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まーりたん

Author:まーりたん
大分県で暮らす四十路主婦
“ まーりたん ” の
ブログへようこそ(*^^*)♪

日々を彩る ちょっと素敵な
出来事を我が家の笑導犬?
マンジ君と楽しくお届けして
ます。目下、郷土史に夢中♪
心躍る探訪をご一緒に。

臼杵の富士甚醤油マスコット
キャラ・とっくりこだぬき君が
仲間入りしてからは、嬉しさ
余ってマンジ君の“ 悪がね ”
ぶりもますますエスカレート。

そんなふたり(2匹)の様子も
併せてお楽しみ下さい(*^^*)

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『 人間は所詮は地上に縛られねばならぬ生き物だが、

それに空想を与えてくれるものは天である。 

幸い播州の野は広く、天が広い。 

子どもがトンボを追う。 

あれは何か、と官兵衛は考える。 

青い宙空を駆けているトンボは、天の切れっ端のようにも

天に暮らす眷( けん )族のようにも思え、

だからこそ追ったように思える。 

売っていくらという利益になるわけでもなく、

またトンボが食えるわけでもない。 

トンボがもし食えるものなら、子どもは追わないに違いない。 

俺は幼いのだろうか 』







黒田官兵衛さんに興味を持って最初に読んだ小説、

司馬遼太郎先生の播磨灘物語を先日、読み返してみました。

第一巻 「 若き日々 」 の中で、官兵衛さんは、自分の中から除くに

除けない、二十歳を超えてもむしろ育っていくばかりの夢想的な部分を、

トンボを追いかける万吉くん時代の自分に重ね、自嘲するかの様に呟く

くだりがあります。 司馬遼太郎先生が播磨灘物語のなかで描かれる

黒田官兵衛さんは本当に瑞々しくて、そこに生きている様。 冒頭で抜粋した

この部分は特に好きで、本を開く度に繰り返し追ってしまいます



和傘工房・朱夏(鷹匠町)



大河ドラマ・軍師官兵衛でも官兵衛さんは今、正にこうした自分探しの旅の只中。

天性の才覚と合理性、人の言葉の真意を汲み 冷静に自己分析もできる賢さを

持ちながら、掛け替えのない存在を失ったことで、身を持って戦国乱世の

過酷さを知り、哀しみや憎悪に翻弄される ウエットな若き岡田官兵衛さん。  

傷心で出かけた堺では、大好物な饅頭でいずれ泣きを見る荒木村重さんに

助けられ、大器を匂わせる秀吉さんの噂を耳にし、38歳で入信する事になる

キリスト教
とも出会い、様々な伏線が張られていた第三話でした    



傘鉾まつり用の大傘



明日の第四話は、生涯添い遂げるただ一人の妻・幸円( 光 )さんとの

出会いが描かれる模様 官兵衛さんの妻は、播磨灘物語の中では

お悠という名で登場します。 ドラマではスレンダーな中谷美紀さんが

演じられますが、お悠( 光 )は透き通るように色白で美しい女性ながら、

官兵衛さんより背が高く、オシリの大きな大柄な女性だったようで、長男の

松寿丸( 後の黒田長政 )を産んでからは、ますます肥ってしまったそう






「 お前と廊下で行き違う時に、ワシは鮫とすれ違う小魚の様に当惑する

とか、「 最初は、明石の沖からアナゴが嫁( き )たのかと思った 」なんて

官兵衛さんは悪びれず、お悠( 光 )さんを冷やかしてばかりいたんだとか




 

最初はふくれていたお悠( 光 )さんも、言われ続けるうちに慣れてきて

「 今日は飾磨( しかま )のフカだとおっしゃるのでございましょう

官兵衛さんが喩える前に言い返し、官兵衛さんもそんなお悠( 光 )さんに

満足し、心の安らぎを覚える、大変仲睦まじいご夫婦だった様子 

“ 小寺氏の御着城殿中で、しかめっつらばかりしている小男( 官兵衛 )とは

別人の様であった ” と添える司馬先生の描写は絶妙で、粋すぎます



朱夏さんの工房を見学させて頂きました♪



作家の方が、主人公とする先人の気持ちに少しでも近づきたいと、真摯に

心を寄せる事で無限に広がる想像世界や、受け取るインスピレーションは、

先人さんからの感謝のメッセージ、贈り物でもあるような気がするんですよね。

それを読者や視聴者が作品を通して共有できるのは、時代小説やドラマの

醍醐味です。 もちろん、どれだけ史実に沿った物語に仕上げて下さるかも

また然り。 明日の放送では、軍師官兵衛でオリジナル脚本を手がけられている

前川洋一さんが、どんな官兵衛夫妻を描いてくださるのか、楽しみです



和傘あんどんも見せて下さいました
 


今回の記事は、丁度そんな播磨灘物語を夢中で読んでいた頃、一昨年の6月

中津城下町を散策の折りに立ち寄らせて頂いた鷹匠町 和傘工房・朱夏さんの

写真と併せて、お届けしました。 傘鉾まつりのパネルを持って下さってる方は

和傘工房・朱夏の御主人です 因みに3枚目の画像に写ってる腕はウチのダンナさん。

工房の方が傘鉾まつりの写真を


和傘工房・朱夏さま、その節は快く工房内のお写真を撮らせて下さり、

また福澤諭吉記念館の入館割引券まで頂き、ありがとうございました

この場を借りてお礼申し上げます









本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます

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2014/01/25(土) 19:23 | コメント:5 | トラックバック:0 |


年寄りの冷や水スレスレに今年も散々右往左往して、気が付けばもう師走です

今年最後の中津城レポ 最終回は、中津に縁のある方なら恐らく号泣モノの

懐かしスポットを 2、3ご紹介して、締め括らせて頂きたいと思います


汐湯

まずは明治時代から続く海水銭湯・汐湯( しおゆ )

山国川河口の水を汲み上げて沸かす、ちょっと珍しい海水のお風呂です

所在地は中津市三ノ丁1278-1。 前記事の中津城絵図では、本丸西南隅

15番の水御門跡を出て直ぐの所で、趣たっぷりの建物は聞くところ築70年

中津城水門跡

山国川河口に築かれた中津城は、潮の干満で濠の水が上下する水城としても

知られています 中津城 水御門跡には、黒田官兵衛孝高( 黒田如水 )公が

縄張りしたお城の特徴である虎口の石垣も現存 お濠の海水は、本丸北側の

水門
そして、江戸時代はこちらの水御門の2か所から引き入れていた様子






記憶を遡る事、タイガーきょろちゃんが爆発的人気を誇っていた昭和50年代 

「 まーりたんが中津で暮らしていたチビの頃は、中津城に観覧車があったんです 」

今年6月の中津城探訪記事で何気にそう書いたところ、大分県中津市と山国川を

隔てた対岸・福岡県東部ご出身の方から、「 中津城の観覧車、憶えています! 

