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まーりたん

Author:まーりたん
大分県で暮らす四十路主婦
“ まーりたん ” の
ブログへようこそ(*^^*)♪

日々を彩る ちょっと素敵な
出来事を我が家の笑導犬?
マンジ君と楽しくお届けして
ます。目下、郷土史に夢中♪
心躍る探訪をご一緒に。

臼杵の富士甚醤油マスコット
キャラ・とっくりこだぬき君が
仲間入りしてからは、嬉しさ
余ってマンジ君の“ 悪がね ”
ぶりもますますエスカレート。

そんなふたり(2匹)の様子も
併せてお楽しみ下さい(*^^*)

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永禄12( 1569 )年、青山の戦いを初陣に、続く土器山合戦では首級を二つ。

以降も、官兵衛さんと黒田家の窮地を その武勇と知略を駆使して幾度も救い、

それでいて慎みを忘れず。 官兵衛さんの才覚をいち早く見抜き、家臣に志願した

先見の明といい度胸といい、何だかミニ黒田官兵衛さんみたいな栗山利安さん。

幼名は栗山善助( 後に栗山四郎右衛門 ) 年は官兵衛さんより5つ下です。


麻底良布神社扁額

当然ながら黒田官兵衛さんからも厚い信頼を寄せられ、黒田家筆頭家老に抜擢

される栗山備後利安さん。 元々心優しく機転も利く賢い人だったのでしょうけど、

こうして縁の史跡を訪ね、栗山備後利安さんに想いを馳せていると、心から主君

黒田官兵衛さんを敬愛し、その背中を追い続けた生涯が見えてくる様です


麻底良布神社鳥居

大河ドラマ・軍師官兵衛では濱田岳さんが栗山善助役を演じ、キュートな魅力を

振りまかれているせいか、善助さんの事が頭から離れてくれない今日この頃

WOWOWの 『 お先にどうぞ 』 も観ています もしや、これはなの~


まてら城跡

どっかのおんなおいさんがのたまう すもつくれん妄想恋バナはほたっちょって、

龍光山 円清寺の裏山・麻底良( まてら )山に遺る栗山備後利安さんのお城

麻底良城址へ来てみました。 左右良( まてら )城とも書くみたいですネ

今回は、この麻底良( 左右良 )城址と、城跡から眺める杷木志波地区の風景を

お届けしながら、栗山利安さんに纏わる話を ぼつぼつ綴ってみたいと思います


麻底良布神社参道わきに解説板を発見

慶長5( 1600 )年の関ヶ原では、本戦へ出陣していた黒田官兵衛さんの嫡男

黒田長政公が、西軍の諸将を寝返らせ、東軍を勝利に導く大手柄を挙げます

この戦功で黒田長政公は家康さんから筑前52万石を拝領&大大名に出世して

黒田氏は豊前中津( 大分県 )を離れ、筑前( 福岡県北部 )へお引越し  

そして長政公より1万5千石を与えられた黒田家の重臣・栗山備後利安さんは、

国境に巡らされた防備のための城 黒田六端( ろくは )城のひとつ

福岡県朝倉市 杷木志波( はきしわ )の麻底良( まてら )城代を任されます。


麻底良神社の遷座について現地解説板

後、元和の一国一城令により麻底良城は廃城となってしまいますが、城跡には

麻底良布神社が残ってます。 参道の解説板を読むと慶長5( 1600 )年

関ヶ原合戦の年に、栗山備後利安さんが祭田( 祭殿? )を寄進されたとの記述。

更には社殿の屋根を葺き替える時や、ご神体を移す際に色々と不思議な事が

起きた、なんて事も書かれてますねぇ~ムフフ で、来た道を振り返り一枚

麻底良神社鳥居を振り返って


参道左手は広く平らに拓けていて、今は果樹園の様ですが曲輪の跡かな
 
麻底良布神社参道から眺める朝倉市杷木志波地区


名車マテラッティ・ボーラ? 右見て左見て、もう一度右見て左右良

スーパーカーのモジリ? はたまた交通安全教室?ちょっぴり不思議な名前の

麻底良城。 元は、秋月の古処山を拠城に鎌倉時代より朝倉地方を治めていた

武家豪族・秋月氏16代秋月種実( たねざね )が防備のために築いた支城

秋月二十四城のひとつだった様 築城年は定かではないものの、築城時期は

天正6( 1578 )年に豊後大友氏が薩摩の島津軍に大敗した耳川の合戦後。 

九州最大勢力だった大友氏は、この耳川合戦を境に衰退の一途を辿り始めます


麻底良布神社参道の先に小さなお社

これを機に、今こそ豊後大友氏をこてんぱんに潰して九州制覇を果たすぞ

九州の諸豪族を巻き込み、味方に付けながら北上を始めた薩摩の島津軍。 

かねてから豊後大友氏と敵対関係にあった秋月氏も完全に島津方へ寝返り、この

島津軍の九州制覇に歯止めをかけるべく、当時の筑前で粉骨の働きをしたのが

大友宗麟から筑前領を任されていた大友氏家臣・立花道雪さんと高橋紹運さん

本拠地・豊後など、大友領に度々攻め込む秋月氏とも攻防を繰り返します

後に黒田六端城となる秋月二十四城・麻底良城は、この戦乱期に築かれました。


麻底良布神社の狛犬は子供を背負ってる

それでも食物連鎖の如く、反大友派を味方につけて勢力を拡大&猛攻を続ける

薩摩の島津軍も、黒田官兵衛さんを先発隊とする秀吉さんの九州平定軍の下に

屈する事になるんですけどね・・・。 そして黒田官兵衛さんは九州平定の行賞で

秀吉さんから豊前6郡12万石を拝領し、中津城を築城する、という流れです


麻底良布神社・親子狛犬君を振り返る

朝倉市杷木から国道211号線を北へ少し行った福岡県 嘉麻( かま )市には、

九州平定( 島津征伐 )の際、古処山で抵抗を続ける秋月氏に対し、秀吉さんが

奇策を用い降参へ追い込んだ事で有名な益富( ますとみ )城址があります 

その益富城も、関ヶ原後は黒田六端城のひとつとなり、黒田二十四騎のメンバー

後藤又兵衛基次さん、そして母里太兵衛友信さんの二人によって守られた

お城です。 秀吉さんが島津方の秋月氏をびっくりさせた奇策についてのお話は

また、益富城址探訪レポの折りにでも ええ、行きましたよ~益富城址にも




大河ドラマ・軍師官兵衛では、もこみち太兵衛さん、五話の終盤に登場しましたね。

後藤又兵衛は塚本高史さんが演じられる様で、こちらも登場が待ち遠しいところ

又兵衛さんも太兵衛さんと並ぶ猛将であり、逸話も多い方です。 


社を過ぎると冨有柿畑と空が開け麻底良山の頂

麻底良布神社の小さなお社を過ぎると頭上が開け、富有柿畑の先に山頂が

見えました 筑後川北岸、杷木志波地区の麻底良山。 標高は294.9m






黒田六端城・麻底良( まてら )城代を務めた黒田家の忠臣 栗山備後利安さん。

黒田如水( 官兵衛 )公臨終の時には、合子形兜と共に黒田家の後事を託され、

82歳でこの世を去る直前まで、黒田家の事を案じていたと云います

博多人形の栗山利安
( 福岡銀行本社一階に展示中の博多人形の栗山利安さん。写真は観光パンフレットより )





