毎年9月半ばになると、境内に約4000本もの白い彼岸花が咲き誇り、
“ 白い彼岸花まつり ” が開催される 不老山 正光( しょうこう )寺。
昨日、お邪魔して来ました



正光寺は、福岡県の築上町 伝法寺( でんぽうじ )地区にある曹洞宗の寺院で、
開基は豊前国の地頭・宇都宮氏初代信房公。 豊後国守護の大友氏と同じく、
源頼朝が文治元( 1185 )年の平家滅亡直後、全国に配置した国人領主です。
宇都宮氏は 下野国( 栃木県 )より豊前へ入国の際、一族の守り本尊である
文殊菩薩を分霊し、ここへお祀りしたと伝えられてます


17代目の宇都宮鎮房( しげふさ )の時に、黒田氏によって滅ぼされますが、
豊前領民から大変慕われていたという宇都宮氏縁のお祭りは、今も健在です

そう、この正光寺の境内には、ちょっと面白いものがあるんです



来年の大河では、塚本高史さんが演じて下さる黒田二十四騎( 黒田家重臣 )
の一人 後藤又兵衛基次さんが作ったと伝わる手洗い鉢です。
初代中津城主・黒田如水( 官兵衛 )の嫡男で、後に初代福岡城主となる長政が
19歳ぐらいの時でしょうか、手柄を挙げて大好きなお父さん・黒田官兵衛さんに
褒められようと、当時豊臣政権に歯向かっていた豊前の宇都宮氏を武断すべく、
計画もそこそこに、宇都宮氏の城井ノ上城へ攻め込んだ際、逆にこてんぱんに
やられてしまいます


抱きかかえられ泣きながら撤退。 また、長政公より8つ年上の家臣・後藤又兵衛
さん( いずれも黒田二十四騎 )からは、散々コケにされてしまうんですね~

その後、作戦をたて直し、長政公&又兵衛は連携してリーダー格の宇都宮鎮房
さんを中津城内にて謀殺、豊前一揆鎮圧に成功しますが、この二人はとにかく仲が
悪かった様

「 それしきでやられるような奴は、我が殿ではない


と高みの見物。 そして如水公の没後、ついに後藤又兵衛さんは黒田家を出奔。
豊臣家の直臣となって、大阪夏の陣で討ち死にすることになるんですが・・・。

実は、大阪夏の陣を落ち延びて、又兵衛さんは ここ豊前へ戻ってくるんです


そして又兵衛さんは宇都宮一族を滅ぼしてしまった事を後悔し、冥福を祈りながら
この手洗い鉢を彫った

それならば、黒田家の信義に裏切られた宇都宮氏も少しは浮かばれますけどね。
後藤又兵衛さんは、黒田官兵衛( 如水 )が播州姫路時代、御着城の小寺氏に
共に仕えていた後藤基国の遺児です

我が子同然に育て、教育を施し、実子の長政とはライバルの様にして育ちます。
秀吉さんの九州平定後、豊前へ入封した黒田氏は、なんだかんだ手違いから
最初は官兵衛さんの説得により 豊臣の傘下にすんなり入ってくれた国人領主
宇都宮氏に一揆を起こさせてしまうハメとなり、状況は次第にドロ沼化・・・

官兵衛さんはそのとき秀吉さんの命令で、肥後でも起きてしまった国人一揆の
処理等で多忙だった為、息子の長政が豊前・宇都宮氏との交渉に当たります。
が、若気の至りか、はたまた父・如水公とは明らかに違う武断派の性分からか、
ゴリ圧しで大失敗。 大きな損害を被り、反省の為に頭を丸めようとした時・・・
「 負ける度に丸めていたら、お前は永久に坊主頭だ

後藤又兵衛さんは長政にそう言い放ち高笑いした、という逸話も残っていて、
司馬遼太郎先生の 『 播磨灘物語 』 でも、長政と又兵衛は やや苛烈すぎる
競争相手だった、と物語られてます


同じく又兵衛もまた、養父・官兵衛の人柄を大尊敬&心酔しきっていた様子

慶長9( 1604 )年、黒田如水( 官兵衛 )が他界すると、ふたりは対立

後藤又兵衛さんは黒田家を飛び出し、長政も奉公構え( 追放 )を言い渡し、
刺客まで送ったとも言われています

後に豊臣秀頼の直臣として名をあげますが、黒田家とは敵対する運命に・・・。
来年の大河では、長政


で、昨日 宇都宮氏ゆかりの正光寺に続いて訪ねた先は、太宰府市の岩屋城。
高橋紹運さんが覚悟を決めて、5万の島津軍と戦い抜いた小さな城址です。
本丸からは青い屋根の九州国立博物館など、太宰府市が一望できました。

石碑には、嗚呼壮烈なんてインパクトたっぷりに刻まれていますが

誠実な紹運さんを想わせる爽やかな風が吹き渡り、とても心地よかったです

岩屋城本丸跡への登り口では、名将・高橋紹運さんへの敬慕の念を感じる
端正な手作りパンフレット “ 岩屋城[ 1586年 ] 玉砕覚悟の籠城戦 ” を入手


ホチキスで綴じられ、雨に濡れても大丈夫な様に一部ごとにカバーも付けられ、
「 ご自由にお取り下さい 」 と書かれていました。



本丸登り口の少し先には、高橋紹運さんのお墓( 胴塚 )もあります。

昨日は先ず紹運さんのお墓参りを済ませてから、本丸へお邪魔したんですが、
岩屋城に到着して最初に撮った写真

綺麗な虹色の玉が写り込み、何だか無性に嬉しくなったり、胸がいっぱいになり
涙がでそうになったり・・・


高橋紹運さんの胴塚は、林道から崖伝いに降りた深い森の中。
家一軒分ぐらいの敷地を石垣で囲い、その中央にある墳墓がそれの様でした。

島津軍の方々が紹運さんに敬意を表し、最高の軍法をもって葬礼した事が
一目でわかる素晴らしいお墓でした。 しっかり手を合わせてきましたよ



石垣の上には、なんと白蛇の抜け殻を発見


それとも・・・。 またまた不思議で素敵な出来事に遭遇してしまった一日でした

●参考資料・文献 : 不老山正光寺で頂いた栞~豊前宇都宮氏の歴史
吉永正春著・九州戦国の女たち「 豊前宇都宮氏滅亡と鶴姫 」
※本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。
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