汐湯やプールは、まだありますか? 」という大変嬉しいコメントを頂きました 

まーりたん同様その方も子供時代は県境を行ったり来たりして過ごし、中津城にも

大切な思い出がお有りの様 なので今回は、記憶の隅っこに残っている、そんな

ノスタルジア中津城も楽しむべく、探訪目的のひとつにやって来た次第です 

水門を出た所に汐湯

拙ブログを御覧下さっている中津ゆかりの皆様、中津城の汐湯は健在ですヨ  

入浴料は大人350円。 営業時間は10時~21時半、4の付く日はお休みです。

 






続いては、中津城のプールを探して本丸周辺を徘徊・・・ 

利用した事があるかすら忘れてしまった幻のプールだけど、アリマシタ

中津城のプール

中津城本丸の東側最寄りには、如水公の故郷・姫路から移住してきた商人の町

姫路町が在り、その姫路町と中津城の模擬天守とに挟まれた二ノ丁にプールは

健在 しかし、目を見張る年季の入り具合は、もはやアンティーク・・・という

自分も既にアンティーク...なら良いけれど ジャンク、ヴィンテージ、旧さもいろいろ








中津城ノスタルジア探訪記、20世紀の建造物探索から今度は3世紀程ぐーんと

遡って、次なる御紹介はコチラ 豊前中津城絵図( 黒田如水縄張 )です。

豊前中津城絵図・黒田如水縄張り1

天正15( 1587 )年7月、黒田孝高( 如水 )は豊前六郡を領有。

翌天正16年1月11日、中津城の造営を始めた。 図中に 本丸、二の丸、

三の丸の城郭、京町、博多町、堀川口、竜王ノ濱、弥山( 八面山 )、

高瀬川( 山国川 )、ヤックワン川( 駅館川 )、小倉路、高瀬、犬丸、

コイワイ( 小祝 )、番所、京泊( きょうどまり )などがみえる
( 解説より ) 』

豊前中津城絵図-黒田如水縄張(説明)中津市歴史民俗資料館所蔵


中津城絵図に描かれている三の丸( 三ノ丁 )は、黒田氏が慶長5( 1600 )年

関ヶ原のあと、筑前( 福岡 )へ転封後、後任で豊前へ入封した細川氏によって

造営
されたので、絵図は17世紀頃に描かれた写しの様ですが・・・

豊前中津城絵図・黒田如水縄張り2

海原と書かれている周防灘を城郭の北に、そこから水路を引いて二重、三重に

城郭を取り囲み、本丸のある西側は中津川( 高瀬川 )に守られた、御年42歳の

黒田如水公が知恵を絞った縄張りは、そのまま。 現在も崩れていません。

海運に拓けた中津の地( 山国川の河口 )を選んだのも、築城の名手でありながら

商才も備え、経済にも明るかった如水公ならではのアイデア、と言えそうです





上記2枚の黒田如水縄張り図は、中津市歴史民俗資料館に所蔵展示されてます。

黒田如水縄張り図(中津市歴史民俗資料館)中津市歴史民俗資料館スタンプ

縄張り図は資料館の2階、また1階には黒田時代の中津城と題し、中津城から

発掘された、豊臣政権との深い繋がりが無ければ使用できなかった桐紋瓦や、

安土城仕様の金箔瓦、他にも如水公が愛用していたかもしれないキセルの吸口

など、それは貴重でリアル感溢れる出土品や資料が、ガラスケースの中にぎっしり

展示されています 中津城の模擬天守は徳川御連枝・奥平家の宝物を中心に

所蔵展示した資料館
になっているので、官兵衛さんに会いたくて中津城へいらした

時には、本丸曲輪南面・大きな鳥居のある道路を、南へまっすぐ歩いて数分 

県道108号線手前左側の中津市歴史民俗資料館へも是非、足を運ばれる事を

お奨めします。 入館は無料。 まーりたんは感激のあまり泣きそうに毎度大げさ 








それでは最後に、勝手に名づけて 虹の椎ノ木御門の向かいに残る黒田時代の

遺構をひとつご紹介して、今年の中津城探訪納めにしたいと思います

中世の館と寺院跡(解説板)


黒田時代、本丸入口・椎ノ木御門前には寺院があったそうです本丸内にお寺。

中世の寺院跡(小幡英之助銅像下)


更に、本丸石垣の修復・復元工事に伴う調査では、黒田如水公が天正16年

( 1588年 )に手がけた築城当初の石垣が広範囲に現存している事が判り、

史料の検討では、当時は存在しなかったとされていた天守の存在も濃厚に

九州最古の近世城郭・中津城の実態が、次第に明かされつつある模様です



●参考サイト : お城部ログ – 日本のお城ガイド お城部

記事はコチラ黒田期の中津城見えた 築城時の石垣確認、天守存在も判明






石垣原へ出陣の際、天守に貯めていた金銀を如水原で積み上げて兵を雇用 ”

これも小説の脚色では無く、史実だったという日が来るかもしれませんネ








本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

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2013/12/02(月) 20:23 | コメント:6 | トラックバック:0 |


