豊後( 大分県 )の郷土料理に、酢じめにしなくても食べられる新鮮な鯖を
醤油に漬け込んで、アツアツの御飯に漬け汁ごと載せて

『 りゅうきゅう 』 というのがあるんですが、ウチの相方はコレに目が無いため、
ちょくちょく作っております。 ま、簡単なので、ありがたいんですけどネ


ただ、豊前( 大分県北部 )育ちのまーりたんは、チビッコ時代、来る日も来る日も
飽きもせず鶏の唐揚げを元気に頬張り

実父からは、「 鯖は生で食べたらいけんぞ 」と洗脳され続けていたせいもあってか
同じ大分県人でありながら、りゅうきゅうという食べ物がこの世に存在する事を
知ったのは結婚後・・・

マレビトも皆ウェルカムな、コスモポリタン気質(


現に実際、作って食べてみたら、めちゃめちゃ美味しいし

父の洗脳も悲しい程あっさりと解け、抵抗なくりゅうきゅうを受け容れた次第です。
薬味は小ネギ、すりごまなど( たっぷり加えるのがオススメ


とはいえやはり、りゅうきゅうにする鯖は、新鮮なら何でも良いという訳ではなく、
厳選されたものでなくては万が一、という場合もあります

愛媛の佐田岬とを結ぶ速水瀬戸( はやすいのせと )=豊予海峡の急流で育った
関サバなら文句なしですが、地元でもこれがなかなかの高級食材なんですね

なので、まーりたんは 「 この鯖は、りゅうきゅうにできますか?


スーパーの魚屋さんに訊いてから、一尾9百円ほどの近海の鯖を購入してます。
なかでもイオン挾間店の魚屋さんは、とりわけ親切に色々教えて下さいます


ところで 関アジ・関サバ

速水瀬戸( はやすいのせと )と言う方が、しっくり来るんじゃないかな~と思い
ますが、いかがでしょう? 速水瀬戸は、記紀( 古事記と日本書紀 )に登場する
古代日本の地名で、豊予海峡の古い呼び名なんだそうですヨ

りゅうきゅうを作ってたら、気分はすっかり佐賀関へ飛んでっちゃった様なので

今回は古事記に始まり、慶長5( 1600 )年の石垣原合戦にも縁がある佐賀関
早吸日女( はやすひめ )神社



地元の方は良く御存知かと思いますが、この早吸日女神社は古事記に登場する
初代・神武天皇に大変縁が深く、肥後熊本城主・加藤清正公が関ヶ原の戦火で
焼失した社殿を再建した事でも知られてます。 九州における関ヶ原といえば、
そう


早吸日女神社由緒を参考に、先ずは初代・神武天皇との縁についてご紹介


御祭神は、神功皇后の朝鮮出兵を助けた住吉の神々ほか。

天照大神から葦原中つ国( 人間界 )を統治するよう命じられ、天の磐舟に乗り
国つ神・猿田彦の導きで、くしふるの峯に降臨した天照の孫は ニニギノミコト。
その曾孫が カムヤマトイワレビコ = 後に日本を建国する初代・神武天皇です。
天つ神の子孫・神武天皇は紀元前667年、日本を平定する為に九州の日向
( 宮崎県 )の美々津を舟出し、東( 本州 )を目指します

東遷途中、神武天皇一行は佐賀関の沖にさしかかり、その急流に立ち往生して
いたところ


二神は海底へ潜り、潮の流れを司る神剣を大蛸から取り上げて神武天皇に奉献。
これにより神武天皇は難を逃れ、再び舟を進め、旅を続ける事ができたそうです。
その際に神武天皇は、大蛸が守護していた神剣をご神体として お祓いの神様=
速吸日女を奉り、建国を請願

神武天皇を助けた海の女神・黒砂と真砂を祀る姉妹岩( 佐賀関ビシャゴ浦 )

姉妹岩の背後は、ウミネコの営巣地・高島です。
早吸日女神社が今の地に遷座されたのは701年ですが、以上の経緯から その
創祀は紀元前667年なんですね


筑紫、阿岐、吉備を経て、白肩津( 大阪湾 )で初めての戦に勝って近畿に上陸。
兄・イツセノミコトを亡くす辛く険しい旅の果てに、初代天皇に即位します

因みに神武天皇の腹心は、湖だった湯布院盆地を蹴り破った蹴裂権現様ですヨ。
里中満智子先生の古事記、凄く役立ってます





そうして神代から悠久の時間が流れ、時は戦国末期。
九州の関ヶ原=石垣原の戦いでは、秀吉さんの死によってお咎めを解かれた
宗麟の子・大友義統( よしむね )が、本領・豊後奪還を賭けて西軍旗を揚げ、
別府・浜脇へ。 報せを聞いた大友家の旧臣らは、義統の豊後改易後にそれぞれ
客分となっていた大名の元を離れ、義統を支えるべく約3千人が集結します

