朝霧の湯布院じゃありませんよ



昨日2月2日、大分市は朝から濃霧で、海沿いでは終日霧が漂っている状態

まーりたんは別府に出掛けていて、撮影場所は別府市北浜のゆめタウン屋上。
早朝みたいに見えますが、撮影した時間は午後3時20分頃です


霧が波打ちながら次第に雲海の様な質感に変化していく様は、まるで大河ドラマ
軍師官兵衛のオープニングで 白馬が駈けるシーンを観ている様でしたヨ

標高628mの高崎山でこんな現象が起きるんだから、黒田家譜に記される
黒田官兵衛さんが生まれた時に雲が降りてきて姫路城を覆い隠した

英雄誕生奇瑞( きずい )譚を匂わせる神話的な気象現象も、充分現実に
起こり得るということが昨夕、予告もなく唐突に目の前で証明されました


もしや昨日は、高崎山城で稀代の英雄




『 播州館野の城主 赤松下野守政秀、三千人を率し来り、
姫路の城を攻めんとす。 孝高是を聞て、姫路を出、
わざと敵をむかへて、姫路の西一里、青山に陣を取、大いに合戦し、
( 中略 ) 敵の大勢に打勝。 勇名是より大にあらハる。
又此比、赤松下野守政秀と職隆、孝高、播州土器山にて対陣せらる。
敵方より身方の不意をうかゞいて襲来り急にかこみせむ。
身方小勢にて危うくみえければ、井手勘右衛門友氏( 重隆の末子、
職隆の弟也 ) 母里小兵衛( 佐々木氏族古庵か父なり )同
母里武兵衛( 小兵衛か子、古庵か弟也 )、同志の士と共に数刻防ぎ
戦いて、勘右衛門・小兵衛打死す。 孝高其夜又兵を催し、明朝
赤松と戦ひ給う。 武兵衛ハ昨日の戦にて七ヶ所を蒙りしかども、
今日又出て戦ひ、敵数人にあふて打死す。 昨今の戦に母里氏親戚
二十四人戦い死せり ( 黒田家譜より青山の戦いの章・部分抜粋 ) 』
昔の文章なので正確に読解するのは少々難しいですけど

軍師官兵衛・第5話を御覧になられた方なら、何とな~く光景がイメージできるの
ではないでしょうか

東播磨 三木の別所氏と結び姫路城を挟み撃ちにする攻略戦に乗り出した龍野の
赤松氏に対し、官兵衛さんは自ら指揮を執り勝利、武名をあげた青山の戦い。
しかし青山の戦いに続く戦で、官兵衛さんは大切な母里( もり )氏親戚筋24名を
失ってしまいます

筆頭家老・栗山備後利安 )さんは官兵衛さんの下、存分に手腕を発揮しました

黒田家譜の著者は、慶長5年の石垣原合戦で黒田如水軍として戦った祖父を
持つ福岡藩士・貝原益軒さん。 益軒さんは他にも元禄元( 1688 )年より編纂
を始め、宝永6( 1709 )年、満80歳で完成に至った 『 筑前國続風土記 』 を
手がけられています。 今回ご紹介させて頂くのは、この筑前國続風土記の
巻之十一目録 上座郡( かみつあさくら )より、志波杷木( しわはき )の項。
( 原本の写しをコチラのサイトで読むことが出来ます



この筑前國続風土記 巻之十一目録 志波杷木の項には、栗山備後利安
( 栗山善助 )さんが主君・黒田如水( 官兵衛孝高 )公の没年に、その菩提を
弔うため朝倉の麻底良山麓、杷木志波の地に建立した円清寺の本堂

御本尊として安置した 鴛鴦( おしどり )観音に纏わる話が収録されています。

時は遡る事、豊後守護・大友氏21代 義鎮( よししげ=後の大友宗麟 )公が、
室町幕府13代将軍 足利義輝( 大河では吹越満さん扮する足利義昭の兄 )より
九州の武家を統括する九州探題職に任命され、豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・
肥後それに日向北部を治め