豊前 中津城の東側に、防衛目的で造られたという寺町に来ています

当時、お寺=防衛砦でもあったことは、いつも楽しく観ているピエール瀧さんの

番組城下町へ行こう!の中でも度々耳にします 因みに、ピエール瀧さんは

来年の大河ドラマでは、蜂須賀小六さんを演じられるとか。 楽しみです

中津城下・寺町です

黒田官兵衛孝高( 如水 )公が豊前へ入封する前、寺町として機能する以前から

この町には明蓮( みょうれん )寺を含む、3ヶ寺が既存していた様子。

明蓮寺


それに加え、黒田官兵衛さんが故郷の姫路から、空誉上人を呼び寄せ建立した

赤壁寺で知られる 合元( ごうがん )寺や、官兵衛さんの援助で建立された

かっぱ寺で親しまれる 円応( えんのう )寺など、豊前なかつ歴代藩主( 黒田、

細川、小笠原、奥平 )により続々とお寺が建立されて、その数なんと13ヶ寺






中津城下の寺町散策記事は、これ迄にも何度か書かせて頂いてますが、今回は

中津市役所・軍師官兵衛推進室発行の “ 官兵衛ゆかりのまち歩きマップ ” に

新たに如水公ゆかりの寺として紹介されていた 西蓮寺を訪ねてぶらり

赤壁の合元寺から北の方角、福澤諭吉旧居方面へ真っすぐ歩いていくと・・・

如水公ゆかりの寺院・西蓮寺に到着♪

左側に大河幟が建っていてすぐに分かりました


如水公の末の弟・黒田市右衛門開基の西蓮寺

浄土真宗本願寺派 寶池山 西蓮( さいれん )寺

開祖は黒田官兵衛の末の弟・黒田市右衛門( 光心師 )で、

官兵衛の実父・職隆の逝去後に出家し、官兵衛孝高を慕って中津に移り住み、

天正16( 1588 )年に当寺を開山、とあります

黒田如水公ゆかりの寶池山 西蓮寺

如水公の弟たちとして知られているのは、黒田二十四騎の筆頭で黒田職隆の

次男・豊前 高森城主の黒田兵庫助利高( ひょうごのすけ としたか )さん、

如水公・黒田利高さんとは異母兄弟にあたり、後に宗像郡 津屋崎城代となる

職隆の三男・黒田二十四騎の黒田修理亮利則( しゅりのすけ としのり )さん、

官兵衛にならってキリシタンとなり、のちに筑前秋月1万2千石の領主となる

職隆の四男・黒田二十四騎の黒田図書助直之( ずしょのすけ なおゆき )さん。





~右衛門、左衛門 ” というミドルネーム?の付く方も黒田二十四騎の中に多く

いらっしゃるものの皆、黒田職隆( 如水の父 )に小姓として仕えていた方だったり、

元小寺家の家老で後に官兵衛に仕えた方など・・・。 1600年の石垣原の戦いで

手柄をたてる井上九郎右衛門さんも官兵衛パパの小姓だった方です。 なので、

西蓮寺を開山された黒田市右衛門さんも、その名前から官兵衛パパ・職隆さんの

御養子的な方だったのではないかしら?・・・と 目薬屋の源蔵は実在した 

西蓮寺境内

黒田家重臣・黒田二十四騎の井上九郎右衛門元房( くろうえもん もとふさ )は、

大河では高橋一生さんが演じられる様です 官兵衛が有岡城に幽閉された時

商人に扮して様子を探ったりと、井上九郎右衛門さんは体力よりも知力が取り柄の

家臣ながら、九州関ヶ原とも呼ばれる石垣原の戦いでは、大友軍の将・吉弘統幸

さんと一騎打ちをし、大友宗麟の子・義統( よしむね )を降参に追い込む大手柄を

あげます 吉弘神社由緒では、井上九郎右衛門さんと吉弘統幸さんは相討ちと

伝わっているんですが、井上九郎右衛門さんは関ヶ原後に筑前 黒崎城代となって

寛永11( 1634 )年まで生きたとの記録もあり・・・大河ドラマではどう描かれるか

観てのお愉しみですネ 九州に舞台が移るのは来年の今頃かもしれませんが


西蓮寺本堂


如水公縁の西蓮寺・本堂をあとに、再び寺町をぶらぶらしていると

閻魔様のお寺で知られる浄土宗・圓龍寺の山門に徳川家の御紋・三葉葵

中津城最後の城主一族・奥平家は徳川の御連枝なので、これは分かるとして、

閻魔さんのお寺圓龍寺に徳川と大友の御紋!

その下の提灯には、あらっ、豊後大友家の杏葉らしき御紋

圓龍寺
 
近づいてよく見たら、馬具装飾をモチーフにした大友本家の杏葉( ぎょうよう )紋

では無く、その変形で、花杏葉( はなぎょうよう )紋と呼ばれるタイプ

大友氏ゆかりの家柄や、藤原氏の流れを汲む諸氏が用いる御紋です

圓龍寺境内は車がぎゅうぎゅう詰めで、どうやら法事が執り行われている様子...。


大友義統さんゆかりの豊後町に到着

寺町の北東には、大友氏22代義統( よしむね )さんが配流された後、家臣が

移り住んだとされる豊後( ぶんご )町があるので、もしや大友氏家臣末裔の

方々による法要ではなかろうか なんて好き勝手巡らせてみたものの 

そういえば、圓龍寺は確か浄土宗
 



歴史愛好家向けマガジン 『 歴史人 』 2013年3月号の特集記事が、

戦国武将の家紋の真実で、豊後大友氏の家紋・抱き杏葉紋についても

詳しく紹介されていて、そこから更に自力で調べをすすめてみたところ

浄土宗では、杏葉を寺紋とする寺院が多いんだそうです。 これは宗祖の

法然上人が大友氏一族の出身であることに因む、と伝えられているとか。

●参考 : 家紋の由来 『 杏葉紋

圓龍寺の屋根の装飾にご注目

圓龍寺の本堂屋根に施された金色の装飾も、三葉葵と花杏葉紋でした

徳川と大友家臣の御紋


左が花杏葉紋、右が大友本家の抱き杏葉紋です

本家の抱き杏葉とは少し違うデザインが大友氏流の花杏葉紋大友主家の抱き杏葉紋(立花家史料館・殿の倉)

それにしても、やっぱり気になります! 

次回は現地ガイドさんか資料館の学芸員さんに、圓龍寺の家紋の由来について

訊いてみようそして、11月17日の只ならぬ雰囲気の法要は何だったのかも





次回は中津城へ戻り、本丸周辺に残る黒田時代の貴重な遺構などをご紹介

させて頂く予定です 宜しければ引き続き、お付き合い下さいませ  









昨日の日曜日は、豊後大友氏重臣・立花( 戸次 )道雪さんの生まれたお城、

豊後大野市の鎧ヶ岳城を訪ねた後で、用作( ゆうじゃく )公園に寄りました。

用作公園の泉(2013年11月24日)

用作公園は、江戸時代に豊後岡藩主・中川氏によって造営された用作別邸の

庭園跡で、古くは豊後大友氏家臣・志賀氏の館が在った場所とも伝わります。

用作公園(2013年11月24日)

足元はご覧の通り、丹念に織り込まれた楓の絨毯が敷き詰められていて

言葉を失うほど感動しました で、そのタイミングを見計らった様に、2年間

酷使してきたコンデジが、最後のひと踏ん張りを終えた後に寿命を迎えまして

写真は以上 今日ぐらいは肉眼で見て心に焼き付けてね、って事でしょうか

成るに任せて ” の紅葉狩りの後は、電器屋さんへ直行の日曜日でした







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2013/11/25(月) 18:54 | コメント:6 | トラックバック:0 |

