都を奈良の飛鳥から琵琶湖の南( 近江 )へ遷して崩御した第38代 天智天皇

その後継を巡り、壬申元( 672 )年に起きた日本古代最大の内紛・壬申の乱。

天智天皇の庶子で第39代・弘文天皇( 大友皇子 )が、近江朝廷軍として
東国や吉備、筑紫( 九州 )などからも兵を動員し、攻め寄せてくる事を知った
天智天皇の実弟・大海人皇子( おおあまのおうじ = 後の第40代天武天皇 )は、
自分に出仕していた地方豪族出身のトネリらと共に応戦を決意。 大海人皇子は
先ず東国出身のトネリに命じ、朝廷の援軍が上洛する道を封鎖させ、最前線には
側近のトネリを配し、迅速且つ的確な采配で、遂には朝廷軍を降してしまいます

大海人皇子の指揮下、この最前線で活躍したのが、父子だったとも云われる筑紫
( 九州 )出身の大分君恵尺( おおきたのきみえさか )と稚臣( わかみ )でした。
大分君恵尺は、飛鳥と近江へ奔り、都に残っていた大海人皇子の息子2人を無事
救出。 更には稚臣と共に第一線で果敢に戦い、これによって大海人皇子は勝利
し、古事記編纂を始めたことでも知られる第40代・天武天皇となるんですね

粉骨の働きで逆転勝利をもたらした父子と云えば、真っ先に思い浮かぶのが


16世紀の筑前で、首の皮一枚の九州を死守した高橋紹運&立花宗茂父子。
7世紀にも紹運さん父子の様な九州男児がいらっしゃったんですね。 そういえば、
紹運さん父子は大分県生まれです


生まれ変わりだったりして





大分君恵尺さんが眠られているのがココ



昭和58( 1983 )年に国指定史跡となった古宮古墳は、丘陵の頂から
階段を少し下った南側斜面に、開口部を設けた形で造られていました。



岩盤をくり抜いて広めの横穴( 石室 )を開け、そこに石棺を安置した構造。
これは石棺式石室と呼ばれる特異な造りで、7世紀後半頃に
大和明日香( あすか )地方の限られた階層でのみ、造営されたタイプらしく、
九州では古宮古墳の他に、例を見ないのだそうです



石室の奥行は5mほどでしょうか

天武天皇の手足となってミッションを熟し、大貢献をした大分君恵尺と稚臣は、
大分市の賀来( かく )地区、そして庄ノ原( しょうのはる )から上野にかけての
台地一帯を当時本拠地としていた大分豪族の出身です。 正にその本拠地で
発見された、ヤマト政権との非常に深い関わりを示す九州唯一の畿内型古墳。

没後に天武天皇から破格の冠位を与えられた大分君恵尺さんのお墓にほぼ
相違ないとされています。 真正面はさすがに失礼と思い、斜め向きに一枚



また、古宮古墳は南に川( 住吉川 )、背後に山という風水の思想にも適って
いるのだそうです。 大陸文化の影響が濃かった飛鳥時代は、当然ながら風水も
浸透していたでしょうしね


南側を眺めてみました

延びる台地です。 住吉川はその麓、建物が密集した所を縫う様に流れています。
今はアメンボが遠慮がちに泳ぐ住吉川も、昔は岸辺に花が咲く清流だったのかな。

天武天皇に称えられた一族の英雄的な大分君恵尺さんを、大分豪族の方々は
本拠地から見て北側中央あたり( 三芳地区 )の高台に、本拠地から見える様
安置し、毎日遥拝しては、感謝と一族の末永い安泰の祈りを捧げていたのでは
ないかなあ、なんて思います

あの台地から古宮古墳を拝む人々の姿が、何だかありありと想像できてしまう


日本書紀には、壬申の乱の翌年・天武天皇二( 673 )年に危篤状態に陥った
大分君恵尺( 将 )を第40代・天武天皇( 大海人皇子 )が見舞い、
特別に親しい詔( みことのり )を贈ったことが記されています

『 私心を捨てて公の為に尽くし、身命を惜しまず、先の大乱に功績をあげた。
永く慈しみ、もしお前が死ぬような事があっても、私は子孫を厚く賞しよう 』
天武天皇は追贈として、大分君恵尺には外小紫位( とのしょうしい )という位を、
大分君稚臣には外小錦上( とのしょうきんじょう )という位を与えます。 どちらも
律令制度の中では素晴らしく高い冠位ながら、とりわけ大分君恵尺へのそれは、
破格と言えるものだそうで( 律令制度も勉強せにゃあアカンな・・・これは

詔然り、時の天皇から一人のトネリへの施しとしては異例のケースだったとか

天武天皇は、恩義に大変厚い方でもあったのかもしれませんね



古宮古墳の頂は展望広場になっていて


一番高い建物はオアシスタワーで、大分駅はその近辺です。 遥か遠くには
別府湾の水平線も


大分の豪族・恵尺と稚臣。 ところが彼等を輩出した大分豪族その後の記録は、
驚くことに全く残されてないんだそうですね

無ければ、地元での盛衰についても全くの謎で、手がかりすら掴めないとか・・・
不思議です



●参考 : 豊田寛三・後藤宗俊・飯沼賢司・末廣利人著 『 大分県の歴史 』

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