黒田二十四騎の幻影を追いかけて、かつての筑前 朝倉地方を巡った先月


大分自動車道 杷木IC を降りてすぐの道の駅 原鶴で入手したパンフレット2冊。

福岡で活躍中のマスコットキャラ

『 福岡を創った男 黒田官兵衛( 軍師官兵衛 福岡プロジェクト協議会発行 ) 』
には、大河ドラマ・軍師官兵衛で時代考証を担当なさっている小和田哲男先生の
著書に基づいた詳しい紹介が。 『 筑前の小京都 秋月観光案内~戦国時代編
( 朝倉市商工観光課・観光協会発行 ) 』 は、朝倉地方に四百年の歴史を持つ
秋月氏、そして黒田家中でも朝倉に縁の深い官兵衛さんの実弟・黒田図書助直之
( ずしょのすけ なおゆき )さんと、重臣・栗山利安&大膳利彰親子にウエイトを
置いた、総20ページに亘る読み応えたっぷりの内容。 2冊とも大変役に立ち、
勉強になりました、感謝です


失われた歴史もあるらしく、現地を訪ねる事は大切だなと、つくづく感じました

黒田官兵衛さんの微笑ましい凸凹側近コンビとして、大河ドラマでもすっかり
お馴染みとなった栗山利安( 善助 )さん&母里太兵衛さんの史跡が残る福岡は
朝倉市、嘉麻市へのお出かけをご予定の皆さま、この2冊の無料パンフレットを
見かけた際は、どうぞ入手をお忘れなく


食事は、道の駅 原鶴( ファームステーション・バサロ )で早めに調達しておく事を
お奨めします。 ここより先、レストランやコンビニを探すのは一寸難しいです

道の駅 原鶴の近く、国道沿いには中津からあげ大吉さんの支店もありました

それでは、秀吉さんの一夜城伝説



今回は、城郭東端に築かれた出丸と別曲輪跡へ足を運んでみたいと思います


益富城( 城山 )自然公園案内図では、ちょうど膨らんだお餅みたいな形に
東( 豊前国 )側へ大きく、独立して張り出している曲輪部分がそれです。
臨戦態勢上等


増築したのはこの方


( 写真は記事冒頭のパンフレットより、福岡銀行本店内に展示中の博多人形又兵衛さん )
後藤又兵衛さんの活躍記録は、黒田官兵衛さんが先鋒を務めた九州征伐時の
宇留津城攻めに始まり、官兵衛さんの豊前入封後は地頭・宇都宮氏の鎮圧

更に秀吉さんの朝鮮出兵では亀甲車も操縦し3度の手柄を挙げ、関ヶ原では
石田三成公の家臣で槍の名手・大橋掃部( かもん )を一騎打ちで破るなど、
まさに猛将

母里太兵衛さんに次ぐ大男だったとも云われ

益富( 大隈 )城代に。 後藤又兵衛さんは、黒田二十四騎の中でも選りすぐりの
黒田八虎( はっこ )に数えられる重臣ながら、訳あって最初は黒田官兵衛さんの
嫡男・松寿丸( 後の黒田長政公 )と、兄弟同然に育てられるんですね

年は松寿丸より8歳も上だった事で、黒田家へ来た経緯や時期、なぜ兄弟同然に
育てられたかについては諸説ある様ですが、又兵衛さんのお墓が残る大分県
中津市 耶馬渓では、以下の通り伝承されてます


( 中津市 耶馬渓 伊福の里・後藤又兵衛の墓 現地解説板より )

後藤又兵衛さんは関ヶ原後、筑前1万6千石の益富城主という地位を
得ながらも、慶長11( 1606 )年に黒田家を出奔、秀吉さんの遺児・秀頼公の
直属となります。 これは黒田官兵衛さんが亡くなった2年後の出来事で、
又兵衛さんは敬愛する養父・官兵衛さんの死を機に、かねてから確執があり、
官兵衛さんとは似ても似つかない黒田長政公に見切りをつけた、というのが
小説等でも物語られる後藤又兵衛出奔理由の通説となっています


黒田家を出たかった様。 しかし官兵衛さんと長政に許されなかった、と取れます。

後藤又兵衛さんは、母里太兵衛さんと並ぶ黒田二十四騎の豪傑

母里太兵衛さんと異なる部分は、最強の忠臣である前に戦国武士とはどう生きる
べきか、という哲学みたいなものを早い時期に確立していた所にある気がします。
実際に勇猛なだけでなく、戦の指揮官を務めさせてもピカイチの才能を発揮する
智将でもあった後藤又兵衛さん

立ち向かう又兵衛さんの気質、武将としての器を黒田官兵衛さんが見逃すわけが
ありません。 一方、尊敬する父のハートをがっちり掴み、戦の度に美味しい所を
持って行ってしまう又兵衛に対する長政くんの胸中は、さぞ複雑だった事でしょう


大好きなお父さんに認められたい焦りと、又兵衛さんへの劣等感を募らすほどに
先走ってはズッコケて、長政VS又兵衛確執エピソードの数々が生まれるのも
無理はない気がします

理由は、やはり又兵衛さんの兄を長政公が破門にした事、それに根っからの
戦国武士だった又兵衛さん、関ヶ原後は自分を騙し騙し鎖に繋がれているだけの
出番のない番犬

官兵衛さんも今や博多の子どもを相手にすっかり丸くなっちゃって、石垣原合戦で
真骨頂を見せつけた華麗なる智将・俺の黒田如水は何処へ行っちゃったんだい


後藤又兵衛さん四方山は、これ迄にも勝手ながら何度か書かせて頂きましたが、
その度に頭に浮かぶのは、小学校時代に読んだ オオカミ王


戦国武士としての誇りを棄て、尊敬に値しない相手の御機嫌を窺い、己の本質を
捻じ曲げるぐらいなら、飲まず食わずでも、自分の信念を貫ける道を俺は選ぶ

筑前1万6千石? 黒田六端城の益富城主? そんなもん惜しいとも思わねぇゼ

又兵衛さんは、こんな素晴らしくロックな人だったんじゃないかしら、なんて

孤高の武将、ラスト戦国武士・後藤又兵衛基次さんは、
後世の人達に夢を与えて続けてくれる人

お話は多く、元和元( 1615 )年の大阪夏の陣で伊達政宗公の鉄砲隊の前に
倒れ、亡くなったはずの後藤又兵衛さんのお墓や、それに纏わる伝説が
日本各地に存在しているのではないかなぁ、そんな風に思います

大河ドラマ・軍師官兵衛で、早く塚本又兵衛さんにお目にかかりたいです

崖沿いの武者走りをひたすら歩いて、豊前へ向けられた弓矢の先っぽ部分

後藤又兵衛基次さんが築いた益富城東端の出丸 別曲輪に到着しました


あらっ、もしや一夜城のかがり火跡




益富城址登城レポ、あと一回続きます

●参考 : 「 軍師官兵衛 」福岡プロジェクト協議会発行パンフレット
福岡を創った男 黒田官兵衛 / 黒田家前史論集・後藤又兵衛覚書
八幡和郎著・軍師黒田官兵衛~その戦略と生涯
※本文中の下線付き部分は、当ブログ内関連記事へのリンクです。
記事を最後までご覧下さり、ありがとうございます

- 関連記事