中津城総曲輪( くるわ )内 東側に防備を目的に造られた寺町には、

河童寺として知られる円応寺の他にも、庭内に肥後太守・加藤清正公が

祀られ、福沢諭吉の姉の墓もある 眞浄山 大法寺や、

日蓮宗・真浄山・大法寺
大法寺の由来


閻魔さまや河婆が鎮座し、民俗信仰が今も息づく 円龍寺、 

えんまさんの円竜寺
えんまさんのお寺・解説板

などなど、豊前中津歴代藩主( 黒田、細川、小笠原、奥平 )時代に

建立された由緒あるお寺が10か寺。 更に黒田氏入封以前の古刹も

合わせると12のお寺が犇めきあう、まさにお寺で構成された町なんです







さて、今回ご紹介させて頂くのはその中のひとつ、合元( ごうがん )寺

黒田官兵衛孝高が、故郷の姫路から空誉上人を呼び建立したお寺です。

黒田官兵衛ゆかりの赤壁合元寺


何を隠そう、まーりたんは小学生時代この合元寺の前を真夏日に

自転車をブッ跳ばし、寿屋( 当時、中津いちばんの百貨店 )まで

銀河鉄道999のサントラ版LPを買いに走った忘れられない思い出が

紫陽花と合元寺

父の転勤で中津で暮らしていた頃は、こんなに美しい石畳道路ではなく、

雑草がわきを縁取り、所々 “ す ” が入った、やっとこさ舗装された道

だったような気がします。 通称、赤壁寺とも呼ばれる 合元寺


合元寺まで50m


ご存知の方も多いかと思いますが、今日はこの合元寺の赤壁に纏わる

お話をご紹介したいと思います 群雄割拠の戦国時代ならではの

血なま臭く悲しい伝説ではありますが、豊前育ちのまーりたんには心して学び

記しておくべき歴史です。 苦手な方は、今回はここから先はご遠慮下さい

二豊史に興味がおありの方は、拙い文章で恐縮ですが、どうぞ御観下さい。  
 







時は天正15( 1587 )年。 

九州を平定した豊臣秀吉さんは、九州の国々を諸大名に分け与えます。

黒田官兵衛孝高はこの時41歳。 軍師としての才能を認めてくれた

織田信長への義により仕えた秀吉さんから豊前6郡( 京都、築城、中津、

上毛、下毛、宇佐 )12万3千石を拝領し、豊前国の大名となります 





官兵衛くんは豊前入封前に、中央で急速樹立した豊臣政権を訝しく

思っているであろう北九州の地侍や豪族たちの元へ部下を派遣

秀吉という人物が頼るべき器である事に加え、傘下に入れば本領は

奪わない、などと説かせます。 が、こともあろうに秀吉さんは、

鎌倉時代から豊前を治めてきた国人領主( 地頭 )の宇都宮氏に対し、

豊前から出て伊予の国( 四国 )へ移る様、命じたのでした 






宇都宮氏にとっては約400年ものあいだ、先祖代々守り継いできた

豊前の土地を、正当な理由なしに追われるわけですから、秀吉さんの

傘下には入っても、除国に応じるわけにはいかず、ついに挙兵 

豊臣政権に反旗を翻した宇都宮氏は、黒田氏と交戦状態に 






天正16( 1588 )年2月、官兵衛くんが秀吉さんの命により

肥後一揆後の処理のため熊本へ赴いていた時、ついに事件は起きます。

地頭・宇都宮氏の反乱は、人質を預かる事でひとまず鎮静していました。 

しかし、官兵衛の嫡男で後の福岡城主となる当時19歳の黒田長政は、

父・官兵衛が留守中であるにもかかわらず人質の様子を見に訪れた

宇都宮鎮房を警戒し、中津城内で謀殺してしまったのです

合元寺の赤壁とがくあじさいの花

中津城下の合元寺に待機していた宇都宮氏の家臣らは異変に気づき、

黒田軍と合元寺において激闘を繰り広げる事に・・・ 

その戦の時、合元寺の白壁は黒田軍に討たれた宇都宮氏家臣たちの

血で真っ赤に染まり、以後、何度塗りなおしても滲み出て来るため、

とうとう赤壁にしたんだとか







中津のパンフレット等では、宇都宮氏は黒田官兵衛孝高の奸計によって

討たれた、と紹介されてます。 勿論、当時の中津城主であり、参謀家と

しても高名だった官兵衛くんが関わって無かったとは言い切れませんし、

拝領した土地での騒動を長引かせれば、その先に待つのは改易か極刑





官兵衛くんの息子・長政は更に、宇都宮氏の居城・城井ノ上城へも攻め入り、

宇都宮家13人を中津城下の河原で磔に処してしまいます。 黒田長政は

ややワンマンな性格で、武断派としても通っており、父・官兵衛くんの

制止を振り切っての執行だったとも云われています。 果たして父が書いた

シナリオなのか、長政くんの若気の至りか、真相は当事者のみぞ知る。









司馬遼太郎さんの播磨灘物語には、宇都宮鎮房氏謀殺について、 

『 戦場での仕事をなりわいとしているくせに、人を殺す事を好まなかった

官兵衛にとって、生涯の汚点と言っていい 』 と書き記されています 

合元寺事件についても述べていらっしゃらず、気になるところです・・・。

浄土宗 西山 赤壁 合元寺


事件から程なく官兵衛くんは43歳で突如隠居を申し出て、家督を21歳の

息子・長政に譲ります。 小田原攻めなど、隠居後も秀吉さんの部下として

官兵衛くんは忠実に仕えますが、これには宇都宮氏との一件が影を

落としている気がしてなりません・・・。





中津城内、また関ヶ原後に移った福岡城内にも宇都宮鎮房氏を祀る神社を

建てている事から、拝領地で長引く地元豪族との争いに終止符を打つため

とはいえ、結果的に中央からの奸悪な侵略者同然の行いをしてしまった

合元寺事件を、官兵衛くんはどんなに悔いていたかが窺い知れます






官兵衛は、田舎振りながらも貴公子の佇まい。 

欲が薄く、戦国武将の素質に欠けている
” と

小説の中で司馬遼太郎先生からお墨付きも頂いている官兵衛くん。

宇都宮氏を討伐した心の痛みは、相当な物だったに違いありません。

これまでは戦国天下獲らせ物語のシナリオライターで稼いできた

官兵衛くん。 一国の大名となった後は、領国経営の難しさの中で

もがき苦しみますが、それが彼を更に磨き、老成へと導きます。









そう、官兵衛くんはこれで終わらないんですね

戦国大名が持つべき強欲さ、鈍さに欠けていた点が、秀吉さんの死後、

九州関ヶ原の際には逆に幸いし、敵をも惚れ込ませる寛容華麗な戦術で、

みるみる味方を増やし、九州をまとめ上げる一歩手前まで行くんです






あらら、すっかり長話になってしまいました

このお話の続きは、またいつか

中津城が描かれたマンホールの蓋

コレは官兵衛君の豊前中津における汚点ではなく、汚水の蓋ですが

汚点を認識する事も、後の生き方を決めるための大切な学びです。 

官兵衛くんのターニングポイントは中津に刻まれてます 


合元寺を後に・中津城下町

●参考資料 : ・中津城の歴史 ( 中津城本丸 現地解説板 )

       ・司馬遼太郎 播磨灘物語 ( 講談社文庫 )

     ・30年以上前に中津の祖母から聞いた黒田如水の話











本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。

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2012/06/18(月) 18:44 | コメント:7 | トラックバック:0 |

太古の遺跡 『 佐田京石 』 に続いて訪れたのは、福岡との県境に

位置する豊前( ぶぜん )の国 大分県中津市。 




まーりたんは只今、黒田官兵衛孝高が天正16( 1588 )年に築いた

中津城 東側に広がる城下町を散策中です 

中津城下町・寺町

弥生時代から戦国時代へ一気に時空を超え

官兵衛くん、また来ちゃったワ

病の一種ですので、どうか許してやって下さい ) 











あらっ、工房の軒先で背中に哀愁を漂わせ頬杖つくアナタは・・・

散策中に見つけたかっぱ工房の軒先に


「 いらっしゃい。 

今日は僕の仲間のお話をするよ
 」

河童くん、頭のお皿は乾きませんか?

