永禄12( 1569 )年、青山の戦いを初陣に、続く土器山合戦では首級を二つ。
以降も、官兵衛さんと黒田家の窮地を その武勇と知略を駆使して幾度も救い、
それでいて慎みを忘れず。 官兵衛さんの才覚をいち早く見抜き、家臣に志願した
先見の明といい度胸といい、何だかミニ黒田官兵衛さんみたいな栗山利安さん。
幼名は栗山善助( 後に栗山四郎右衛門 )


当然ながら黒田官兵衛さんからも厚い信頼を寄せられ、黒田家筆頭家老に抜擢
される栗山備後利安さん。 元々心優しく機転も利く賢い人だったのでしょうけど、
こうして縁の史跡を訪ね、栗山備後利安さんに想いを馳せていると、心から主君
黒田官兵衛さんを敬愛し、その背中を追い続けた生涯が見えてくる様です



大河ドラマ・軍師官兵衛では濱田岳さんが栗山善助役を演じ、キュートな魅力を
振りまかれているせいか、善助さんの事が頭から離れてくれない今日この頃

WOWOWの 『 お先にどうぞ 』 も観ています




どっかのおんなおいさんがのたまう すもつくれん妄想恋バナはほたっちょって、
龍光山 円清寺の裏山・麻底良( まてら )山に遺る栗山備後利安さんのお城

麻底良城址へ来てみました。 左右良( まてら )城とも書くみたいですネ


今回は、この麻底良( 左右良 )城址と、城跡から眺める杷木志波地区の風景を
お届けしながら、栗山利安さんに纏わる話を ぼつぼつ綴ってみたいと思います


慶長5( 1600 )年の関ヶ原では、本戦へ出陣していた黒田官兵衛さんの嫡男
黒田長政公が、西軍の諸将を寝返らせ、東軍を勝利に導く大手柄を挙げます

この戦功で黒田長政公は家康さんから筑前52万石を拝領&大大名に出世して
黒田氏は豊前中津( 大分県 )を離れ、筑前( 福岡県北部 )へお引越し


そして長政公より1万5千石を与えられた黒田家の重臣・栗山備後利安さんは、
国境に巡らされた防備のための城 黒田六端( ろくは )城のひとつ

福岡県朝倉市 杷木志波( はきしわ )の麻底良( まてら )城代を任されます。

後、元和の一国一城令により麻底良城は廃城となってしまいますが、城跡には
麻底良布神社が残ってます。 参道の解説板を読むと


関ヶ原合戦の年に、栗山備後利安さんが祭田( 祭殿? )を寄進されたとの記述。
更には社殿の屋根を葺き替える時や、ご神体を移す際に色々と不思議な事が
起きた、なんて事も書かれてますねぇ~




参道左手は広く平らに拓けていて、今は果樹園の様ですが曲輪の跡かな



名車マテラッティ・ボーラ



スーパーカーのモジリ? はたまた交通安全教室?ちょっぴり不思議な名前の
麻底良城。 元は、秋月の古処山を拠城に鎌倉時代より朝倉地方を治めていた
武家豪族・秋月氏16代秋月種実( たねざね )が防備のために築いた支城
秋月二十四城のひとつだった様

天正6( 1578 )年に豊後大友氏が薩摩の島津軍に大敗した耳川の合戦後。
九州最大勢力だった大友氏は、この耳川合戦を境に衰退の一途を辿り始めます


これを機に、今こそ豊後大友氏をこてんぱんに潰して九州制覇を果たすぞ


九州の諸豪族を巻き込み、味方に付けながら北上を始めた薩摩の島津軍。
かねてから豊後大友氏と敵対関係にあった秋月氏も完全に島津方へ寝返り、この
島津軍の九州制覇に歯止めをかけるべく、当時の筑前で粉骨の働きをしたのが
大友宗麟から筑前領を任されていた大友氏家臣・立花道雪さんと高橋紹運さん。
本拠地・豊後など、大友領に度々攻め込む秋月氏とも攻防を繰り返します

後に黒田六端城となる秋月二十四城・麻底良城は、この戦乱期に築かれました。

それでも食物連鎖の如く、反大友派を味方につけて勢力を拡大&猛攻を続ける
薩摩の島津軍も、黒田官兵衛さんを先発隊とする秀吉さんの九州平定軍の下に
屈する事になるんですけどね・・・。 そして黒田官兵衛さんは九州平定の行賞で
秀吉さんから豊前6郡12万石を拝領し、中津城を築城する、という流れです


朝倉市杷木から国道211号線を北へ少し行った福岡県 嘉麻( かま )市には、
九州平定( 島津征伐 )の際、古処山で抵抗を続ける秋月氏に対し、秀吉さんが
奇策を用い降参へ追い込んだ事で有名な益富( ますとみ )城址があります

その益富城も、関ヶ原後は黒田六端城のひとつとなり、黒田二十四騎のメンバー
後藤又兵衛基次さん、そして母里太兵衛友信さんの二人によって守られた
お城です。 秀吉さんが島津方の秋月氏をびっくりさせた

また、益富城址探訪レポの折りにでも



大河ドラマ・軍師官兵衛では、もこみち太兵衛さん、五話の終盤に登場しましたね。
後藤又兵衛は塚本高史さんが演じられる様で、こちらも登場が待ち遠しいところ

又兵衛さんも太兵衛さんと並ぶ猛将であり、逸話も多い方です。

麻底良布神社の小さなお社を過ぎると頭上が開け、富有柿畑の先に山頂が
見えました

黒田六端城・麻底良( まてら )城代を務めた黒田家の忠臣 栗山備後利安さん。
黒田如水( 官兵衛 )公臨終の時には、合子形兜と共に黒田家の後事を託され、
82歳でこの世を去る直前まで、黒田家の事を案じていたと云います


( 福岡銀行本社一階に展示中の博多人形の栗山利安さん。写真は観光パンフレットより )
栗山利安さんの気質、責任感の強さは利安さんの息子・栗山大膳利彰さんにも
しっかりと受け継がれ、黒田長政公の嫡男 黒田忠之公の我侭を命がけで諌め、
ついには幕府の裁判沙汰にまで発展してしまう お家騒動( 黒田騒動 )が勃発

寛永10( 1633 )年、栗山大膳利彰さんは主君を直訴した罪で奥州( 岩手県 )
盛岡へ配流されますが、罪人扱いされること無く62歳の生涯を終えます

一方、警告を受けた黒田忠之公は以後、心を入れ替えて、島原の乱鎮圧に
赴くなど、徳川幕府そして福岡城下の発展のために尽力したんだそうです。

円清寺の境内には、利安さんの息子 栗山大膳利彰さんの追悼碑がありました。
さて、次回は母里太兵衛さんと後藤又兵衛さんの幟がはためくココへ




毎度マニアックで申し訳ないですが



●参考資料 : 朝倉市商工観光課・観光協会発行・秋月観光案内~戦国時代編
軍師官兵衛福岡プロジェクト協議会発行・福岡を創った男~黒田官兵衛
※本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。
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