14歳年下の黒田官兵衛さんは当時、まだ万吉くん時代

花開いた南蛮文化の話を瞳を輝かせ、トイレに行くのも忘れて聴いていた頃です。
大友義鎮( 宗麟 )公が九州探題職に就いたのは、永禄2( 1559 )年。
万吉( 後の黒田官兵衛 )くんが丁度、母いわ( 明石氏 )を亡くした年ですね。
さて、そんな西国九州で、豊後街道の杷木を通り過ぎようとしている小大名の
行列がありました。 殿様の名前は三原弾正貞吉といい、筑後国本郷( 現在の
福岡県小郡市 )の城主で、豊後の大友館で暮らす大友義鎮( 宗麟 )公の所へ
従順を誓うための参勤途中

玖珠へ通じる国道210号線は、かつて豊後街道と呼ばれる主要道でした。

「 なにがコレジオ( 神学校 )だ、なにがパードレ( 神父 )だ。
まだ30にもならん南蛮かぶれの若造に、どうしてこの俺様が媚び諂わなきゃ
ならんのだ。 まぁ、家を守るためには仕方がない事だが、本当に腹が立つ

三原弾正貞吉さんがこんな毒を吐きながら豊後を目指していたかは定かでは
ありませんが、それを想像させる事件が起きます。 志波村の香山( こうやま )
淵にさしかかったとき、三原弾正貞吉さんは仲睦まじく泳ぐ鴛鴦( おしどり )の
番( つがい )を目にし、むしゃくしゃしていたのか、弓で射てしまうんですね

三原弾正貞吉さんが放った矢は鴛鴦の雄の首を貫き、鴛鴦の雄はそのまま
水中へ。 鴛鴦の雌も雄の後を追って、水中へと消えてしまいました

府内の大友館で参勤を終え、豊後で数日を過ごした三原弾正貞吉さんは帰路
再び豊後街道を通り、杷木志波の香山淵を通りかかると、水面に鴛鴦の雌が
一羽、じっと動かず、三原弾正貞吉さんを見つめているのに気づきます。
「 薄気味悪い鳥め 」 そう言うと家臣の諫言も聞かず、三原弾正さんはまたも
弓で射てしまいました。 放った矢は鴛鴦の雌の首を貫き、その躯を確かめた時
三原弾正さんは驚きます。 鴛鴦の雌は羽の下に、首に矢の刺さった雄の屍骸を
しっかりと抱えていたのでした


大友義鎮公に許しを得て出家し、この近辺に3つの寺を建立したと云います


三原弾正貞吉さんが寺に祀ったのは、彩雲の如く美しい鴛鴦

両側に配した観音様( 鴛鴦観音 )。 時は流れ、豊臣秀吉が九州を平定し、
さらに徳川幕府の時代となり、無方和尚( 三原弾正貞吉 )さんが創設した
3つの寺院もいつしか廃寺に。 鴛鴦( おしどり )観音は村人によって守られて
いましたが、関ヶ原後に筑前を領した黒田長政公より麻底良山麓・杷木志波の
地を任された黒田家の家臣・栗山備後利安( 栗山善助 )さんが、鴛鴦観音の
話を村人から聴き、預かり受けて 先代・黒田如水公の菩提を弔う為に建立した
円清寺に安置、ご本尊としたという事です



82歳まで健康で長生きされたのは、鴛鴦観音様のご加護でしょうかね


栗山利安( 栗山善助 )さんのお墓と、鴛鴦観音を祀る円清寺の本堂


貝原益軒さん編纂の筑前國続風土記に記録されている円清寺 鴛鴦観音の
お話は、田主丸の河童巡りなど筑後散策の折に参考にさせて頂いているサイト
『 筑紫次郎の伝説紀行 』 で、オーナーの筑紫次郎さんこと古賀勝様が美しい
鴛鴦観音像の画像と共に、情緒あふれる素晴らしい物語に紡がれています


ご興味、お時間のある方は是非、ご一読なさってみて下さい



続いては、栗山備後利安さんのお城が在った麻底良山へ向かいま~す


※本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。
記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます

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仕事柄「養生訓」はたま〜に開いてますよ!
時を経ても色褪せない,逆に今の時代だからこそ必要と思われることが書かれているんですよね。
官兵衛さんと一緒ですね。今晩は録画した大河を見ながら一杯やろうと(笑)
コチラも昨晩は濃霧だったようで,ちょっと息苦しい感じでした。
黄砂がきたのかと思いました…