日本各地に様々な伝説を残す愛され妖怪の代表格 河童

ただ、人や家畜を沼に沈めて悪さをすることでも有名ですよね

遠野物語では確か、口減らしの為に手放した子供の霊だったかな

ひょうきんで愛嬌ある風貌とは裏腹に、その由来は哀しくて切ない

ものだったり、ちょっぴり背筋がゾッとする話が多いのも確か。




でもいつの日か、遠野の名物ボランティアガイドさんの手ほどきで

竿の先に胡瓜を吊るし、河童釣りを楽しんでみたい野望があります










さて、瓦にの印が刻まれた水文瓦が目を引く、ここ寺町鏡智山

円応寺
にも河童伝説が残ってるんですが、な~んと豊前國中津の

河童くん達は仏の道に入り、そのうえ消防士として大活躍したんだとか

円応寺山門と水文瓦


円応寺は天正15( 1587 )年、豊臣秀吉の九州平定に貢献した恩賞で

豊前6郡を拝領&領主として入国した<黒田官兵衛孝高( 黒田如水 )の援助

により建立されたお寺です 官兵衛くんの嫡男、黒田長政が関ヶ原の戦で

手柄を立てた事で黒田氏が福岡城へ栄転した後も、続いて豊前へ入国し

中津城主となった細川氏、小笠原氏により代々大切にされて来たそうです

河童の墓と水文瓦・解説板380
( 中津市 中津の郷土史を語る会による現地解説板 )





真誉見道上人( しんよけんどうしょうにん )が開山、 秀吉の名参謀役として

名を馳せた黒田官兵衛孝高( 出家後は黒田如水 )が開基の円応寺。






その円応寺に伝わる河童伝説を、貴重な文献 『 昭和53年発行 

大分県小学校教育研究会国語部会編 大分の伝説 

円応寺のカッパ池
 』 より、ご紹介させて頂きます 


引用を快く許可して下さった 『 九州大図鑑 』 のオーナー

おにぎり太郎さん、心より感謝申し上げます Spcial Thanks






では今回も お時間の許す限り、どうぞごゆっくりとお楽しみ下さい

円応寺・境内

今からおよそ300年ぐらい前の話。

当時九州一帯は日照りが続き、水不足に悩まされていました。

ある日、水辺で数十匹の河童が相撲を取って遊んでいました。

それを見かけた円応寺の静誉寂玄上人がこう呟きます。


「 百姓が苦しんでいる事も知らず

遊び暮らしている哀れな河童どもよ
 」


これを聞いた河童が、


「 わしらは千年もの年月を生きてきた河童だ。

そのわしらに、この世の苦しみを知らない哀れな

河童どもとはなんだ。 偉そうな事を言うな!
 」


と、くってかかります。 静誉寂玄上人は、


「 この世は楽しい事ばかりではないのじゃ。

食べる物もなく苦しんでいる人や、家の者が

死んで悲しんでいる人も多いのじゃ
 」 


と、この世の苦楽を河童たちに優しく語り、諭しました。

河童の墓・池
( 円応寺の墓地には河童のお墓と池があります )





それから3日目の夜、静誉寂玄上人が寺でおつとめをしているところへ

あの時の河童一族がやってきました。 どうして来たのか寂玄上人が

理由を尋ねると、3匹の頭領らしい河童が前に出てきてこう言いました。


「 この前、上人の話を聴いたが、上人の言われる

とおりだと思う。 わしらが間違っていた。 

河童は死んで甲羅を残すというように、後世の

人達から敬われるには、どうしたらいいのか
 」 


これを聞いた静誉寂玄上人は、河童たちを本堂に招き入れ、

30日余り修行させた後で、河童たちに戒名を授けました。

河童頭領3匹の戒名
( 河童のお墓には本当に頭領3匹の戒名が )





「 何のお礼もできないが、これからは毎日

一族の中から三匹の仲間を出して、

寺を火の災いからお護りしたい
 」 


と、河童たちは静誉寂玄上人に申し出ます。


「 ついては頭の皿が乾かぬよう、境内の辰巳

( 南東 )の方角に小池を掘って頂けないか?
 」


願いを聴いた寂玄上人は、河童たちのために池を掘ってあげました。

河童の池もありました
( 墓地奥には上人が河童たちの為に掘ったという小池の跡も )





それからは約束通り、河童たちは寺町一帯に火事が起きれば

神通力で水文瓦から放水したりと、常駐消防カッパ士ぶりを発揮

寺を火の災いから守ったそうです。   めでたしめでたし


円応寺・河童の墓

円応寺の墓地には、儒学者 山川東林や、最後の中津藩主一族

奥平家の重臣など、そうそうたるメンバーのお墓が並んでいるんですが、

それらと同等の場所に、河童一族代表3匹のお墓も建てられています。


世のため人のために頑張った者ならば、人間であれ妖怪であれ

差別せず平等に供養しますという証
の様な気がしますステキ


寺町・円応寺

円応寺では現在も、法要の際には河童の頭目の回向を行って

いるんですって。 きっと河童くんたちは心ある扱いに深く感謝して、

今も変わらず、寺町一帯を護り続けてくれてるに違いありません

沢山の古いお寺が火災を免れ現存しているのが何よりの証拠でしょう











「 こんにちは、僕は河童の朝太郎だよ 」

道の駅あさじの河童・朝太郎くん

あらあら、あなたは豊後大野市の 道の駅あさじ で

和菓子職人として頑張ってる朝太郎くんね、お久しぶり

大分県で暮らす河童くん達は、なかなか気骨者揃いの様です










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2012/06/13(水) 14:12 | コメント:5 | トラックバック:0 |

中津市歴史民俗資料館1階、第一展示室入り口横に飾られている

小幡篤次郎氏のお写真、ちょっぴり福澤諭吉に似ているような  

福澤諭吉と共に学問のススメを執筆・小幡篤次郎氏の肖像画

小幡篤次郎は中津藩学校での教頭時代、福澤諭吉の勧めで慶應義塾に

入門。 『 学問のすゝめ 』 を共著するなど、塾長として諭吉の補佐を

務めます。 お年は諭吉より7つ下。 病のため64歳で亡くなりますが、

晩年に蔵書の半分と旧宅地を、故郷である大分県中津市へ寄付 

ここ、中津市歴史民俗資料館は、小幡篤次郎生誕の地に在ります 








大変長らくお待たせ致しました

それでは歴史民俗資料館1階、第一展示室へ ご一緒にどうぞ

第一展示室へ


第一展示室には、発掘調査により市内から出土した、古代から中世に

かけての考古資料・・・平成5( 1993 )年、中津市相原地区より発掘の

古墳時代から中世まで中津地方を治めていた代々の権力者の墓群

『 相原山首遺跡 』 や、平成22( 2010 )年 国の史跡に指定された

中津市永添地区より発掘の正倉( 税金としてのお米等を収納する倉庫

群 ) 『 長者屋敷官衙遺跡( ちょうじゃやしきかんがいせき ) 』 、

中津市福島地区より発見された縄文時代( 3500年前 )の貝塚

『 ボウガキ遺跡 』 関連の遺物、そして信仰物等、宗教関係資料を展示。


中津市歴史民俗資料館(1階展示室)発掘調査で出土した考古資料・仏像・仏具・神輿などを展示

お神輿上の梁に 「 祈り 」 と書かれた紙が 

この下には 『 絵踏み( えぶみ ) 』 が展示されています。



絵踏みとは 江戸時代、幕府がキリスト教禁止の手段としてキリスト像や

聖母マリア像を描いた聖画像を人々に踏ませ、キリシタンでないことを

証明させた行事の名で、それに使われる聖画像がいわゆる踏絵です。



紙に描いた聖画は傷むため、次第に木製や銅製の踏絵が使われる様に

なったとか。 実際に使用されたものかは解りませんが、木枠の踏絵が

ガラスケースの中に、お触書きの写真と並べて展示されていました

中津市歴史民俗資料館(一階展示室)踏絵

奥平藩政期の中津城下町の記録帳 『 惣町大帳 』 によると、

聖画像も行事自体も、中津藩では 「 踏絵 」 と呼んでいた様です









さて、中津で暮らしていたチビッコ時代は、畑が蓮華で埋まる頃に開催

される 『 おせったい 』 という行事が楽しみでたまりませんでした。 

路傍の祠や集会所に祀られている御大師様に手を合わせ、お参りするのと

引き替えに、白い紙に包んで置かれているお菓子を頂戴するイベントです。

こちらのガラスケースには、あらま、その御大師( 弘法大師 )様が

いらっしゃいました( 手前から二尊目 ) お久しぶりです

中津市歴史民俗資料館(1階展示室)御大師様ほか仏像関係

福々しいお顔に暫しの間ほっこりさせて頂いて、さて次なる見学は

このガラスケースの並びです( 向かって左奥のほう )










