夕暮れ時になると、かつて豊後岡藩の両替商や豊後街道を利用する旅人相手の
商家として栄えた屋号を持つ家々の軒灯や常夜灯に灯

聴こえて来そうな風情を醸す坂梨宿。 阿蘇東外輪麓、阿蘇市一ノ宮に在ります。

現在は地域振興を兼ね、地区の方々が厚意で灯して下さっているんですが、
昔ながらの木製の軒灯に、柔らかいオレンジ色の明かりは、今でも旅の疲れを
心身共にほぐしてくれる様

帰りです。 日没前滑り込みセーフの散策で、写真はあまり撮れませんでしたが、
豊後街道の坂梨宿( さかなしじゅく )を訪れるなら、やはり夕暮れ時ですネ

豊後街道は国道57号線に付かず離れず並走する旧道で、熊本市新町一丁目
御門前・札の辻と、大分市の鶴崎地区とを結ぶ江戸時代の参勤交代路です

全長は31里( 約124Km )。 大分県側では肥後街道とも呼ばれています


慶長6( 1601 )年2月、関ヶ原の恩賞として豊後国の海部、大分、直入三郡の
内2万石を飛び地として領した熊本城主・加藤清正公が整備した事でも知られる
豊後街道。 坂梨宿は熊本から大分方面へ13里程行った三番目の宿場町です。

加藤清正公は、豊後鶴崎に瀬戸内海へ通じる港を造り、街道には野津原宿ほか
5つの宿場町を設置。 東から西へ向けて肥後街道の整備を進めて行きますが、
慶長16( 1611 )年に病没します

豊臣家が滅亡した2か月後に発布された武家諸法度で、参勤交代が義務づけ
られた事もあって、肥後街道( 豊後街道 )の整備改良維持

肥後へ入国・熊本城主となった細川忠利公以降の藩主により引き継がれます。

しかし、熊本から江戸まで片道一ヶ月強の長旅を強いられる参勤交代制度

藩主やお供をするお侍さんたちは勿論のこと、各宿場町や街道周辺の人々も
さぞ大変だった事でしょう

藩から役人を呼んで極上のお蕎麦を献上していた、という話も伝わっています

それでも労苦ばかりではなく、参勤交代路の整備保護が進むにつれて、庶民や
宿場町にも、大いにメリットが発生します

間では寺社参詣がブームに

旅籠にはじまり食料やお酒、生活用品を生産、販売する屋号持ちの商家が増え、
街道周辺の農家も潤います。 さらに文化や産業の伝達も早まり、中央政治の
一緊一緩に至るまで知る事ができたとか

生まれた江戸時代、豊後街道の坂梨宿は、こうした中で発展して行きます


坂梨宿には伊能忠敬さんも宿泊されている様ですネ


また、文久4( 1864 )年に長崎へ向かうため、大分市の佐賀関に上陸後、
豊後街道( 肥後街道 )を駆け抜けた龍馬さんと勝先生の碑もありました

現地解説板 豊後街道・坂梨の宿 には、耶馬渓の余りの美しさに筆を投げた
エピソードでも知られる儒者で詩人の頼山陽翁も、坂梨を訪れたとの記述が


大きな水害にも耐えて150年前の姿で現存する石橋・天神めがね橋の袂に
湧き水を発見



坂梨地区の方々は、昔から阿蘇のミネラルウォーターを生活用水として利用し、
その恩恵にあずかってきたそうで、これで毎日お米を炊き

うーん、羨ましい限り

阿蘇伏流水使用の地酒も、豊後街道を旅する愉しみの一つだった事でしょう


坂梨宿場町の豊後方面出口には、阿蘇外輪山の東壁・高低差200m余りの
滝室坂が待ち構えていて、昔は豊後街道随一の難所と呼ばれていたそうです。

上の画像

一ノ宮の滝室坂が一部地滑りを起こして崩落したものの、被害は坂梨宿場町内
には及んでなく、とりあえずホッとした次第です。 それでも露わになった山肌は
自然災害の怖さを伝えています