栗山利安さんの気質、責任感の強さは利安さんの息子・栗山大膳利彰さんにも

しっかりと受け継がれ、黒田長政公の嫡男 黒田忠之公の我侭を命がけで諌め、

ついには幕府の裁判沙汰にまで発展してしまう お家騒動( 黒田騒動 )が勃発

寛永10( 1633 )年、栗山大膳利彰さんは主君を直訴した罪で奥州( 岩手県 )

盛岡へ配流されますが、罪人扱いされること無く62歳の生涯を終えます

一方、警告を受けた黒田忠之公は以後、心を入れ替えて、島原の乱鎮圧に

赴くなど、徳川幕府そして福岡城下の発展のために尽力したんだそうです。 

円清寺境内・カヤの老木傍に栗山大膳(善助の子)の追悼碑

円清寺の境内には、利安さんの息子 栗山大膳利彰さんの追悼碑がありました。








さて、次回は母里太兵衛さんと後藤又兵衛さんの幟がはためくココ

母里太兵衛と後藤又兵衛さんの幟がはためくココはどこ?

毎度マニアックで申し訳ないですが ご興味ある方は、どうぞお楽しみに








●参考資料 : 朝倉市商工観光課・観光協会発行・秋月観光案内~戦国時代編

軍師官兵衛福岡プロジェクト協議会発行・福岡を創った男~黒田官兵衛 







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2014/02/08(土) 15:13 | コメント:11 | トラックバック:0 |


