『 唐津観光協会鎮西支所ブログ 』 を運営されている 福ちゃんさん

名護屋城観光ガイドの方が先日、今回の名護屋城登城レポへ大変温かな
コメントを下さいました



肥前・名護屋城址への訪問を計画なさっている皆さま、お出かけの前には
唐津観光協会鎮西支所ブログのチェックを、どうぞお忘れなく


名護屋城址周辺の陣屋跡や、道の駅・桃山天下市で開催中のイベント等々、
名護屋城所在地・佐賀県唐津市 鎮西町の最新情報が入手できますヨ


さて、名護屋城本丸の南側から見下ろした馬場へと降りてきました


馬場は、その名の通り馬の訓練場として

重要通路として機能していた様子。 道幅15メートルの馬場両側の石垣は、
築城時( 420年前! )の状態のまま残っていて、櫓へ登る石段も現存


東西100メートルの馬場・西寄りに設けられた



馬場櫓台の石垣は、円形の大きな野面石の周りに割石を配し、櫓内部には
栗石( 川原の石 )を詰めるなど、城内石垣の中でも特異&必見ポイント



試行錯誤をして積まれた形跡もあり、もしかすると名護屋城の設計担当だった
加藤清正公がこの場所に立ち、「 イメージと違うんだよなぁ~

なんて、あーでもない、こーでもない言ったのかも

更に、馬場から三の丸へ入る場所に設けられた三の丸櫓台跡の石垣には、
なんと重さ11トンの城内最大の自然石が埋め込まれているんです


下の画像・3つ並んだ大きな石の中央


比較対象物を置き忘れましたー

名護屋城へ登城された際に、その大きさと迫力を体感して下さいませ~

いくら加藤清正公が触ったかもしれない石だからといって、延々石垣と
にらめっこばかりしていては本当に日が暮れます

段差が大きく隙間だらけで、足をぐきっとやりそうな現存石段をよじ登り、
馬場櫓台の上に仁王立ち


弾正丸は当時、名護屋城総取締を担っていた甲斐( 山梨県 )甲府城の大名
浅野長政公の居住曲輪だったのだそう。 浅野長政公は、秀吉さんの正室
ねねさんの義兄弟で、武功を挙げるよりも官僚として有能な方だった様です。
曲輪名は、官位の弾正少弼( だんじょう しょうひつ )に因むのでしょうか


そして秀吉さんの朝鮮出兵の折り、石田三成公を待たせカンカン

黒田官兵衛が、一緒に碁を打っていた相手というのが このお方、浅野長政公
だったんですって

1597年2月・慶長の役での出来事で、同時期に黒田官兵衛は次男・熊之助を
亡くしてます


父と兄の後を追いかけ出陣した熊之助は、玄海灘で嵐に遭い命を落とす事に...。

弾正丸には、お城の大手口に対し裏口に当たる搦手口( からめてぐち )が
あり、搦手口は城内に5か所ある虎口( 出入り口 )の一つ


5か所の城内出入り口が虎口と呼ばれるのは、防備強化のためにクランクを
造り見通しを悪くした形状が、そのネーミング通り虎の口に似ているから

虎の口と言っても・・・

小倉城の とらっちゃくんみたいなまんまるふわふわではなく、クランクだから
そう、こんなイメージですネ



そして小和田哲男さんの 『 ミネルヴァ日本評伝選・黒田如水 』 によれば

この虎口のデザインこそ、如水が縄張りをした城の特徴なんだそうです

搦手口近くにも、諸大名の陣屋跡紹介パネルがありました



名護屋城の南側には、功名が辻の山内一豊さん、戸次川原で豊後大分の為に
戦って下さった長宗我部親子のお父さん・元親公、大友氏家臣高橋紹運の子で
立花道雪の娘婿・柳川返り咲き王子の立花宗茂公に、豊後の臼杵藩主初代
稲葉貞通公、同じく豊後日出藩主初代の木下延俊公など、こちらも凄い

では城内散策用に設けられた園路を通り、ボチボチ駐車場へ戻りますかネ



文禄・慶長の役は、1598( 慶長3 )年8月、秀吉さんが没した事により
ジ・エンド。 黒田如水( 官兵衛 )と長政親子は豊前の農村復興に努めますが、
直ぐに次なる時代の転換期が訪れ、黒田長政は東軍として中津城より出陣

父・黒田如水も東軍旗を掲げ、西軍が圧倒的な九州で戦う事となるのです。

帰り際、駐車場で目に留まった欅の木。
日本と大陸との友好記念植樹の様でした


肥前・名護屋城址探訪レポ、いかがでしたでしょうか?
少しでも散策気分を愉しんで頂けたなら幸いです

※本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。
記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます

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