立派な仮橋が渡されていて、通行には全く支障ありませんのでご安心を



では最後に、坂梨宿の公式サイトより、往時の坂梨宿妄想に浸れる素敵な
文章を抜粋、掲載させて頂きます



『 肥後熊本の御城下から豊後街道を東へ十三里、豊後の国境から西へ
約三里半の所にその宿場はあった。 坂梨の宿内を抜けている豊後街道の
長さは十丁( 約1100m )であって、その左右に人家が密集している。
家々の屋根は茅葺きか、板葺き若しくは杉皮葺きといった処であるが、これらの
殆どが屋号を持つ商家であって、主な相手は旅人と周辺農家であった。

宿屋( 旅籠屋、木賃宿屋 )、料理屋、米屋、酒屋、煮売屋、荒物屋など
それ以外に宿民と周辺農家の日常生活に必要な商工店が勢ぞろいしている。
ほかにも造酒屋、精米所、質屋、薬種屋、植木屋、炭屋、鍛冶屋、桶屋、
医者といったところが軒を連ね、欠けるものはない。
宿場の朝は早い。 夜明けと共に旅籠の玄関先は新しい草鞋を履いた
出立ちの客で賑やかになる。 豊後街道を西へ向かい肥後方面へは、
次の内牧宿へ向かう商人が大きな行李を背負い朝霧の中を歩き始めた。
日向往還・脇街道発端の追分から古町を抜け、箱石峠を目指す旅人もいる。

関所の門が開くのは明け六ツ。 夜明けの早い夏は先を急ぐ旅人にとっては
遅いと感じる時刻である。 緊張した面持ちの旅人が番所役人に通行手形を
渡している。 雑貨屋の軒先には束になった真新しい草履がぶら下がり、風に
ゆっくりと揺れて、その下で新しい草履に履き替えた旅人はまた歩きはじめる。

陽も高くなると宿内の童たちが街道に出てきて子犬を追い回したり、近くの川に
小魚を捕りにでも行くのか、笊を持ち数人で砂埃を巻き上げ駆け出している。
荷駄を背負った牛馬も時折行き交う。 近隣の農家がとうきびやヒエ、栗、そば、
米などを水車を動力とした製粉、精米所に持ち込んで、できあがるまで座り込み
のんびりと話し込んでいる姿もある。 豊後街道随一の難所を控えた宿場には、
無事下ってきて安堵の表情や、これから向かう顔には不安と緊張が入り混じる。

道の両側の水路には清水が流れ、豊後街道を行く旅人はこの水に
手ぬぐいを浸し、汗を拭いたり、茶屋の店先の縁台に腰をおとし、
お茶と名物の饅頭で一息入れたりしている。 宿内を通り過ぎる風が
蕎麦屋や、めし屋の暖簾や旗竿をたおやかにゆらしている昼下がりであった。

夕刻ともなると旅籠の客引き女の声や、旅籠を選ぶ旅人とのやりとりで
通りはさらに賑やかになる。 陽が落ちると、旅籠や商家の常夜灯や軒灯に
ほのかな灯りが入る。 煮売り屋の軒灯の灯りを頼りに、暖簾をくぐり近所の
働き者がやってきて、見慣れた顔や旅人を交え自慢話や旅の話に花が咲き、
良い米と美味しい水でつくられた一杯の地酒に一日の疲れを癒す、
当時の坂梨宿は、こんな風景だったことでしょう 』 ( 引用はここまで )

坂梨宿探訪の楽しさを倍増させてくれる素敵なお話、いかがでしたでしょうか?
もうじき日没、タイムアウトです。 それでは、まーりたんはこれにて失礼

皆様はどうぞお時間の許す限り、心行くまで時空の旅をお楽しみ下さい


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