大分県中津市と福岡県とを隔てる山国川上流の岸辺に、垂直にそびえる
鋸歯状の奇岩群。 明和4( 1767 )年、江戸浅草寺の金龍和尚さんが、
この岩峰を 競秀峰( きょうしゅうほう )と名づけ、文政元( 1818 )年に
来渓した 頼山陽( らいさんよう )翁が、耶馬渓図巻にて 世に紹介しました。
以来、競秀峰は 耶馬渓( やばけい )第一の名勝として知られています



また、明治27( 1894 )年には、中津市へ帰省していた福澤諭吉が
競秀峰の一部が売りに出されている事を知り、樹木の乱伐などによって
景観が損なわれることを危惧

買い占めます。 諭吉の行動は、市民環境保護運動の先駆けと云われ、
競秀峰は ナショナルトラスト運動発祥の地なのだそうです

競秀峰登山会のパンフレットによれば、約1キロに亘る競秀峰の奇岩には
北( 下のイラスト・左 )側から、一の峰、二の峰、三の峰、恵比寿岩、
鬼面岩、妙見岩、大黒岩等々、それぞれ名前も付けられておりまする



でもって、競秀峰の裾に沿い

させて頂く 禅海和尚さん手掘りの青の洞門( あおのどうもん )です

さて、そんなまーりたんは今、どこに居るのかといいますと・・・
青の洞門・競秀峰登山口の共同駐車場上に架かる 青の禅海橋。

禅海( ぜんかい )和尚さん、見っけ



絶好の競秀峰ビューポイント

レストハウス洞門



中津観光に役立つ無料パンフレットやイラストマップも充実してます

まーりたん、資料としてゴッソリ頂戴して帰りました

再び青の禅海橋を渡り、青の洞門・競秀峰側へ戻ります


青の禅海橋の袂は、山国川を利用した自然水族館になっていて
秋の陽光が降り注ぐ中、鯉やアヒルくんが気持ちよさそうにスイスイ

お待たせしました

それではいよいよ 青の洞門へご案内しま~す



今からおよそ270年前、禅海和尚さんによって競秀峰の裾にトンネルが
掘られる迄は、宇佐の樋田( ひだ )方面から、中津の青( 本耶馬溪町 )へ
抜けるには、競秀峰中腹に拓かれた鎖渡しと呼ばれる崖道を通らなくては
ならなかったそうです



断崖絶壁から直下の山国川へ滑落する人馬が後を絶たなかったのだとか。

車道脇の階段を降りた場所が、禅海和尚さん手掘りの洞門入口


禅海和尚さんハンドメイド洞道は、山国川の水面とほぼ同じ高さのため、
改修工事後の現在は、車道


では、耶馬渓・青の洞門物語とともに、洞道探検と参りましょうか

江戸時代中期のお話です

幼い頃に相次いで両親を亡くした越後国高田藩士の子、福原市九郎
( 後の禅海和尚 )は、浅草田原町の旗本、中川三郎兵衛のもとで
雇われ人として働いていましたが、主の妾( めかけ )にそそのかされ、
ある日、主の三郎兵衛を殺めてしまいます。 江戸を逃げ出した市九郎は
慈悲深い住職のもとで僧・禅海となり、贖罪行脚の旅に出たのでした

九州は宇佐八幡宮に参拝し、続いて樋田から中津の羅漢寺へ向かうため
耶馬渓に差し掛かった折り、青へ抜ける鎖渡しの話を耳にした禅海は
意を決し、高くそびえる岩山( 競秀峰 )の裾で独り、のみをふるい始めます。
( ノミの痕が今も生々しく残る洞道


みつき経ち、半年が過ぎ、髭も髪も伸び放題。 雨が降り、雪が積もり、
季節が巡っても、経を唱えながら 唯ひたすらノミをふるい続ける禅海の頬は
既にこけ落ち、ぼろ布の様な姿に。 村人達は気味悪がり、子ども達は嘲り
石を投げ、それでも禅海は手を止めることなく掘削を続けるのでした


