筑前 益富( 大隈 )城の本丸跡より眺める西側の景色

国道322号線と211号線が縦横にクロスする福岡県嘉麻市を一望できます


画像左手

屏風のように連なっています。 その昔、朝倉地方と呼ばれていたこの一帯は、
古処山城を拠城に鎌倉時代から400年間続く武家豪族 秋月氏の領地でした。

しかし弘治3( 1557 )年、筑前の秋月氏は豊後守護の大友氏と戦って敗北。
秋月氏は周防山口の毛利氏を頼って落ち延び、毛利元就公の支援で再興を
試みるも2年後、大友氏21代・宗麟が将軍・足利義輝より 九州の武家を統括する
九州探題職に任命されたため、仕方なく大友氏に従属せざるを得なくなります

ところが風向きが変わり、天正6( 1578 )年の耳川の戦い( 高城川原合戦 )で、
大友氏は薩摩の島津氏に大敗、急速に衰退し始めます。 大友氏の弱体化に伴い
勢力を伸ばしていた肥前の龍造寺氏を討ち、いよいよ独走態勢に入った島津氏は
九州制覇を阻む最後の敵・豊後大友氏に猛攻を仕掛け

チャンスとばかり、反大友豪族の一派として島津氏に加担してしまうんですね

これに困り果てた豊後大友氏21代・大友宗麟は、病の体をおして
関白秀吉さんの大坂城へ自ら赴き

これを受けて、秀吉さんの九州平定( 島津征伐 )戦がスタートします。
天正14( 1586 )年7月25日、先発隊として九州北部へ送り込んだ側近・黒田
官兵衛さんの軍4千に続いて翌年、秀吉さんも自ら20万の大軍を率い九州入り。
秀吉さんの大軍は2隊に分かれ、
黒田官兵衛さんは秀吉さんの弟・秀長さんの軍と合流し豊前・豊後・日向と東側
ルートで九州を南下。 秀吉さんは筑前・筑後・肥後と西側ルートで島津方の城を
攻略しながら南下、薩摩を目指します。 その途中に、益富城はありました。
羽犬塚など秀吉さんが通ったルートには伝説も残り、これを探訪するもまた楽し


「


町民から戸板や障子を運ばせて作ったハリボテの天守ながら、上々のデキとは
思わんか? 官兵衛に頼らずとも、この程度の奇策なら、ひとりで出来るもん

「 仰る通りです、秀吉さま。
益富城を棄てて、あの古処山に逃げ込んだ秋月種実( たねざね )から見れば
魔法の一夜城です



「 そう思うか?ワシってやっぱり凄いよな!近々海外進出もしてみようかしらん

そうじゃ


早川主馬首よ、この益富城は、おことにくれてやるぞ

「 大河ドラマ・軍師官兵衛 第五話で赤松氏が喋っていたようなセリフですが・・・
秀吉さま、ありがたき幸せ~


・・・という経緯で、島津方の秋月種実・種長親子は程なく秀吉さんに降り、
天下の名器・茶道具


秀吉さんは家臣の早川主馬首さんを益富城の城番に据え、島津氏討伐の為
秋月種長さんに先鋒を務めさせ再び九州を南下。 種長さんは後、日向( 宮崎 )
の高鍋藩へ移封。 波乱の生涯ながら慶長元年、52歳まで生きられたとか


さて、ここで豊後の歴史好きな方へ耳寄り情報です


秀吉さんの九州平定の最中に益富城番となり、そのまま居城

益富城歴代城主に名を連ねていらっしゃる早川主馬首さん。
この方、大分県の方々には早川長敏という名で知られている方で、
秀吉さんの朝鮮出兵( 1592年の文禄の役 )での失態を理由に、宗麟の子・
大友氏22代義統( よしむね )が豊後を除国処分となった大友氏改易の翌年
文禄3( 1594 )年に豊後府内へ入封した初代府内藩主で、府内城2代目
城主です。 全国的には、早川長政や早川主馬首の名で通っている様ですが、
大分県では早川長敏が一般的で、それ以外の名前では誰

府内城の築城は慶長2( 1597 )年、石田三成さんの妹婿の福原直高さんが
始めたので、早川長敏さんが府内へ来た当時、今の府内( 荷揚 )にお城は無く、
とりあえず旧・府内( 古国府 )の大友館をリノベーションして暮らしていたそうな。
後、早川さんは一度、府内を離れますが、三代目府内藩主に返り咲くんですね

関ヶ原の時には西軍に付き、東軍・細川氏の説得に応じ開城するも改易となり、
府内城には早川さんに代わって竹中半兵衛さんの従弟・竹中重利さんが入城

そんな早川さん、大阪の陣では豊臣方として戦いますが、後の消息は不明

息子さんは細川忠興公の家臣になり、子孫は仙台藩に仕えたとの説も・・・。
早川さんもなかなか謎の多い、興味をそそられる方でいらっしゃいます

益富城で後の府内城主に出会えるなんて、またも予想外のオマケがついてきた





西側の城下から見上げると、本当に天守の望楼っぽく見えるんですよ


続いて豊前( ぶぜん )方面を望む 益富城( 大隈城 )本丸東側の眺めです

高土塁の向こうは絶景だけど絶壁ですので、あまり乗り出してはダメですよ


南北一直線上に並ぶ益富城の二の丸・本丸曲輪の東端ラインには、
攻めてきた敵へ矢を射かけるため土塁を張り出させた横矢( よこや )が2ヶ所、
奇麗に遺されてます。 特に本丸の横矢は長さもあって、石垣までしっかり



本丸の横矢には更に、櫓らしき建物も完備されていた模様。
武器弾薬倉庫でしょうか



城郭の形は、まるで豊前へ向け巨大な弓を引き絞った様にも見える益富城は

慶長5( 1600 )年、関ヶ原の戦功によって筑前へ入封した黒田長政公が、
東の隣国・豊前との国境に巡らせた出城 黒田六端( ろくは )城のひとつです。
黒田氏のあと豊前へ入封したのは、ガラシャさんの夫としても有名な細川忠興公。
黒田長政公と、細川忠興公は不仲だった


黒田六端城の中で唯一、豊後( ぶんご )に面した麻底良( まてら )城には
温厚な智将・栗山備後利安さん。 一方、豊前( ぶぜん )を見据える最前線の
益富城には、豪傑の後藤又兵衛基次さん。 1606年、又兵衛さんが黒田家を
出奔した後も同じく豪傑の母里太兵衛友信さんを配したことから豊前、つまりは
細川氏に対する黒田長政公の只ならぬ疑念


つと振り返れば、益富城・本丸跡のあづまやより、西側城下を眺める人影



何やら感慨深げ・・・、このままそっとしておこう

次回は、早川長敏( 早川長政・早川主馬首 )さんの後に筑前・益富城へ入り、
豊前に対する堅固な出城・黒田六端城へと改築した後藤又兵衛基次さんのお話、
そして今も残る別曲輪や出丸、畝状の堀跡などをご紹介したいと思います


●参考:朝倉市商工観光課・観光協会発行 筑前の小京都秋月観光案内~
戦国時代編 / ウィキペディア早川長政( 早川主馬首 )
※本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。
記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます

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朝倉地方は蕎麦の産地でとっても美味しいお蕎麦が食べられます。
また秋月城址へ向かう途中のポニーのいるうどん屋さんの力うどんうまかったな~(*^^)v
軍師官兵衛いよいよ面白くなってきましたよね。
全ポチ★
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