いかがなされましたか? 」


名護屋城跡三の丸、本丸へ


「 おお、くゎん。 それはな、お前がここ名護屋城跡へ連れてきた

豊前ゆかりの自称・中年火消し女、まーりたんなる者の仕業じゃな。
 
大半は、その者の空想である故、こまけえこたあ気にせんじいい 」


名護屋城跡・三の丸






太閤秀吉さん、こんな感じでよろしいでしょうか

少しはスッキリしましたか

それでは名護屋城跡・東出丸の散策はこれぐらいにして、

次回は名護屋城跡・三の丸から、本丸を巡ってみたいと思います








今回の記事を書くに当たり、しばやんさんの文禄・慶長の役についての

素晴らしい分析記事から閃きを頂き、大いに学習もさせて頂きました

● しばやんの日々 「 秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか~~朝鮮出兵1

しばやんさん、ありがとうございます








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2013/02/08(金) 14:01 | コメント:15 | トラックバック:0 |


九州に続いて関東も平定し、天下統一を果たした秀吉さんは1592年

和暦を信長さん時代の天正から文禄へ改めます。 そして同年3月26日、

秀吉さんは京都から肥前( 佐賀 )の名護屋城へ入り、朝鮮出兵を開始

遠い昔に学校で 居眠り 睡眠学習 した憶えのある文禄・慶長の役です。





習った通りの侵攻か、はたまたプレジデントとしての大義名分あっての事か、

これより向かう名護屋城跡を散策しながら、考えてみたいと思います

国道204号線を名護屋城へ

朝鮮出兵の軍事拠点となった名護屋城( 址 )は、佐賀県の東松浦半島、

唐津市 鎮西( ちんぜい )町にあり、秀吉さんの命で全国から160人を

超える諸大名がこの町に集結。 名護屋城を囲む様に陣屋を構えました。

名護屋城築城にあたって縄張りを担当したのは黒田如水( 官兵衛孝高 )。 

昨年4月、中津市歴史民俗資料館を訪れた際に それを知りました

 







あら 思いがけず木下延俊公の陣屋跡近くを通過中のモヨウ

名護屋城には初代日出城主・木下延俊さんの陣屋もありました

豊後大分に縁の深い方ですよ 木下延俊さんは初代日出藩主で、

暘谷城の築城主 豊臣秀吉の孫・国松を匿ったとも噂されるお殿様です








鎮西町の道の駅・桃山天下市で入手したコチラのパンフレットによると...

鎮西町の道の駅・桃山天下市で入手したパンフレット・名護屋城陣跡位置図

秀吉さんの命で、名護屋城周辺に陣屋を構えた諸大名は木下さん以外にも、

あの徳川家康さん、我慢強い彼に関ヶ原の引金を引かせた上杉景勝さん、

加賀百万石の前田利家さん、民謡・黒田節のモデルになった福島正則さん、

黒田如水の嫡男で後に福岡城を築く黒田長政さん、豊後鶴崎の人にとっては

神様同然の加藤清正さんに、ま~遠い所から遥々ようこそ伊達政宗さん等々、

名護屋城跡・陣跡位置図

ざっと見るだけでも、身震いするほどのオールスターズが一同に集結

したんですねぇ~( 歴史秘話ヒストリアの渡邊あゆみさん風に









そうしてる間に名護屋城跡に到着です えっゴルフ場じゃないかって?

特別史跡名護屋城・陣跡図

名護屋城( 址 )は、国道204号でロータリー状になった小山一帯で、

規模は秀吉さん時代の大阪城に次ぎ、全国で二番目に大きかったとか

名護屋城跡と文禄・慶長の役について(解説)