じゃじゃーん


発掘!黒田時代の中津城 コーナー 

中津市歴史民俗資料館(1階展示室)中津城コーナー♪

中津城は1587年、黒田官兵衛孝高( 出家後は黒田如水 )

が、豊臣秀吉から豊前6郡( 京都・築城・仲津・上毛・下毛・宇佐 )の

12万石を与えられ入国後、拠点を山国川河口部に移し、築城に

取り掛かった城です 解説板には、九州最古の近世城郭であり、

現在も当時の石垣が残る九州唯一の城でもある、と記述 







現在は、本丸と三の丸の間の石垣を修復し、濠に水を流して江戸時代の

中津城に近づけるための工事中石垣は加工しない自然石だけを

使用した 穴太( あのお )積みと呼ばれる石積みの最高

技術を用い、当時の技法で慎重に積まれ、復元が進められている、とか 

中津市歴史民俗資料館(1階展示室)濠石垣の中から城内を向いた石垣が出土


また復元工事に平行して発掘調査も行われ、その際出土した築城当初の

黒田時代の石垣や建物跡の写真から豊臣政権との繋がりを示す遺物まで

この中津城コーナーに所狭しと展示されているんです 

それでは順番にご案内を

中津市歴史民俗資料館(1階展示室)黒田時代の石垣

水門と出角( 壁など二つの面が或る角度で出合った所の外側部分 )

の石垣解体中に検出された、城内側を向く石垣の基底部分や排水溝

( 中津城 三の丁駐車場 大鳥居付近で見学できます )



出角から水門へ伸びた石垣は、水門の約30m手前で途切れており、

黒田時代まで遡る石垣であると考えられています 黒田官兵衛が

築城した天正期の石垣は今よりもかなり狭く、低いものだった様子

中津市歴史民俗資料館(1階展示室)本丸南の天正期の石垣


水門と出角の間の石垣は何故、途中で終わって

いるのか
を解明するために、石垣土塁を一部断ち割ったところ

なんと最低でも 桁行約5.9mx梁行3.75m規模の

礎石を検出
つまり、黒田時代は石垣の上に

建物が在った事が判明
したそうなんです 

中津市歴史民俗資料館(1階展示室)旧石垣の上の礎石建物跡

礎石は1m間隔で格子状に配置され、検出状況から1度建て直しが

行われた模様 礎石建物跡は、柱の間隔が狭いこと、礎石が

格子状に配置されていたこと、厚い軒瓦や茶碗などが出土したこと

などから、この場所には門ではなく、瓦葺の櫓や

倉庫の類
が建っていたのではないか、と。




なお中津城築城当初、この場所( 本丸南側 東西方向 )の石垣は、

現在の標高7mの高さまでは無く、標高4mの石垣上に礎石建物が

建っており、石垣と構造的に一体となっていたものと考えられてます 








発掘された礎石周辺からは、瓦をはじめ輸入陶磁器等

黒田時代の貴重な遺物も出土

中津市歴史民俗資料館(1階展示室)石垣より出土!黒田時代の遺物

出土した黒田時代の遺物は、唐津皿( 最奥段・左 )、瓦器碗

( 最奥段・右 5破片 )、瀬戸美濃産天目茶碗( 手前より

三段目・左端 黒 )、瀬戸美濃産皿( 手前より三段目・中央 )、

中国製五彩碗( 手前から二段目 底部分に黄色いドット柄  )、

中国福建産皿( 中国製五彩碗の右隣 )、中国景徳鎮

窯系翡翠釉皿
( 手前・右から二列目 空色 )、金箔を貼

った土器
( 手前・左から二列目 )、中国景徳鎮窯系碗

( 白地にブルー柄の有田焼っぽいの )、中国シ章州窯系碗

( 中国景徳鎮窯系碗の上段 )、そして左端の手前ふたつは、

まさかの









銀と真鍮製の煙管(キセル)吸口

中津市歴史民俗資料館(1階展示室)黒田くんのキセル!

これは官兵衛くんの愛用品だった 

・・・に違いないわ ・・・と信じたい ・・・夢は大きく










同様に黒田時代の中津城石垣、礎石周辺から発掘された瓦です

中津市歴史民俗資料館(1階展示室)中津城の桐紋瓦

秀吉の家紋がデザインされた 『 桐紋瓦 』 に、

織田信長が安土城に使用した 『 金箔瓦 』 など、

豊臣政権との密接な繋がりをリアルに感じ取れる遺物です。 

中津市歴史民俗資料館(1階展示室)中津城の金箔瓦

やっぱり官兵衛くんは信長さんに認められて秀吉さんに仕え、

名軍師として大活躍したのね~と実感  お疲れ様でした







ほかには、カラスがモデルの 『 鳥紋鬼瓦 』 も出土。

中津市歴史民俗資料館(1階展示室)中津城の鳥紋鬼瓦

そういえば今年の1月に福岡城へお邪魔した時は カラスが二羽、

二の丸から天守台跡まで先導してくれたっけ そうだわ 

あれはきっと、官兵衛くんと長政くん親子だったに違いない 

幸せ妄想に浸るオメデタイまーりたんなのでしたイッショウヤッテマス








『 鳥紋鬼瓦 』 の解説にある 『 引き両紋瓦 』 はコチラ

中津市歴史民俗資料館(1階展示室)中津城・丸に引き両紋瓦

黒田氏転封後に中津城主となった細川氏は、蓮根みたいな 『 九曜紋 』 

の他、二匹の竜を表す足利氏縁の 『 引き両紋 』 も使用していた様子。








また、天下普請( お上の命による建物の築造 )で、名護屋城築城の

際、官兵衛くんは割普請で縄張り( 建築予定の敷地に実際に縄を張り、

建物の位置を定めること )を任された事もあり名護屋城小倉城

共通する模様の瓦 『 同はん瓦 』 も見つかっています

中津市歴史民俗資料館(1階展示室)同はん瓦解説
中津市歴史民俗資料館(1階展示室)名古屋城と同はん瓦

中津市歴史民俗資料館 第一展示室の 中津城コーナー

いかがでしたでしょうか 黒田官兵衛ファンの方には感無量だと

思います 戦国史がお好きな皆様、中津城へお越しになった際は、

三の丁駐車場から歩いて数分の中津市歴史民俗資料館へも是非、

足を延ばされてみて下さい 入館は無料。 オススメです















「 あっ、マンジ君が勝手に食品庫を開けている 」

マンジ君が勝手に食品庫を開けている!



「 まーりたんさんが大切にしている官兵衛くん

焼酎
にイタズラしちゃダメだよ、マンジ君
 」

まーりたんさんが大事にしてる官兵衛くん焼酎にイタズラしちゃダメだよ



「 今日はハタキを持ち出して、すすんでお掃除の

手伝いをするのかと思えば、全くマンジ君は・・・
 」

今日はお利口にお掃除のお手伝いをしているなと思ったのに、マンジ君は!