朝霧の湯布院じゃありませんよ 雲海?に浮かぶ別大国道の高崎山です

霧に包まれた高崎山2月2日午後3時半

昨日2月2日、大分市は朝から濃霧で、海沿いでは終日霧が漂っている状態

まーりたんは別府に出掛けていて、撮影場所は別府市北浜のゆめタウン屋上。

早朝みたいに見えますが、撮影した時間は午後3時20分頃です



 
霧が波打ちながら次第に雲海の様な質感に変化していく様は、まるで大河ドラマ

軍師官兵衛のオープニングで 白馬が駈けるシーンを観ている様でしたヨ

標高628mの高崎山でこんな現象が起きるんだから、黒田家譜に記される

黒田官兵衛さんが生まれた時に雲が降りてきて姫路城を覆い隠した、という

英雄誕生奇瑞( きずい )譚を匂わせる神話的な気象現象も、充分現実に

起こり得るということが昨夕、予告もなく唐突に目の前で証明されました

もしや昨日は、高崎山城で稀代の英雄が誕生したとか







播州館野の城主 赤松下野守政秀、三千人を率し来り、

姫路の城を攻めんとす。 孝高是を聞て、姫路を出、

わざと敵をむかへて、姫路の西一里、青山に陣を取、大いに合戦し、

( 中略 ) 敵の大勢に打勝。 勇名是より大にあらハる。 

又此比、赤松下野守政秀と職隆、孝高、播州土器山にて対陣せらる。

敵方より身方の不意をうかゞいて襲来り急にかこみせむ。

身方小勢にて危うくみえければ、井手勘右衛門友氏( 重隆の末子、

職隆の弟也 ) 母里小兵衛( 佐々木氏族古庵か父なり )同

母里武兵衛( 小兵衛か子、古庵か弟也 )、同志の士と共に数刻防ぎ

戦いて、勘右衛門・小兵衛打死す。 孝高其夜又兵を催し、明朝

赤松と戦ひ給う。 武兵衛ハ昨日の戦にて七ヶ所を蒙りしかども、

今日又出て戦ひ、敵数人にあふて打死す。 昨今の戦に母里氏親戚

二十四人戦い死せり
( 黒田家譜より青山の戦いの章・部分抜粋 ) 』





昔の文章なので正確に読解するのは少々難しいですけど、昨日の大河ドラマ

軍師官兵衛・第5話を御覧になられた方なら、何とな~く光景がイメージできるの

ではないでしょうか 官兵衛さんが家督を継いだ2年後の永禄12( 1569 )年、

東播磨 三木の別所氏と結び姫路城を挟み撃ちにする攻略戦に乗り出した龍野の

赤松氏に対し、官兵衛さんは自ら指揮を執り勝利、武名をあげた青山の戦い。 

しかし青山の戦いに続く戦で、官兵衛さんは大切な母里( もり )氏親戚筋24名を

失ってしまいます また、この戦いが初陣となった栗山善助( 後の黒田家

筆頭家老・栗山備後利安 )さんは官兵衛さんの下、存分に手腕を発揮しました






黒田家譜の著者は、慶長5年の石垣原合戦で黒田如水軍として戦った祖父

持つ福岡藩士・貝原益軒さん。 益軒さんは他にも元禄元( 1688 )年より編纂

を始め、宝永6( 1709 )年、満80歳で完成に至った 『 筑前國続風土記 』 を

手がけられています。 今回ご紹介させて頂くのは、この筑前國続風土記の

巻之十一目録 上座郡( かみつあさくら )より、志波杷木( しわはき )の項。

( 原本の写しをコチラのサイトで読むことが出来ます






この筑前國続風土記 巻之十一目録 志波杷木の項には、栗山備後利安

( 栗山善助 )さんが主君・黒田如水( 官兵衛孝高 )公の没年に、その菩提を

弔うため朝倉の麻底良山麓、杷木志波の地に建立した円清寺の本堂

御本尊として安置した 鴛鴦( おしどり )観音に纏わる話が収録されています。

円清寺本堂・鴛鴦観音様のお話が有名

時は遡る事、豊後守護・大友氏21代 義鎮( よししげ=後の大友宗麟 )公が、

室町幕府13代将軍 足利義輝( 大河では吹越満さん扮する足利義昭の兄 )より

九州の武家を統括する九州探題職に任命され、豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・

肥後それに日向北部を治め九州に覇を唱えていた頃。 因みに大友宗麟よりも

14歳年下の黒田官兵衛さんは当時、まだ万吉くん時代 御師から、西国に

花開いた南蛮文化
の話を瞳を輝かせ、トイレに行くのも忘れて聴いていた頃です。

大友義鎮( 宗麟 )公が九州探題職に就いたのは、永禄2( 1559 )年。 

万吉( 後の黒田官兵衛 )くんが丁度、母いわ( 明石氏 )を亡くした年ですね。 






さて、そんな西国九州で、豊後街道の杷木を通り過ぎようとしている小大名の

行列がありました。 殿様の名前は三原弾正貞吉といい、筑後国本郷( 現在の

福岡県小郡市 )の城主で、豊後の大友館で暮らす大友義鎮( 宗麟 )公の所へ

従順を誓うための参勤途中 福岡県の久留米から杷木を経て大分県の日田・

玖珠へ通じる国道210号線は、かつて豊後街道と呼ばれる主要道でした。

朝倉市杷木の麻底良山、麓には円清寺

「 なにがコレジオ( 神学校 )だ、なにがパードレ( 神父 )だ。

まだ30にもならん南蛮かぶれの若造に、どうしてこの俺様が媚び諂わなきゃ

ならんのだ。 まぁ、家を守るためには仕方がない事だが、本当に腹が立つ





三原弾正貞吉さんがこんな毒を吐きながら豊後を目指していたかは定かでは

ありませんが、それを想像させる事件が起きます。 志波村の香山( こうやま )

淵にさしかかったとき、三原弾正貞吉さんは仲睦まじく泳ぐ鴛鴦( おしどり )の

番( つがい )を目にし、むしゃくしゃしていたのか、弓で射てしまうんですね 

三原弾正貞吉さんが放った矢は鴛鴦の雄の首を貫き、鴛鴦の雄はそのまま

水中へ。 鴛鴦の雌も雄の後を追って、水中へと消えてしまいました 






府内の大友館で参勤を終え、豊後で数日を過ごした三原弾正貞吉さんは帰路

再び豊後街道を通り、杷木志波の香山淵を通りかかると、水面に鴛鴦の雌が

一羽、じっと動かず、三原弾正貞吉さんを見つめているのに気づきます。

「 薄気味悪い鳥め 」 そう言うと家臣の諫言も聞かず、三原弾正さんはまたも

弓で射てしまいました。 放った矢は鴛鴦の雌の首を貫き、その躯を確かめた時

三原弾正さんは驚きます。 鴛鴦の雌は羽の下に、首に矢の刺さった雄の屍骸を

しっかりと抱えていたのでした 己の罪深さを猛省した三原弾正貞吉さんは、

大友義鎮公に許しを得て出家し、この近辺に3つの寺を建立したと云います

円清寺境内の佛殿に豊臣の御紋


三原弾正貞吉さんが寺に祀ったのは、彩雲の如く美しい鴛鴦のつがいを

両側に配した観音様( 鴛鴦観音 )。 時は流れ、豊臣秀吉が九州を平定し、

さらに徳川幕府の時代となり、無方和尚( 三原弾正貞吉 )さんが創設した

3つの寺院もいつしか廃寺に。 鴛鴦( おしどり )観音は村人によって守られて

いましたが、関ヶ原後に筑前を領した黒田長政公より麻底良山麓・杷木志波の

地を任された黒田家の家臣・栗山備後利安( 栗山善助 )さんが、鴛鴦観音の

話を村人から聴き、預かり受けて 先代・黒田如水公の菩提を弔う為に建立した

円清寺に安置、ご本尊としたという事です 心優しい栗山備後利安さん

82歳まで健康で長生きされたのは、鴛鴦観音様のご加護でしょうかね

栗山利安(善助)墓と龍光山円清寺本堂

栗山利安( 栗山善助 )さんのお墓と、鴛鴦観音を祀る円清寺の本堂    







貝原益軒さん編纂の筑前國続風土記に記録されている円清寺 鴛鴦観音

お話は、田主丸の河童巡りなど筑後散策の折に参考にさせて頂いているサイト

筑紫次郎の伝説紀行 』 で、オーナーの筑紫次郎さんこと古賀勝様が美しい

鴛鴦観音像の画像と共に、情緒あふれる素晴らしい物語に紡がれています 

ご興味、お時間のある方は是非、ご一読なさってみて下さい



栗山利安さんの城・六端城のひとつ麻底良山城へ

続いては、栗山備後利安さんのお城が在った麻底良山へ向かいま~す








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2014/02/03(月) 09:30 | コメント:14 | トラックバック:0 |


濱田岳さん、じゃないや 栗山善助( 栗山利安 )さんが、黒田官兵衛孝高

( 如水 )公の菩提を弔うため、慶長9( 1604 )年に建立した龍光山 円清寺

大河で栗山善助役を好演中の濱田岳さん。あまりにイメージ通りで区別がつかなくなってきてます...






