『 戦国疾風伝・二人の軍師 』 待望の再々放送、かじりつきで観てマス

第一話は、九州を平定した秀吉さんが天正16年の春

兼邸宅・聚楽第に御伽衆を集め、 「 次の天下人は誰だと思うか? 」 なんて
半ば本気のお戯れで問いかける、有名な逸話シーンでの幕開けでしたね

黒田官兵衛はこの時43歳。 九州征伐の論功行賞という名目で秀吉さんから
拝領した豊前国( 福岡県東部~大分県北部 )に入り、中津城築城の最中

同時に、以前は兄弟の様に力を合わせ、戦の無い国づくりを目指したはずの
秀吉さんに疎まれ始めた時期でもあり・・・

にわかに樹立した豊臣政権に反発する土豪らが肥後国で反乱を起こしており、
21歳の嫡男・黒田長政に豊前国の留守を任せて土豪の説得にも奔走する中、
黒田官兵衛が翌年隠居を願い出る理由となった事件が起きた年でもありました。
それはさておき、初代中津城主として知られる黒田官兵衛( 如水 )ですが、
豊前へ入封して最初に居城としたのは、みやこ郡( 現・福岡県行橋市 )の山城
馬ヶ岳城なんだそうです。 下の写真


宇都宮氏の城跡を訪ねた後、京都( みやこ )町の県道から撮影した馬ヶ岳。

馬ヶ岳は上の画像中央部分

右側の平らな西山から成るラクダの背

山頂の馬ヶ岳城は、942年に源経基が大宰府へ下向した折り、
神馬に乗った愛宕神が現れ、そのお告げにより築城したといいます。
仁平元年( 1151 )年には、岩扇山から角埋山の石を射ぬいた伝説を残す
源為朝がこの城を攻め、文治元( 1185 )年には、蛇神婚伝説で知られる
大神惟基の子孫・緒方三郎惟栄一族が平家に反旗を翻し、この城に籠城。
その後も菊池氏、大内氏、大友氏、毛利氏など、馬ヶ岳城は古より神がかり的な
強者らによる争奪戦が繰り広げられてきた山城らしく、云われてみれば今にも
天から神馬に乗った神様が駆け下りて来そうなカンジに見えなくもない様な...

そんな荘厳なる馬ヶ岳の城も、典型的な山城のため城下町が築き難く、何かと
現実的に不便。 位置的にも豊前国の北寄り過ぎな事から、黒田官兵衛孝高は
宇佐市の時枝城を経て、最終的に中津の地に居城を構える事を選びます

中津市役所発行の中津市勢要覧2009によれば、 『 天正16( 1588 )年
黒田如水は、中津江太郎の丸山城を補修し、中津城築城を開始 』 とあります。
着工後

伊予屋弥右衛門方に滞在して工事を督励したそうです。 が、それよりも前に
官兵衛が仮寓としていた場所がコチラ


法然寺のある築上町は、福岡県の行橋市と豊前市の中間に位置し、
先月上旬、北九州市の小倉へ向かう途中に訪ねてみました



法然寺由緒の後半に、黒田官兵衛孝高についての記述


天正15( 1587 )年7月から8月の1ヶ月間、黒田孝高は築上町の
法然寺を仮の館としていた旨が記されてます

ミネルヴァ日本評伝選・黒田如水によると、黒田官兵衛が秀吉さんから
豊前6郡を貰ったのが天正15( 1587 )年の7月3日ですから、豊前へ
入封して直ぐの一ヶ月間を この法然寺で過ごした、という事でしょうか



法然寺の東南には徳光池

中津街道が奔っています。 敷地の西には築城中学校



昨年、大分市歴史資料館のテーマ展示 『 学校の下にねむる遺跡 』 を
見学した時、“ 学校は好立地を選んで建てられる事が多く、それは昔の人も
同じ。 学校の下には有力者の屋敷や公的機関、繁栄を極めた町や村など、
様々な時代の主要な遺構・遺跡が積み重なる様にして眠っている ” と教わり
ました。 秋月城や杵築城、大宰府など、城跡や政庁があった場所に学校が
建っているケースは確かに多いけど、この辺りもやはり只ならぬ土地


時間があれば、法然寺の住職さんにお話も伺ってみたかったんですが、
小倉探訪へ向かう途中で、大急ぎで写真だけ撮らせて貰いイヌりました

豊前12万石の大名に配された直後、42歳の官兵衛孝高( 黒田如水 )の
足跡が残る法然寺。 とても閑静な場所で、景観も昔とそう著しくは
変わってないんじゃないかなぁと思います



( 築上町役場発行・見て来てふるさと築上町散策ガイドブックより )
周辺には、九州征伐の際、豊後戸次へ派遣された豊臣先発隊・長宗我部軍
同様に、先鋒隊として九州北部へ送り込まれた黒田如水と小早川隆景が
攻め落とした香原岳( かわらだけ )城の支城・宇留津城址などもあります

いつもながら熱の入った長いご紹介になりましたが

黒田官兵衛( 如水 )ゆかりの地めぐりの 参考にでもなれば幸いです

※本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。
記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます

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豊前地域や周辺には黒田官兵衛(如水)公の足跡が多く残されていますね。
これからも楽しみに拝見します!