「 はリビングでブログを書いているのだニャ

かかれ~ニャのだ
 」

敵はリビングでブログを書いているニャ!かかれ~ニャのだ!

「 えっ、リビングに敵が居るのかいマンジ君。

居るのはまーりたんさんだけだと思うけど・・・
 」















「 今のうちに逃げるのだニャ 

しかし転がして運ぶのも大変だニャ~ 」

今ニャ、逃げるのだニャ。しかし転がして運ぶのも大変だニャ~

「 あっ、マンジ君また叱られても知らないよ

ハタキは名軍師の采配( 指揮棒 )のつもりだったのかなぁ・・・ 」











何だか、キッチンの方で瓶の転がる音がする様だけど・・・

風かな  しかし今日はよく吹いたな~

よし、できたアップしよう  記事を保存っと












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2012/04/03(火) 20:08 | コメント:5 | トラックバック:0 |


ここは 『 学問のすゝめ 』 を福澤諭吉と共著した慶應義塾長

小幡篤次郎( おばたとくじろう )と、篤次郎の従弟で

西洋歯科医学に基づく日本で初めての歯科医師 小幡英之助 

生誕の地 大分県中津市1385番地( 殿町 )に在ります

小幡篤次郎・小幡英之助生誕の地


今回ご紹介させて頂くのは、この地に建つ中津市歴史民俗資料館

中津市歴史民俗資料館(建物)

明治42( 1909 )年、小幡篤次郎の遺言により生誕の地に建てられた

旧小幡記念図書館で、昭和13( 1938 )年に改築が行われ、

今の様相を成しますが、図書館として機能し続けるには施設が手狭に

なってきたため、小幡記念図書館は近接地に新築移転 

平成4( 1992 )年6月よりココは中津市歴史民俗資料館

として再出発しました。 しっかし、何てハイカラな建物なんでしょう









西側の外壁です 入館前に、ちょっと拝見 

中津市歴史民俗資料館(窓枠にはヨーロッパ風の彫刻)

丸い窓。 アーチ型の窓枠に施されたレリーフには古代ヨーロッパ調の

唐草模様。 旧ゼンリン本社や別府市中央公民館(旧別府公会堂)

イオニア式の 京都大学地球熱学研究施設 を彷彿とさせます 

大正から昭和初期の建物は、オリジナリティと存在感抜群で凄くお洒落




冷たい風に手がかじかんで、コスモドラグーンじゃなかった愛用の

コンデジを何度か取り落としそうになったものの、どうにかブレずに撮影







中津市歴史民俗資料館は、昭和57( 1982 )年、

日本建築学会より、昭和初期の貴重な建築物としてのお墨付きを頂き、

平成9( 1997 )年、国の登録文化財

中津歴史民俗資料館・梅の花が見ごろ

県北なかつでは今週初め、梅がちょうど見頃を迎えていました

こちらは建物の東側なんですが、この一角には、発掘された御水道

( 中津水道 )
の施設を原寸大で復元した物が展示されてます

復元された御水道(中津水道)

慶長5( 1600 )年、黒田官兵衛くんの嫡男黒田長政の転封

中津に入封した細川忠興( ガラシャさんのダンナ様 )は、

中津城や城下町の整備を、黒田家の後を引き継ぎ続行 





元和6( 1620 )年には、中津城内へ給水するための上水道工事を

行いました これは中津の城下が海岸に近いため水質が悪く

飲料水に適さなかったためで、全国的には 江戸時代に神田上水

( 東京都 )・赤穂水道( 兵庫県 )・宇土水道( 熊本県 )

などが造られました
が、いずれも同じような立地条件ゆえです


御水道(中津水道)復元

中央の桶は上水道の分岐点辻井戸と呼ばれ、流れ込んだ土砂の

掃除や、火事の時は防火用水としても使用。 上水道の主要幹線が通る

町の辻ごとにあり、石樋で繋がれていました。 昭和60( 1985 )年

2月に 京町3丁目より発掘された辻井戸断面の実測図

御水道(中津水道)復元図380

寛永9( 1632 )年、今度は細川家の転封により、次いで中津へ入封した

小笠原長次も 城や城下の整備に努め、御水道についても承応元年

( 1652 )年より町中に給水できるよう工事を行いますこうして歴代の

お殿様たちが受け継ぎ、遂に完成させた御水道システムは、昭和4

( 1929 )年、中津に新たに上水道ができる迄使用されていたそうです







豊前中津城の歴代城主さんと工事を請け負った方たちとが、知恵と技術を

結集させ、昭和初期まで使用できるほどの耐久性、クオリティに造り上げた

御水道システムに感極まり、もはや半ベソでタッチしながら

解説板も熟読していたら、 あっちゅう間に時は過ぎ・・・











大変長らくお待たせしました 

中津市歴史民俗資料館へ、やっとこさ入館致します


玄関口にはバルコニーが設けられていて、これまたハイカラです

中津市歴史民俗資料館・玄関口にバルコニーを設けた木造モルタル建築

開館時間は午前9時~午後5時( 入館は午後4時半まで )。

休館日は第4水曜日と年末年始 0979-23-8615

入館は無料。 自由に入って見学できるみたいですオジャマシマス

中津市歴史民俗資料館・ポーチ

『 御用の方はお気軽にお呼び下さい 』 と事務所の方の張り紙が







建物の中は、おばあちゃんの家みたいな すえた匂い

思いっきりノスタルジックな匂いが充満してます 

中津で暮らしている頃、お風呂を沸かすのに焚いてた巨大なエンピツ

・・・だと思い込んでいたオガライトの匂いに次いで、好きな匂いです

個人的に・・・ですけどシンコキュウ












土間でスリッパに履き替え、ふと見上げると あら、おっくん

徳川家の御連枝、奥平家の居城として目下PR中の

新生・中津城を背負って立つ、頑張り屋さんのゆるキャラです

素敵な開かずのドアにおっくんのポスター発見

“ おっくん ” の本名は、奥平忠昌。  宇都宮城 第26代城主

( 奥平氏としては初代 )奥平家昌の長男で、徳川家康の曾孫にあたり、

大叔父である秀忠から一字を貰い受け、忠昌と名乗ります。






豊前中津におけるおっくん( 奥平忠昌 )のポジションは、奥平氏時代

初代中津城城主・奥平昌成の曾祖父。 おっくんが持つ槍は、中津城

天守閣に収蔵展示の天下御免白鳥の槍と言い、元和2( 1616 )年

おっくん( 忠昌 )が駿府へ出向き、病床のひいおじいちゃん( 家康 )