円清寺本堂左手から裏へ廻ると、標高294mの麻底良( までら )山を背景に

墓地が拡がり、その中に82歳まで長生きされた栗山備後利安さんのお墓

見つけました 善助さんは、この杷木志波の地に眠っていらっしゃるんですね。

如水公の冥福を祈って建立された円清寺は、栗山家の菩提寺でもある様です

栗山備後利安(栗山善助)さんのお墓です。背景の山は麻底羅山

15歳で憧れの黒田( 小寺 )官兵衛さんの家臣になる夢を果たした利安さんは

以降、官兵衛さんを支え、多くの手柄を挙げますが、その半分は采配をとっての

ものだったと云われています。 思慮深く、大変頭の良い方でもあった利安さん 





それでいて驕りが無く、関ヶ原後に黒田長政公より筑前1万5千石を与えられ、

黒田六端城の一つ 麻底良( までら )城を任された後でも、栗山利安さんは

万事に慎みを忘れず、道で人に会った時には相手の身分に関係なく、必ず

馬から降りて挨拶をしていたのだとか。 「 今後は栗山利安を父と思うように 」 

如水公は亡くなる時、36歳の息子・長政へ、こう言い渡したという逸話も残ります





栗山善助( 利安 )さんは、知れば知るほど人としても素晴らしい官兵衛さんに

相応しい家臣でいるための精進にも、この上ない喜びを覚える人だったのかも

しれませんね。 同時に、官兵衛さんが好しとする事をきちんと理解出来ていた、

やはり頭の良い方だったんだと思います お手本にしたい大人に出会えるって

素敵ですネ オーバーかもしれませんが、人類の平和に繋がります



円清寺の梵鐘は・・・

さ、それでは前回の続きを・・・画像は円清寺本堂右手の鐘楼です。

円清寺の梵鐘は、朝鮮製の古い銅鐘で、国指定重要文化財の様。





解説板には、黒田長政公が円清寺の造立にあたって寄贈したものとあります。

円清寺・銅鐘の由来

朝鮮、黒田長政公とくれば、どうしても連想してしまうのが文禄・慶長の役

この16世紀末の朝鮮出兵では、秀吉さんの命令によって渡海した諸大名が、

虎のガイコツカチガラス、果ては焼き物の職人さんに至るまで、ま~いろいろと

日本へ連れて帰られた様なので、土着信仰物にもなっていたという円清寺の

朝鮮鐘は、もしかすると長政公の戦利品かしら ピンと来て調べてみたら

銅鐘の鑑定と共に、その旨を記しているページが直ぐにみつかりましたコチラ



円清寺・解説2

ところが、現地解説板を読み進めると 『 慶長5( 1600 )年の乱の時、如水公

日田郡 渡り村の吹揚山 長福寺より持ち帰り、福岡に置いていたもの 』 とあり、

これは加藤一純著 筑前国続風土記附録にも記されてる様なんですね。 

関ヶ原本戦へは黒田如水公の嫡男・長政が豊前中津城から出陣し、ご隠居様の

黒田如水公は九州内に居たので、如水公が関わった九州における慶長5年の

戦乱と言えば、後にも先にも九州の関ヶ原・石垣原合戦しかありません 





当時、日田郡( 現・大分県日田市 )では、隈城主の毛利高政公が西軍旗を

掲げていて、国東の富来城を攻略中だった如水公は、重臣・栗山利安さんを

日田に派遣。 毛利高政公を説得し、東軍へ寝返らせる事に成功しています 

因みに、これで命拾いした高政公は戦後、豊後の佐伯に2万石を安堵されます。






中央での関ヶ原本戦が終わらない内に九州を平定すべく、一刻を争うこの様な

状況下で、栗山黒田軍は隈城から引き上げる際、日田のお寺の梵鐘を取り外し、

人海戦術で陸路陣地へ持ち帰る、或いは福岡まで運ぶなんて事をするかしら 

それに吹揚山 長福寺というお寺、日田には無いんですよね・・・

但し、山号違いで天正12( 1584 )年に開山の照雲山 長福寺というお寺は、

豆田町の上町通りに在ります。 が、寛永14( 1637 )年に現在の日田市豆田町

へ移転する前は、渡り村ではなく、城内村に在ったそうです。  じゃあ、つまりは

如水公と無関係なのかと云うとそうではなく、スピリチュアル的にむしろ深い

繋がりがあるみたいなんです、これが 今回はも~とことん行っちゃいます


円清寺の銅鐘、ズームで撮ったり!


照雲山 長福寺の公式サイトには 『 長福寺年譜 』 より、次の紹介文がありました。



【 豊後大友氏の家臣であった武内山城守が、黒田如水に仕えるため筑前

向かう途中、はき山という所で馬の蹄に何かが当たりました。 山城守が馬を

下りてみると、そこには浄土真宗二百御丈の御本尊が落ちていました。

「 これは出家して浄土往生を願いなさいとの、如来様の思し召しに違いない 」

直感した山城守は、馬を返して城内村に入り、僧侶となってその絵像を本尊と

あがめ、ついに往生の本懐を遂げました、と伝えています ( 転載ここまで ) 】






大分県の日田市から、筑前( 福岡県 北部 )へ向かう途中ですので、“ はき山

というのは、後に円清寺が建立される杷木の麻底良山麓の事でしょうか

現在の福岡県朝倉市 杷木( はき )で、浄土真宗二百御丈の御本尊に出会った

事により、日田郡 城内村で高僧となった武内山城守さん。 それも、元を辿れば

黒田如水公の導きがきっかけだった訳ですから以後、照雲山 長福寺より朝鮮鐘

とまでは言いきりませんが、何か感謝の贈り物がされた、とも考えられますよね 

山号は違うけど、もしかすると・・・。



さあ、円清寺の梵鐘ミステリー、あなたならどう解きますか



朝倉市杷木の麻底良山、麓には円清寺
( 福岡県朝倉市 杷木町・円清寺と麻底良山遠景 )




次回は、円清寺に纏わるもうひとつの不思議なお話をご紹介させて頂きます








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2014/01/30(木) 19:24 | コメント:8 | トラックバック:0 |


黒田官兵衛さんが如水円清と名を改めたのは、息子・長政に家督を譲ってから

4年後の文禄2( 1593 )年7月、満48歳の時。 小和田哲男先生の著書

よれば、官兵衛さんはこの如水という名を、とても気に入っていたのだとか





山ふかく 分け入る花の かつ散りて 春の名残も 今日の夕暮れ

求菩提資料館に残る如水円清のサインが添えられた和歌ですが、前回の記事

ご紹介させて頂いた、若き官兵衛さんの心、感性そのままだと思いませんか

小寺氏の近習であろうと天下人・秀吉さんの軍師だろうと、地位肩書きに関係なく

官兵衛さんは、いつでも官兵衛さんのままであり続けた事が伝わってきます。 

そんな如水公に魅了され、心底惚れ込んだ方々は数知れず。 関ヶ原後には結城

秀康さんまで如水の信奉者となり、家康さんが焦りまくったという逸話も残る程

 




先日、26日に出掛けてきた福岡県は朝倉市、杷木( はき )町 志波( しわ )にも

黒田如水公が大好きで大好きで仕方がなかった方が建立したお寺が在ります

朝倉市杷木・龍光山円清寺

龍光山 円清禅寺。 慶長9( 1604 )年3月20日、病気療養先の京都伏見の

藩邸にて 59歳の生涯を閉じた黒田如水公の菩提を弔う為に建立されたお寺で、

山号寺号は 如水公の法名 龍光院如水円清居士に因んでいます・・・というか

そのままです 黒田如水公の菩提寺といえば、黒田長政公が建立した京都の

龍光院( 大徳寺境内 )や、九州では福岡の博多に在る崇福寺が有名ですよね。 

では、当地の如水公菩提寺は 何方によって建立されたかというと・・・ 


栗山善助(備後利安)の子孫の方かしら!