その際、中川秀成公( 元・秀吉さんの家臣で、大友義統除国後に豊後・岡藩
7万4千石を拝領 )の元を出奔してきた 田原親賢( 大友宗麟正妻・奈多夫人の
実兄 )と 宗像鎮続( 大友義統軍の将 )は、中川家の旗印を持参していました。
中川秀成公は、関ヶ原の本戦で西軍が敗れると同時に東軍に乗り換えたのに、
これが問題となって中川氏西軍加担の誤解を生み、弁解するも疑いは晴れず。
よって、西軍の臼杵城主 太田一吉( 元・秀吉さんの家臣で、大友義統除国後に
豊後臼杵藩6万5千石を拝領 )を討つ事で東軍旗を鮮明にする手段に出ます

中川勢と太田勢が激突したのは同年10月3日。 戦場となったのはここ佐賀関。
坂本龍馬さんが宿泊した寺としても知られる徳応寺から程ない佐賀関小学校

辺りで激戦が繰り広げられます。 石垣原合戦で敗れた田原親賢さんは中川勢
として戦って討死した他、230余人の戦死者と200余人の負傷者を出すものの
中川軍は太田軍に勝利。 やっとこさ家康さんの信用を得、岡藩の大名存続を
許されるのです

より早吸日女神社の社殿も焼失した為、加藤清正公が再建したと伝わります。

関ヶ原後、家康さんから飛び地として拝領した現・大分市東エリアを海上交通の
要衝として発展させてくれた加藤清正公が亡くなった後は、細川氏に受け継がれ
早吸日女神社には、忠興の子・細川忠利公が寄進した鳥居が現存しています

●佐賀関の戦いは 『 goo Wikipedia 石垣原の戦いとは 』 参考
関サバ・関アジで知られる速吸瀬戸・佐賀関には、ファンタジックな神代の世界
から、あまりにも生々しく悲愴な戦国まで

・・・と、先人さんに想いを巡らせ、感謝もして、歩きに歩けばお腹も空きます。

芳ばしい匂いにお腹をぐうぐう鳴らしながら辿り着いた先は、佐賀関では恐らく
知らない方はいらっしゃらないでしょう

正確には、味揚店、なんですね

味揚店 丸和さんには、坂本龍馬さんの足跡を辿って佐賀関を探訪した時に
立ち寄ったので、お店の写真は少し古いですが、ご勘弁。

佐賀関郵便局から程ない場所にお店を構える 味揚店マルワさんの唐揚げ。
ちょっと見は竜田揚げ風で、油切れの良いサクサクの衣が特徴ながら、
ひとくちかじると、お肉はぷりぷりで、とってもジューシー


唐揚をつまむ指が、じゅわっとでてくる肉汁でエライことになっております

ベースは味わい深い塩味。 にんにく醤油にしっかり漬け込んだ濃い味付けが
主流の中津や宇佐など 豊前エリア( 大分県北部~福岡県東部 )のソレとは
違うところです。 豊後( 大分県中、南部 )の唐揚げは塩系がスタンダード?
何個でもイケそうなライト感がありながら、深みのある美味しさです

骨なし唐揚げは100g 220円でした。 因みに定休日は火曜日とのこと

2014年の初詣は、早吸日女神社にも改めて参拝したいと思ってます


その帰りは・・・マルワさん、三が日開いてるかな~


それでは皆さま、今年も最後まで唐揚げを食べては右往左往してばかりの
拙ブログを温かく見守って下さり、本当にありがとうございました

お陰様で所用やショボショボの目と格闘( 中年ですので・・・

毎回、幸せな気持ちで記事を綴る事が出来ました。 心よりお礼申し上げます

いつも貴重なお時間を割いてご訪問下さる皆さまに、くすくす笑って頂けたり、
ご一緒にワクワクどきどきな探訪気分を愉しんで貰えたり、観て良かったな~
なんて少しでも思って頂ける様な記事を、これからも心掛けて頑張りますので、
来年もどうぞ宜しくお願い致します

なりますように





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記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます

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