現地解説板( 肥前名護屋城図屏風 )では、秀吉さんのプライベート茶室や

能舞台まであって、軍事拠点とはいえ雅で豪放なお城だった事が窺えます  

肥前名護屋城図屏風


秀吉さん天下統一の総仕上げ・小田原城交渉を終えた当時45歳の

黒田如水公( 黒田官兵衛孝高 )が、翌年の天正19( 1591 )年8月に

秀吉さんの命で肥前へ赴き、縄張りを行った名護屋城の平面図です。 

黒田如水が縄張りを担当した名護屋城・平面図

番号ごとに拡大図も添えてます。 ご興味ある方はご覧下さい

名護屋城平面図・1拡大

名護屋城平面図・3拡大

名護屋城平面図・4拡大

名護屋城平面図・5拡大

この場所に在る観光案内所で、清掃協力費100円を払って登城します


名護屋城平面図・6拡大

築城後、更に大規模改造された事も発掘調査から分かっているそうです










次回は、番の画像大手口から大手道を登り、名護屋城内を散策しつつ、

道しるべ・博物館・大手口・茶苑

秀吉さんの朝鮮出兵( 文禄・慶長の役 )と、その時代背景について

お話してみようかなと思います






現在の名護屋城 大手口大手道です

名護屋城跡

坂を登って右側が東出丸、左側は三の丸

ゴルフ場っぽい景色( 5枚目の画像 )は、まーりたんの背面に広がってます。

では、続きは次回にて









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2013/02/06(水) 19:11 | コメント:6 | トラックバック:0 |

唐津城に旧高取邸、曳山展示場の共通入場券だ

唐津城・旧高取邸・曳山展示場共通入場券


まーりたんさん達は昨日、佐賀県を巡ったようだね、

マンジ君 昨日はお天気も良くて暖かくて絶好の・・・


唐津のミヤゲはニャにかニャ~?

マンジ君は、お土産のチェックに忙しそうだ・・・












ややっ、これは御守りだニャ

ややっ、犬の神様ニャのか

ワンコの神さまニャのか













マンジ君、それは唐ワンくんと言って、唐津城の

マスコットキャラクターだよ


それは唐ワンくんと言って、唐津城のマスコットキャラクターだよ、マンジ君


唐ワンくんはね、2010年ゆるキャラグランプリで

全国2位を獲る快挙も成し遂げた人気者なんだ


唐ワンくんは2010ゆるキャラグランプリ2位の経歴を持つんだよ


上の画像は唐津城天守に居る唐ワンくんだよ。

兜のマークは最後の藩主を務めた小笠原氏の御紋

三階菱。 誰かと同じだと思わないかい マンジ君


唐ワン君の兜のマークは小笠原氏のご紋だよ



小倉城のとらっちゃくんと同じマークニャ~のだ

唐ワンくんの兜は、とらっちゃくんと同じマークニャのだ



こだぬき君はミヤゲにニャにを貰ったのだニャ

こだぬき君はミヤゲにニャにを貰ったのだニャ?

僕かい?僕ならもう装着しているよ、マンジ君。


マンジ君は唐津くんちって知ってるかい?


マンジ君は唐津くんちって知ってるかい?

豊穣を願う唐津の伝統的な秋の大祭なんだけど


それに使われる曳山のがデザインされた・・・


僕は唐津くんちの曳山に因んだものなんだけど


前掛けみたいだよ、マンジ君

唐津くんち曳山の鯛がデザインされた前掛けだったよ

マンジ君、僕はお地蔵さんでは無いよ。


だから悪ふざけは、やめてくれないかな


僕はお地蔵さんでは無いよ、マンジ君

タヌキ地蔵に ヨモギ餅を供えるのだニャ















マンジ君、こだぬき君、昨日はお留守番ありがとう

3つめのお土産はコレよ


そして3っつめは鎮西町の道の駅・桃山天下市で買ったお土産です♪

唐津市 鎮西町の道の駅・桃山天下市で買った...


じゃーん! 

肥前名護屋城と全国諸大名の陣屋タオルよ~


まーりたんさんは名護屋城へも行ったんだね

まーりたんさんは、名護屋城跡へも行ったんだ...

肥前名護屋城と全国諸大名の陣屋タオル

ということで、次回へ続きます











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2013/02/04(月) 18:31 | コメント:14 | トラックバック:0 |
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