石碑を建てられたのは、現在は長崎に会社をお持ちの二十二代目の子孫の方

みたいですね。  そっか、あれから410年だから、一世代を19年前後として、

善助さんから22代か~納得 そうですこのお寺は、官兵衛さんの側近中の

側近で、これから官兵衛さんの窮地を何度も救う黒田家重臣団 黒田二十四騎

最高峰 黒田八虎の一人・濱田岳さん!・・・ではなく栗山善助さん建立です


龍光山円清寺山門

大河ドラマ・軍師官兵衛では、濱田岳さんがチャーミングで賢い栗山善助さんを

演じていらっしゃいますね 司馬遼太郎先生が播磨灘物語で描く栗山善助も

実写化したら濱田岳さんっぽいかな~と思えてしまう程、イメージぴったりです


龍光山円清禅寺山門の瓦


栗山善助さんは、天文19( 1551 )年生まれで、官兵衛さんよりも5つ年下。

15歳で姫路城主・小寺( 黒田 )官兵衛の家臣になり、大尊敬する官兵衛さんに

ちょこまかと付き従う姿は幼子の様でありながらも素晴らしく頭が切れ、幾多の

合戦で手柄を挙げます。 有岡城が落城する時に、官兵衛さんを担いで救出した

力持ちでもある善助さんは、黒田官兵衛さんからも絶大な信頼を寄せられ、後に

名を善助から栗山四郎右衛門栗山備後利安と改め、黒田家の筆頭家老 

円清寺境内


官兵衛さんは亡くなるときに栗山備後利安( 栗山善助 )さんを枕元に呼んで

嫡男・長政と黒田家の後事を託し、トレードマークの合子形兜、それに豊後の

石垣原合戦で官兵衛さんが着用した鎧を贈呈したと云われ、その画がこちらの

お寺に所蔵されてます( 秋月の観光案内~戦国時代編~パンフレットより )。 

円清寺所蔵・栗山備後利安肖像

黒田如水公が亡くなったのは慶長9( 1604 )年だから、

肖像画の栗山利安さんは、54歳の立派なオジサンになられてますけど

栗山善助さん時代は、もしかするとこんな感じだったかも

あら、栗山善助さんじゃないのアナタ?

円清寺の境内には、当地の方々の信心深さがうかがえる古い石仏群に混じって

日本昔話の傘地蔵に出て来そうな、可愛らしいお地蔵様がいらっしゃいました

傘地蔵みたい♪

丁寧に編まれた赤い帽子まで被っていて、観ているとこちらまで笑顔になります。

円清寺まで無事に来れたお礼を言い、お賽銭を、え~っと、6人分?で60円

お地蔵さんの足元の、茶こしみたいな小さな金網の中へ投入

円清寺の石仏群と可愛らしいお地蔵さん

菩提寺だから六地蔵なのかしら?左端の方に代表して受け取って頂きました








境内は広く、藤棚 やはり黒田如水公ゆかりのスポットには藤の花あり 

円清寺山門を潜り左手境内に藤棚

ところで、福岡県の方々には、栗山備後利安さん建立の龍光山円清寺

黒田官兵衛ゆかりの地として有名みたいですが、大分県の方は如何でしょう?

まーりたんは昨年、黒田六端城について調べている時に知ったのですが

見所の多さと、佛殿に安置されているご本尊の由来にちょっとびっくり

円清寺の梵鐘は・・・

向かって本堂右手の鐘楼には国指定文化財の銅鐘が提がっています。

解説板を読んでみると 10世紀初頭( 高麗時代初期 )の朝鮮鐘との事で、

な~んとかつての日田郡 渡り村 吹揚山長福寺にあったものだそうですヨ 








長くなりましたので、この続きは次回というコトでお赦しを

これから晩ご飯の支度です

続編では、豊後大友氏の歴史にもリンクする円清寺の不思議を

ご紹介させて頂きます。 どうぞお楽しみに








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2014/01/28(火) 19:22 | コメント:4 | トラックバック:0 |


稽古館は人作りの藩校なり 」 黒田藩時代の武家屋敷、藩校跡に建つ

秋月郷土館を出たところに、一枚板の何とも味わい深い道標を発見

かつてはお成り道、藩士達の馬揃えや調馬の場所だった杉の馬場

野鳥橋から、秋月黒田藩主初代・長興を祀った垂裕神社登り口まで、

真っすぐに延びる約5百メートルの秋月城下町メインストリート 杉の馬場。 

江戸時代は殿様の御成り道、藩士たちの馬揃えや調馬の場所だったとか







かつては杉の大木が生い茂っていた事からその名がついたと云う杉の馬場

今はおよそ2百本の桜の木が縁取り、春には桜のトンネルになるんだそうです

杉の馬場・直線500mの両側に2百本の桜の木

まーりたんが秋月を訪れたのは今季一番の寒波に見舞われた今月初旬。

お天気は上々ながら寒風が肌を刺します また桜の時期にも来てみたいなぁ







元和9( 1623 )年、福岡藩主初代・黒田長政の遺言により、長政の三男

黒田長興は、兄( 福岡藩主二代目・黒田忠之 )から秋月5万石を分け与えられ、

福岡藩の支藩として誕生する秋月藩。 以降、廃藩置県まで12代に亘り黒田氏が

秋月を治めます。 江戸時代に246年間続いた秋月藩主・黒田氏が暮らした館

( 平城 )跡が、杉の馬場沿いに秋月城址( 現・秋月中学校 )として遺されてます

平城・秋月城跡の瓦坂(県指定史跡)

大手門へ至る秋月城正門跡の瓦坂( 県指定史跡 ) 水門が設けられた石垣の

橋上に、土の流出を防ぐための瓦を縦に幾重にも、石畳状に埋め込んでます

濠と石垣は一筋に築かれ、往時は二重櫓に平櫓が5基ほど建っていたそうです。






杉の馬場通りを隔てた瓦坂の向かいには、こんな案内板も 

軍勢の集合場所なり

勢溜  軍勢の集合場所なり 」  乱世に生きた武士の方々は

戦に赴く際、ここ瓦坂の下に集結・決起し出陣して行ったのでしょうか・・・。







秋月城の背後には馬見山屏山古処山と、標高900m前後の山々が

屏風状に連なっていて、防御もバッチリ これにより、いにしえの昔からこの

秋月野鳥( のとり )地区は、覇権を狙う強者達の拠点とされて来たのだとか。  

古処山麓に建つ秋月城(中世は古処山城麓の秋月氏の館でした)

平安時代、太宰府を中心に勢力を奮っていた平家方の大蔵氏は壇ノ浦合戦で

敗れますが、鎌倉幕府の赦免で秋月荘を賜り移住。 以後 秋月姓を名乗ります。





鎌倉~戦国期は、その大蔵氏を始祖とする秋月氏が、周防の大内氏庇護の下

豊後の大友氏に攻められながらも、秀吉の九州征伐で日向高鍋藩( 宮崎県 )へ

移されるまで17代に亘り秋月を支配 秋月氏は古処山頂に城を築いており、

秋月城は古処山麓に秋月氏が構えた館でした。 で、秋月氏が去り、廃された

秋月氏館を黒田氏が平城・秋月城にリノベーション、居城としたのだそうです






秋月野鳥を舞台とした覇権争いの歴史を更に遡れば、何と宗麟夫人のご実家

奈多宮八幡にも祀られている神功皇后まで登場 神功皇后は、実在が

濃厚とされる最古の天皇・応神天皇のママ。 これは興味をそそられます





臼杵のアズレージョを思わせるタイル製の現地解説板には、神功皇后が

古処山で、羽白熊鷲を討った話が紹介されていました。 そしてこの戦いは

驚く事に日本書紀にも記されているのだとか 朝倉市の寺内ダムに近い

水の文化村には、神功皇后に滅ぼされた羽白熊鷲のお墓もあるんですって

秋月の由来(甘木市教育委員会)