見舞った際に授けられたのだとか 奥平家は長篠の戦いで名をあげ

小笠原氏の後、1717年に中津城主となり、明治維新まで藩主を務めます。






が、実際には廃藩置県後も奥平家は中津城の修復や管理を続け、平成の

世まで、それもつい1年程前まで中津城を守り抜いてこられたんです 

聴くところによると、このほど買い手がついたらしいんですね。



築城主である黒田官兵衛( 黒田如水 )の面影に会いたい時だけ

ふらっと中津城を訪ねる まーりたんには、きっと計り知れないご苦労が

あった事でしょう 本当にお疲れ様でした 豊前ゆかりの者として

新生中津城の今後益々のご発展、心よりお祈りしています


●中津城公式サイトはコチラです http://www.nakatsujyo.jp/










続いて、中津歴史民俗資料館1階、入り口右手の第1展示室をご案内

したいところなのですが長くなりましたので次回にさせて頂きます 

第一展示室へ

第1展示室には、黒田、細川時代の中津城をリアルに感じられる遺物が

たくさん展示されているんです 何と官兵衛君の身の回りの品まで





次回は更にマニアックな記事になりそうですが、もし宜しければ

「 まったく、まーりたんは しょーがないなぁ 」 

・・・なんてヤジでもとばしつつ、ご観覧頂ければ幸いです 










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2012/03/30(金) 19:34 | コメント:6 | トラックバック:0 |


それじゃあ官兵衛くん 少し寒いけど、これから

中津城周辺の史跡巡りに行ってきます


中津城三の丁駐車場

2時間ほどで戻ります 待っててね














「 この中津城古図によれば、庶民まーりたんは

ココ三ノ丁駐車場で、官兵衛殿の迷惑も考えず、

一方的にウインクや投げチッスを浴びせかけ

23番の道路から城郭南へ向かったのだニャ
 」

中津城三ノ丁駐車場はココニャのだ!

「 明治4年に石垣の一部を壊し通された23番

の道路沿いには、中津カトリック教会や、家老

生田家屋敷跡( 南部小学校 )があるのだニャ
 」














「 ところでマンジ君、水をさす様で悪いんだけど

これは本物の奥平家所蔵の中津城古図ではなく、

次回の記事でご紹介予定の・・・


これは中津市民俗資料館で貰える中津城攻略マップだよね

中津市歴史民俗資料館入り口で誰でも貰える

中津城攻略マップ( 無料 )だよね
 」

中津城攻略マップだよね、マンジ君

可愛い忍者くんが見所を解り易くご紹介してくれる中津城攻略マップ

中津へお出かけの際は是非、ゲットされて下さいbyまーりたん














マンジ君がご紹介した中津城攻略マップ23番の道路です

明治4年に石垣の一部を壊し通された道と昭和7年建の大鳥居

中津城郭南へ延びるこの道路は、明治初期に本丸南側の石垣を一部

壊して通されたもので、道路両脇の石垣と濠は続いていたそうです





黒田官兵衛孝高( 黒田如水 )による築城当初( 1588年頃 )の

石垣の高さは、根石から約5.85m、天頂の幅は約2.4m

中津城の石垣は、築城当初は今よりも低く、幅も狭いものだった様子。

城内(青い車がある駐車場)側に石垣が継ぎ足された様子が分かる

また、濠側だけでなく城内側にも石垣があった事が分かっていて、

壊した部分の断面には、城内側の旧い石垣が顔をのぞかせています

石垣には排水溝が造られており、城内の雨水は石垣の溝を通って濠へ

流れる仕組み。 排水溝の床面には瓦が丁寧に敷かれていました





黒田氏( 官兵衛、長政 )福岡へ栄転後の17世紀初めに入国、

中津城主となった細川氏( 忠興、忠利 )により、石垣は現在と同じ

約7mの高さにまで積み上げられ、徐々に拡幅されて行った様です。

石垣の増築が城内方向だったため、濠に面した部分の石垣は、

昔のままの状態で見る事ができます
( 参考 : 現地解説板 ) 














「 続いては中津カトリック教会を攻略ニャのだ 」

まーりたんは続いて中津カトリック教会へ向かったのだニャ

「 今日のマンジ君は、名(迷)軍師気取りです 」













「 中津のキリスト教の歴史は、秀吉の九州平定に

貢献した黒田官兵衛
が豊前六郡12万石を拝領し、

中津へ入国した1587年から始まるのだニャ。 ニャお、

この年は奇しくも豊後守護大友宗麟公の没年であり

ペトロ岐部神父が生まれた年でもあるのだニャ
 」

中津カトリック教会

「 中津カトリック教会百周年記念誌(1987年刊)

によると官兵衛君は山口から神父を招き、復活祭

を催したそうニャ 官兵衛君も、ドン・シメオンと

いう名のキリシタンだった時代があるのだニャ
 」 













「 細川時代、1602年には豊前のキリスト教徒は三千人

余りに上っていたそうニャのだ。 関ヶ原前夜、大阪城の

大名屋敷で石田軍の人質にニャることを拒み、37歳の

若さでニャくニャった細川忠興の妻・ガラシャも、敬虔ニャ

キリシタンだったのだニャ。 後にガラシャ夫人の息子

細川忠利は新聖堂も建てるが、1612年に徳川幕府より

禁教令が出され、中津教会は閉鎖されたのだニャ
 」

中津の殉教者(中津カトリック教会)

( 中津カトリック教会の聖堂には、中津の殉教者( 画像上 )と

細川ガラシャの信仰( 画像下 )というタイトルのステンドグラスが

飾られています。 画像は中津市のホームページよりお借りしました )

細川ガラシャの信仰(中津カトリック教会)


「 映画・魔界転生では島原の乱後、魑魅魍魎とニャり

甦った天草四郎チームの紅一点として、ガラシャ夫人

まーりたんに勝るオニババぶりを発揮していたニャ~ 

ガラシャは超おっかニャいのだ
 」

中津カトリック教会案内板

「 魔界転生はあくまで創作だから、マンジ君

細川ガラシャさん今頃はきっと、デウスさんの元で

幸せに暮らしているよ で、中津カトリック教会は

教会行事のない時なら自由に見学できるんだね
 」















「 中津カトリック教会の向かいにある中津市立 

南部小学校ですニャ。 ここは奥平中津藩家老、

生田( しょうだ )家のお屋敷跡ニャのだ
 」

中津市立南部小学校(北門)

「 因みに奥平家は、黒田氏、細川氏、小笠原氏の

あと1717年に入国。 中津城主として廃藩置県

まで務めた、最後の中津城主一族ですニャ
 」















「 屋敷の北側から、大通りに面した西側に移築

された生田家の門( 生田門 )=南部小学校の

校門ニャ。 重厚で威厳があるのだニャ~
 」

中津市立南部小学校は家老の生田家跡地(生田門)


「 平成13年に復元された白壁も見事だね 

生田家の敷地は1800石もあることから

大手屋敷とも呼ばれていたらしいね、マンジ君
 」

生田門の塀(平成13年に復元)

「 そしてマンジ君、この南部小学校の前身は

福沢諭吉先生の建議で創立された西日本有数の

英学校、中津市学校だったんだって
 」














「 ややっ、生田門までの道のりを振り返ったら

紅林刑事のファンクラブ事務所を発見ニャ
 」

生田門の向かいには紅林刑事ファンクラブがあるのだニャ

「 横光克彦さんの後援会事務所だよね、

全くマンジ君は・・・
 」















「 次回は中津市歴史民俗資料館よりお届けの

予定ですニャ~どうぞお愉しみにニャのだ
 」

中津歴史民俗資料館スタンプ

・・・というワケで次回も宜しければ、どうかお付き合い下さいませ













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2012/03/28(水) 18:55 | コメント:9 | トラックバック:0 |
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