( 青の洞門内部。 光が届かなくなりカメラ限界

18年が過ぎ、禅海の掘削する穴が少しずつ洞道の形を成してくると、
「 この坊様は立派なお方だ 」 「 加勢させて下さい 」
村人が一人、また一人と集まり、禅海を手伝うようになりました。
それから更に8年が過ぎたある日、一人の武士が禅海のもとを訪れます。
「 奥で穴を掘っている僧の名は禅海ではないか? 」
岩屑を運び出していた村人が頷くと、武士は刀を手に岩穴へ駆け入り
禅海に突き付けて言いました。 「 父の仇!覚悟せよ 」
この武士は、禅海が殺めた主・中川三郎兵衛の子、実之助だったのです。
当時は3歳の子供でしたが、13歳の時に父が死に至った話を聞かされ
敵討ちの為に27歳まで諸国を巡り剣の修業をし、福岡城から中津城へ
来た折、市九郎とおぼしき僧がここにいるとの噂を聞きつけたのでした。
「 お父上の命を奪った罪に、この40年間私は苦しみ続けてきました。
岩壁の掘削作業は、その罪の償いでもあったのです。
無論、これで許されるとは思っておりません。
しかし、あと少しでこの洞道は開通し、村人たちは難所を通らずに
済むようになります。 どうかもう少しだけお待ちください。
青の洞門が開通したら、私は喜んであなたに討たれましょう 」
禅海は実之助の足元に手をつくと、深々と頭を下げ、懇願しました。

( この崖っぷちから滑落したらひとたまりもなさそう・・・


石工の頭領の説得もあって、実之助は洞道の完成まで庄屋の家に留まり
禅海を見張る事にしました。 既に60歳を超え、痩せ衰えていた禅海ですが
これまで以上にノミをふるう腕に力を込め、開削作業に励むのでした。

( 半地下から地上へ。 青の洞門は、途切れ途切れに続きます )
( そして再び半地下状の洞門へ降ります。 ここには確か・・・


( 居ました!身なりも栄養状態も特に問題なさそうな禅海さん像です


( 右奥の角は、掘り間違えた箇所なのだとか



一日でも早く父の仇をとりたい一心から、実之助もいつしか禅海の隣で
掘削作業を手伝うようになっていました

干からびた土塊の様な手になってもなお、黙々とノミをふるう禅海を日々
目の当たりにするうち、実之助は心の変化を覚え始めます。
禅海が一心不乱に打ち続ける槌の音には、不思議な穏やかさがあり、
実之助は、そこに禅海の真心を見た様な、そして寛容で偉大な父の姿を
重ねたのかもしれません。 禅海への憎悪が少しずつ癒され、小さくなって
いくのを感じた実之助は、洞道を開通させることだけに専念するのでした。

実之助が来てから3年が過ぎ、禅海が洞門の掘削を始めてから30年目の
ある秋の夜更け、禅海が打ったのみの先に赤子の拳程の小さな穴が開き
そこから青白い光が差し込んできました

山国川の豊かな流れ。 禅海は獣がうめくような声をあげ、涙を流しました。
埃泥まみれの頬に白い帯が幾筋も出来ては、月明かりに溶けて行きました。

( 禅海さんが開けた明かり窓から山国川の流れを臨む

「 中川様、ようやく青の洞門が開通しました。
これで人々はあの鎖渡しを通らずに済みます。
さあ、どうぞ私をお討ち下さいませ 」
禅海は、実之助を真っすぐに見つめると深く首を垂れました。
実之助は、乾土の様な禅海の手を取り、しっかりと握りしめると
何も言わず、実之助もまた同様に、幾筋もの涙を流すのでした。
こうしておよそ30年もの歳月をかけ、禅海和尚がノミと槌だけで掘りぬいた
342メートルにも及ぶ青の洞門は開通し、人々は危険な鎖渡しを通らずに
安全に行き来できるようになったのです。 おしまい


大分の民話と菊池寛さんの小説を参考に、まーりたん節も盛り込んでの
禅海和尚と青の洞門物語、愉しんで頂けたでしょうか


禅海さんが発起人となり、ノミと槌だけで30年かけ掘り抜いたトンネルには
違いないのですが、実際のところ 禅海さんは広報活動を兼ねた托鉢なども
並行して行って掘削の資金を集め、それで石工を雇い、トンネル工事を
完成させたそうです。 更に、開通後は通行人から通行料を徴収していた
らしく、青の洞門は日本最古の有料道路と云われています。
禅海さん、ちゃっかりしてますネ

あっ、そうそう

菊池寛さんの 『 恩讐の彼方に 』 にも描かれていますが、創作です。
禅海さんが出家した理由は、両親を相次いで亡くしたショックだったとか。
したがって、青の洞門の掘削も贖罪の為ではなく、純粋に困っていた人々の
助けになろうと頑張ったわけで、どちらにしても立派なお坊さんなのです

●参考:中津市役所発行 『 中津市勢要覧2009~ススメ薦・奨・勧・進 』
偕成社発行・大分県の民話 ( パノラマ写真で見る大分県 民話や伝説 )
中津耶馬溪観光協会発行 『 歴史と文化息づく緑と渓谷の町・本耶馬溪 』
中津耶馬溪観光協会発行 『 青の洞門・競秀峰探勝道マップ神秘の古道 』
菊池寛 『 恩讐の彼方に 』 ウィキペディア 『 禅海 』
※本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。
記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます

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