羽白熊鷲( はしろくまわし )という名から、まーりたんは てっきり熊の胴体に

鷲の足と翼が生えた妖怪かと想っていたら、民に悪さをする蛮族のオサらしい。

蛮族...ケンシロウにアタタとやられてあべしになる方々みたいな感じかしら

因みに日本書紀には、ここ秋月 野鳥( のとり )地区は、その時代の呼び名

荷持田村( のとりたのふれ )で登場してます( 参考サイト:羽白熊鷲の墓 )。 

解説板の挿絵は恐らく、神功皇后が羽白熊鷲を退治する場面でしょうね








秋月郷土館で頂いた朝倉市商工観光課・朝倉市観光協会発行の

秋月城下町マップより まーりたんが今居る場所、お分かり頂けますか

秋月城下町マップ1(朝倉市観光課・観光協会発行)

秋月城址・瓦坂から杉の馬場を更に歩いていくと

内馬場裏御門( 秋月城長屋門 )に着きました

秋月城内で唯一現地に残る建物・長屋門

解説板によれば、内馬場裏御門( 秋月城長屋門 )は秋月藩主・黒田家の居城

秋月城の裏手門として使用されていて、城内で唯一現地に残る建造物。

昭和62年より3年をかけ保存修復工事や発掘調査を実施したところ、更に

古い礎石が見つかり、北六間、南七間の原型に近い形で復元されたそうです






歴史が深く、魅力あふれる秋月城下町散策は楽し

秋月城下町マップ2(朝倉市観光課・観光協会発行)

県指定有形文化財・秋月城長屋門を過ぎると、まもなく杉の馬場の終点・

秋月黒田藩主初代・長興が祀られた垂裕神社登り口に到着いたしまぁす






垂裕神社の神門は、黒門と呼ばれる秋月城の旧大手門

垂裕神社の門・黒門は秋月城の大手門を移築したもの

3枚目の画像でご紹介した瓦坂の先に建っていた現存の大手門を移築した

ものです。 この黒門は江戸時代に黒田氏の居城・秋月城大手門となる前の

中世・秋月氏時代には、古処山城の搦( から )め手門だったといわれてますから、

なんとまあ歴史の古いこと 出来るものなら、黒門さんとお喋りしてみたい


秋月城・黒門下の解説板と杉の馬場通り・終点

石段登り口にも、タイル製の現地解説板

この先は馬見山へ続く左カーブになっていて、杉の馬場通りはここでお仕舞い







石段を上がると、秋月の歴史をあらかたご存知であろう古老・黒門翁が

あっけにとられているのでしょうか、こんなお顔 (゚□゚) で迎えてくれました。 

黒門・中世の秋月氏時代古処山城の搦め手門を秋月城の大手門として移築

威厳を醸す黒門からは更に、垂裕神社へと続く長い長い石段が延びてます。

そしてこの場所にもタイル製の素敵な現地解説板が

秋月藩主の瓦型兜と町家の子

挿絵のタイトルは “ 秋月藩主の瓦型兜と町家の子モチモチの木みたい






秋月城下町は、神武天皇お舟出の地そして 大友軍と島津軍の激戦地でもある

日向市美々津地区と同じ、重要伝統的建造物群保存地区なんだそうです。 

秋月城下町は国の重要伝統的建造物群保存地区です

なかでも重要伝統的建造物群保存地区に指定されている城下町は、全国で

二つしかないそうです。 そのひとつがここ、福岡県朝倉市秋月の野鳥地区。 

もうひとつはどこだろう・・・ なんて毎度のクセで、つい集中して解説板を

読みふけっていたところ、何やら背後でガチガチと奇妙な音が  

振り返ると、ウチのダンナさんが寒さに震え、顔面蒼白で歯を鳴らしてました

そういえば、外気にさらされてる まーりたんの手も変温動物並みに冷たい







黒門から見下ろしたその場所に、地鶏蕎麦の幟を掲げたお食事処を発見 

紅葉越しにお蕎麦屋さん発見!

神よ・・・







命からがら逃げ込んだ山菜料理・古処庵さんの店内。 

外観もさることながら、内装も渋くて素敵です

山菜料理・古処庵さん店内

まーりたんは地鶏蕎麦、相方は山菜蕎麦と高菜おにぎりを注文しました。






古処庵さんの箸たては、日田の小鹿田焼です 

既に山菜蕎麦をがっついてる人の横で、地鶏蕎麦をパチリおいしそう 

古処庵さんでお昼にしました♪

お蕎麦の色は白っぽく( きっと上等な蕎麦粉なのだゎ )、地鶏の出汁で

コクがありながら、薄味仕立ての上品なお味でしたご馳走様でした 






古処庵さんで命拾いをして、杉の馬場を引き返す途中、黒門茶屋の並びに

我国種痘発祥の地秋月 ” モニュメントを発見

我が国種痘発祥の地秋月・モニュメント発見

黒田如水公の直筆書簡見たさに今回、秋月郷土館を訪れていなければ、

秋月が我が国における種痘発祥の地である事を、恐らくずっと知らないままで

居ただろうし、種痘についてアレコレ調べる事も無かったかもしれません。 

なんだか特別な付録を頂いた気分ですありがとうございました







●参考 : 朝倉市商工観光課・観光協会発行パンフレット

 『 筑前の小京都 秋月城下町 』 より 秋月の歴史( 中世~近世 )

朝倉広域観光協会発行 『 あさくら路おすすめ観光マップ 』 ・ 現地解説板











秋月城下町を後に、次なる探訪先は、こちらの御餅が名物の場所です

食べある記ではないけれど・・・

えっと、今回は福岡食べある記だったっけ・・・ ま、それもよかネ











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2012/12/14(金) 12:02 | コメント:5 | トラックバック:0 |


伊達政宗の右目視力を奪い、立花宗茂公の実父・高橋紹運夫人の顔に

瘢痕を残し、更に遡れば聖徳太子の父・用明天皇も感染し、命を落としたと云う

悪魔の病・天然痘。 今は種痘と呼ばれるワクチン接種での予防や、化学

療法を主とした対症治療も確立。 致死率4割越えの天然痘に感染する心配は

無くなりましたが、国内で種痘を施し、天然痘の予防に貢献したパイオニアは

武田鉄矢さん!じゃなかった 緒方洪庵先生だ!と思っていらっしゃる方、

挙手をどうぞ 







えっ、まーりたんだけ やっぱり・・・( 撃沈 )

いえいえ、コッソリ正直に挙手して下さった方も数名は いらっしゃるはず

そんな少数派を恐れない素敵なアナタ、ご興味、お時間がございましたら

目からウロコ?の種痘はじめて物語、どうぞご一緒にお楽しみ下さい

ウィキペディアより緒方洪庵肖像

画像はウィキペディア緒方洪庵より、洪庵先生の肖像画です。

ドラマ・仁-JIN- での印象が強烈だったのか、武田鉄矢さんに見えてしまう

眼科行きか...











江戸情緒漂う茅葺屋根の武家屋敷。

戸波半九郎屋敷跡(秋月郷土館入口正面)

秋月黒田藩主初代・長興に仕えていた藩士一族・戸波半九郎の屋敷母屋です。

秋月郷土館入口の長屋門を潜った正面、郷土館敷地内に建ってます


秋月藩士・戸波半九郎屋敷跡解説

明治9( 1876 )年10月、熊本で勃発した神風連の乱( 明治政府に対する

旧士族のクーデター )を受けて同年同月、ここ福岡秋月でも戸波半九郎さんを

始めとする旧藩士ら4百名が、明治政府へ反乱( 秋月の乱 )を起こしました。 

半九郎さん亡き後、屋敷は秋月藩主・黒田家へ譲られ、昭和40( 1965 )年

秋月郷土館開設に際し、黒田家の遺品と共に寄贈されたのだそうです。







戸波半九郎屋敷母屋・玄関式台より内部を一枚 

玄関式台より撮影、戸波半九郎屋敷・秋月の乱幹部直筆の辞世の句も屋敷内に展示

画像中央部より右には、秋月の偉人を紹介したパネルが鴨居に4枚程

取り付けられているんですが、その中から2枚をピックアップ 

天然痘予防のパイオニア緒方春朔と彼の研究をを支えた庄屋・天野甚左衛門の紹介

お座敷の照明が映り込み、パネルの文字が見事に飛んじゃってますけど

国内における種痘の始祖で秋月藩医・緒方春朔( 1748年~1810年 )と、

彼の研究を支えた大庄屋・天野甚左衛門が、詳しく紹介されてます

 


 


冒頭でお話させて頂いた天然痘の予防ワクチン “ 種痘

ウィキペディア天然痘によれば、種痘法には2種類あって、それは

天然痘に感染した人間の膿からワクチンを作り接種する人痘法と、

牛の病気である牛痘にかかった人は天然痘に感染しない事に注目した英国の

医学者・エドワード・ジェンナー氏が、18世紀末に研究開発した牛痘法







現在の種痘に繋がっているのは後者の牛痘法ですが、牛痘法が開発される

前の18世紀前半、アメリカやイギリスで用いられていたのは人痘法でした。 

1748年生まれの秋月藩医・緒方春朔は、その人痘法での種痘法を研究

寛政4年( 1792年 )、44歳の緒方春朔は大庄屋・天野甚左衛門の子ども達に

人痘法での種痘法を施術し、これに成功 国内初の出来事で、種痘法の実用

化に漕ぎ着けたのも、一つ年下のエドワードジェンナーより6年も早かったとか 

緒方春朔種痘成功200年記念顕彰碑

このレリーフは、甘木朝倉医師会病院敷地内に建つ

緒方春朔種痘成功200年記念顕彰碑 ” 

緒方春朔医師が、天野甚左衛門の子たちへ人痘法を施しているシーンです。

レリーフ画像は 『 緒方春朔~わが国種痘の始祖~ 』 よりお借りしました







ただ、人痘法での種痘法は2%の確率で死亡リスクも伴うことから、

次第に下火になり、時代の流れと共に牛痘法が主流に。 そして

奇しくも、国内における種痘の始祖・秋月藩医 緒方春朔が他界した年

( 1810年 )に生まれた緒方洪庵先生が、後にエドワードジェンナー開発の

牛痘法での種痘を国内に広め、天然痘予防に大貢献されたという訳です







洪庵先生の方が圧倒的に知られているのは、門下生に福澤諭吉や、ドラマ

陽だまりの樹 ” では成宮寛貴さんが演じた手塚良仙( 手塚治虫の曽祖父 )

など、そうそうたる顔ぶれが居たせいもあるだろう、とも言われてる様ですが、

当時は、「 牛痘法での種痘法を受けるとウシになるぞ 」

てな噂もまことしやかに流れていたとか。 洪庵先生も苦労されたでしょうね

患者さんにお金を払ってまで、牛痘法での種痘を奨めたという話は有名です。

戸波半九郎・秋月藩士屋敷内より畳石が直線に配された小堀遠州式庭園を見学

先日BS歴史館で紹介された伊能忠敬さん、そして近いところでは

ポケットマネーをはたき別府観光の大宣伝をしたという油屋熊八翁など、

損得も外聞も年齢もそっちのけ、結果は後からついてくるから結果なんだと

言わんばかりに、これと決めた目標に向かい まっしぐら 






そういう時って、なぜか幸せだったりもするんですよね

幸福感が心を元気にして、エネルギーとなり、更なる幸福感を創り出す。

そこから生まれる心のゆとりが人への優しさに繋がって、気が付いた時には、

ずっと描きたかった巨大地図が あら不思議、とうに完成していたり・・・










秋月城下町のメインストリート・杉の馬場通りを散策中に立ち寄った

とっても素敵なお食事処 古処庵さんです

ランチで入ったお店・古処庵さん(秋月城下町)

次回は秋月城下町・杉の馬場よりお届けします










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2012/12/11(火) 19:03 | コメント:10 | トラックバック:0 |


大分自動車道を朝倉ICで降り、国道386号線を福岡方面へ。

標高315mの太平山麓の峠道を登って降りて持丸北を右折すると、

鎌倉時代から戦国期にかけては地元豪族・大蔵氏を始祖とする秋月氏が治め、

江戸時代には福岡藩黒田氏の分家が藩主を務めた秋月城下町へと延びる

国道322号線。 大分の湯布院盆地を彷彿とさせる風景の中を走っていると...  

甘鉄甘木駅行のバスと離合

道路脇に、この日最初の目的地・秋月郷土館の立て看板を発見 

甘鉄甘木駅行のバスと おっかなびっくり離合したところで、看板に従い右折。







秋月黒田藩主初代・黒田長興( ながおき )が父・黒田長政の菩提を弔うために

建立、以後黒田家菩提寺となった臨済宗・古心寺。 同様に長興が母・大涼院

黒田長政の妻・栄姫 )の菩提寺として建てた大涼寺を過ぎ、野鳥橋を越えると

筑前の小京都・秋月5万石城下町のメインストリート 杉の馬場通りに到着

朝倉の風景と道のりを愉しむべく遠回りして来ましたが、最寄りは甘木ICです

朝倉市・秋月城下町と郷土館

秋月城下町・杉の馬場通り沿いに建つ秋月郷土館は、秋月黒田藩主初代・

長興( 黒田長政の子で福岡黒田藩主二代目・忠之の弟にあたります )の頃から

黒田家に仕えた秋月藩士一族・戸波半九郎の屋敷跡地なんだそうです。






秋月郷土館入り口は武家屋敷の長屋門だけに、どうりでご立派

秋月郷土館・秋月郷土美術館

入口( 長屋門 )を潜った正面には茅葺の母屋。 右側に第一資料館、その奥は

池と雪見灯篭のある遠州式庭園。 母屋の左側には秋月郷土美術館( 藩校・

稽古館跡 )。 秋月郷土館の幟は言うまでもなく黒田家の御紋・藤巴です

秋月郷土館は平成25年3月31日で一時閉館、5年後に新規開館予定です

おや秋月郷土館内案内図に、 “ あと128日です ” の文字

受付で入館料2名分800円( JAF会員なので200円引 )と引き換えに

頂いたパンフレットには “ 秋月郷土館は来年2013年3月末で一時閉館、

5年後に朝倉市の新しいミュージアムとして リニューアルオープン予定


との旨が書かれていました 5年かぁ ずいぶん長いお別れです。 






秋月郷土館で所蔵公開されている諸資料・美術品の中には、黒田如水公

( 黒田官兵衛孝高 )の直筆書簡
も有るらしいという噂を耳にして以来

ずっと訪れたいと思ってたんですが、閉館前に何とか来れて良かった

秋月郷土館所蔵展示物紹介

大分の湯布院や安心院然り、盆地の冬の只ならぬ底冷えに恐れをなし、

来春まで延ばしていたら、あやうく ちゃーら!なとこダッタ~








こちらが第一資料館です。 

展示物の撮影は原則としてNGみたいなので、入口付近から遠巻きに一枚

秋月郷土館・第一資料館内

左の梯子を上がった吹き抜けの2階には、農機具などの民俗資料を展示。

1階には古文書、肖像画、家系図、鉄砲など秋月黒田藩の史料。




まーりたん、黒田如水公の直筆書簡・第一弾?をここ第一資料館で発見

年頭之為祝儀 樽壱ツ差越祝着候・・・( 略 ) 

二月廿五日  恐々謹言 如水 ( 印 )


宇保四郎兵衛という役職のついた方に宛てられた文書でした





小和田哲男さんのミネルヴァ日本評伝選・黒田如水によれば、

黒田官兵衛孝高は如水と名を改め、息子・黒田長政に家督を譲った隠居後も、

家臣には知行宛行状を出し、農業経営についても細やかな目配りをするなど、

領国経営の一翼を担っていた事が、書簡や家文書等から分かっているそうです。





また、司馬遼太郎先生の播磨灘物語( 黒田官兵衛の大河小説 )には、

如水はいかにも平民くさい男だった ” とのくだりがあります 

関ヶ原後に息子・黒田長政と筑前福岡城へ移る以前の豊前中津城時代、

如水公は日中、下僕一人を連れて村から村を歩き、疲れると農家の縁側で休憩。

お百姓さんから出された麦こがしの湯を飲み、雑談するのが愉しみだったとか





これが所謂、お殿様の領地巡回とは違い、いかに農家の方と打ち解けていたかが

戸波半九郎屋敷母屋左側( 藩校・稽古館跡 )に建つ秋月郷土美術館内に

収蔵展示されている黒田如水公の書簡・第2弾?から窺い知れます

黒田如水が大根のお礼をしたためた手紙も所蔵!秋月郷土美術館

美術館内には、石竿部分にキリストにも見える彫刻が施された市指定の有形

文化財・キリシタン灯篭をはじめ、甲冑、馬鎧、陶磁器、刀剣、陣羽織、西洋画、

秋月黒田藩主十代目・長元の頃に描かれた島原陣図屏風等、これまた貴重な

資料が数多く展示されているのですが、ここも撮影はご遠慮下さいマーク




従いまして黒田如水公のお手紙、以下の通り頑張って書き写しました



「 見事の大こん( 大根 )さしこし

う連しく候也

六月九日 ( 如水花押 ) 朝成母

見事のかき( 柿 )一こ有之

御うれしく候

壬( みずのえ )七月廿日 印 春丹雲へ
 」



これは、黒田如水公が大根と柿1個を頂いた方へ宛てたお礼状です


秋月郷土美術館横の藤棚・黒田家レジェンドフラワー
( 郷土美術館横には藤棚。 藤の花は黒田家のレジェンドフラワーです






中津城下のお百姓さんと縁側で茶飲み話に耽り、心穏やかな昼下がりを

やり過ごすのが、40代で隠居した後の何よりの悦びだったという如水公 

ちょっと信じがたい話ですが、如水公がよく知っている農家の方からは、

黒田ん殿様、いい瓜が獲れたけん、取りこんかえ?

なんて、お呼びがかかることも珍しくなかったんだとか





普通なら、こちらからお城へ献上させて頂きますじゃなきゃ・・・ですよね

だけど、こういう雰囲気は如水公が自然と作り上げたものの様なんです。

中津へ入封したての頃、豊臣政権に反旗を翻した豊前の地頭・宇都宮鎮房

一族を息子・長政が討伐、それを黙認
し、豊前領民を震撼させてしまった事への

贖罪の意味もあったのかしら・・・なんて思ったものの、如水公の胸中は

ご本人にしか分かりません。 仮に最初は罪滅ぼし半分だったとしても、次第に

農家の方との交流が本当に楽しくて嬉しくて、仕方がなくなったみたいです。

なんだか、映画・種まく旅人の主人公 金ちゃんと重なります...







あらら、毎度のことながら すっかり長話になってしまいました

次回は、残りの秋月郷土館内施設・戸波半九郎屋敷 母屋

ご紹介してから、秋月城下町に繰り出してみたいと思います

宜しければ次回もお時間の許す限り、どうぞごゆっくりとお楽しみ下さい









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2012/12/06(木) 18:52 | コメント:9 | トラックバック:0 |
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